2016年4月11日月曜日

2016年3月27日

2016年3月27日 イースター礼拝 説教要旨
    「主が復活されたのだから恐ることはない」宇野稔牧師
    (マタイによる福音書28章1〜10節)


 主の復活の記事はマタイは女性の弟子が「墓を見に行った」と書き出しています。律法によって安息日には礼拝以外のことは何もできないので、安息日が終わるや否や「墓を見に行った」のだと記しているのです。
 この行動は分かる気がします。深い思いと愛情をもっていた相手が突然の出来事で奪われた時、私たちは何もできないと分かっていても無駄であっても、その近くにいたいと考えるのではないでしょうか。女性の弟子たちは、死を納得していなかったとも言えるでしょう。
 一方男の弟子たちは、行動を起こしていません。彼らは「イエスの仲間として逮捕され処罰される」ことを恐れていたのです。女性の弟子たちは、イエスに従う時は文字通り自分の全てを捨てなければならなかったのです。男子の弟子は帰るところがあったけど、当時の社会状況を考えると女性の弟子はなかったのです。イエス・キリストが全てでしたので恐れなどなかったので、イエスの墓を見に行ったのです。
 「すると」そこに神の出来事が起こったというのです。即ち、神がいて下さったのです。その出来事の前に番兵たちは恐れのあまり死人のようになってしまいます。ここに逆転が起こるのです。権力と武力をもった強い若者が「死人」のようになり、イエスを思う気持ち以外に何ももっていない女性たちが命の告知を受け取るのです(5〜6節)。
 全てを失ってしまったという失意のどん底にあった女性たちに、高らかに復活が告げられるのです。「もう恐れることはない。復活したイエスがあなたと共にいるのだから」、と。
 マタイはイエス自身が女性の弟子たちに表れたのだと記しています。「おはよう」と言っていますが、「喜べ」「平安あれ」と訳されている所もあります。復活のイエスは弟子たちに出会った時「喜べ」と一言言われたのです。「私は復活し、いつもあなたと共にいる」、だから恐れることはない、喜びなさい。これこそ、私たちへの神からの復活の使信(福音)ではないでしょうか。

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