2021年12月10日金曜日

2021年12月5日

 2021年12月5日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「神様の分」 入 治彦牧師

     マタイによる福音書 1:18〜25節

 本日は平安教会創立145周年おめでとうございます。主の特別の祝福をお祈りいたします。 

 さて、昔の教会や修道院には、迷路の庭園をつくっていたところもありました。迷い悩むことに深い意味を見出していたのでしょう。聖書を読んでいてああでもない、こうでもないと思い巡らすことは誰でも経験していることだと思います。

 クリスマス物語の中にも、イエスの誕生に際していろいろと思い悩んだ人たちがいました。しかし、最も思い巡らしたのはヨセフとマリアでしょう。「母マリアはヨセフと婚約していたが二人が一緒になる前に、聖霊によってみごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことが表沙汰になるのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」当時ユダヤでは婚約期間は1年間とされていましたが、そんな時に最愛のマリアが、男性との関係もないのに身ごもってしまったのです。

 これは当時のユダヤでは一大事でした。よその男と交渉をもった場合は姦淫罪に問われ、石打ちの刑に服さなくてはならない。しかし、それはいくら律法的にいくら正しいヨセフといえども、彼の愛情がゆるさない。かと言ってお腹の子を認知してよその男の子を育てることは、彼の正義がゆるさない。その板挟みで彼は悩みました。そして、律法を裏切らず、しかも彼女をさらしものにしないで済む、離縁という唯一の考えに至ったのです。ところが、マリアの顔には一点の曇りも見えず、彼は自分の考えは根本的に誤っていたのではないかと自分を責めました。

 それに対する解答は夢の中で与えられたのです。天使が「彼女の懐妊は、聖霊による。その子は民を救う者となるのだから、心配しないで彼女をあなたのそばに受け入れなさい」と勧めました。そのマリアを受け入れた時、二人の間に生まれたのがインマヌエルでした。神、我らと共にいます。それは神がナザレのイエスとなって、私たちの体験するであろう労苦や挫折、その苦しみも喜びもすべて、なめつくしていてくださっているということに他なりません。誰にも言えないことも神はお見通しであり、わかっていてくださる。そこにインマヌエルの主が共におられるのです。

 セルビアをはじめとして東欧には、クリスマスのしきたりに「神様の分」というのがあります。クリスマスのケーキを切り分ける時に、そこにいる人数分、プラス一人分を切り分けます。「それはだれの分か?」と聞かれれば「それは神様の分だ」と答えるのです。また、予期しないお客さんがやってきた時にも、神様の分を分けることができます。インマヌエルの主は、このように見えない客となって私たちと共にいてくださいます。

 今年もコロナ感染に脅かされた1年でありましたが、私たちのこの間にいつも神様の分があることに想いを馳せつつ、主のご降誕をお迎えしたいと願っています。


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