2018年8月7日火曜日

2018年7月15日

2018年7月15日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
  「信じていればなんでもできる」 桝田翔希伝道師
   マルコによる福音書 9:14~29節
この一週間は、暑い一週間ではありましたが、西日本豪雨の被害が続々報告された一週間でありました。何もできない自分の無力さを改めて実感させられます。
今日読んでいただいた聖書箇所では、まずイエスの弟子たちが律法学者たちと議論している場面で始められています。そんなところにイエスがやって来るとある一人の人が「私の息子を癒してほしい」と駆け寄ってきました。この人の息子は霊に取りつかれていて、弟子たちに癒してほしいと言ったができなかったと話します。そして子どもが小さい時から病に苦しみ、「できるならば」「私たち」を助けてほしいと頼んでいます。しかしイエスは、「できるならば」と言った人を叱ります。ここでイエスに向けられた「できるなら」という言葉は謙虚そうに見えながら、何もできなかった弟子たちを前にイエスをも「できるできない」の価値観で図ろうとしている言葉なのかもしれません。
大船渡で医師として働く傍らで、ケセン訳の聖書も発行された山浦玄嗣さんは3・11の地震の後でインタビューを受ける中で「神様はなぜ、まじめな人たちをこのような目に合わせたのか」という事を何度も聞かれたと語っておられます。何度も何度も聞かれて非常に腹が立ったと書かれていました。私たちの発想からするとごく普通の問いのようにも思えてしまいます。山浦さんは、「なぜ神様はこのような事を起こしたのか」という質問は「お前たちが拝んでいた神様は、お前たちを見捨てたではないか」という意味を持つ言葉であると語っておられました。
「なぜ神はこのような事を起こしたのか」という質問と、今日の聖書箇所で出てくる「できるならば」という信仰には通じる部分があるのではないでしょうか。イエスはその人の苦しみをよく聞き、祈りを通して願うことの大切さを語っています。私たちは辛い時、なぜこんなことが起こるのかと神を疑いたくなる時もあります、また自分自身、色々なことが出来なくて失望するときもあります。災害があり、私たちの持つ力は小さいという事を実感する日々でありますが、何もしないという事ではなく、何もできない無力さを受け入れ信じ祈ることが大切なのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