2021年12月18日土曜日

2012年12月12日

 2021年12月12日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「でこぼこだけど、道を整える。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:1ー8節

 英米文学者の阿部公彦さんは、料理本について分析をし、興味深いことを言っています。日本の料理本には命令形が使われることがなく、現在形が使われる。料理を作るという利他的な行為を反映したものとして、料理本の文章も「善意と愛の形」を反映したものになるのだそうです。(「kotoba」、2021.No.44)。

 今日の聖書の箇所は「命令形」が印象的な聖書の箇所です。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』。洗礼者ヨハネは命令形で話す印象があります。「悔い改めにふさわしい実を結べ」というような感じです。それに対してイエスさまはあまり命令形で話されません。「サタンよ退け」というような感じで話されるときも、もちろんあります。しかし洗礼者ヨハネが、わたしは水で悔い改めの洗礼を授けるが、わたしのあとからくる人は聖霊による洗礼を授けられると言われたように、イエスさまは聖霊による祝福を人々に届けたのでした。洗礼者ヨハネは悔い改めを迫り、イエスさまは神さまからの祝福をもたらすのです。イエスさまは、「罪人であるあなたも、神さまの民として、神さまの祝福のうちにあるのだ」と、私たちを祝福してくださいます。

 救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちが用意する主の道、私たちが整える主の道というのは、そんな大きくりっぱなものではないかも知れません。悔い改めて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われても、イエスさまをお迎えするのにふさわしいりっぱな道を用意することはできないかも知れません。

 私たちの歩みは、でこぼこがあったり、石があったり、曲がっていたり、ゆがんでいたりします。人のことをうらんだり、人に冷たくあたったり、自分勝手な思いでこころのなかがいっぱいになったりします。やさしい気持ちになることができなかったり、人のことをうらやんでみたり、恥ずかしい思いがこころの中をぐるぐるとめぐったりします。そうしたでこぼこがあり、石ころがあり、曲がっていて、ゆがんでいる私たちですけれども、それでも救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちの歩みを整えたいと思います。

 救い主イエス・キリストが私たちのところに来てくださいます。ふさわしくないものですけれども、神さまにこころから感謝をして、謙虚な思いになって、イエスさまをお迎えいたしましょう。


0 件のコメント:

コメントを投稿