2017年9月3日日曜日

2017年8月20日

2017年8月20日 主日礼拝説教要旨
「人は赦される」 宇野 稔牧師
マタイによる福音書 12章22~32節
 イエスがファリサイ派から罠にはめられそうになる、そんな場面です。この物語の前で、安息日に片手の萎えた人を癒したことがきっかけになり、イエスはファリサイ派から命を狙われるようになるのです。ファリサイ派の人々はイエスを理解することよりも排除すること、つまり殺すことを計画しています。
 22節に目が見えず話すこともできない人は、ファリサイ派に利用され連れてこられたのかもしれません。しかし、この人が癒された時、ファリサイ派の人々は24節で「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と云っています。つまり「イエスは悪霊の頭と同等であり人々を癒し祈るようにみえるけれど、自作自演にすぎない」と云っているのです。そして、ファリサイ派は益々腹を立てて、イエスを悪霊に仕立て上げようとしたのに自分たちの矛盾を指摘され、自分たちでその矛盾を認めざるを得なくなったのです。さらにイエスは31~32節で赦されることと、赦されないことがあるといい、本来これは赦しの宣言であります。
 私たちは主の祈りをします。赦すことが大切だと分かっていながら、赦せない出来事があるのも事実です。怒りと憎しみで心がいっぱいになる時があります。怒りと憎しみは他者から与えられるように思えますが、それは自分自身の心の中から湧き上がってくるものです。人は許し合うよりも怒りの原因を責め、取り除こうとします。何と悲しい生き方なのでしょうか。これが人間の抱える罪です。
 けれどもイエスは、人は赦されると宣言されます。赦せない思いを抱いたまま生きる私たちを、神は赦して下さるのです。十字架は人間の罪の象徴です。無実な人を殺してしまうほどの罪です。けれども同時に十字架は、その人間を愛する神がいることを教えているのです。愛に押し出されて生きるのです。

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