2016年3月22日火曜日

2016年3月6日

2016年3月6日 主日礼拝説教要旨
  「群衆がかわいそうだ」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書8章1〜10節)

6章の5千人の給食物語と今日の8章とは類似点が多いのですが、8章19節でイエスが弟子たちを叱る場面があるところを見ると、明確に別のこととして語られていることが理解できます。それではどこが違うのでしょうか。5千人の方はガリラヤ地方ユダヤ人い対して行われた奇跡物語なのに、こちらは「異邦人の地」で異邦人に対しておこなわれたものだと推測できます。それは弟子たちの「冷淡さ」です。非常に淡白に描かれているのです。
弟子たちはここは異邦人の地なのだから、自分たちは関わりたくないという思いに支配されていたのです。救いの対象外だという思いが強かったのです。全く弟子たちは愚かです。
しかしここでマルコは、この弟子たちの「信じ難い愚かさ」を強調しているのです。愚かというのは何も考えていないと云うことはなく、本当に考えなければならないことを忘れているということです。私たちも大切なことをすぐにわすれてしまう時があります。日常生活の中で神が私たちをどんなに愛しておられるかということさえ。
2〜3節で群衆からでなくイエスの方から一人一人をご覧になって配慮されたということに注目しましょう。「群衆がかわいそうだ」と云われるのです。それはイエスの深い情愛を示す言葉で「内臓」という意味を語源にもつ言葉です。イエスは群衆を憐れみ愛しておられるのです。
私たちがこの物語を読む時、弟子の立場に身を置いてしまいがちですが、実は私たちは憐れみを受け、愛されているのですから群衆の一人ではないでしょうか。何の資格もない貧しい私たちを神は愛してくださっているのです。この奇跡が「人里離れたところ」、つまり「荒野」です。疲れ果ててしまった時、魂が飢え渇いている時、食べ物のないと思えるようなところでも、神はマナを与えることが出来るお方です。主があなたを愛しておられるが故に、必要な力、知恵、人、道を必ず備えて下さいます。それがイエスが命がけで人々に教えて下さった福音なのです。残されているレントの時間、主の苦しみと受難を、この身に覚えて歩みたいものです。

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