2023年11月18日土曜日

2023年11月12日

 2023年11月12日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

「確かな方につながって生きる」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 8:51-59節

 宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」。病床の宮沢賢治の望んだものは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」なのでしょう。この世にいる間は、それはとても大切なものだと思えます。

 私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。

 私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人を送られるということを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。

 しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。

 イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2023年11月11日土曜日

2023年11月5日

 2023年11月5日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「私たちの道を照らす光」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 3:13-21節

 今日は召天者記念礼拝です。ご家族の皆様ととともに、天に召された方々を覚えて礼拝を守ります。

 ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。

 神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。

 神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。それはイエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。

 自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。

 わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。

 聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。


2023年11月3日金曜日

2023年10月29日

 2023 年 10 月 29 日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

「創造の時の円舞(ロンド)」 山本有紀牧師

  創世記 1:1-5,24-31 節

 礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で 9 週ある「降誕前」節の後半4 週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の 5 週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の 5 週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。

 イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。

 今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。

2023年10月26日木曜日

2023年10月22日

 2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「天を仰ぎつつ」 小﨑眞牧師

  ルカによる福音書 19:11-27節

 オープンチャペルにお招き頂きありがとうございます。今朝の聖書日課で与えられている「『ムナ』のたとえ」の話は、自己都合に閉ざしている現代の私たちに対して洞察に富む示唆を与えます。マタイにも「『タラントン』のたとえ」という似た話があります。理解を深めるために、今日の日本社会の貨幣価値に転換すると1ムナは約80万円となり、1タラントンは4800万円です。ゆえにルカは「ごく小さなものにも忠実」と語ります。また、マタイでは異なる額が託され、ルカは全員に同額でした。

 良い僕は、「『あなたの1ムナ』が儲けました、稼ぎました」と、僕自身の資質や判断から解放された視座(ムナが主語、同額の委託)を提供します。さらに「ごく小さな事」への僕の忠実さ(信頼、信仰と同様の言葉)が評価されます。一方、悪い僕は、自分自身の判断や思い(恐怖や不安)が優先され、何もしていません。「主人が厳しい方」との自己判断に縛られ、身動きが取れない状況(自己保身)へ陥っています。

 さて、私たちはこの物語から何を学ぶのでしょう。「1ムナを布に包んでいる僕」は私たち一人ひとりの姿であるのかもしれません。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである(カール・ヤスパース)」との警鐘に耳を傾ける必要があるのかもしれません。教会を教会の上に築くのではなく、教会を外へと委ねることが期待されています。その意味でのオープンチャーチでありたいものです。

 ある哲学者は、私たちを他者から切り離され独立した人間存在(Human being)として捉えるのではなく、関わりの中で変容・変質し続けて「人間になる(Human becoming)」と表現します。さらに他者と共に関わり相互に変容・変質する意味を込めて、Coとの接頭語をつけた「Human Co-becoming」という人間のあり方を提案しています(中島隆博『人の資本主義』参照)。

 私たちは共に変わることのできる存在です。教会自体を「包んだ布(自己都合)」の中から解放していくことが期待されています。私たちの判断基準に縛れ、自身の世界にのみ心を閉ざすのではなく、むしろ、天を仰ぎ、主へと拓かれたいものです。その只中にこそ、「Human Co-becoming」さらには「Human Co-creating」という新たな人間の創造(主の御業)が現出します。絶望と思える夜の帳や雑踏に紛れた寂寥感や孤独の只中にこそ働く「主の力」を確信する歩みへと呼び出されたく思います。


2023年10月20日金曜日

2023年10月15日

 2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「見えないけど、感じる神さまの愛」 小笠原純牧師

ルカによる福音書 17:20-37節

 『絶対音感』という本で有名な最相葉月は、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか。それでも信じるのはなぜかということ】。

 イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけです。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。

 世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。

 しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。

 信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしは、それはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。

 ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。


2023年10月13日金曜日

2023年10月8日

 2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 17:1-10節

 いろいろな組織が不祥事を起こし、謝罪会見を行います。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。

 今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕という個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。

 私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。しかし自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われます。

 また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。

 そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。


2023年10月7日土曜日

2023年10月1日

 2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「やっぱり世のため人のため」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 16:19-31節

 「僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」」(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。

 死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることになります。

 ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には「慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る」という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。

 『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、ハロルド・S・クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。「恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」」(P3)。わたしも、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。

 小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。

 世の人から笑われるかも知れませんが、私たちクリスチャンは「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きていきましょう。