2022年3月26日土曜日

2022年3月20日

 2022年3月20日 受難節第3主日礼拝説教要旨

 「謙虚にイエスさまに従いたい。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 8:27-33節

 オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、ディストピア小説と言われますが、そこで描かれる世界は苦しみもなく楽しい世界です。ただその社会は人為的に作られています。そこには真実というものがないのです。

 人は自分の真実を守るために戦い、そして苦しみを受けるということがあります。たとえ苦しみをうけたとしても、手放してはならない真実があるのだということがあるわけです。初期のクリスチャンたちは、イエスさまを信じているがゆえに迫害を受け、苦しみました。しかし初期のクリスチャンたちは、たとえ迫害を受けても、真実を手放すことはできないと思っていました。また一方で、人は弱いですから、苦しみを受けることは、どうしても避けたいと思うこともあります。

 イエスさまはご自分が長老、祭司長、律法学者たちによって殺される。いろいろな苦しみを受けることになっている。長老、祭司長、律法学者たちによって殺されるけれども、三日目によみがえることになっていると、弟子たちに言われました。それを聞いたペトロはイエスさまをいさめました。そしてペトロはイエスさまから、「サタン、引き下がれ」と言われます。

 イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまがユダヤのリーダーになって、長老・祭司長・律法学者たちもイエスさまにひれ伏すことになる。イエスさまはメシア・救い主として、ユダヤ社会を収められ、そしてイエスさまの弟子である私たちも、イエスさまを支える者として取り立てられるのだと思っていました。「わたしはみんなから『ペトロさま、ペトロさま』と呼ばれる、ペトロ様になるのだ」と、ペトロは思っていたのです。ペトロだけでなく、イエスさまのお弟子さんたちはみんな、神さまのことではなく、立身出世のような「人間のこと」を思っていたのでした。

 罪深く、悩みの多い私たちのところに、イエスさまは来てくださいました。神さまは弱く崩れ去りそうな私たちのところに、イエスさまを送ってくださり、私たちを慰め、励ましてくださいました。そしてイエスさまは人間のことを思うのではなく、神さまのことを思いなさいと、私たちを招かれました。

 私たちは人間のことではなく、神さまのことを思って生きたいと思います。苦しみやなげきを抱えて生きていく私たちのところに、神さまは御子イエス・キリストを送ってくださったことに、こころを向けて歩みたいと思います。


2022年3月18日金曜日

2022年3月13日

 2022年3月13日 受難節第2主日礼拝説教要旨

 「我らは神と共に働く者なり」 梅田玲奈神学生

   コリントの信徒への手紙Ⅰ   3:7-9節

 昨年の7月より、派遣神学生として平安教会でお世話になっております、梅田玲奈と申します。約9か月という短い期間でしたが、平安教会の皆様にはとてもお世話になりました。子どもの教会を通して、みんなで働くこと、時には子どもたちにも動いてもらいながら物事を進めていくことの楽しさを学びました。

 今日お読みいただきました「コリントの信徒への手紙一」は、パウロがコリントの地に立てられた教会の人々へ宛てたものです。パウロはコリントの人々に福音を宣べ伝え、コリント教会が建てられました。その後、パウロはコリントを発ち、新たな伝道の地へと向かいました。パウロと入れ違うようにしてやって来たのは、聖書に詳しいアポロという人物でした。アポロによって、コリント教会はより大きなものとなりました。しかし教会の内部では、パウロ派やアポロ派のように分裂が起きていました。その対立を聞いたパウロが、「コリントの信徒への手紙一」を書きました。

 私たち人間は、誰が偉いのか、正しいかに心を奪われることがあります。しかし、本当に大切なことは、人間の成長を導く神様を信じて歩むことなのです。ヨハネによる福音書15章5節でイエス様は、“私たち人間がイエス様につながっていることの大切さ”を語っておられます。この言葉は信仰的に強い弟子たちに向けられた言葉ではありません。むしろ、これからイエス様を裏切ることになる弟子たちに向けられました。つまりイエス様は、私たち人間が弱いものであることを承知の上で、それでも「わたし(イエス様)につながっていなさい」と仰っています。

