2025年11月21日金曜日

2025年11月16日

 2025年11月16日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

「苦労もなくなり、力がわいてくる。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 13:5-13節

 農業研究者の篠原信の『そのとき、日本は何人養える? 食料安全保障から考える社会のしくみ』(家の光協会)を読みながら、いろいろと考えさせられました。「戦争、原油高騰、温暖化、大不況、本当は何が飢饉をもたらすのか」と書いてあり、ああ、なかなか大変な世の中だと思わされます。

 「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」という言葉は、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉だと言われたり、いやそうではないと言われたりする言葉ですが、良い言葉だと思います。慌てず、騒がず、落ち着いて考え、自分のできることをするという基本姿勢が感じられます。慌てふためくと、フェイクニュースを信じて、とんでもないことをやってしまうのです。落ち着いて考えるということが大切であるわけです。

 世の終わり・終末というと、いろいろな天変地異が起こったり、迫害が起こったりするという聖書に書かれてありますから、ちょっと怖い感じがします。「世の終わり・終末が来たら、もう世の終わりだなあ」と思うわけです。でも世の終わり・終末というのは、ただただ怖い時として、聖書が語っているわけではありません。世の終わり・終末というのは、再びイエスさまが来られるときであるわけです。とんでもなくたいへんなときに、イエスさまが来てくださるということが言われているということです。

 私たちはいろいろなことで不安になったり、慌てたりします。まあ人間はちっぽけな存在ですし、不安になったり、あわてたりするわけです。イエスさまはあなたたちは人間でちっぽけな存在であるのだから、神さまに頼って生きていきないと言われます。いろいろなことで不安になったり、どうしようどうしようと思うようなことが起こってくるかも知れないけれども、でも聖霊があなたたちを導いてくださるから安心しなさい。取り越し苦労をすることなく、安心して神さまにお委ねしなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは私たち人間を愛をもって創造されました。私たちは欠けたところが多いですし、すぐ腹を立てたりする弱いところがあるわけです。神さまなんて信じられないというような思いをもったりもします。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちを守り導いてくださいます。

 神さまを信じ、祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2025年11月14日金曜日

2025年11月9日

 2025年11月9日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

「あの人の思い出・・・・消さないで・・・・」小笠原純牧師

ヨハネによる福音書 16:12-24節

児童文学作家の新美南吉の作品に「デンデンムシノ カナシミ」という作品があります。新美南吉のお母さんは、新美南吉が4才の時に天に召されています。新美南吉はある種のさみしさや悲しみを抱えて生きていたのでしょう。そして1934年、21才の時に結核の症状を自覚します。「デンデンムシノ カナシミ」は、その翌年の1935年に書かれた作品です。

「「カナシミ ハ ダレ デ モ モツテ ヰル ノ ダ。ワタシ バカリ デ ハ ナイ ノ ダ。ワタシ ハ ワタシ ノ カナシミ ヲ コラヘテ イカナキヤ ナラナイ」。ソシテ、コノ デンデンムシ ハ モウ、ナゲク ノ ヲ ヤメタ ノ デ アリマス。」という、このデンデンムシは、たぶん新美南吉自身なのでしょう。

イエスさまの弟子たちにとって、イエスさまにまつわる思い出は、すべてが思い出してうれしいという思い出ではありませんでした。弟子たちはイエスさまが十字架につけられるときに、イエスさまを裏切って逃げ出してしまいます。恥ずかしい思い出、消し去りたい思い出がたくさんありました。イエスさまのことを知らないと言った出来事は、ペトロにとっては思い出したくない、できれば消し去りたいような思い出だったと思います。しかしペトロはこの思い出を消し去ろうとはしませんでした。この思い出は生涯にとって大切なイエスさまとの思い出であったからです。そしてペトロはこのイエスさまのことを知らないと言った弱い自分を抱えて、イエスさまのことを人々に宣べ伝えていきます。

イエスさまのお弟子さんたちは、「あの人の思い出・・・・・消さないで・・・・・」という思いを持っていました。イエスさまとの思い出をいろいろな人に伝えたいと思っていました。それはイエスさまが弟子たちの悲しみや苦しみをすべてわかってくださり、共に歩んでくださる方だったからです。そしてイエスさまは弟子たちの悲しみを喜びに変えてくださる方だったからです。

