2023年12月28日木曜日

2023年2月24日

 2023年12月24日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「主の平和の年がやってくる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

 わたしの出身大学の逍遥歌(学生歌のようなもの)の三番目の歌詞は、「ああ南溟なんめいの曉に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」というものです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。いまも私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。

 ヨセフとマリアは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させられます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフもマリアも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。

 「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。


2023年12月23日土曜日

2023年12月17日

 2023年12月17日 待降節第3主日礼拝説教要旨

「主の道をまっすぐに」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 1:19-28節

 アドヴェントの第三週を迎えました。ろうそくも3本たち、いよいよクリスマスが近づいてきました。アドヴェントとは、イエス・キリストのご降誕をお祝いするための備えをする期間のことです。アドヴェントは5世紀くらいに始まったと言われています。

 イエスさまの誕生の道備えをした人に、バプテスマのヨハネという人がいます。洗礼のことをバプテスマと言います。マルコによる福音書は、バプテスマのヨハネの登場で始まっています。バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めを迫りました。その姿もらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めていたというのですから、なんとなく恐いなあと思ってしまいます。でもまあ、イエスさまの前に、バプテスマのヨハネが、人々をイエスさまへと導くために、準備してくれていたわけです。イエスさまからすれば、なかなか心強いことだと思います。

 アドヴェントは、クリスマスの前の期間というのが一般的ですが、もうひとつは、キリストの再臨という意味で使われます。イエスさまが再び来られるときということです。イエスさまが再び来て下さるのを待っているということでは、私たちは救い主の誕生を待っていたユダヤの人たちと同じようなものです。長い長い間、イエスさまを待ち望んでいます。そして私たちは、終末に来られるイエスさまを待ちながら、バプテスマのヨハネのように、イエスさまの道備えをする役割を、イエスさまから託されているのです。

 ウクライナでの戦争、パレスチナでの戦争。いま世界は曲がりくねった道を歩んでいます。私たちは平和の主が歩まれたように、「主の道をまっすぐに」するために祈りたいと思います。

 また私たちの心が曲がってしまわないように、祈りたいと思います。「どうせ、どうにもならないんだ」「世の中、そういうもんなんだ」「力の強い者が、力でこの世を治めるのが、この世の中なんだ」。そうした思いをもってしまうことが、私たちにはあります。しかし私たちの後には、イエス・キリストがおられます。イエス・キリストは、自らをむなしくし、私たちの罪のために、十字架についてくださいました。力でこの世をねじ伏せるのではなく、神さまの愛で、私たちを救ってくださったイエス・キリストがおられます。

 愛の主が、私たちに教えてくださったように、私たちは神さまの愛を信じ、求め、「主の道をまっすぐに」と祈りつつ、歩んでいきましょう。

 

2023年12月15日金曜日

2023年12月10日

 2023年12月10日 待降節第2主日礼拝説教要旨

「正しい人ヨセフ、恐れなくてよい」 石川立牧師

 マタイによる福音書 1:18-25節

 今年10月、中東で再び戦争が始まりました。一般に戦争では各陣営は自らの<正義>によって戦いを正当化します。人間の<正義>は人を救うどころか、戦いを激化させ、シャローム(平安)を壊すものにもなります。旧約聖書では、神は<義>の神であり、<正しい>のは神のみです。<正しい>人はひとりもいません。聖書に<正しい人>という表現はありますが、それは日常的な言葉であり、せいぜい、律法をそつなく守り、周囲の評判も上々の人のことを指すにすぎません。

 アドベントにふさわしい聖書箇所の一つ、マタイ福音書1章18-25節によれば、ヨセフは<正しい人>だったので、ヨセフによることなく身ごもったマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した、とあります。このような場合、ヨセフが<正しい人>であるならば、本来、律法に従って、マリアを石打ちの刑によって罰しなければなりません。ところが彼はマリアを罰せず、事態を隠そうとしました。これは律法に背くことなので、彼は逆に自分が罰せられるのではないかと恐れました。ヨセフが眠りにつくと、夢の中に主の天使が現れ言いました。「ヨセフ、恐れなくてよい。マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」。この言葉によってヨセフは自らの<正しさ>から解かれ、癒されることになります。ヨセフは眠りからさめると、とくに無理することもなく主の天使の言葉どおりマリアを妻として迎え入れることができました。

 主の天使の言葉のあとに示されるインマヌエルの名は「神は私たちと共におられる」という意味です。イエスという名は救いを表しますが、インマヌエルの名によって、イエスが、先頭に立って人々を導く英雄というよりも、私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださる救い主であることが示されました。イエスは救い・愛そのものです。旧約の時代、<義>の神は裁く神、罰する神として恐れられてきました。ところが、私たちと共にいてくださる御子のご降誕により、人間の<正しさ>はむなしいものとされ、神様の<義>が実は、裁きではなく救いであり、罰ではなく愛であるということが明らかになったのです。

 私たちは人間の<正義>を主張するのではなく、ヨセフのように、この世に誕生してくださった<義>なる神の御子を、あわれみの救い主として、神の愛として、シャローム(平安)の主としてお迎えしたいものです。


2023年12月9日土曜日

2023年12月3日

 2023年12月3日 待降節第1主日礼拝説教要旨

「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 7:25-31節

 クリスマスによく読まれる本に、トルーマン・カポーティの『あるクリスマス』(文藝春秋)という本があります。トルーマン・カポーティがお父さんと過ごした最初で最後のクリスマスについて書かれてある本です。トルーマン・カポーティの大親友のミス・スック・フォークは、なんでも「主の御こころ」と考えているような人でした。爪先をどこかにぶっつけて痛い思いをするのも、主の御こころ。馬から落ちるのも、主の御こころ。大きな魚を釣り上げるのも、主のみこころ。なんでも「主の御こころ」というのは、まあばかげているような気もいたします。しかし『あるクリスマス』に出てくるミス・スック・フォークの信仰が、わたしはとても好きで、「主の御こころ」がなされていくのだというような信仰を、わたし自身ももっています。

 ヨハネによる福音書は、イエスさまは神さまの御子として、私たちの世に来てくださり、私たちに永遠の命へと導いてくださる方であることを、私たちに告げています。そして神さまから離れて生きていこうとする罪深い、神さまの前にふさわしくない私たちがいること。そうした罪深い私たちのために、イエスさまが十字架によって私たちをあがなってくださる。そうした意味での救い主メシアが、イエスさまであること。そしてそれは神さまのご計画であり、神さまの御こころであることを告げています。

 「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という群衆の言葉は、イエスさまに対しての誉め言葉であると同時に、イエスさまに対する誤解も含んでいる言葉であるような気がします。人々はやはりこの世的な意味でのすばらしさを、イエスさまに対して求めているということです。それは預言者的な格好の良さというようなものであるような気がいたします。しかしイエスさまは悪を裁く預言者として、私たちの世に来られたのではありません。私たちを罪からあがなう救い主メシアとして、私たちの世に来てくださったのです。

 アドヴェントに入りました。救い主イエス・キリストが、私たちの世にきてくださいます。私たちのすべてを知った上で、私たちを赦してくださり、私たちを救ってくださる救い主イエス・キリストが私たちにところにきてくださいます。イエスさまを迎える準備をしながら、私たちのこころも整えていきたいと思います。私たちを救ってくださったイエスさまに感謝しつつ、この喜びを隣人に届けていきたいと思います。


2023年12月2日土曜日

2023年11月26日

 2023年11月26日 降誕前第5主日礼拝説教要旨

「ウソはやめた方が良い」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:33-40節

 イタリアのローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会には、「真実の口」という石の彫刻があります。真実の口に手を入れると、ウソをついている人はその手首が切り落とされてしまうという伝説があるそうです。映画『ローマの休日』に出てきます。

 今日の説教題は「ウソはやめた方が良い」という説教題をつけました。わたしがここでいう「ウソ」というのは、真理と向き合わない姿勢というようなことです。いいかげんに生きている時につく、いいかげんな「ウソ」というのがあります。自分の立場を守るためにウソをついたり、自分の利益のためにウソをついたりする、そうしたウソのことです。イエスさまの時代も、支配者のなかで、そうした雰囲気が拡がっていました。

 ピラトは「真理とは何か」と言いました。ピラトの中では「真理」とか「正しさ」とかそういうものはあまり意味のないものになっていたのです。ですから「真理とは何か」というようなつぶやきが出てくるわけです。「真理とは何か。そんなものあるわけないだろう」。世の中は混とんとして、みんな好き勝手に生きている。世の中にはウソがいっぱいで、みんな気軽にウソを言う。良き社会をつくりたいとか、良い人として生きたいというような思いが、社会全体の中で失せてしまっている。

 そうした社会の中にあって、しかしイエスさまは言われます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスさまは真理について証をされます。神さまの御子として、神さまのみ旨を行われます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちを良きものを備えてくださる。神さまがこの世を治めておられる。私たちが迷子になり、恥ずかしいことをしてしまうことがあったとしても、神さまは私たちを探し出してくださり、神さまのところに連れ戻してくださる。私たちの勝手な思いではなく、神さまの御心が実現していく。