 私たちは、こうして教会に集い、これから一週間を歩むための、福音の糧を報酬として神様から受け取っています。私たちは信仰者として強いものではなく、弱さを抱えた存在です。ですが、それでも神様はここにおられるお一人おひとりを、導き、そしてイエス様と共に歩む者として、用いてくださっています。

 これから、私は横須賀学院中学高等学校という地で、伝道の働きの一端を担わせていただきます。平安教会の皆様とは、物理的な距離がありますが、どこにいてもイエス様に連なる者であり、神のために共に働く者でありたいと思います。


2022年3月10日木曜日

2022年3月6日

 2022年3月6日 受難節第1主日礼拝説教要旨

 「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:12-15節

 スマートフォンを多くの人がもつようになり、ビデオ電話ができるようになりました。しかしビデオ電話はあまり普及しません。音声だけの電話のほうが、人にとってはなんとなく都合が良いからです。音声だけの電話は、「聞いてくれている」ということが前提で、相手が話をしてくれているわけです。ビデオ電話になると、明らかに聞いていない顔の自分が映ってしまうわけです。ひとはいいかげんであるという前提を互いに受け入れ合って、電話は使われています。私たちはみんないろいろな弱さを抱えていきています。いつもいつも真剣勝負をされると、それはちょっとむつかしいことがあるわけです。人はやはり頼りないところがあるわけです。自分勝手であったり、誘惑に陥る弱さがありますし、思わぬことでつまずいてしまうことがあります。「どうしてこんな誘惑に陥ってしまったのだろう」と嘆くことがあります。

 イエスさまが神の国の福音を宣べ伝えるまえに、サタンから誘惑を受けます。それはすべての人がこの世にあって、いろいろな誘惑を受けて、揺れ動きながら生きているからです。神さまの御子としてこの世に来られ、人となられたイエスさまも、私たちと同じように誘惑を受けられるのです。そして誘惑に打ち勝たれます。

 「時は満ち、神の国は近づいた」というイエスさまの言葉は、一般的には、イエスさまが伝道・宣教を始められるときの言葉です。しかしこの聖書の箇所を受難節のときによむときに、この「時は満ち」の時とはいったいいつのことなのかということに、私たちは心を向けて読むのです。それはイエス・キリストが十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださる、その「時」なのです。

 多くの人は弱さを抱えていきています。良き人として生きようと思っても、そのようにし続けることができず、思いやりのない自分勝手なことをしてしまうこともあります。イエスさまがゲッセマネで祈っておられたとき、弟子たちは誘惑に負けて、眠り込んでしまいます。

 そうした弱く、なさけない私たちのために、主イエス・キリストは十字架についてくださいました。私たちの罪をあがない、そして私たちを神さまのもとに連れ帰ってくださいます。イエスさまは私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださいます。レント・受難節のとき、自らのこころの弱さをしっかりと見つめながら、歩みたいと思います。そして私たちがどんなに弱くとも、力強い御手でもって、イエスさまが私たちを守り、導いてくださっていることに、こころから感謝をしたいと思います。 


2022年3月5日土曜日

2022年2月27日

 2022年2月27日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

 「救ってくださいと、なぜ言えないんだろう。」 

                小笠原純牧師

   マルコによる福音書 4:35-41節


 川上弘美の『センセイの鞄』は、37歳の女性と67歳の男性の恋愛小説です。30歳、年が離れていて、元教師と教え子という設定です。素直に「大好き」と言うことができれば、まあ良いわけですが、なかなかそういうわけにもいかないというようなことが、恋愛には起こってきます。恋愛だけでなく、素直に自分の気持ちを明らかにするということは、いろいろな場面でむつかしいということが出てきます。気恥ずかしかったり、もっと自分のことをわかってほしいと思ったり、口から出てくる言葉が、素直な思いとは違って、相手を非難する言葉として出てくる場合もあります。

 ガリラヤ湖で舟が沈みそうになったときに、弟子たちは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4章38節)と言います。マタイによる福音書8章25節では「主よ、助けてください。おぼれそうです」となっています。わたしはマタイによる福音書で弟子たちが語った「主よ、助けてください」のほうが良いと思います。しかしマルコによる福音書は「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」となっています。「私たちが滅びるのを、あなたは気にならないのか」というような感じです。

