2019年5月27日月曜日

2019年5月19日

2019年5月19日 復活節第5主日礼拝説教要旨
  「『しもべ』ではなく」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 15:12~17節
 ここでイエスは、弟子たちに対して「あなたたちは僕ではなく友である」と語っています。そして並んで「友のために命を捨てる」とも語っています。この言葉は有名なもののように思いますが、第二次世界大戦中の日本の姿を思い起こされました。
先日研修で訪れた沖縄で、現在建設が進められている自衛隊や米軍の基地を案内して頂き、現状や不条理を目の当たりにしました。さらに戦争中に病院として使われていた「ガマ(洞窟)」や集団自決が起こった崖などを見ました。当時、沖縄は捨て石として利用されるなかで、軍国主義の中で土地の言葉は禁止され、捕虜として捕まることは許されないこととされました。政府から言われることに、疑問を持つことは許されませんでした。戦いで死ぬことが美徳とされました。このことは、元号が代わり天皇制が色濃く報道される状況で、強く思い出される事でもあります。
 イエスが「しもべ」という言葉を使った背景には、当時の奴隷制度がありました。僕は主人に言われた仕事は、理由や目的も知らされずに従わなければいけませんでした。そこに疑問を持つことは許されなかったのです。しかしイエスは神と人との関係は、奴隷と主人のような有無を言わせない関係ではないと語るのです。軍国主義の中で疑問を持つことが許されなかった構造とよく似ています。そして「友のために命を捨てなさい」と語ります。
 「命を捨てる」この言葉は、原語のギリシャ語を見ますと様々な解釈をすることができるということがよく言われます。「捨てる」とされている単語は「置く」という意味にも使われます。「命を置く」「生活を置く」というようにも解釈することができます。現代社会に生きる私たちは、互いに顔を合わせずとも生活できるようになってきました。しかしそのような状況にあっても、他人の為に心を置くようにイエスは語っておられるのです。それは単なる命令ではありません。互いに愛し合うために、この世へと召し出されているのです。

2019年5月21日火曜日

2019年5月12日

2019年5月12日 復活節第4主日礼拝説教要旨
  「父の御心」 桝田翔希伝道師
   ヨハネによる福音書 6:34~40節
 ここ数週間は元号の変更という社会の流れの中で、メディアでは繰り返しの報道がなされました。違和感を覚える状況でありますが、この時にあって母の日の礼拝を守っています。世界各地で「母の日」は守られているようですが、様々な起源があるそうです。日本で守られている母の日はイギリスやアメリカでの出来事が元になっているそうです。アメリカで社会活動にもかかわっていた「アン」という女性がいたそうです。彼女は早くに亡くなられたのですが、そのことを偲んで生前好きだったカーネーションを持ち寄り記念会が行われたのだそうです。1900年初めごろの出来事でありました。ここから母の日が祝われるようになったのだそうです。しかし後に、この日にはカーネーションが高額で売られるようになり、アンを知る人たちは心を痛めたのだそうです。母の日は商業主義に取り込まれていきました。
 聖書日課では、「5千人の給食」の後の場面が選ばれていました。2匹の魚と5つのパンで5千人が満たされるという奇跡の後に、その群衆たちはイエスの後を追います。ここには、さらなる奇跡を見てみたいという群衆の思いを見ることができます。湖の対岸まで船でやって来た群衆に対してイエスは「命のパン」を語ります。群衆たちは見ていませんでしたが、この時イエスは湖の上を歩いて渡るという奇跡を行っていました。しかしその奇跡を語ろうとはしませんでした。5千人の給食を体験した群衆は、イエスの承認となる存在でした。しかし肉体的な満足を経験し、当時言われていた「政治的・熱狂的な救い主」を求める姿があります。当時大切にされた価値観と、神の御心は違うということをイエスは語ります。
 日本でも母の日は、商業ベースに乗っかったものがうたわれているように思います。この社会で生きる私たちは、この世的な価値観に大きく翻弄されるのも事実です。メディアで言われることをそのまま受け入れてしまう時もあります。しかしこの時にあって神の御心を知ることが大切であると語られているのです。私たちはすべての人が等しく神に命を与えられ、神の命を生きています。お互いの与えられた命を祝いながら、尊重しながら「母の日」を覚えたいと思います。