 実りの秋。私たちは私たちの神さまが多くの実りをもたらしてくださいました。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、そして私たちをよき人として祝福してくださいます。神さまを信じ、イエスさまに導かれて歩みたいと思います。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。真理に属する者として、御声を聞きつつ歩んでいきましょう。

 

2023年11月23日木曜日

2023年11月19日

 2023年11月19日 降誕前第6主日礼拝説教要旨

「おまえのものはおれのもの!」 川江友二牧師

  出エジプト記 3:7-14 節

 「おまえのものはおれのもの!」は、ドラえもんに出てくるジャイアンのセリフ。のび太が失くしたランドセルをジャイアンが必死になって取り戻してくれた理由として発したのが、この言葉でした。

 今日の聖書箇所で神は、その名前をこう打ち明けています。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。また、この後の6章では「わたしは主(ヤハウェ)である」と言っています。この語源を考えると「わたしは命、生きる者、生かす者」と理解ができます。古代世界において、名前はその人の存在全体や生き方、つまりその人が何者であるかという本質を表すものだと考えられていました。

 では、その本質は具体的にどのように示されるのでしょうか。神は7節でこう語っています。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と。ここに神が人と共にあろうとする在り方、人を生かす命の神である在り方が示されています。

 イスラエルのガザへの攻撃は激化の一途をたどり、パレスチナの死者は12,000人を超え、その内子どもの死者は4,100人以上に上っています。現地の人々のうめき、叫びを私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。

 このような理不尽な死や苦しみに直面するとき、思い出す本があります。それはアウシュビッツを生き抜いたエリ・ヴィーゼルが記した『夜』です。子どもが絞首刑にあって苦しみ続け、「神さまはどこだ」と叫ぶ問いに、神は共に絞首台にぶら下がっておられるという内なる声を聞いたと言います。

 それは、今日モーセに語る神と同じです。7節の言葉とは、まさに人々の苦しみ、痛みを神ご自身が味わい尽くしたことを意味しているからです。そして苦しみの中で信じられない民に、神は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」と述べます。そうだとすれば、現在も神はパレスチナやイスラエルで、共に死の苦しみを何度も味わっておられるのではないでしょうか。

 この一見すると無力な神を信頼し、絶望を分かち合うことから、希望は見出されていくことを聖書は示してくれています。そして、そこに神を見つけたらならば、私たちは黙っていてはならないのでしょう。わたしたちの信じる神は、私たちの痛みを知る神であり、泊まる場所なく生まれ、力なく十字架にかけられたイエスさまであるからです。

 「あなたの痛みはわたしの痛みだ。だからこそ、わたしはあなたの命であり、神なのだ。」その声に耳を傾け、私たち自身も命に寄り添い、命のために声を挙げていくものでありたいと心から願うのです。


2023年11月18日土曜日

2023年11月12日

 2023年11月12日 降誕前第7主日礼拝説教要旨

「確かな方につながって生きる」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 8:51-59節

 宮沢賢治の「雨にも負けず」という詩は、次のような言葉ではじまります。「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち 欲はなく 決していからず いつも静かに笑っている」。病床の宮沢賢治の望んだものは、「丈夫な体」と「健やかなこころ」なのでしょう。この世にいる間は、それはとても大切なものだと思えます。

 私たちの救い主であるイエスさまは、私たちを永遠のいのちを受け継ぐ者としてくださいました。イエスさまにつながって生きる時、私たちは神さまの恵みを受けて、永遠のいのちを受け継ぐ者としての祝福に預かることができるのです。わたしはこのことは、私たちクリスチャンがこの世で生きる上で、とても大切な祝福であると思っています。

 私たちは人生のなかで、思わぬ出来事を経験することがあります。病気になることもありますし、神さまのところに愛する人を送られるということを経験することもあります。職場で大きな失敗をして、非難をされるような出来事を経験することもあります。自分ではどうしようもない出来事を前にして、こころが折れてしまうような時もあります。このことを頼りに生きていこうと思っていたものが、意外にもろく崩れ去ることを経験することもあります。確かなものであると思っていたのに、確かなものではないことを知り、大きな戸惑いのなかに投げ込まれてしまう時もあります。

 しかしそうしたなかにあって、私たちには救い主イエス・キリストがおられます。イエスさまは私たちに「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」と言われ、私たちがイエスさまにつながることによって、神さまから永遠の命を受け継ぐ者とされることを教えてくださいました。

 イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われました。マルコによる福音書13章31節の御言葉です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。

 私たちは確かな方につながって生きようと思います。神さまの御子イエス・キリストにつながり、イエスさまを頼りにして歩んでいきたいと思います。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。どんなときも、私たちを守り、導き、祝福してくださる確かな方がおられます。イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2023年11月11日土曜日

2023年11月5日

 2023年11月5日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「私たちの道を照らす光」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 3:13-21節

 今日は召天者記念礼拝です。ご家族の皆様ととともに、天に召された方々を覚えて礼拝を守ります。

 ユダヤ人でファリサイ派のニコデモという議員が、イエスさまのところを尋ねてきます。ファリサイ派の人たちの多くは、イエスさまと考えが違って、論争をしかけてくるということがありました。しかしニコデモはイエスさまの教えが気になって、イエスさまのところに尋ねてきました。

 神さまは、神さまの独り子であるイエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。イエスさまを信じることによって、人は永遠の命を得ることができる。神さまは私たちを裁くのではなく、私たちを救うために、御子イエスさまを、私たちの世に遣わしてくださいました。

 神さまの御子であるイエスさまのことを信じないということが、もうすでに裁きになっている。それはイエスさまが世を照らす光となって、私たちの世にきてくださった。イエスさまを信じて健やかに歩むことができるのに、イエスさまを信じないでよくないことに心を騒がせて、暗闇へと導かれていく。そのこと自体がもう裁きになっているということです。神さまに導かれて、イエスさまに導かれて、良き生き方をする。光の中を歩んでいく。それはとても幸いなことであり、とても健やかなことであるということです。

 自分自身の振る舞いを考えてみるときに、反省をさせられるときがあるわけです。自分のことだけを考えて、身勝手な振る舞いをしているうちに、いつのまにかだれも自分の周りに人がいなくなってしまっていたりするようなことになっていないか。だれからも馬鹿にされたくないと思い、力で人をやっつけているうちに、周りの人が自分から離れていっているということになっていないか。

 わたしは合理的な考え方が好きで、自分勝手なところがありますから、すぐに愛のない方へと生き方が向かっていくのではないかということが心配になることがあります。自分だけがよければそれでいいというさもしい考え方に支配をされてしまい、高慢になり、恥ずかしい人生を歩んでいながら、そのことに自分で気がつかないというようなことになってしまっているとしたら、まさにそれは、神さまの裁きということなのだろうと思います。

 聖書は、そうした生き方になることがないようにと、光となって私たちを照らしてくださる方がおられると、私たちに告げています。暗闇の中を歩むのではなく、光の中を歩みなさいと、私たちを照らしてくださる方がおられると、聖書は私たちに告げています。


2023年11月3日金曜日

2023年10月29日

 2023 年 10 月 29 日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

「創造の時の円舞(ロンド)」 山本有紀牧師

  創世記 1:1-5,24-31 節

 礼拝の暦はこの主日から新しい季節に入る。全部で 9 週ある「降誕前」節の後半4 週は「待降節」。救い主が幼子の姿で地上に降る、クリスマスまでを指折り数える。そして前半の 5 週は、救い主の到来という「約束」の成就に至る、神様と人間との間に紡がれた「契約の物語」を、世のはじめから順に辿る。今年の場合は、「天地創造の祝福」>「アダムとエヴァへの約束」>「アブラハムとサラへの約束」>「モーセと出エジプトのイスラエルへの約束」、そして、最後の 5 週目は(毎年必ず)、救いの約束の最終目的である「神の国の到来」を覚えて「再臨の、栄光に輝くキリスト」に関わる箇所を読む(再臨の希望の内に、「最初の到来」を待つ季節へ)。農耕のサイクルでは、収穫の祭りの季節に、私たちは礼拝生活のサイクルにおいても、神が耕し、蒔き、守り育ててその収穫を心待ちにされる、この「被造世界」とこれを保全する務めを委ねられた私たちの人生と、社会全体の歴史がもたらす「実り」の在り様について、信仰の先達が辿った道を記念しつつ、深く吟味するように導かれている。

 イスラエルの民がこの「天地創造物語」を生み出したのは、民族にとって最も暗い時代=バビロニア捕囚の時代だった。国も王家も滅び、礼拝を捧げる神殿もなく、モーセが授かったという十戒の石の板も奪われた。彼らが「神の民」であることの印が消失した時代、かつて祭司であった人たちが、この創造物語を生み出した。そこには、イスラエルの神がこの世を「良いもの」として祝福し、美しく整え、その秩序の保全者として自分たちを選んだという信仰が示される。だから捕囚の民はこの物語に生かされて、天地創造の秩序、即ち安息日を命にかえて守り、被造世界のサイクル、蒔き、育て刈り入れる祝福のサイクル、この世の被造物すべてが参与する円舞(ロンド)を、自らの「神の民」としての再生の希望を胸に、躍り続けたのだった。

