2026年1月24日土曜日

2026年1月18日

 2026年1月18日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「今の『時』」 東島勇人牧師

  マルコによる福音書 1:14-20節

 関西労働者伝道委員会の働きを覚えて祈る交換講壇礼拝を共にでき、感謝しています。また、この機会に平安教会が当初から「街の教会」として地域の人々と共に歩もうとされてきた宣教姿勢を知ることができ、励まされています。

 昨日は、阪神・淡路大震災発生から31年の日でした。震災時、私は関学神学部に在学中で、西宮の木造アパートに住んでいて被災しました。丁度その日が修士論文提出日だったのですが、私は一旦無事だった友人宅に避難した後、友人たちの安否確認や地域の救援活動をする前に、危険な状態のアパートにわざわざ戻って論文を取り出し、大学に提出しに行きました。しかし、提出日は延期との張り紙がありました。その時になって私は、人の命や困難よりも自分のことを心配していた現実を思い知らされ、自分の愚かさ、罪深さに愕然としました。4月から広島流川教会担任教師となることが決まっていたのですが、自分のような者が牧会者になってよいのかとの問いの中で葛藤しました。その時に、励ましを与えられたのが今日のイエスの言葉と招きの出来事でした。

 イエスは宣教のはじめに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ここで注目すべきは、「時は満ち」という言葉です。この時ユダヤ人たちは、ローマとユダヤの支配者たちによる圧政と重税に苦しめられ、心は不安や恐れに、生活は貧しさや困難に満ちていました。しかしイエスは、今この時が神の国が現実となる時なのだと宣言したのです。そして、「悔い改めて福音を信じなさい」、すなわち「生き方の方向転換をして、神の良き報せを信じなさい」と呼びかけました。この宣言の後、イエスの招きに応えて漁師であったペトロたちが弟子となりました。ペトロたちは貧しさや困難や人間的な弱さを抱えていましたが、イエスはあえてペトロたちを選び、その招きは無条件でした。

 私たちも、今この時にイエスの招きを受けている者として、どう応えていけばよいのでしょうか。イエスは招きの際に「人間をとる漁師にしよう」と言われました。「とる」は「生けどりにする」という意味の言葉です。それは、様々な現実を抱えて生きる一人ひとりと出会い、大切にし、喜びや悲しみを分かち合い、共に神の国の福音の喜びに与っていくことなのだと思います。関西労働者伝道委員会の働きも、その意味での大切な宣教活動として続けられています。労伝と、それぞれの教会の働きの上に、主の祝福と導きをお祈りいたします。


2026年1月17日土曜日

2026年1月11日

 2026年1月11日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「気づかないかな。ほら、そこに。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:9-11節

 昔、岡山教会の伝道師をしていたときに、土曜日の夜に教会に電話がありました。「明日、教会に行きたいと思って、岡山教会を探しています。近くにあるようなのですが、見つからないので、お電話しました」。それでわたしが「どこにおられるのですか」とお聞きすると、「岡山のビューホテルにいます」と言われました。それでわたしは「ビューホテルの前に岡山教会があります」と応えると、その方は驚いておられました。「ホテルの前も何度もとおったんですけどねえ」と言っておられました。たぶん岡山教会がこの方の頭の中で想像していた教会の形(木造で三角屋根で十字架がついているというようなもの)でなかったので、気がつかなかったのだと思います。 

 あるものが見えない。あるものに気づかない。あるいは別のものに見える。私たちにはそういうことがあります。それは人と人との関係においてもそうですし、また私たちと神さまとの関係においてもそうです。神さまから愛されているのに、そのことに気がつかない。神さまから守られているのに、そのようには思えない。 

 イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえます。この声は、私たちに対しても語られています。私たちは神さまの愛する子であり、神さまの御心に適う者なのです。それは私たちが神さまの愛を受けるにふさわしい立派な子であるとか、神さまの御心に適うりっぱなことができているということではありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまの大きな祝福の中に生かされているということです。 

 「気づかないかな。ほら、そこに」と、神さまは私たちに言っておられます。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、イエスさまを祝福され、そして私たちの世にイエスさまを送ってくださいました。そしてイエスさまは神さまの心に適う者として、私たちのために十字架についてくださいました。 

 私たちは神さまにふさわしい者ではないかも知れません。しかしそれでも神さまは私たちのことを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださり、私たちに神さまの愛を示してくださいます。神さまの大きな愛のうちにあることを信じましょう。神さまからの招きに応えて、胸を張って、新しい一週間の歩みをいたしましょう。


2026年1月10日土曜日

2026年1月4日

 2026年1月4日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「心配するな。大丈夫。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:41-52節

