2019年11月5日火曜日

2019年10月27日

2019年10月27日 降誕前第9主日礼拝説教要旨
  「新しい一週間へ」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 1:1~14節
 先日、失念してほったらかしにしていた京都教区総会の補助書記としての、逐語録に近い記録を録音テープを聞きながら作っていました。改めて録音を聞きながら議事録を作成していて、自分がいい加減に聞いていた部分や自らの経験に照らし合わせて、元々の意図を歪める聞き方を多くしていたことに気づかされました。「言」の難しさを痛感しました。
 本日の聖書日課により示された箇所は、ヨハネによる福音書の冒頭にあって「言葉(ロゴス)の賛歌」と呼ばれる個所で、「言(ことば)」という単語が何度も使われています。賛歌という程なので、元々は歌として語り継がれていたものと考えられています。この部分では、「言」とはどのような意味が込められているのか考えてみたいと思います。ヨハネによる福音書はユダヤ人の中のキリスト教徒を対象として執筆されたと言われているので、ユダヤ教や旧約聖書の影響を強く受けていると考えることができます。旧約聖書で「ことば」というと、創世記において神が「ことば」によって天地創造をする場面が思い出されます。また、イザヤ書55章10節では、神が発した言葉は必ず使命を果たすものとして描かれています。旧約聖書で言葉とは、ダイナミックかつ人間に応答を求める者として描かれているのではないでしょうか。
 一方、今日の社会状況において言葉はどのように使われているでしょうか。インターネットを見ていますと、見るに堪えないような言葉がよく書かれています。匿名性に守られながら、他人に対する恐怖感や嫌悪感が助長されているように思います。私は「言葉」が持つ意味はどんどん軽くなる一方で「キツク」なっているように感じています。例えば、夜中に騒いでいる人を見たとき、イラッとしてしまう時もありますが「なるべく笑顔で少し静かにしてくれませんかと言えばたいていの場合はすむ話(岸政彦)」なのかもしれません。しかし私たちは直接的な対話をないがしろにして、恐怖感や嫌悪感に突き動かされて「ことば」を発してしまいます。これはネットの社会ではさらに顕著に表れているように思います。しかし聖書が語る言葉は愛ややさしさに満ち、躍動的でありながら私たちに応答を求める者として描かれています。聖書の言葉に立ちながら「ことば」の力を信じ、降誕日までの日々を過ごしたいと思います。

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