 今も、この円舞は続く。私たちの人生も、社会の歴史も、自然のリズムもすべてがこの円舞の内にある、と天地創造神話は物語る。成功だけでなく、失敗も裏切りも罪も背徳もこのサイクル内で繰り返される。飢饉も不作も洪水も疫病も地震も、あらゆる自然災害も、そして差別や不正義、戦争も。秋を収穫の感謝として迎えることのできない場所も人も毎年存在する。それでも私たちには、この被造世界を「良い」ものとして保全する務めが課せられている。世のはじめの救い=祝福の約束を、この年も私たちはそのままに守り、いのちのサイクルの円舞を続けていかねばならない。その務めを共に担う仲間でありたい。

2023年10月26日木曜日

2023年10月22日

 2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「天を仰ぎつつ」 小﨑眞牧師

  ルカによる福音書 19:11-27節

 オープンチャペルにお招き頂きありがとうございます。今朝の聖書日課で与えられている「『ムナ』のたとえ」の話は、自己都合に閉ざしている現代の私たちに対して洞察に富む示唆を与えます。マタイにも「『タラントン』のたとえ」という似た話があります。理解を深めるために、今日の日本社会の貨幣価値に転換すると1ムナは約80万円となり、1タラントンは4800万円です。ゆえにルカは「ごく小さなものにも忠実」と語ります。また、マタイでは異なる額が託され、ルカは全員に同額でした。

 良い僕は、「『あなたの1ムナ』が儲けました、稼ぎました」と、僕自身の資質や判断から解放された視座(ムナが主語、同額の委託)を提供します。さらに「ごく小さな事」への僕の忠実さ(信頼、信仰と同様の言葉)が評価されます。一方、悪い僕は、自分自身の判断や思い(恐怖や不安)が優先され、何もしていません。「主人が厳しい方」との自己判断に縛られ、身動きが取れない状況(自己保身)へ陥っています。

 さて、私たちはこの物語から何を学ぶのでしょう。「1ムナを布に包んでいる僕」は私たち一人ひとりの姿であるのかもしれません。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである(カール・ヤスパース)」との警鐘に耳を傾ける必要があるのかもしれません。教会を教会の上に築くのではなく、教会を外へと委ねることが期待されています。その意味でのオープンチャーチでありたいものです。

 ある哲学者は、私たちを他者から切り離され独立した人間存在(Human being)として捉えるのではなく、関わりの中で変容・変質し続けて「人間になる(Human becoming)」と表現します。さらに他者と共に関わり相互に変容・変質する意味を込めて、Coとの接頭語をつけた「Human Co-becoming」という人間のあり方を提案しています(中島隆博『人の資本主義』参照)。

 私たちは共に変わることのできる存在です。教会自体を「包んだ布(自己都合)」の中から解放していくことが期待されています。私たちの判断基準に縛れ、自身の世界にのみ心を閉ざすのではなく、むしろ、天を仰ぎ、主へと拓かれたいものです。その只中にこそ、「Human Co-becoming」さらには「Human Co-creating」という新たな人間の創造(主の御業)が現出します。絶望と思える夜の帳や雑踏に紛れた寂寥感や孤独の只中にこそ働く「主の力」を確信する歩みへと呼び出されたく思います。


2023年10月20日金曜日

2023年10月15日

 2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「見えないけど、感じる神さまの愛」 小笠原純牧師

ルカによる福音書 17:20-37節

 『絶対音感』という本で有名な最相葉月は、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか。それでも信じるのはなぜかということ】。

 イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけです。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。

 世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。

 しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。

 信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしは、それはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。

 ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。


2023年10月13日金曜日

2023年10月8日

 2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 17:1-10節

 いろいろな組織が不祥事を起こし、謝罪会見を行います。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。

 今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕という個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。

 私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。しかし自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われます。

 また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。

 そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。


2023年10月7日土曜日

2023年10月1日

 2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「やっぱり世のため人のため」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 16:19-31節

 「僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」」(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。

 死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることになります。

 ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には「慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る」という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。

 『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、ハロルド・S・クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。「恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」」(P3)。わたしも、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。

 小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。

 世の人から笑われるかも知れませんが、私たちクリスチャンは「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きていきましょう。



 

2023年9月29日金曜日

2023年9月24日

 2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「〈怒り〉を力に」 堀江有里牧師

  マルコによる福音書 11: 15-19節

 いまでは治療方法や薬が開発されましたが、ほんの数十年前まで「死に至る病」であったエイズ。性感染も経路であったため、多くの偏見と差別をもたらしました。米国の市民運動に「アクトアップ」(力を解放するエイズ連合)の記録映画『怒りを力に』に収められた「教会を止めろ」と名付けられた抗議行動(1989年12月)は、ニューヨークの聖パトリック大聖堂での印象深いコントラストを描き出しています。一方では礼拝堂の通路になだれこみ、無言のうちに死体を模したダイ・インで抗議する人びと。これは仲間たちの命が奪われてゆく現実を示す行為でした。他方で粛々と進むミサ。気にもかけず聖書が朗読され、会衆は聖歌をうたう。そして唐突に繰り返される「わたしたちを殺すのをやめろ!」という抗議行動参加者の叫びは、死にゆく人びとを放置し、無関心のなかで儀式を守りつづける会衆への怒りと嘆きでした。この行動は、HIV感染予防の性教育を敵視する教会への、そして「エイズは同性愛者への天罰だ」と主張してやまない人びとの思想を支えるキリスト教への抗議でした。

 本日の聖書箇所は「宮潔め」として解釈されてきました。神殿に到着したイエスは両替人や鳩を売る人たちの場をひっくり返します。周囲は騒然としたはずです。イエスは平穏な神殿を取り戻したかったのでしょうか。しかし、この人たちが追い出されてしまったら神殿は機能しません。供物も献金もできないからです。だとしたら、イエスがおこなったのは神殿のあり方そのものの否定、腐敗した価値観への根源的な問いであったはずです。だからこそ、イエス殺害の計画がもちあがったわけです。

 引用されているイザヤ書は「すべての国民の祈りの家」と翻訳されています。もとのイザヤ書では単数で書かれていて、「イスラエルの民」が意識されているわけですが、イエスはこの聖書の箇所を複数形で引用したことになっています。つまり、さまざまに境界線によって分断されている人びとを分け隔てなく一緒にいられる場として、神殿をとらえているわけです。

 まさにイエスが起こしたことは古代ユダヤ世界のなかでのノイズであり、秩序を乱す行為です。宗教の権威によってもたらされる人びとの分断への問いかけであったのではないでしょうか。イエスの起こしたノイズを、そしてその根底にある〈怒り〉の出来事をわたしたちはどのように受け止めることができるのか、考えつつ、歩み続けたいと思います。に出会う歩みへと招かれたい。


2023年9月22日金曜日

2023年9月17日

 2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「抱きしめられたい夜もある」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 15:11-32節

 30、40代の女性に人気のあるコラムニストのジェーン・スーは、女性はみな自分のなかに「小さな女の子」をもっているのだと言います。そうしたことはわたしにも思いあたります。ただただ切なかったり、悔しかったり、いやだったりする気持ちを、大人であるわたしは表面上は隠すわけですが、でもわたしの中の「小さな男の子」は、「いやだ。悲しい。くやしい」と泣き声をあげるのです。

 「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。レンブラントの絵に、「放蕩息子の帰還」という絵がありますが、この聖書の箇所が描かれています。ひざを折って悔い改めている放蕩息子の肩に、お父さんが手を置いて、憐れみ深く抱きしめている絵です。

 傷つき、疲れ果てて、倒れそうなとき、だれしも「抱きしめられたい」と思います。放蕩息子はお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。そしてまた放蕩息子のお兄さんも、お父さんに抱きしめてもらいたかったのです。父のもとを離れず、父のそばにいて、一生懸命に父のもとで働いていた。父の言いつけをすべて守るような人だったので、父もあまり気にしていなかったわけですが、放蕩息子のお兄さんはお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。しかし放蕩息子のお兄さんは、そのことをお父さんに言うことができず、逆にお父さんに対して、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と叫ぶのです。小さな男の子のように。

 人はだれしも「抱きしめられたい夜がある」のです。放蕩息子もそうですし、また放蕩息子のお兄さんもそうなのです。そして私たちにも抱きしめられたい夜があるのです。人に傷つけられたり、また人を傷つけてしまったり。人に辛くあたったり、人から辛くあたられたり。最愛の人を天に送ったり。どうしようもなくさみしくて、悲しくて、だれかに抱きしめられたいと思う夜があるのです。

 そして私たちには、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられるのです。身勝手な放蕩息子を許して、抱きしめたように、私たちの悲しみや辛さに寄り添ってくださり、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられます。悲しみの中にある私たち、さみしさの中にある私たちの傍らにいてくださり、私たちを慰め、支えてくださる神さまがおられます。安心して、神さまの祝福のなか歩んでいきましょう。