 日常生活を送っていますと、「わたし、大丈夫かなあ」と思えるときがあります。わたしが最近、体験した、「わたし、大丈夫かなあ」という体験は、古本を買った時の体験です。「ミレニアム4」という本の上下巻を買ったと思っていたのに、下巻二冊を買っていました。「同じ本を買ってくるなんて、わたし、大丈夫か」と思いました。でも「心配するな。大丈夫」と思い直して生きています。

 ユダヤのお祭りの過越祭に、イエスさまの家族はエルサレムで過ごすことにしていました。十二歳になったイエスさまも一緒に過越祭にエルサレムに来ています。祭りの期間を過しての帰り道、ヨセフとマリアはイエスさまがいないことに気がつき、慌ててさがします。三日の後、神殿の境内で学者たちの真ん中で話をしているイエスさまを見つけます。迷子になり、みつかったイエスさまはヨセフとマリアと一緒にナザレに帰ります。そのあとまあ穏やかに、マリアとヨセフに仕えて、イエスさまは大きくなっていきます。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、とても安心できる聖書の言葉です。「ああ、わたしもそんなふうに育ちたいものだ」と思えます。まあもうおじいさんになってしまっているので、育つも何もないわけですが、「すべての人がそんなふうに育ってほしいよね」と思えます。

 私たちの周りではいろいろな出来事が起こります。とても良い出来事もありますが、不安になるような出来事も起こります。しかしそれでも私たちの周りには、私たちのことを愛してくれる人たちがいてくれます。私たちを見守ってくださっている人たちがおられます。そのようにして私たちの世の中は回っていますし、そのようなやさしい社会のあり方を、私たちはこれからも大切にしていかなければなりません。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、私たちに「心配するな。大丈夫」と呼びかけています。あなたの周りにはすてきな人たちがいる。その人たちはあなたのことを愛している。そして私たちには神さまがおられる。神さまはあなたのことを愛しておられる。あなたはイエスさまがそうであったように、これからも神と人とに愛されて、幸いな人生を歩んでいく。

 神さまは私たちのことを愛してくださり、そしてみんなでこころを通わせながら、神さまの平安のうちを歩むことを望んでおられます。


2026年1月3日土曜日

2025年12月28日

 2025年12月28日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「御子イエスが招いてくださる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 クリスマスに、御子イエス・キリストをお迎えして、私たちは歩み始めました。新しい年もイエスさまの招きに応えて歩んでいきたいと思います。

 2025年、最後の日曜日です。2025年は男子普通選挙が実施されて100年、治安維持法が施行されて100年という年でした。この1925年(大正14年)という年に、細井和喜蔵の『女工哀史』が出版されています。細井和喜蔵は『女工哀史』の「序」でこう書きます。「虐げられ蔑まれ乍も日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育んでいる日本三百萬の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏っているものなれば何びともこれを一読する義務がある」。細井和喜蔵には『女工哀史』を書かずにはいられない女工に対しての尊敬と愛がありました。そしてこの書物は多くの人々に読まれました。『女工哀史』は、私たちの世界が小さき者たちの愛によって成り立っていることを、私たちに教えてくれる書物であるわけです。

 占星術の学者たちは夢のお告げで「ヘロデのところに帰るな」と言われます。そしてヘロデのところに帰ることなく、自分たちの国へと帰ってきます。ヘロデ王のところに帰っていくと、たぶん良いこともあったわけです。お礼をもらえたと思いますし、旅の安全の保障もしてくれたのではないかと思います。しかし占星術の学者たちは、ヘロデ王のところに帰ることなく、自分の国へと帰っていきます。力ある人との約束を無視するということですから、わかると大変なことになるかも知れなかったわけです。「ヘロデのところに帰るな」というのは、ひとつの生き方であるわけです。暴力的な力のある者に従って生きていくのか。それとも神さまが示してくださる愛に根ざした道を歩んでいくのかということです。

 暴力的な世の中にあって、イエスさまは小さな人たちの愛に守られて、その命を保ちます。クリスマスの話に出てくる人たちの多くは、力のない人たちです。ヨセフもマリアも、羊飼いもバプテスマのヨハネの母のエリザベトも、力のない人たちです。しかし彼らには神さまの愛がありました。彼らはみな神さまに望みをおきつつ、祈りつつ、その生涯を歩みました。

 イエスさまは神さまに祈りつつ歩んでいる私たちを招いておられます。私たちは弱くともしい者ですけれども、イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを、新しい年も歩んでいきたいと思います。


2025年12月27日土曜日

2025年12月21日

 2025年12月21日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「クリスマス、小さき私たちのために」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。

 詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。

【だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい

とほうに くれている

 それでも 手のなかに みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ

 だから あいたくて】

 わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてくださったのです。クリスマスは、このただひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。