2019年5月13日月曜日

2019年5月5日

2019年5月5日 復活節第3主日礼拝説教要旨
  「この子どものように」 桜井希牧師
   マルコによる福音書 9:33~37節
イエスは受難予告の度に、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えています。しかし弟子たちはそのことを理解しておらず、自分たちの中で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と言います。弟子たちの姿は、当時イエスに敵対していたファリサイ派や律法学者たちの姿でもあります。彼らは律法解釈を根拠に人々を清い者と汚れた者、祝福される者と裁かれる者とに分断し、神の国を独占しようとしました。律法を忠実に守ることを神の国に入る要件とする彼らにとって、憐れむ神、赦す神は必要ありませんでした。一方イエスはそうして罪人とされた者たちと食卓を囲みました。「すべての人の僕になりなさい」という時の僕は食卓の給仕を意味します。食卓は命の糧を分かち合い、生きる喜びを味わう場所です。僕は独占された神の恵みをすべての人に行き渡らせることをその務めとするのです。
イエスは子どもを抱き上げ、「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言います。ユダヤ教社会において子どもは、律法を守るという点から見れば未熟で不完全な者です。子どもは律法を知らないために、この世の汚れや罪に対して無防備だと見なされていました。だからこそ律法の専門家は子供たちが一日でも早く、一つでも多くの律法を知り、守るようにと律法教育に努めるのです。しかしイエスは幼子を教育の対象としてではなく、そのままで受け入れることを求めました。私たちは誰もがこの世に誕生する時、人生の最初に「生かされる」という体験を経ています。幼子はありのままで、見返りを求めない、無償の愛を受けて生きています。そのような愛によって救われた私たちは、今度はその愛をもって人に仕える生き方が求められています。すべての人がありのままに生きることのできる場所をつくっていきたいと思います。


2019年5月6日月曜日

2019年4月28日

2019年4月28日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「イエスは生きておられる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 24:13~35節
 関係性が希薄になってきた現代社会は、無縁社会とも言われるようになりました。そんな折、先日送られてきた教団新報にイースターの説教が一面に載っていました。見るとよくお世話になっている方の原稿でしたので読んでみますと「関係性の喪失は死を意味する」との言葉に考えさせられました。「復活節第二主日」と「労働聖日」の日にあって、私たちは聖書に何を問いかけられているのでしょうか。
 物語はイエスの死に落胆した二人が歩いている所から始まります。そこにイエスが臨みますが、この二人はイエスだと気付きませんでした。イエスは「何を話しているのか」と問います。この二人はイエスがどのような人で、何があったか、を語りますが全てが過去形で語られています。この物語では「イエスは生きておられる」を中心として展開しています。過去のことばかり話していた二人は、イエスに語られ食事を共にする中で、イエスに気づき「時を移さず」にエルサレムへと喜びの中で出発します。今を生きる人へと変えられていったのです。イエスの死を前に多くの人が自分から逃げ去りました。イエスとの関係性を絶ちました。しかしそれでもイエスから歩み寄り、関係性をあらたに作られる姿があります。
 大阪の釜ヶ崎は「寄せ場」と呼ばれ世間から差別的な扱いを未だに受けています。釜ヶ崎には労働者が多く集まる「労働センター」という施設があるのですが、先月の3月31日に移転に伴い閉鎖されることになりました。移転とは言いつつも、そこには行政による労働者排除の思想が感じられました。寄り合う場所として、人々の関係性が守られる場所としてのセンターが閉められようとしたのです。しかし、当日には多くの人が集まり、センターは閉まりませんでした。人と人の関係性という意味での命は無くならなかったのです。
 今日の社会状況の中で、関係性は複雑化し希薄化しています。今まであったものが崩れ、全く新しい関係性のあり方を模索する時なのかもしれません。しかし、人間に力がないということではないのです。イエスが私たちの間に生きておられるのです。私たち一人一人が神とのつながりの中で生き、この世に遣わされています。どんなことがあっても私たちに寄り添って歩まれるイエスがおられるということが、私たちの希望として迫っているのではないでしょうか。