2023年9月15日金曜日

2023年9月10日

 2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「だめな人だけど、でもいいよそれで」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:25-35節

 アブサロムはダビデ王の子どもですが、ダビデ王に反旗をひるがえし、ダビデ王を殺そうとしました。アブサロムは結局、ダビデ王の兵に負けて、逃げる途中に木に宙吊りになり、ダビデ王の部下のヨアブによって殺されます。アブサロムが死んだということを聞いて、ダビデ王は嘆くのです。自分を殺そうとした息子であるわけですが、それでもダビデ王はアブサロムのことを愛さずにはいられないのです。

 このダビデ王のアブサロムに対する気持ちは、私たちに対する神さまの気持ちに似ています。神さまに愛されるのに私たちはふさわしくないわけですが、しかし神さまは私たちを愛してくださっています。神さまはだめな私たちを愛さずにはいられないのです。

 イエスさまは「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」というたとえの中で、なかなかきびしいことを言われます。イエスさまの弟子になるためには、1)自分の十字架を背負ってついてくる。2)途中でやめない。3)自分の持ち物を捨てる。そんなことを言われると、ちょっと「わたしには無理かも」というふうに思えます。どうみても自分がこの条件を満たすことはできそうもありません。それではイエスさまのお弟子さんになることはできないのか。

 使徒パウロは「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」と言いました。人は何かできるから義とされるのではありません。何もできなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。何もできないけれども、神さまの愛と憐れみによって、私たちは罪赦され、そしてクリスチャンになるのです。この「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というのが、いわばクリスチャンになる裏口です。しかしこの裏口こそが、ある意味、表口であるのです。

 弱さや高慢さのゆえに罪を犯す私たちのために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださったのです。イエスさまは「自分の十字架を背負ってついてきなさい」「途中でやめてはだめです」「自分の持ち物を捨てて、わたしについてきなさい」と厳しいことを言われます。でも結局、イエスさまは私たちに言われます。「だめな人だけど、でもいいよそれで」「わたしのところにやってきなさい」。

 イエスさまの招きに応えましょう。イエス・キリストこそわたしの救い主と告白し、そして神さまの深い愛によって祝福され、こころ平安に歩んでいきましょう。


2023年9月9日土曜日

2023年9月3日

 2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「幸いなあなた。こちらへどうぞ。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:7-14節

 1990年代にフェミニスト経済学が登場し、経済学においても、いままでの学問体系のなかで抜け落ちていたことに対する問い直しがなされています。このカトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を訳した、高橋璃子さんは「訳者あとがき」にこう記しています。【私たちが生活できるのは、そして食事を食べられるのは、アダム・スミスのいう「自己利益の追求」のためだけではありません。家事労働があり、人とのふれあいがあり、ケアがあってはじめて、社会は機能するのです。経済人が目を背けてきた「依存」や「分配」にここで光が当てられます】(P.267)。

 イエスさまも一般的に社会で考えられていることとは違うことを言われます。人は自分の都合とか、自分の利益ということで物事を考えるということがあります。しかしイエスさまは「神さまはどう思われるかな」という視点で、物事を考えられて、そして私たちに生きる道を教えてくださいます。

 イエスさまが話された「客と招待する者への教訓」という話は、前半の話など、ちょっと処世術ぽい話で、「現代マナー講座」というような話で出てきそうな話です。ただ一般庶民と違って、メンツを重んじる人たちもいるわけです。そうした人たちにとっては、やはり上席・末席の問題はなかなか大きな問題であったのでしょう。処世術ぽい話はともかくとして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということに気をつける必要があったのだと思います。

 人がどのように見ているのかということではなく、「神さまがどのようにご覧になっておられるのか」ということを大切にしなさいと、イエスさまは言われるのです。謙虚な思いになって、いろいろなことを見直してみるということは大切なことです。私たちはついつい、この世のことだけに目がいってしまいます。しかし私たちによきものを備えてくださるのは、神さまです。イエスさまは「あなたは幸いだ。こちらにどうぞ」と、私たちに良き席を整えてくださっています。この世のことだけに目がいってしまい、上席と言われるその席に居座っていると、とんでもないことになるから、こちらにどうぞ。あなたの謙虚でやさしい振る舞いを、神さまはみておられるから、こちらにどうぞ。「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

 神さまの愛のうちを、謙虚に歩んでいきましょう。神さまは私たちを祝福し、私たちに良きものを備えてくださいます。




2023年9月2日土曜日

2023年8月27日

 2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「私たちにもサマリア人はいるのか」 金鍾圭牧師

  ルカによる福音書 10:25-37節

 イエスの「善きサマリア人のたとえ話」は、イスラエル人とサマリア人の深い対立を背景にしている。北イスラエル王国滅亡後、首都サマリアでは、アッシリアの政策による雑婚が行われた。その結果、サマリアを含む元北イスラエル王国の人々は、血統の純粋を失い、誤った信仰を歩み始めた。さらにサマリア人は、200年後バビロン捕囚から戻った南ユダヤ人たちのエルサレム神殿再建を妨害しながら敵意を表し、ユダヤ人たちもこのようなサマリア人を嫌うようになったのである。これをきっかけで、ユダヤ人はサマリア人を差別し、両者の歴史的な対立が根深く続いていた。イエスは、このたとえ話を通じて「隣人愛」の範囲を問い直しているのではないのか。

 このたとえ話は、ある律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことをきっかけに語られる。イエスと律法の専門家の問答は、律法を軸に展開される。そして「では、わたしの隣人とはだれですか」との律法の専門家の問いかけに、イエスは「善きサマリア人のたとえ話」を語り始めた。たとえ話では、襲われた人を助けたのは、ユダヤ人が憎んでいたサマリア人だ。律法を厳守していた祭司やレビ人は、襲われた人を無視して通り過ぎたことが描かれている。

 普段サマリア人を見下していたユダヤ人は、このたとえ話に衝撃を受けたに違いない。この話は、律法の専門家だけでなく、イエスの弟子たちにも向けられていると思う。ルカによる福音書9章51節を見ると、弟子たちはイエスと共にエルサレムに向かうため、サマリアを通ろうとした際に、村人に歓迎されず、別の村に行ったと記されている。この経験によって、弟子たちはサマリアに対する怒りを感じていた。イエスは、このたとえ話を通じて、目の前にいる律法の専門家のみならず、ご自身の弟子たちにも「隣人愛」の真の意味を理解させようとしたのではないかと考えられる。

 イエスは「自分側の人」だけでなく、他者や敵に対しても愛を表すべきであることを示している。イエスの十字架の死は、すべての者に対する神の慈しみ深い愛である。私たちも「隣人愛」を振り返り、自分の隣人は誰なのかを考え直す良い機会と捉えるべきなのだ。差別や偏見に囚われず、イエスの教えを実践することで、より豊かな人間関係と愛の共同体を築いて歩んでいきたい。


2023年8月26日土曜日

2023年8月20日

 2023年8月20日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「恥ずかしいことをしてしまった。」 小笠原純牧師

  マタイにによる福音書 21:18-32節

 9月1日は関東大震災から100年の日です。1923年、関東大震災のときに、朝鮮人が暴動を起こしているというデマを信じて、朝鮮人に対する虐殺事件がたくさん起こりました。今年こそ、東京都知事は「考え直して」、1923年の関東大震災で、虐殺された朝鮮人らを悼む式典への追悼文を送っていただきたいなあと思います。

 イエスさまはたとえ話をされました。二人の息子をもつ人がいて、兄の方に「今日、ぶどう園に行って働きなさい」と言いました。すると兄は「いやです」と答えます。でも後で考え直してぶどう園に行って働きました。

 イエスさまは「後で考え直す」ということは大切なことだと言われます。人間ですからそのとき機嫌が悪いというようなこともあります。また体調がすぐれないということもあるかも知れません。元気な時であれば素直に応じることができることであっても、機嫌が悪かったり、体調がすぐれなかったりすると、意固地になってしまうというようなこともあります。出かけに夫と口論になり、いやな気持ちを抱えて、人に会いに行くと、その人が言った小さな冗談が気に障って、大きな口論になるというようなことも、人間ですからあるわけです。でもあとから冷静になって考えてみると、「ああ、やっぱり自分が悪かったなあ」と思えることもあります。

 祭司長や長老たちは「後で考え直す」ことができませんでした。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて悔い改めました。しかし祭司長や長老たちは、徴税人や娼婦たちが悔い改めた様子を見ても、彼らは「後で考え直して」、洗礼者ヨハネを信じることはできませんでした。

 しかし洗礼者ヨハネの呼びかけに、徴税人や娼婦たちが答えたように、私たちもまた悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。私たちが神さまの前に誠実な歩みをしているときに、「やっぱりわたしも誠実な歩みでありたいよね」と思う人たちが増えてくるだろうと思います。そして私たちの世界も良い世界になると思います。

 イエスさまは私たちに「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と教えてくださいました。私たちは「御国がきますように」と信じて祈りたいと思います。神さまの義と平和とが満ちあふれる世界になりますようにと、信じて祈りたいと思います。よくないことやへんなこともしてしまう私たちですが、それでも「後で考え直して」、神さまの前に悔い改めて、神さまの平安のうちを歩んでいきたいと思います。


