2018年1月2日火曜日

2017年12月17日

2017年12月17日 待降節第3主日(アドベント)礼拝説教要旨
   「罪を許すという宣言」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 7:36~50節
 イエスはシモンというファリサイ派の律法学者のもとに招待されました。「食事の席につく」という表現は珍しい表現であり情景です。ところがそこに「罪深い女性」がいたのです。彼女は社会の歪みの中にある被害者の一人なのですが、その非難は集中するのです。その彼女がシモンの家に入ってきて、泣きながら自分の髪でイエスの足の汚れを拭い、イエスの足に接吻し香油を塗ったのです。私たちは驚きますが、さらに驚くことはファリサイ派の家に入ったということです。彼女は自分の存在の全てをイエスにより頼んでいると云えます。
 一方それを見たシモンは、それが何者か見抜けるだろうと心の中で思います。イエスは見抜いています。このファリサイ派シモンが自分の罪に気付かずに神の前に傲慢な人間であることを見抜き、借金を帳消しにしてもらったたとえ話をして、自分の罪を知った人間が神の愛に応答できるのだということを示します。ファリサイ派シモンはイエスを招きましたが、その態度は無礼だったのです。イエスはシモンの接待とこの女性の態度を比べて47節の言葉を語ります。イエスが示したのは、神の愛と出会った者は、そして神の赦しを知った者は、愛に生きるのだというのです。この箇所を間違って解釈すると「神に赦してほしければ、多く愛しなさい」と受け取ってしまいますが、それでは倫理であり道徳です。信仰とはイエスと出会いながら生きることなのです。
 罪深い女性と呼ばれ続けてきた彼女は、イエス以外に自分を救う者がいないという確信を持ったのだと思います。その確信があったからこそ、彼女は神の愛と出会うことが出来たのです。彼女が全てを捨てて、全てから解放されてシモンの家に来て、ベールを捨てて素顔のままでイエスに仕えたということの背景はこれ以上考えられません。神が赦すと云うのですから、だれも責めることが出来る人はいません。だから「安心して行きなさい」とイエスは私たちに語りかけておられます。

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