 現代の日本人は神仏に頼ることが苦手なだけでなく、人に頼ることも苦手であると言われています。あまりに自己責任が強調されるために、「助けてほしい」という声をあげづらい社会になっています。困っているときに、「助けてください」と言うことのできない社会は、やはりさみしい社会だと思います。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。「先生、助けてください」と素直に言うことのできない弟子たち。そうした私たちの弱さを知りつつ、イエスさまは私たちを助けてくださいます。イエスさまはわたしのように心の狭い方ではないですから、「助けてください」と言うことのできない私たちであっても、イエスさまは大いなる御手でもって、私たちを助けてくださいます。

 私たちは大いなる力のある方の御手のうちを歩んでいます。風や湖さえも従わせることができるイエスさまが私たちと共におられます。素直でもない、つぶやくことも多く、邪な思いをもつ私たちですけれども、私たちを愛し、私たちを救ってくださるイエスさまがおられます。安心して、私たちの救い主イエス・キリストにお委ねして歩んでいきましょう。


2022年2月25日金曜日

2022年2月20日

 2022年2月20日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

 「心の中の悪しき思いに戸惑う」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 2:1-12節

 2月14日(月)はバレンタインデーでした。わたしもチョコレートをいただいたりしました。教会というところは、だれにでも分け隔てなく、ちょっとしたものをあげるというようなところがあったなあと思わされました。バレンタインデーのチョコレートということでもないですが、クリスマスの行事にこどもにちょっとしたお菓子を渡してあげるというような感じです。だんだんと世知辛く、さみしい世の中になってきているような感じがするので、こうした誰にでもあまり深く考えることなくやさしくするというようなことは、とても大切なことのように思えます。

 イエスさまは中風を患った人をいやされました。四人の男性たちが中風を患った人を連れてきたのです。彼らは屋根をはがして、床ごとイエスさまのところにつり下ろしました。イエスさまは「その人たちの信仰をみて」、いやしのわざを行われました。その交わりを祝福されたのです。

 「こいつが、イエスさまにいやしてもらえてよかったよね」「ほんと屋根まで上ってたいへんだったけどね」「でもまあよく考えたら、もっと早く来てたらよかったよね」「おまえがいつまでも朝ご飯を食べていたから遅くなったんだよ」「えへへ、そうでした」「てへぺろ(・ω<)」というような交わりがあったのだろうと思います。

 そのあとイエスさまに対して心の中でつぶやく律法学者たちは、彼らのようなやさしい気持ちを忘れ去っていました。律法学者たちは、病気でつらい目にあっていた人がいやされたことを、「よかったね」と思うことよりも、イエスさまが言った「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉のことが気になるのです。

 わたしはこの律法学者たちの態度をみるときに、「ああ、わたし自身もこんな感じのことよくあるよなあ」と、いやな気持ちがするのです。自分自身がそうであるからこそ、律法学者たちの態度が気になるのです。そしてその心の冷たさに、自分自身で戸惑うのです。どうしてこんなに冷たい気持ちが、わたしのなかにあるのだろうか。神さまの前に、どうしようもない自分を見いだし、この「死に至る病」から、だれがわたしをいやしてくださるのだろうと思うのです。

 しかしそうしたどうしようもないわたしだけれども、イエスさまはわたしをいやし、救ってくださるのです。イエスさまは私たちの救い主であり、私たちを慰め、私たちを励まし、導いてくださるのです。私たちの救い主イエス・キリストともに、すこやかな歩みをいたしましよう。




2022年2月17日木曜日

2022年2月13日

 2022年2月13日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

  「種を蒔く」 横田明典牧師

    マルコによる福音書 4:1-9節

 種を蒔く人の譬えの解説が13節以降にあります。種というのは神の言葉で、落ちた場所とは御言葉を聞く人を取り巻く状況を表していると解説されています。したがって「神様の御言葉に対してサタンや迫害や誘惑に負けずに、御言葉を受け入れるものになろう」というような倫理的な勧めとして、この譬えが説明されています。このためこの箇所を読む人は「自分は良い土地だろうか」、「誘惑に負けて実を結べずにいるのではないか」と自分自身のことを考えさせられることも多いでしょう。