2023年8月19日土曜日

2023年8月13日

 2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「おごれる人も久しからず」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 12:35-48節

 「おごれる人も久しからず」は、平家物語の冒頭の一節です。近代外科学の開祖と言われるアンブロアズ・パレという人は、謙虚な人だったと言われています。パレが残した有名な言葉は「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」という言葉です。「よくなりましたね」「はい、先生のおかげです」「いえ、私は包帯をしただけです。あなたを治したのは神さまですよ」。そのようにパレは患者に接していたようです。

 世の終わり・終末のときに備えてちゃんとしている忠実で賢い管理者である僕は、神さまから大きな祝福を受けるわけですが、そうではなくいいかげんなことをしている不忠実な管理者は、神さまから罰せられるのです。神さまは管理者である僕にいろいろなことをまかせているわけです。ある意味信頼されているのです。だからその信頼に応えなければならないのです。

 神さまから託された管理者として、してはいけないことというのは、「下男や女中を殴ったりしてはいけない」ということです。「下男や女中を殴ったりしてはいけない」というのは、結局、「謙虚になりなさい」ということなのです。力で人を支配しようとするのは、それは神さまの目からすると、それは異常なことなのです。自分のことを考えられないくらい高いところに置くからこそ、力で人を支配することができるのです。暴力的であったり、力で人を支配しようとすることを、神さまは強く戒められ、「謙虚になりなさい」と言われるのです。

 讃美歌1編の11番の「おごらず、てらわず へりくだりて わが主のみくらと ならせたまえ」という歌詞は、なかなか印象的な歌詞です。私たちクリスチャンは、「終末を見つめて、きちんと生きる」ということが大切です。周りの人々から誉めたたえられるような生き方でなくても、神さまとの関係を正しく保って、きちんと生きるのです。私たちは罪人ですから、正しく生きることはできないかも知れません。それでもやはり神さまの前に立つ一人の罪人として、きちんと生きるのです。世の終わり・終末に、神さまの前に立つということを、心に留めて、きちんと生きるのです。できなかったことはできなかったこととして、神さまにご報告し、だめだったことはだめだったと、神さまにご報告する。そして神さまに守られ、神さまに愛されて、人生を歩むことができた幸いを、心から感謝したいと思います。

 「おごらず、てらわず へりくだりて」、クリスチャンとしての良き人生を歩みましょう。


2023年8月11日金曜日

2023年8月6日

 2023年8月6日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

 「隣人を自分のように愛しなさい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 10:25-42節

 ことしは平和聖日に、「戦争プロパガンダ展」を計画いたしました。私たちは過去の戦争を振り返りながら、自分たちが戦争に駆り出されて行くことのないようにしたいと思います。

 「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家にたずねています。隣人の定義はどうだこうだということではなく、「人は隣人になる」のだと、イエスさまは言われます。「隣人はだれか」ではなく、「隣人になる」のだ。隣人とはそういうものだ。隣にいる困っている人が隣人で、その人をあなたが助けて、その人の隣人になるのだと、イエスさまは言われました。

 私たちは「永遠の命を受け継ぐためには」「隣人とは」「困っている人たちを助けたい」「世界の平和のために」というようなことを話しながら、実際は家族のなかで、「あいつ、どうよ」というようなことを繰り返します。

 マルタはマリアの態度がいやでした。イエスさまがお家にやってきたので、マルタはイエスさまをもてなすために一生懸命に働いています。しかしマリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話を聞いています。それでマルタは「あいつ、どうよ」と思います。そしてイエスさまに「なんとか言ってください」と頼みます。

 いいことをしていると思っているときには、人は人のことを裁きがちです。「あいつ、どうよ」と思います。「わたしが一生懸命に、イエスさまのおもてなしをするために働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしがこんなに世界平和のために一生懸命に働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしが一生懸命にイエスさまの話を聞いているのに、『あいつ、どうよ』」。

 イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。マルタがそうであったように、身の回りのことでも、私たちはついつい腹を立てて、自分の心の中を憎しみまみれにしてしまうことが多いです。「あいつ、どうよ」「どうして、あの人、あんなことしているの」。心の中がついつい憎しみや怒りに支配されてしまうということがあります。しかしイエスさまは「愛しなさい」と言われました。あなたは憎しみに支配されてしまっているけれど、でも大丈夫。わたしの愛をあげるから、あなたも愛するようになりなさい。

 神さまの愛に満たされて、平和を実現する人として、隣人を愛し、神の子として歩んでいきましょう。


2023年8月4日金曜日

2023年7月30日

 2023年7月30日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

 「お調子者でごめんなさい」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 9:51-62節

 太宰治の『走れメロス』は、友人を人質において妹の結婚式に出席し、帰ってくるという話です。人生には「これをする前に、それをしておきたい」というようなことが起こるわけです。

 イエスさまの時代は世の終わり・終末ということを、みんなが身近に感じていました。あんまり悠長なことを言っている場合ではないので、「どっちにするんだ。どうするんだ」ということが激しく問われるわけです。

 イエスさまが弟子を選ばれたとき、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、どちらも「すぐに」、イエスさまについていくのです。イエスさまのお弟子さんたちは、いろいろな失敗をするわけですが、でもこの「すぐに」イエスさまについていったということは、とても良いことであったわけです。イエスさまの弟子たちは「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」とは言わないのです。

 人はどちらかというといさましい物語が好きです。「すべてを棄てて、イエスさまに従った」という物語にこころ引かれていきます。わたし自身もそうです。こころが踊るような信仰の話を聞くとうれしくなります。ですから「お家の人の介護をした人たちはだれですか」というようなことは、あまり気に留められてきませんでした。高齢化社会になって、「ケア」の大切さということが言われるようになっています。ケアというのは、家事、育児、介護、医療や看護というようなことです。

 「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った人も、まあなかなか調子の良い人であるわけです。いろいろなことを考え始めると、なかなかイエスさまに付き従うという決断をすることはできません。「イエスさまに付き従う」と言った後で、そのようにできない事情が出てくることもあるかも知れません。「すみません。従うことができませんでした」というようなこともあるかも知れません。

 先のことはよくわからないのですが、私たちは調子よく「イエスさまに従います」という思いも大切にしたいと思います。「お調子者でごめんなさい」。「すみません。ちょっとできませんでした」ということがあるかも知れません。

 私たちのことをすべて知ってくださり、そして私たちのことを愛してくださるイエスさまが、私たちを招いてくださっています。「わたしに従いなさい」との招きに応え、イエスさまにお委ねして歩んでいきたいと思います。

 

2023年7月28日金曜日

2023年7月23日

 2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

 「よき働き人として」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 8:1-3節

 恵泉女学園の創立者である河井道は、アジア・太平洋戦争中も国家に対して戦争の愚かさを語る人でした。「満州国が建国されて皆が喜んでおりますが、正と義と愛がその土台でありましょうか、剣をもって建てた国は剣をもって滅びなければなりません」。河井道はイエスさまに付き従った女性でした。

 イエスさまの弟子たち、いわゆる十二弟子と言われる人々やまたその他のお弟子さんたち、そしてマグダラのマリアや、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも、みんなイエスさまの御言葉に従って歩もうとしていました。イエスさまの御言葉によって養われていたのです。【人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる】(マタイによる福音書4章4節)と、悪魔の誘惑を、イエスさまが受けられたとき、悪魔に言われたイエスさまの御言葉のとおりです。みんなイエスさまの御言葉によって養われていました。しかしそれでも人は弱いですから、イエスさまの弟子たち、熱心な女性たちと言えども、イエスさまの御言葉から離れてしまうときがあったと思います。

 そしてみんな考えたのです、自分はどんな土地なのだろうか。わたしは道端なのではないだろうか。いやわたしは石地ではないだろうか。わたしはやっぱり茨の中ではないだろうか。御言葉の種が蒔かれても、それを成長させることができず、イエスさまの教えからすぐに離れてしまう弱い者ではないだろうか。そのように、自らの信仰の弱さを思ったのだろうと思います。そして私たちもまた、弟子たちや女性たちのように、自分たちはどんな土地なのだろうかと、自らに問いかけます。そして自分たちの心の弱さを思います。イエスさまが御言葉でもって養ってくださるのに、そのことを忘れてしまって、不安になったり、心配したり、また誘惑に負けてしまったりする、自分の弱さを思います。

 それでも私たちは自分の弱さや無力さを越えて、神さまが私たちに働いてくださり、豊かな実を結ばせてくださるということを知っています。神さまの御言葉は、私たちの弱さに関わらず、【良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結】ぶのです。どんなに私たちがだめな信仰者であったとしても、神さまはかならず私たちの地に神の国をもたらしてくださるのです。

 私たちは弱く、だめなところも多いですけれども、それでも御言葉に養われている者として、イエスさまに付き従った女性たちのように、神さまの良き働き人として歩んでいきたいと思います。


