2017年6月23日金曜日

2017年6月4日

2017年6月4日 主日礼拝説教要旨
「聖霊に満つ」 宇野 稔牧師
使徒言行録2章1~11節
 「五旬節の日が来て」とルカは書き出していますが、ルカにとって大切だったのは「その日が来た」ということにあります。その日というのは「五旬祭」ということではなく「神の定めたその日」が来たということです。ルカは「時が満ちる」という表現を使います。この世界を動かしているのは「神の時」だということです。そして私たちは神の時が満ちるのを待ち望んでいるようにと呼びかけています。教会は神の時を待つ存在なのですから。ただ黙って座して待つのではなく、嵐の中に身をさらしながら、嵐の次に訪れる光の時を指し示すような姿です。
 同志社の創設者である新島襄は「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く」という詩を残しました。これは逆境の中でも理想を求め待つ自らの姿が重ねられています。神の時を待ち望むキリスト者とはこのような存在なのです。弟子たちは主が約束して下さったその時を祈って待っていたのです。そこに聖霊が降るのです。神の出来事、神の時です。教会はこの世の中にあり、小さな存在かもしれません。強大で永遠不滅のように見えるローマ帝国が迫害しているという状況の中で使徒言行録は書かれています。それに対して教会が持っているものはただ一つでした。「希望」です。「神の勝利を信じる」ことです。それを待ち望むことです。
 「希望」とは将来を信じる心です。その根拠になるのは「たとえ今苦しくとも、自分には存在の意味がある」という確信です。この世界がどのように見えようとも神はあなたを必要としている。あなたが生きていることの意味、苦しんでいることの意味があるのです。私たちがなすべきことは、時がよくても悪くても神の時を待ち望むことなのです。
 寒梅が風雪の中で笑って咲くように、私たちもこの矛盾だらけの世の中で笑って真理を示して行こうではありませんか。神の時が満ちる時、私たちは聖霊に満ち、喜びにあふれて生きる勇気を得て歩むことが出来るのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