 確かに蒔かれた側の人間の状態を戒めることも大切なことかと思いますが、その前に遡って、種を蒔く側のこと、その種そのものについて考えてみたいと思います。

 この種を蒔く人は、ずいぶん大胆な、いい加減な、効率の悪い種の蒔き方をしています。実りを期待して種を蒔くのですから、良い土地に蒔くべきなのにそうではありません。道端や石だらけの土地や茨の中など、お構いなしに種を蒔いています。何故こんないい加減な蒔き方をしているのでしょうか。

 種を蒔く人、これは神様でありイエス・キリストであり、また弟子たちであったと言えます。私たちがまず感謝したいのは、そういう大胆な種の蒔き方をしてくださる神様だった、ということです。イエス・キリストによって蒔かれる種は土地を選びません。どんな土地であろうと無差別にその種が蒔かれます。ユダヤ教の文献によると、パレスチナ地方の農業では、種を蒔いてからその土地を耕す方法もあったようです。ということは、無差別に蒔かれた種ですが、その土地が後から耕される可能性は十分にあったということです。つまりどんな土地であろうとお構いなしに種を蒔くのは「どんな土地であろうと、その全ての土地で種が芽を出し実を結ぶ可能性がある」ということです。神様は「耕された相応しい良い土地」だけに種を蒔くのではなく「全ての土地が耕され、実り多いものになるように」と、種を蒔いておられます。

 しかもその種は30倍、60倍、100倍にもなる力を持った種です。神様の御言葉はそれほど大きな力を持っているのです。その種の力を信じればどんな土地であろうと、種を蒔くことができるのです。

 もう一つ考えたいのが、この譬えは、種を蒔く側に向けて語られたのではないか、ということです。

 現実の問題として、なかなか伝道や宣教の具体的な成果というものが見えていない状況があったとも考えられます。種を蒔くのは確かに自分たちに与えられた役割ですが、しかし蒔かれた後のことは、神様任せにせざるを得ないのであって、自分たちに責任があるのではない、そのようなことを伝えたかったのではないでしょうか。私たちも神様と同じように、人を選んで種を蒔くのではなく、ただ種を蒔く。それが大切なのだと思います。種の力に信頼して、私たちも大胆に絶えず種蒔く人でありたいと願います。



2022年2月10日木曜日

2022年2月6日

 2022年2月6日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「主イエスの秘密」 山下毅牧師

   マルコによる福音書 1:40-45節

 ユダヤでは、救い主、メシアこそ、「重い皮膚病」を癒すことが出来る、という言い伝えがありました。そのことが、この話の基本に流れています。

 重い皮膚病を患っている人が、イエスの所へ来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 この言葉を聞いたとき、イエスは眉をひそめたことでしょう。何故ならこの人の悲惨な身の上を思わざるを得ないのです。重い皮膚病の規定は、レビ記13章、14章です。判定を下すのは、祭司の仕事です。儀式的に汚れているか否かの判定です。宣告を受けた人は、レビ記13章45節にのべられているように、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です」叫んで歩き、宿営の外での暮らしとなります。イエスの顔は苦痛に歪んでいたと思います。41節の御言葉、「深く憐み」、他者への同情のために心が痛められた言葉です。古い写本では、「激しく憤られて」とあります。43節「厳しく注意して」は、馬が荒々しく鼻息をたてるありさまを示す言葉で、イエスの心は激しいものであったことを示します。――ここでのイエスの姿は、人知を超えた愛の姿であり、神の満ちあふれる豊かさのすべてがあります。

 この重い皮膚病患者は、律法の規定にそむいて、イエスに接近して来ました。見つかれば殺害されるかも知れません。イエスはその汚れに触れてはならぬという掟を無視して、ためらうことなく手で触られ、癒されたのです。その男に触れることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのです。

 「行って祭司に体を見せ、モーセが定められたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」とイエスは述べられました。この男を励まし、社会復帰を促されました。

 「彼はそこを立ち去ると、大いなるこの出来事を人々に告げ、言い始めた」。この男は、出て行って「出来事を告げる」のです。「告げる」という言葉は、39節の「宣教し」と訳されている言葉と同じ言葉です。「言い広めた」という言葉も、主イエスが、神の国は来た、神の支配が始まっていると伝道したのです。

 私たちの教会は、この主イエスの暖かい愛、憤りの厳しい力、そして深い痛みを伴う憐みの心を讃えつつ、私どもが聞いた神の御言葉、神の支配を宣べ伝えてやまない、教会でありたいと思います。