「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。イエスさまはそう言われました。私たちにも悲しいことや辛いことが、ときに起りますが、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」というイエスさまの言葉を信じて歩みたいと思います。そしてイエスさまがそうであったように、悲しんでいる人、つらい思いをしている人の傍らに、そっと寄り添ってあげることのできる歩みでありたいと思います。


2025年11月8日土曜日

2025年11月2日

 2025年11月2日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「静かに自らを省みる」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 7:14-23節

 よいものは外から来るという文化や信仰が、日本にはあります。そして客人信仰などのように、外からやってくる人を歓待して迎えるという信仰があります。一方で、江戸時代末期の尊王攘夷運動のように、外からやってくる人たちに対して攻撃を加えるというようなこともありました。まあなんか外からやってくる人たち、自分たちと違う習慣や価値観をもつ人たちに対して、ちょっと不安な気持ちになるというのも、また人間の気持ちとしてはあるのだろうと思います。

 聖書の時代にも、外からやってくるものが悪いものを持ち込んでくるというような考え方がありました。ユダヤの人たちは、自分たちは神さまから特別に愛されている民であるという気持ちが強かったので、異教徒と付き合うのは汚れたことだというような考えをもつ人たちもいました。

 イエスさまは食べ物の話をされながら、「外から汚れがやってくる」、「外から悪い者がやってくる」と腹を立てている人たちに対して、ちょっと落ち着いて、静かに自分のことを考えてみるということをしたほうが良いと言われました。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚す」ものだから注意をしたほうがよい。いまのあなたの体や心の状態は大丈夫ですか。いま、あなたの心の中によくないものがあるのではないですか。すこし静かに自分のことを考えてみて、そして元の心持ちの良いすてきな自分に戻ったほうがよいのではないですか。私たちはすこし落ち着いて考えてみると、自分がもともと心持ちの良いすてきな人間であったことに気づきます。神さまが私たちをそのようにつくられたからです。

 静かに落ち着いて自らを省みるということは、とても大切なことです。皆さんのご家族であり、私たちの信仰の先輩である方々も、そのように歩まれました。天におられる私たちの信仰の先輩たちは、神さまを見上げつつ、自らを省みながら、謙虚に歩まれました。礼拝に集い、讃美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、そして静かに祈りつつ歩まれました。

 私たちも私たちの信仰の先輩たちがそうであったように、静かに落ち着いて自らを省みつつ歩みたいと思います。神さまに祈りつつ、神さまが創造された良き人として歩んでいきたいと思います。


2025年10月24日金曜日

2025年10月19日

 2025年10月19日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「神の負ける場所」(創世記 22:1-13節) 野本千春牧師


