2019年3月4日月曜日

2019年2月24日

2019年2月24日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「ひとり祈る姿に」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 5:12~16節
 今日の聖書箇所では、重い皮膚病にかかった人がイエスによって治ったという奇跡物語が語られています。イエスの治癒奇跡は福音書の中で度々語られていますが、科学的な常識に生きる今日にあってはなかなか信じることができるものでもありません。イエスの治癒奇跡は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
 専門が異なる7人の著者によってイエス像が分析された『人間イエスをめぐって』(教団出版局、1999年)という本の中で、医師である川越厚さんはイエスがどのように病気と向き合ったのかということに注目されていました。現代医学は科学主義に根差しているが故に、症状を見た時にその根本的な原因が重要視されるのだそうです。例えば糖尿病を発症すると手足の壊死や失明など、様々な症状が現れますが、血糖値をコントロールする処置が行われます。症状を一つ一つ対処するのではなく、根本的な原因が究明されるのです。一方イエスはどのように病気に向き合ったのか、川越さんはイエスの治癒の特徴として「治すのではなく、癒している」と分析しておられました。イエスが治癒の対象とした病気は、当時の社会にあっては発症すると共同体から疎外されてしまうものがほとんどでした。特定の病にかかるということは神からの裁き、神からの愛の断絶とも理解された状況にあって、イエスは病を「癒した」のです。
 重い皮膚病に関して旧約聖書のレビ記では、その対応がくわしく規定されています。イエスの時代には「病は神からの罰である」という考え方がなされていたことが想像できますが、レビ記を見るとどのような症状が「神の罰」なのか、ということよりもどうすれば治るのかということに注意が払われています(関田寛雄、1989年)。科学的な考え方に生きる今日にあって、私たちは人間を忘れて根本的な原因を中心としてしまう時があるように思います。イエスが行った治癒奇跡は、自らの力を示すものでも、祭司や律法学者に対抗するための業ではなく、「疎外からの解放」を意味しました。イエスの奇跡を読むとき「治す」ことにばかり気が向いてしまいますが、関係性の回復である「癒し」を通して示された神の愛を実践する人でありたいものです。

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