2023年7月21日金曜日

2023年7月16日

2023 年 7 月 16 日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

 「わたしの罪も赦してほしい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 7:36-50 節

ファリサイ派のシモンという人が、イエスさまを食事に招きました。この町にいた一人の罪深い女性が、イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされるということを聞いてやってきます。女性は泣いていました。そしてイエスさまの足を涙で濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻をして、もってきた香油をイエスさまの足に塗りました。その様子をみた、ファリサイ派のシモンは、「この人がもし預言者であるなら、自分に触れている女性が、どんな人か分かるはずだ。この女は罪深い女なのだから」と思います。

ファリサイ派のシモンは、「この女は罪深い女なのだから」と思いました。まあファリサイ派らしいなあと思います。ファリサイ派の人はいつも裁き人になってしまうのです。自分は正しいという位置に立って、人を裁くわけです。「この女性は罪深い女性だ」。じっさい、この女性は一般的に見て、罪深い女性だったのだと思います。そうした仕事をしていたということでしょう。しかしイエスさまはファリサイ派のシモンに、「そういう問題ではないのだ」と言われるのです。「シモン、この人は罪深いとか罪深くないとかではなく、あなたがどうであるのかということが大切なのだ」と、イエスさまはファリサイ派のシモンに問われたのでした。

私たちもすぐ人のことが気になります。「あの人は、どうだ」「この人は、こうだ」「あの人に傷つけられた」「この人に、こう言われた」。まあ私たちは人間ですから、人のことが気になるわけです。わたしも、人と比べて、自分の方が良い人間ではないだろうかと思いたい。

しかし大切なことは、イエスさまの愛のうちに、私たちがいるのだということです。イエスさまは女性に、「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。女性は、イエスさまの愛のうちに自分がいるということに、とても安心しただろうと思います。「わたしにはイエスさまがおられるんだ」と、女性は思っただろうと思います。

ファリサイ派のシモンもまた、イエスさまの愛のうちにあるのです。ですからファリサイ派のシモンは、「罪深い女なのに」と思うのではなく、「この女性の罪が赦されるなら、わたしの罪も赦してほしい」と思うことができれば良かったと、わたしは思います。

私たちもまた、イエスさまの愛のうちを歩んでいます。自らの罪深さを認めつつ、イエスさまに素直に「わたしの罪も赦してほしい」とお願いする歩みでありたいと思います。


2023年7月14日金曜日

2023年7月9日

 2023年7月9日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「説法を聞けば直ちに眠りを催し」 山下智子牧師

   使徒言行録 20:7-12節

 「説教を聞けば直ちに眠りを催し」。新島襄は若き日を振り返り、自身がそのような居眠り青年であったことを正直に告白しています。この告白は同志社が創立されて3年半ほどたった1879年5月17日、新島が京都四条で行った演説の原稿「霊魂の病」に明らかです。

 使徒言行録にもトロイアの出来事としてエウティコという名の居眠り青年が出てきます。礼拝や授業の際に眠くなるのは誰でも経験のあることでしょう。しかし青年の場合、礼拝での居眠りが命に係わる大事件へとつながりました。彼は窓に腰を下ろしてパウロの話を聞いていましたが、話が夜中まで続いたのですっかり眠り込んでしまい、アッと思った時には3階から地上に落下し、命を落としてしまいました。

 最近日本でよく聞かれる「自己責任論」ならば「居眠りするのが悪い」「そんな場所に座るとは不注意だ」と冷ややかに評され、青年は命の責任のすべてを自分で負うことが求められることでしょう。しかし、新島襄によるならば自分が人より正しい者であると思い傲慢なのは誤ったことで深刻な「霊魂の病」です。新島は自身の経験から、この病を癒す大きな力を持つキリストにより「人間の本位」を取り戻すことができると確信したといいます。

 エウティコが落下した時、パウロは青年の元に駆け付けると、彼の上にかがみこみ、抱きかかえて、「騒ぐな、まだ生きている」といいました。すると驚いたことに青年は生き返りましたが、聖書はこの奇跡中の奇跡を非常にあっさりと伝えています。

 なぜでしょうか。青年の死は、彼自身も含め、皆が彼の命に対して当たり前の注意を怠った結果のあってはならない残念な死といえます。人々は「危ないと起こさせばよかった」「室内に座れるよう詰めればよかった」、パウロは「話が長く難しすぎたのだろうか」「説教に夢中で会衆が見えてなかった」などと後悔の念に駆られていたことでしょう。

 だからこそ、「わたしは復活であり、命である」と言われたイエスが、ヤイロの娘を「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と起こされた時の様に、神が一同を深く憐れんで下さり、青年が生き返った喜びと慰めはあまりにも大きなものでした。個人としても教会としても他人事として「良かったですね」などと軽々しくはとても言えない、自分事として「ああ、命を救っていただいた」と十分な言葉も見つからないまま、深い感動と感謝の内に共に聖餐にあずかり、さらに朝まで主の深い恵みを語り合ったのです。


2023年6月30日金曜日

2023年6月25日

 2023年6月25日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

 「神さまの愛がいっぱい。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 15:1-10節

 谷川嘉浩、朱喜哲、杉谷和哉の「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」(さくら舎)という本を読みました。「『わからなさ』を抱えながら生きる方法を気鋭の哲学者たち、熱論」とあります。聖書を読んでいますと、どうもよくわからないとか、ちょっといまのわたしには信じられないというようなこともあるかと思います。わたしも長年聖書を読んでいますが、よくわからないこともあります。でも細かいところにとらわれるのではなく、よくわからない部分もあるけれども、でも全体として信じているというので良いと思います。「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」というのは、まさに信仰の場面で発揮されるような気がします。

 百匹の羊のうち、一匹を見失ってしまった。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探し回るだろう。見つけることができたら、とってもうれしいだろう。その羊を担いで家に帰り、友だちや近所の人達を呼び集めて、「見失った一匹の羊が見つかったので、一緒に喜んでください」と言うだろう。神さまも同じように、神さまのところから離れてしまった一人の人が悔い改めて、神さまのところに帰ってきたら、とってもうれしいと思う。悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも、罪人が悔い改めたということのほうが、神さまにとってはとってもうれしいことだと思う。そのようにイエスさまは言われました。

 今日の聖書の箇所には、「喜」という感じが、何度も出てきます。喜びに満ちている聖書の箇所であるわけです。イエスさまはうれしいこと出来事を、一緒に喜ぶということは大切なことなのだと、私たちに言っておられます。

 自分だけがなんか損をしているのではないかというような思いになるときがあります。そして人を裁いてみたり、不平を言い出してみたりするのです。「わたしが野原に残されているのは、いかがなものか」「なんで見失った一匹の羊だけを、イエスさまは探し回るのか。わたしのことはかまってもらえないのか」。

 しかし私たちは「大きな喜びが天にある」「神の天使たちの間に喜びがある」、そうした出来事を共にしているということを思い起こして、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に喜ぶものでありたいと思います。皮肉を言ったり、人を蔑んだりすることなく、神さまと一緒に、イエスさまと一緒に、喜ぶものでありたいと思います。


2023年6月23日金曜日

2023年6月18日

 2023年6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「ただ信じなさい。そうすれば救われる」 

                小笠原純牧師

  ルカによる福音書 8:40-56節

 「ヤイロの娘とイエスの服に触れる女」は、二つの物語が一つの物語になったと言われています。

 私たちには「もうだめだ」と思えるときがあります。十二年間、出血が治まらなかった女性は、医者にかかり続けて、それでも治ることなく、お金も尽きてしまいました。女性は「もうだめだ」と思っていたのですが、最後に、イエスさまのところにやってきて、そしてイエスさまがいやしてくださったのです。会堂長のヤイロも「もうだめだ」と思っていました。一人娘が死にかけているのです。ヤイロもまたイエスさまのところにやってきました。しかしイエスさまが家に着く前に、一人娘が亡くなったということを使いの者から聞きました。ヤイロは「やっぱりだめだった」と思いました。しかしイエスさまは「だめだった」と思ったヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と言われ、一人娘を生き返らせました。

 私たちには「だめだ」と思えるときがある。しかし私たちを救ってくださる確かな方がおられると、聖書は私たちに告げています。不安になったり、信じられなかったり、自分ではどうすることもできず、「だめだ」と思える出来事に出会うときが、私たちにはあるけれども、しかし私たちにはすがる方がおられるのだと、聖書は私たちに伝えています。私たちの命の源であり、私たちの救い主である主イエス・キリストが私たちを導いてくださると、聖書は私たちに伝えています。

 この「イエスの服に触れる女」の物語と、「ヤイロの娘」の物語は、十二年という数字が結び合わせた物語であるわけですが、しかしそれだけではなく、この二つの物語は「信仰」の物語であるのです。

 「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」「恐れることはない。ただ信じなさい」。イエス・キリストは「神さまを信じなさい」と、私たちを招いておられます。「ただ信じなさい。そうすれば救われる」。これはもう信仰とはそうとしか言いようがないのです。私たちが救われるのに、なにか理由があるわけではありません。なにかできるから救われるのでもないですし、なにかりっぱだから救われるのでもないのです。ただイエス・キリストを信じて、そして救われるのです。