 今から35年前、平安教会には何人かの精神に障害を持った人たちが土日に立ち寄ったり、教会員となって礼拝に出ていた。その中の30代の男性、Tさんはまだ若いときに統合失調症を発症したひとだった。高校卒業の前後よりずっと左京区内の精神科病院に入院し、週末に外泊と言って右京区の実家に帰っていた。Tさんは土曜日、外泊のときに教会に立ち寄って、日曜日の礼拝の準備をしている神学生であった私と会話をした。Tさんがあるときから「閉鎖病棟は神の負け」と何回も繰り返すようになった。Tさんは病院で「暮らして」20年近くがたっていた。その後、私は仕事でその病院の閉鎖病棟の中をのぞく機会を得たが、その病棟は落ち着いたクリーンな印象で、「神が負ける」地獄のような場所とは決して思えなかった。ではTさんが語った、「神の負け」とはどういう意味であったのか、そのことを彼のイエス・キリストへの信仰の証言として理解するまで私は長い年月を必要とした。Tさんは人生の半分を閉鎖病棟で送っていた。当時は統合失調症と言う名ではなく、精神分裂病と呼ばれていた時代。精神科の治療も現在以上に手探りの療法しかなく、現在の様に副作用の比較的軽い薬が開発されてはおらず、飲めば大きな負担が心身にかかった。病気が少し良くなってくると、今度は自分の置かれた状況を認識せざるを得ず、人生に絶望し自ら命を絶つ若者が多かった。病気になってしまえば神も仏もなかった。そのような状況で閉鎖病棟で人生を送っていたTさんにとって、そこが当時としてはいかに近代的な医療環境を維持できていたとしても、「神はそこでなになさっておられるのか」と心から嘆かざるを得ない場所であったと思う。しかしそのような場にもかかわらず、いやそのような場であるからこそ、イエス・キリストは彼と共に十字架につき、共に居られたのではないか。その体験をTさんは「閉鎖病棟は神の負け」という重い言葉で身をもって信仰告白をされたのではないか。イエス・キリストという私たちの神は、「閉鎖病棟は神が負ける場所」と言い切り、絶望を口にするTさんと共に十字架を担って居られた神なのではないのか。イエス・キリストは十字架の苦しみを苦しむものと共に苦しみ切り、復活の望みを望むものと共に望み切る神である。Tさんの言った「閉鎖病棟は神の負け」、すなわち「神の負ける場所」に在って、実にイエス・キリストは「インマヌエル」なる神、すなわち、「ともに居ます」神、であったのだ。今朝の聖書の箇所は、信仰の祖、と言われるようになったアブラハム、徹底して神とともに歩んだ人と、待ち望んで授かった最愛の息子イサクの物語である。アブラハムは神が命じるままに、最も大切なひとりご、イサクをほふり、神にささげようとした。その時のアブラハムの胸の内は描かれていないが、これ以上の苦しみはないというほどの苦しみを味わい、これ以上の痛みはないという痛みを味わったのではないか。新約聖書の、ヨハネによる福音書3、16は「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」、すなわち、神が最愛の独り子を人間の赦しと救い為にこの世にささげた、と証しするのである。そこに神御自身の痛切な苦しみと痛切な痛みがある。そして十字架の神、イエス・キリストは十字架というもっとも痛みと苦しみの、もっとも弱い姿を取られて、私たちに神の愛を顕してくださった。神は私たちの罪の赦しと和解と救いのために十字架の上で敗北してくださったのである。であるから、たとえ私たちが死の影の谷を歩んでいても、そこにはかならず私たちの神、イエス・キリストが共に歩んでくださっているのである。


2025年10月18日土曜日

2025年10月12日

 2025年10月12日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「あなたはわたしの友だちだ」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 15:14-17節

 今日の礼拝は神学校日の礼拝です。神学校・神学部の働きを覚えてお祈りいたします。また今日は「きてみてれいはい」です。きてみてれいはいを、9月から子どもの教会との合同礼拝としてもつことにいたしました。

 イエスさまは弟子たちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われました。そしてイエスさまにつながって歩むことの幸いを、弟子たちに話されました。

 今日は、イエスさまが自分の弟子たちのことを、「友と呼ぶ」と言われたという話です。イエスさまのお弟子さんはイエスさまのことを、「先生」というような感じで考えていました。イエスさまはいろいろなことを知っておられて、お弟子さんたちはイエスさまから神さまのこととかを教えてもらっていたからです。でもイエスさまは自分のお弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの大切な友だちだ」と言われました。そしてみんなわたしの友だちなんだから、喧嘩したりするのではなく、「互いに愛し合いなさい」と言われました。

 わたしの好きな絵本に「くまのコールテンくん」という絵本があります。くまのコールテンくんは、デパートのおもちゃ売り場で売られていたくまのぬいぐるみでした。でもズボンのボタンが取れていました。でもリサはコールテンくんを家に連れてかえり、そしてズボンのボタンをつけてあげます。

 くまコールテンくんには、リサという友だちができました。くまのコールテンくんはちょっとおバカなところがあるけれども、でもリサはコールテンくんのことをそのままで大好きと言ってくれます。ちょっと汚れていても、ズボンのぼたんが取れていても、でもくまのコールテンくんの大好き。

 イエスさまはこんな感じで、お弟子さんたちのことを、「あなたたちはわたしの友だちだ」と言われたんだろうなあと思います。イエスさまのお弟子さんたちはいろいろな失敗もしますし、まただめなところもありますが、でもイエスさまはお弟子さんたちのことが大好きでした。お弟子さんたちは何かできるから、イエスさまに愛されたのではありませんでした。そのままのお弟子さんをイエスさまは愛されました。そして、お弟子さんのことを愛されたように、イエスさまは私たちのことも愛してくださっています。


