2026年9月25日金曜日

2026年9月20日

 2026年9月20日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「赦しの杯を受けて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:10-25節

 クリスチャンには、二つの幸いが与えられています。一つは創世記の出てくる天地創造の際の幸いです。神さまは天地を創造され、そして良しとされます。私たちの世界は神さまの祝福のもとに造られている。そして私たち一人一人も神さまが良しとされる者として造られているということです。これが一つ目の幸いです。

 そしてもう一つの幸いは「赦しの幸い」です。私たちは赦された者として生きているということです。私たちは神さまの前に良くないことをします。本来、神さまの前に赦され得ない者として立っているということです。神さまの前に赦され得ない者が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって赦される。これが「赦しの幸い」です。

 イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切ります。イスカリオテのユダは祭司長たちのところにいって、イエスさまを裏切ることを話します。祭司長たちはそのことを聞いて喜び、そしてお金を渡す約束をしました。そのあとイスカリオテのユダはどのようにすれば、イエスさまを引き渡さすときをねらっていました。

 イエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切り、自分を祭司長たちに引き渡すということを知っておられます。しかしイスカリオテのユダを、イエスさまは過越の食事に招いておられるのです。そして他の弟子たちも、やはりイエスさまを裏切るのです。イエスさまがとらえられたときに、弟子たちはみんな逃げ去ってしまうのです。イエスさまは弟子たちが自分を裏切ることを知っておられたのですが、イエスさまは自分を裏切る者を招いて、最後の食事をされたのです。

 私たちはクリスチャンとして、赦しの杯を受けて生きています。神さまから「あなたの罪を赦す」という幸いを受けて生きています。そのことが、私たちを根底から支えているのです。邪な思いをもち、ずるいことをしてしまったり、人を傷つけたり、人を恨んだり、人を陥れようとしたりと、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまったりする私たちです。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちの罪を赦し、「あなたはわたしの大切な人だ」と祝福してくださいます。

 どんなときも、わたしの手を離さない方がおられます。罪深いわたしの手を離さず、わたしを導いてくださる方がおられます。この幸いに感謝をして、赦しの杯を受けて、神さまに向かって歩んでいきましょう。


2026年9月12日土曜日

2026年9月6日

 2026年9月6日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「大切なことを見つめる」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:35-44節

 わたしは昔、ケーキを家族に買って帰ってきて、二人の娘が「わたしがこのケーキが食べたい」「いやわたしもこのケーキがいい」というようなことで、いさかいを始めるというようなことがありました。まあせっかくおいしくケーキを家族で食べようと思ったわけですが、まあそれが原因でケンカになるというようなことがおこるわけですから、人間のすることというのは、なかなか大変だあと思います。大切なことはおいしくケーキを食べることであったのに、ちいさなことにこだわってケンカが起こるのです。

 律法学者たちは細かいことにこだわって、大切なことを見失ってしまうということがありました。「律法にこう書いてある」「この律法の箇所は、このように解釈をするべきだ」というようなことにこころが向いてしまっていました。ですから律法学者は「メシアはダビデの子孫から生まれなければならない」というようなことにこだわっているわけです。

 そうした細かなことが大切なのでなくて、神さまの愛が貧しいやもめに向けられているということに気がつくことが大切だろう。神さまが私たちを愛してくださり、欠けたところの多い私たちをそれでも許し、愛してくださっているということが大切だろう。貧しいやもめが、神さまを信じ、こころからの献げ物を神さまに献げようとしていることのほうが大切だろうと、イエスさまは言われるのです。

 家柄がいいとか、裕福な生活をしているとか、たくさんの知識を持っているとか、そういうことが大切なことではないと、イエスさまは言われました。大切なことは、神さまが私たちを愛してくださっているということなのだと、イエスさまは言われます。貧しいやもめはそのことをよく知っていました。ですからやもめは神さまに対して自分ができる精一杯の感謝を表したのでした。

 神さまはあなたを愛してくださっている。あなたがどんなに邪な思いをもつ者であったとしても、あなたが神さまにふさわしい者でなかったとしても、それでも神さまはあなたを愛してくださっている。自分のことを信じるのではなく、神さまを信じて歩みなさい。神さまは罪深いあなたを許してくださり、イエス・キリストの十字架と復活によって、あなたに永遠の命を約束してくださった。その憐れみ深い神さまの愛を信じて歩んでいきなさい。

 イエス・キリストの招きにこたえて、神さまを信じて歩んでいきましょう。


2026年9月4日金曜日

2026年8月30日

 2026年8月30日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「あなたは、神の国から遠くない」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:28-34節

 アメリカの会衆派の宣教師によって建てられた神戸女学院の教育の基盤となる標語は「愛神愛隣」です。「みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています。なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です」(松澤員子元院長・元学長)。

 律法学者はイエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問をしました。それに対してイエスさまは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と答えました。そして、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えました。

 イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまはこの第一の掟と第二の掟は切り離すことができないのだということを言われたわけです。「愛神愛隣」ということはキリスト教において大きな道しるべの規範です。イエスさまがそのように生きられ、そして多くのクリスチャンがそのことを心にしっかりと受けとめて歩んでいます。

 イエスさまは一人の律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。微妙な言葉です。遠くないけど、着いたわけでもない。ちょうどわたしのカーナビの「目的地周辺に到着いたしました。右です」というような響きです。もうあなたは神さまのことをよく知っている。神さまの祝福はあなたに届いている。あとはあなたがそれを受け入れるかどうかだと、イエスさまは言っておられるのです。

 信仰というのは理解をし、そして生きるということです。クリスチャンになったらすべての迷いがなくなるというわけではありません。いろいろな迷いや信仰的な挫折があります。わたしは上手に生きることも、正しく生きることもできません。しかしわたしは神さまを信じて、確かに生きることができます。

 「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスさまの教えを知り、私たちはイエスさまと共に生きます。イエスさまが私たちに先立ってくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。イエスさまの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。