2018年3月6日火曜日

2018年2月18日

2018年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神殿で献げられる」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 2:25~38節
 シメオンとアンナという2人の人物が登場します。シメオンというのは「聞き入れられる」という意味です。同様のことはアンナにも言えます。2人を支えてきた願いは、それはイエスを拝することによってかなえられたということです。しかし、何故赤ちゃんイエスに出会ったことがそんなに重要なのでしょうか。もう一つ不思議なことはシメオンは赤ちゃんイエスを祝福してから、マリアに対して不穏なことを伝えているのです(34~35節)。即ち「倒されたり、立ち上がらせたりする」とは、戦いがあるということでしょう。救い主の登場とこの悲劇な歌は矛盾しているように見えますが、決して矛盾していないとシメオンは云います。救いというのは、たとえ私たちの人生の絶頂の時に訪れるのではなく、困惑し、混乱し、恐れ悲しんでいる時に訪れるのです。
 むしろ、順風満帆の時は神の業を発見することが出来ないのです。知らずして自分の力を過信するようになり、何事も自分の魅力と能力でやり遂げてしまうと考えているのです。ところが絶頂期とは反対に、もう終わりだという時に神の働きを救いとして経験します。共にいて下さっているイエス・キリストと出会うのです。実はこのシメオンの言葉は十字架の預言です。キリストが来たことは喜びであり同時に十字架の死が預言されているのです。
では何故2人は喜んだのでしょうか。それは29節からのシメオンの歌「主よ今こそ(ヌンクデミタス)」と呼ばれ、世々の教会で愛唱されてきたのです。幼子の中にシメオンが見たものは何かと云えば、神の意志であり、十字架についてまで人間を救済するのだという神の強い決意、云いかえれば、自らを悲惨の極みに赴くという生き方、神の救いを人々に啓示するという神の愛を見たのです。シメオンとアンナは「今、この時に神の愛は自分に向けられている」それが「主よ今こそ」の意味に他なりません。

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