2020年9月25日金曜日

2020年9月20日

 2020年9月20日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

   「イエスさまの声が聞える」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 10:1ー6節

 中学校の英語の教科書に、ジョン・万次郎の話が出てきます。「Manjiro learned English by ear. He had a very good ear, so he learned English very quickly」。このフレーズを読みたびに、わたしは「あー、万次郎はええなあ。とても良い耳を持っていたから。わたしの耳はあかんなあ。だからいつまでたっても英語ができんなあ」と思えます。

 今日の聖書の箇所も、またわたしにとってはうらやましい話で、羊は良い耳をもっているという話です。ファリサイ派の人々は、イエスさまの批判の声に耳を傾けるということもありませんでした。イエスさまの声が聞えていないのです。しかし羊であるユダヤの民は、羊飼いであるイエスさまの声を聞いていました。イエスさまの声を聞き分け、イエスさまを信じました。

 そしてイエスさまは良き羊飼いとして、羊飼いが羊の名を知っているように、一人一人の民のことを知ってくださり、その喜びを共に祝ってくださいます。また苦しみ、悲しみも共にしてくださり、共に歩んでくださいます。

 「耳なし芳一」などの『怪談』で有名な、明治の小説家・日本研究家である小泉八雲、ラフカディオ・ハーンは、ある少女の「おやすみなさい」という言葉が、生涯、自分のこころの中に残っているというエッセイを書いています。ラフカディオ・ハーンのこの文章を読みながら、わたしはイエスさまの声が私たちの思いを超えて、私たちに突き刺さってくることがあるのだと思いました。

 私たちの耳が良いとか、悪いとか、そうしたことを超えて、絶対的な声として、イエスさまの声は私たちに届くのです。もちろん良い耳をもって、イエスさまの声をいつもしっかりと聞くに越したことはないわけです。ただ私たちは弱いですから、ときにイエスさまの声を聞くことができず、迷子になってしまうこともあると思います。しかし私たちが迷子になって、イエスさまのことを忘れてしまっていても、あるときまたイエスさまの声が私たちのこころに響いてくるのです。

 イエスさまはいつも私たちを招いておられます。私たちがあっちを向いたり、こっちを向いたり、イエスさまと関係のない生き方をしていても、イエスさまは私たちを招いておられます。イエスさまの招きに応えて、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


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