2018年12月25日火曜日

2018年12月16日

2018年12月16日 待降節第3主日礼拝説教要旨
 「沈黙の疑い」 桝田翔希伝道師
  ルカによる福音書 1:5~25節
 クリスマスを直前に控えたこの時に、聖書日課は洗礼者ヨハネの誕生が予告される場面が選ばれていました。この物語を通して、聖書は私たちに何を問いかけているのでしょうか。ここでヨハネの父親となるザカリアが、神殿で香を焚くことになったということが書かれています。私たちが読むと何でもないようなことに思えてしまいますが、当時にあって祭司は1万人から2万人もいたようで、毎日その中から一人がくじ引きで選ばれ香を焚き、イスラエルの為に祈っていたのだそうです。一度このくじに当たると、その後は二度とくじ引きには参加できなかったのだそうです。ゼカリアは年老いていたということを聖書は語っていますが、やっと巡ってきた大仕事の場面でゼカリアに神の業が臨んだのです。年老いているのに子どもが生まれ、さらにその子どもは人々を導くだろう、そう預言されました。ゼカリアは信じることが出来ず、口がきけなくなってしまいました。
 私たちが生きる社会では「言葉」はとても大切なものになっています。今起こっていることを伝えたり、自分の気持ちを伝えたり、当たり前のように使っています。しかし、「言葉」で表現しきれないことを忘れてはいけないと社会学者の大澤真幸さんは語っておられました。「言葉で共有されることの核には言葉で共有できないことがある」のだそうです。ゼカリアは長年待ち望んだわが子の誕生という時に言葉が奪われ、耳も聞こえなくなりました。自分の気持ちをしゃべりたかったことでしょう。沈黙の中で悩み苦しんだのではないでしょうか。しかし、ここで神は言葉にならない気持ちや共有できないことがあることを思い出させているのではないでしょうか。
 私たちはクリスマスを控え、世界中にある悲しみや苦しみの声にも耳を傾けます。情報社会と呼ばれる今日にあって様々な情報が私たちに知らされます。そんな中で、すべてを知ってしまったような気になってしまいます。しかし、言葉にならないことがあることに気を留め、私たちが未だ知らない事柄に気を留め、静かに祈るものでありたい。

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