 たとえ「もうだめだ」と思えることがあったとしても、神さまから見捨てられたのだとあなたが思ったとしても、神さまはあなたを愛しておられる。だから「神さまを信じなさい」。そのようにイエスさまは私たちを招いておられます。イエス・キリストの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。


2023年6月16日金曜日

2023年6月11日

 2023年6月11日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「わがままばかりでごめんなさい」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:15-24節

 今日は花の日子どもの日で、ひさしぶりに子どもの教会との合同礼拝を行なうことができました。

 イエスさまは宴会を開く時に、人を招くのであれば、お返しをすることのできない人を招くのが良いと言われました。そうすれば神さまがむくいてくださるからです。そしてイエスさまは「大宴会」のたとえを話されました。ある人が盛大な宴会を開こうとして用意をしたけれども、招待していた人たちは、みな言い訳をして断ります。主人は怒って、貧しい人、体の不自由な人たちを招きます。それでもまだ席が埋まらないので、だれでもいいから連れてこいと、僕に言います。ただ以前招いた人は、もう二度と食事を共にするつもりはないと、主人は言いました。

 このたとえの主人というのは、神さまのことです。たとえを聞きながら、「神さま、そんなに怒らないでください」と思わないでもないわけですが、でも一生懸命に計画をして招いたのに、急に自分の都合だけで欠席だと言ってくるというのは、まあ腹の立つことだと思います。

 私たちも神さまから招きを受けているにも関わらず、その招きをないがしろにしているようなところがあります。「なんか面倒だ」「それは良いことかも知れないけれども、でもね。こっちの都合もあるわけだし」「畑を買ったので、いけません」「馬を買ったので、いけません」「羊を買ったので、いけません」「犬を買ったので、いけません」「買い物にいかなければならないので、いけません」「雨が降ったので、いけません」「あまりに天気が良いので、いけません」。

 しかしそうした自分勝手な私たちをそれでも招いてくださっている神さまがおられます。神さまから招かれているにも関わらず、わがままばかり言っている自分に気がつきたいと思います。神さまからいろいろな恵みをいただいているにも関わらず、それに気がつかないで、不平や不満を口にすることの多い自分に気がつきたいと思います。

 「わがままばかりでごめんさない」。そして正気に戻って、神さまに感謝するものでありたいと思います。神さまは私たちを愛してくださっています。私たちに命を与えてくださり、私たちに生きる力を与えてくださいます。神さまは私たちに良きものを備えてくださり、私たちが共に生きていく知恵を与えてくださいます。私たちがさみしいとき、私たちを慰めてくださいます。神さまが私たちともにいてくださいます。安心して、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2023年6月10日土曜日

2023年6月4日

 2023 年 6 月 4 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「百花のさきがけ」 高田太牧師

  使徒言行録 9:3-20 節

 2015 年から同志社教会と梅花女子大学で働いています。以来、この両者の繋がりが、わたし達、会衆主義の伝統に連なる教会のための大切な遺産であると気付かされ続けて来て、これによって信仰を養われています。

 同志社の創立者、新島襄が死の間際に詠んだ有名な漢詩があります。「庭上の一寒梅、笑うて風雪を侵して開く。争わずまたつとめず、自ずから占む百花の魁」。この 2 年ほど前、1887 年 4 月 1 日に新島は月ヶ瀬に出かけています。「梅花の消息を問わんと欲し、今朝、俄に思い立って木津に来たる」というのです。なぜ梅も終わりのこの時期なのでしょうか。

 1878 年、大阪最初の女学校として梅花女学校が生まれました。その時代、女子の教育は必要と思われておらず、キリスト教への風も優しいものではありませんでした。それでも風雪を侵して、春を告げるべく花は開きました。この梅花学園の創立者は、浪花公会牧師の澤山保羅[ぽうろ]です。新島同様、アメリカに留学しましたが、英語の習得に苦労し、病に倒れることしばしばにして、私費留学で生活も貧しかったのでした。留学の 3 年目、公費留学扱いにしてもらえないかという願い出も却下され、目の前は真っ暗だったでしょう。ダマスコへの道で視力を失ったサウロの姿がこれに重なります。

 暗闇の中のサウロを訪ねたのはアナニアでしたが、澤山のアナニアは宣教師レビットでした。目からうろこが落ちました。なぜ自分がアメリカにいるのか、立身出世のためだと思えば暗闇であったその同じ状況が、まさに日本へのキリスト教伝道のための完全な備えであったと気付きました。澤山はパウロの名を自らのものとし、パウロのごとくに自給の道を行きました。しかしその精神が、京都と大阪の対立を生み出すこともありました。

 澤山の永眠は 1887 年 3 月 27 日、29 日に告別説教をしたのは新島でした。新島の月ヶ瀬行は葬儀の三日後です。「梅花の消息を尋ね」に行ったのです。まさに梅の終わりの時、月ヶ瀬の梅林に新島は澤山の姿を、そして梅花女学校の姿を重ねて祈ったのでしょう。その祈りこそが美しい漢詩を生み出したのではないでしょうか。

 百花のさきがけとして大阪に開いた梅花の自給の精神は、「必要なものは神与えたもう」の信仰です。会堂に関する幻を抱いておられるこの時に、わたしどもの教会の原点にあるこの精神をお伝えできたらと思いました。


2023年6月3日土曜日

2023年5月28日

 2023年5月28日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「良いものを与えてくださる神さま」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 11:1-13節

 ペンテコステ、おめでとうございます。

 弟子たちはイエスさまにお祈りを教えてほしいと言い、イエスさまは「主の祈り」を教えられ、神さまに熱心に祈ることの大切さを伝えられました。

 わたしが保育園で初めて園長として働くようになったとき、若い保育士の女性が、保育経験のないわたしに大切なことを教えてくれました。それは、「こどもが『これしてほしい』と言って、『あとでね』と応えた時は、かならずあとでそのことをしてあげてくださいね」ということです。こどもに頼まれたとき、「あとでね」と言うことがあるわけです。でも忘れてしまったりすることが出てきます。でもこどもは「あとでね」と言われたら、覚えていて「あとでしてくれるのだ」と思って、ずっと待っています。でも「あとでね」と言われても、それをあとで行うことがなければ、「あとでね」という言葉は、むなしい言葉になってしまいます。人に対する基本的な信頼感、言葉に対する基本的な信頼感が、成長の過程で失われていきます。どうせ願っても、その願いはかなえられることはないのだということが、幼児のこころのなかで、確かな気持ちとして残っていくわけです。

 イエスさまの時代の人たちも、「願いはかなえられないものなのだ」という思いを持っていた人たちがたくさんいただろうと思います。

 いろいろな悲しい出来事や苦しい出来事、つらい思いをすることがあっただろう。もうだれも信頼することができない。世の中にはたくさんの人がいるのだから、神さまだってわたしのことなど心配している暇はないに違いない。だから希望を持つなんてことは考えないで、ただただ一日が過ぎていけばそれでいいんだ。そんなふうにあなたたちは思っているかも知れない。でもそれはやっぱり違うよ。神さまはあなたのことを愛しておられるのだ。あなたのことを大切な一人として見ていてくださり、あなたのことを愛してくださっているのだ。だから神さまに願いなさい。神さまに祈りなさい。神さまが共にいてくださることを信じなさい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。

 聖霊でもって私たちを祝福し、私たちを用いてくださる神さまがおられます。神さまにお委ねして、安心して歩んでいきましょう。


2023年5月27日土曜日

2023年5月21日

 2023年5月21日 復活節第7主日礼拝説教要旨

 「いつまでもイエスと共に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 28:16-20 節

 「とりあえず」とか「キープしておいて」というような生き方を、私たちはよくします。「とりあえず、ビール」と言ったり、バーゲンセールに行って、「とりあえずこのセーターをキープしておいて」というふうに抱え込んで、そしてもっとよりよいものはないだろうかと探したりします。人間関係だけでなく、私たちと神さまの関係を考えたとき、私たちはかなり自分勝手なことばかりしているのではないかと思います。神さまがたえず愛してくれているということを知りながら、その愛に応えることをせず、適当にあるいは自分の好きなときだけ応えているのです。神さまを「キープ君」にしてしまっているわけです。

 マタイによる福音書28章17節には【そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた】とあります。復活の出来事に関して「疑う者もいた」と、マタイによる福音書は言っています。聖書はイエスさまの復活について、信じられない人を何人も描いています。

 椎名麟三というクリスチャンの小説家は、『私の聖書物語』という本のなかで、「キリストは・・・限界があるということが人間の喜びとなり栄光となるためにやって来たのである」と言っています。信じられないという限界のある人間だからこそ、人間とはそういう存在であるからこそ、キリストが人間に働きかけてくれるのだ、ということです。信じられない弱い器である私たちを認め、そのままで神さまは私たちを愛してくださっている。「疑う者がいた」ということから、「疑うやつは極悪人だ」「おまえは疑っていないか」「疑っているのはおまえだろう」というように考えていくのではなく、「自分が疑う者であり、そうした弱い自分を神がそのままで愛してくれている」ということを信じることが、大切だということです。