2025年10月10日金曜日

2025年10月5日

 2025年10月5日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「天国に入りたい人、手をあげて」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 19:13-30節

 今日は世界聖餐日です。世界のクリスチャンと共に、聖餐に預かる日です。私たちの世界は神さまの前に、いろいろな問題を抱えています。戦争がありますし、テロ事件もあります。内戦が行われていたり、人権侵害が行われていたりします。私たちは共に聖餐に預かりながら、神さまの義と平和がきますようにと祈ります。

 今日の聖書の箇所では、3人の人がイエスさまのところにやってきます。はじめにこどもたち。そして二番目にお金持ちの青年。そして三番目にペトロです。こどもたちは自分たちがどうこうすることなく、イエスさまから祝福を受けます。そしてお金持ちの青年は、自分の力によって律法を守り、永遠の命を受けるべく努力をします。しかしお金持ちの青年は永遠の命の約束を得ることはできません。祝福は人間の努力によって得られるものではないからです。そしてペトロですが、すべてを捨ててイエスさまに従うということで、祝福を受けようとします。しかしこれもまた人間の力によるものですから、イエスさまから「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われてしまいます。

 「それでは、だれが救われるのだろうか」という問いかけに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられます。救いは人間によって得られることではなく、神さまからの賜物として与えられるのです。

 とはいうものの、「天の国に入りたい」という素朴な願いをもつことは、とても大切なことだと思います。イエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたというようなことは、聖書には書かれてはいません。でもたぶんイエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたとしたら、こどもたちは「はい、はい、はーい」と素直に答えるだろうと思います。

 私たちもまた「天の国に入りたい」とこころから望むものでありたいと思います。自分が天の国に入るにふさわしいとか、天の国に入るのにふさわしくないということではないのです。ただ「天の国に入りたい」。ただ神さまの祝福を受けて生きていきたいと、こころから願う者でありたいと思います。

 神さまは私たちを祝福し、神さまの愛を私たちに注いでくださっています。すなおに神さまを求めつつ、歩んでいきましょう。


2025年10月3日金曜日

2025年9月28日

 2025年9月28日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「おまゆう。そういうとこやぞ。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 18:21-35節

 「おまゆう。そういうとこやぞ」というのは、ネットの世界でときどき見る言葉です。「おまゆう」というのは、「お前が言うか」という言葉です。ですから「おまえが言うな」という意味です。自分もいいかげんなことをしているのに、人を批判したりする人に対して、「おまえが言うな」「おまゆう」というふうに使われます。「そういうとこやぞ」というのは、「おまえのそういうところがだめなんだ」というような意味で使われます。細かいことを見つけ出して、なにからなにまで批判するというのも、まあどうかとも思いますが、あんまりいい加減なことをしていても、それもまた困るわけです。やっぱり良識をもって生きていくということを心がけたいと思います。

 イエスさまのところにペトロがやってきて、「わたしに対して悪いことをした人を何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねます。イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。「七の七十倍は、490回ですね」というようなことではなくて、「回数を数えたりするのではなく、とことん赦してあげなさい」ということです。「477回赦してやったから、あと13回だな」というようなことではなく、「数など数えるのではなく、赦して赦して赦して赦して赦してあげるのだ」ということです。

 イエスさまはたとえを話されました。王さまから1万タラントンという国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会います。しかし彼は仲間を捕まえて首を絞めて、「借金を返せ」と言います。彼はその仲間を引っ張っていき、牢屋にいれてしまいます。それをみて、その仲間たちはこころを痛めます。そして王さまに話しに行きます。王さまはそのように怒って、そして借金を返すまで、家来を牢屋に入れることにしました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。

 赦しあい、支え合い、神さまの愛のうちを歩んでいく。人間ですから、「赦せない」という思いにかられたり、捕まえて首を絞め「借金返せ」というようなふさわしくないことをしてしまうこともあるかも知れません。それでも、神さまの愛のうちに自分が生きていることを思い起こして、悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。