2017年2月24日金曜日

2017年2月5日

2017年2月5日 主日礼拝説教要旨
  「気をつけなければならないこと」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書12章35〜40節)

 イエスはキリストがダビデの子であることを何故否定しなければならなかったのでしょうか。エルサレム入城の場面でイエスをダビデの子と呼んで迎えたと記されています。だから反論したのです。「キリストは律法学者等に対して、ダビデの子という言葉で表現しているものとは全く異なるのだ。お前たちの云うような意味でのダビデの子がどうしてキリストであろうか」と。そして真のキリスト像はまさにキリストの生き様、とりわけ受難によって人々に具体的に明らかにされながら展開されていくのです。
 ここで律法学者たちの姿と対比されているのは、真のキリストとしてのイエスの生き様でした。律法学者やファリサイ派の欠点は、自分を正しい座において色々なことを人々に教えるが、自分ではそれを実行しなかったというところにあります。普通云うだけでそれを実行しない人の話しなどは聞くなとなるが、イエスは「彼らの云うことは真理を云っているのだから、それを聞きなさい。しかし、彼らはそれを行っていないのだから、その真似はするな」と云われたのです(マタイ23章参照)。そこにイエスの寛容な態度を知ることが出来ます。
 一つがダメだから全てダメとは云わない方なのです。確かに、イエスが人に対する態度の中には、偽善な律法学者よ!と鋭い言葉で語りながら、攻撃のためでなく、イエスが事実を述べられて、その事実から人々の悔い改めや救いを語っておられるのです。
 聖書は、律法学者ファリサイ人が出てきますが、それに共通していることは「外側」ということです。宗教というものは「内側」を大事にしていくものです。内側をいいかげんにして外側をよくしていこうとするのは、何時の時代でも宗教の陥る欠点なのです。それをここでは鋭く突いておられるのです。
 律法学者は外側をいかにも重々しいような生活をしているかのように見せるが、しかし、先生とか教師とか呼ばれてはならないと書かれている。「あなた方の教師はただ一人、即ちキリストである」とあります。その事を徹底的に実行せねばなりません。私たちの信じる神はそのような神なのです。

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