 御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。

 そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いを表わしたいと思います。


2025年12月19日金曜日

2025年12月14日

 2025年12月14日 待降節第3主日礼拝説教要旨

「暗闇の中で輝く光、イエス・キリスト」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 1:1-5節

 アドヴェントも第三週に入りました。ルネサンスの画家、ティツィアーノ・ヴェチェッリオは、《聖母子(アルベルティーニの聖母)》という絵を描いています。「聖母子」という絵ですから、マリアさんに抱かれたイエスさまの絵です。この絵のイエスさまの右手は、だらんとなっています。このだらんとなっているイエスさまの右手は、イエスさまの死を表しています。御子イエス・キリストが私たちの世に来てくださったのは、私たちのために十字架についてくださるためだからです。《聖母子(アルベルティーニの聖母)》は、イエスさまのご降誕のお祝いの絵でありながら、イエスさまの十字架の死を同時に、私たちに伝える絵であるのです。

 ヨハネによる福音書の今日の聖書の箇所は、イエスさまが私たちの世にきてくださったその理由について書き記しています。イエス・キリストは神さまの御子であり、神さまの独り子であったが、私たちのためにこの世にお生まれになられた。それは私たちの世が暗闇の世であり、神さまのみ旨に反した世の中であるからである。暗闇の世は、私たち人間の罪が作り出した悪しき世の中である。どろどろとした邪な思いを抱え、苦しみ私たちのために、イエス・キリストは私たちの世にきてくださり、私たちの罪をあがなってくださった。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまによって救われた。イエス・キリストは暗闇の世に生きる私たちの光であり、私たちの救い主である。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。

 人間の心の闇が広がってくると、必ず排外主義的な主張が、世の中に拡がってきます。そして争いの雰囲気が広がり、世界が不幸な道へと歩み始めていきます。それは人が自分の心の闇に静かに目を向けることが少なくなってきているからです。心静かに、自分のことを顧みる時に、私たちは神さまの深いあわれみを知ることができます。そして私たちは自分が神さまから愛されている大切な人間であることを知ることができます。そしてまた自分がそうであるように、わたしの隣人も同じように神さまから愛されている大切な人間であることに気づきます。

 私たちの世の中がどんなに暗くとも、イエス・キリストは暗闇の中で輝いておられる。どんなに私たちの世が暗闇を抱えていても、イエス・キリストはその暗闇を打ち砕き、そして神さまの大きな祝福を、私たちにもたらしてくださる。そのようにヨハネによる福音書は、私たちに告げています。


2025年12月13日土曜日

2025年12月7日

 2025年12月7日 待降節第2主日礼拝説教要旨

「かけがえのない命」 大澤宣牧師

  1コリント 12:14〜26節

 平安教会創立149周年を心よりお慶び申し上げます。歴史を導いてくださった神様の御名を讃美いたします。そして、この歴史は、今日お集まりの皆様、そして、今日はここにおられない皆様が、主の導きに応えて編みだしてこられたものであることをおぼえさせられます。多くの方たちがこの教会に連なられ、歩んでこられたことを思います。そして、多くの先達たちが、今は天に召されて、主の栄光をたたえている群れに加えられていることを思います。私たちは、この先達たちと目には見えないつながりを与えられ、今も共にあることを覚えたいと思います。

 灰谷健次郎さんが書かれた『わたしの出会った子どもたち』という本の中に麻理ちゃんという女の子のことが書かれています。麻理ちゃんは、筋肉がマヒしていくという、体の不自由さをもっている女の子でした。笑っているのか、怒っているのか、ふだんから接している人でないと、表情を読み取ることができません。この麻理ちゃんに冷たい言葉を発する人がいました。灰谷健次郎さんは、その言葉をひどい言葉だと思いながらも、堂々と反論することができなかったのでした。

 何かが上手に出来ること、速くできること、力が強いこと、そういうことばかりに心が向いていると、見落としてしまうものがあるのではないかと思います。そして、人を切り捨ててしまうことになってしまうことを思わされます。速さや強さや効率の良さだけに目を奪われて、命を慈しむ心、人間としての優しさ、人間らしささえも失ってしまうことを思わされます。

 聖書の言葉は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と語ります。

 わたしたちはそれぞれの課題を抱え、重荷を抱えているものです。心細い思いをし、不安を感じつつ歩むものです。しかし、私たちの主イエス・キリストの言葉を携えて歩むことをゆるされている。その歩みは希望を持って進むことのできる道なのです。

 平安教会の皆様が、教会の大きなご計画を持たれ、希望をもって進もうとしておられることと思います。おひとりお一人の信仰の歩みの中に、課題があり、悩みがおありのことと思います。しかし、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださるのです。どのようなときにも、希望を持つことがゆるされています。いつも喜んでいること。絶えず祈ること。すべてのことに感謝すること。その歩みをすすめてまいりたいと思います。