2019年4月15日月曜日

2019年4月7日

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「追い返し投げ捨てる」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 20:9~19節
 イースターを目前に控え、レントの期間も残り少なくなってきました。この時にあって、聖書日課では「ブドウ園農夫のたとえ」とされる箇所が挙げられていました。この物語ではマタイによる福音書とマルコによる福音書でも語られており、ルカによる福音書と同じようにイエスの神殿での出来事である「宮清め」の後の部分に位置づけられています。このたとえ話を読んで、私たちが生きる世界と対比することもできますが、「宮清め」の記事に続いて書かれていることを踏まえると、当時の神殿が祭司長たちによって私物化されていた状況をイエスが批判したことが想像できます。19節でも、この話を聞いて律法学者や祭司長たちが腹を立てている様子が伺えます。マルコやマタイの記述を見ても、このたとえ話が律法学者など特定の人たちに向けて語られたとされていますので、権力者に向けた批判としてこのたとえ話は伝承されていたようです。
 しかしルカによる福音書は、他の福音書とは明らかに書き変えている部分があります。この物語は祭司長など一部の人に向けた話ではなく、民衆に向けて「見つめながら、じっと注視しながら(17節)」語ったとしているのです。初めは僕を侮辱するだけだった農夫は、次第に主人の一人の子どもを殺すほどにエスカレートしたことを語ります。ここにはイエスの物語から少し時間がたって、ルカによる福音書が書かれた当時に、書かれているたとえ話を自分のこととして聞くことの出来ない読者を想定してのことなのかもしれません。急速な変化を迎えている今日の社会では、今までの文脈では理解できないような事柄が起きています。ヘイトスピーチや新元号の発表に伴い注目される天皇制、すべての人に悪い形として私たちに迫ってくるものではないのかもしれませんが、様々な事柄が起きています。自分のこととしてどれほど受け取ることができているのでしょうか。
 そしてイエスは「家を建てる者が捨てた石が隅の親石となる」と語るのです。捨てられるような石こそが一番大切なのだと語るのです。私たちは聖書のたとえ話を読んでも、どこかただの物語としてとらえているかもしれません。しかし、イエスは私たちをじっと見ながらこのたとえ話を語られるのです。私たちが忙しさの中で捨ててしまっている物や事は何でしょうか。

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