 私たちはなかなか信じることのできない者であり、イエスさまに従うことのできない者です。しかしイエスさまはそれでもなお、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と私たちに言ってくださっています。この招きに応えて、イエスさまと共に歩みたいと思います。いろいろな不安なことや心配なことが、私たちの現実の中にたしかにあります。しかしそれでもなお、イエスさまは私たちを導き、祝福してくださり、私たちに良きものを備えてくださいます。

 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるイエスさまに、「私たちも世の終わりまであなたと共にいたい」と応える者でありたいと思います。


2023年5月18日木曜日

2023年5月14日

 2023年5月14日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「徳の高い生き方をなさいませ。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 7:1-10節

 今日は、5月の第2日曜日ということで、母の日です。6月の第3日曜日が父の日です。母の日と父の日、どちらが子どもから覚えられているのかと言いますと、まあやっぱりいまの時代であっても、やはり母の日だろうと思います。

 「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」の主人公の煉獄さんのお母さんが煉獄さんに話しかけるシーンは印象的です。「なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。弱き人を助けるためです。生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることなきように」。

 イエスさまは異邦人である百人隊長のまっすぐな信仰に感心し、百人隊長の部下の病気を治されました。兵士が上官に命令をされたら、それに従うように、自分も神さまによって良きことを示されたら、神さまの御心をしっかりと行なっていきたい。百人隊長はそういうまっすぐな信仰をもっていました。

 百人隊長は神さまに対してしっかりとこころを向けて歩んでいました。ですから百人隊長はユダヤ人に対して親切でしたし、部下に対しても配慮がある人でした。神さまの御子としての歩みをされているイエスさまに対して、とても謙虚な思いをもっていました。ひと言で言えば、百人隊長は徳の高い人であったのです。

 徳の高い生き方をするということは、とても大切なことです。とくに現代のように、「法律に違反しなければいいだろう」というような雰囲気が漂っている社会の中にあって、徳の高い生き方をするということは、それはとても大切なことだろうと思います。

 百人隊長のお母さんが百人隊長にどんな言葉をかけていたのかというようなことは、あたりまえですが、聖書に出てくるわけではありません。しかし私たちは思います。たぶん百人隊長のお母さんは百人隊長に、「徳の高い生き方をなさいませ」と語っただろうと思います。それは私たちの願いであり、私たちもそのように歩んでいきたいと思うからです。

 神さまが私たちを祝福し、私たちを愛してくださっています。私たちはそのことをしっかりと受けとめて、神さまにふさわしい歩みでありたいと思います。

 

2023年5月12日金曜日

2023年5月7日

 2023年5月7日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「いのちの小さな声を聴け」 一木千鶴子牧師

  マタイによる福音書 6:25-34節

 生命絶滅のスピードはどんどん加速していて、2億年ぐらい前恐竜がいた時代は、1,000年の間に1種類の生物が絶滅したそうですが、2,3百年前になると4年で1種、100年前には1年で1種が絶命するというペースになったそうです。そして、1975年には1年間で1,000種、今では1年間に4万種以上の生物が絶滅しているそうです。人間が今のままの生活を続ければ、そう遠くない将来に地球上からほとんどすべての生物が消えてしまうかもしれないとも言われています。私たち人間は、自分たちの利益のために、小さな命の居場所を容赦なく奪ってきました。いのちの小さな声を聴けない世界は、人間の命をも粗末にする世界に違いありません。

 イエスさまは、「空の鳥を見よ」「野の花を見よ」と言われました。こんなに小さな命をも神は大事に養い、育ててくださる、ましてや神は、どんなにあなたを大事に思ってくださっていることか、そのことを信頼して、今日という日を精一杯生きよ、そう呼びかけておられます。

 あらためてこの聖書の箇所を読むと、イエスさまは、空の鳥や野の花の命は、はかない命だけれど、それらの小さな命は神が愛しておられる命であり、決して人間が自由にでき命ではないのだ、ということも言われているように思います。イエスさまは、今の私たちに問われているのではないでしょうか。人間の便利さや利益のために、それら小さな命を軽んじ、排除する私たちの生き方に、イエスさまは「それでいいのか」と問うておられるのではないでしょうか。

 空の鳥、野の花を見て、そのいのちの声を聴き、イエスさまの言葉を思い起こしたい。そしてイエスさまを通して明かにされた神の愛を思い起こしたい。その愛が、私たちに注がれていることを信頼する、そんな私たちでありたいと思います。そして、誰かの命を犠牲にするのではなく、隣人の命を心から尊敬し、共に生きる、そのような神の国と神の義を第一に祈り求める者でありたいと思います。そうして今日という日を感謝して精一杯生きる者でありたいと思います。私たちが平和の道、命の道を選びとることができますように。


2023年5月5日金曜日

2023年4月30日

 2023年4月30日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「あなたを愛している人がいる」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 6:34-40節

 『ウラジーミルの生神女』は、ロシア正教会で最も有名な生神女(聖母マリア)のイコンの一つです。このイコンの特色は、イエスさまとマリアが頬を寄せ合っているというところです。イエスさまはマリアに対してだけでなく、誰に対しても頬を寄せてくださって、「あなたのことが大好きだよ」と言ってくださっているような気がするのです。イエスさまはいつも私たちがさみしいとき、かなしいとき、私たちのところにきてくださり、私たちに頬をよせて慰めてくださいます。この『ウラジーミルの生神女』を見ていると、そんなふうに感じました。わたしのことを愛してくださる人がいることの幸いを感じます。

 人は神さまから愛されている。人はみな神さまの救いの中に入れられている。神さまを信じる人々に永遠の命を与えるために、神さまはわたしをお遣わしになったのだと、イエスさまは言われました。だからイエスさまは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。私たちは神さまの愛の中に生きています。

 私たちは罪深いものです。いろいろな邪な思いも持ちますし、また互いに傷つけあうことも多いです。神さまの前に正しいものであることはできません。いろいろなときに自分のだめなところに気づいて、とてもいやな気持ちになります。どうして心ない言葉を語ってしまったのだろう。どうして配慮できなかったのだろう。どうして傷つけてしまったのだろう。いろいろなことで後悔します。神さまの前に立ち得ない罪深さを感じるときがあります。

 イエスさまは「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と言われました。「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで」とありますように、神さまは私たち一人一人をかけがえのない者として愛してくださっています。「一人も失わないようにする」という思いで、神さまは私たちを愛してくださっています。

 イエスさまは「あなたを愛している方がいる」と、私たちにくりかえしくりかえし教えてくださいます。私たちは神さまにふさわしいから愛されているのではありません。私たちにすばらしいことがあるから、私たちを神さまが愛してくださっているのではありません。私たちは神さまの前にふさわしいものではないけれども、ただ神さまは私たちを愛してくださっているのです。


2023年4月28日金曜日

2023年4月23日

 2023年4月23日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「平和がある。平安がある。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:36-43節

 ウクライナ戦争も続き、私たちも先が見えず、不安な気持ちになります。私たちはいろいろな不安を抱えて生きています。

 イエスさまは弟子たちにその姿を現され、そして弟子たちの真ん中に立たれました。そしてイエスさまは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。イエスさまの姿を見た弟子たちは恐れます。そして自分たちがイエスさまの亡霊を見ているのだと思いました。イエスさまが復活されたということを信じることはできませんでした。

 イエスさまのお弟子さんたちは、このときだけが不安であったということではなく、不安なことにいろいろと出くわします。ルカによる福音書8章22節以下に、「突風を静める」という表題のついた聖書の箇所があります。初代教会がいろいろな迫害を経験し、教会に集う人たちの不安が、イエスさまと弟子たちが乗っている舟が突風で沈みそうになる様子に表れているというふうに言われたりします。初代教会の人たちもなにかと不安でありました。

 よみがえられたイエスさまは弟子たちの前にその姿を現され、「あなたがたに平和があるように」と言われました。そして恐れおののいている弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか」と言われ、弟子たちを落ち着くようにと諭されました。私たちも臆病な者ですから、いろいろなことで浮き足立ってしまい、こころを騒がせてしまいます。不安になってしまいます。

 「平和」という言葉は、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。「シャローム」は「平和」というだけでなく、もう少し広い意味をもつ言葉です。「救済」とか「健在」とか「順調」とか、そして「平安」です。神さまの平安がありますようにという意味の言葉です。私たちの教会の名前は、「平安教会」です。「皆様のうえに、神さまの平安がありますように」と記すたびに、わたしは平安教会の牧師として、「そうだよ。私たちは神さまの平安が満ちあふれた教会なのだ」と思います。

 「平和がある。平安がある」。イエスさまは私たちの教会の歩みを祝福してくださり、そして私たちに神さまの平安のうちに歩むことを告げ知らせてくださいます。「あなたがたに平和があるように」「あなたがたに平安があるように」「うろたえることなく、神さまを信じて歩みなさい」「神さまはいつもあなたと共にいてくださり、あなたを祝福してくださる」。

 イエスさまの招きに応えて、こころ平安に歩んでいきましょう。


2023年4月21日金曜日

2023年4月16日

 2023年4月16日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「ディディモと呼ばれるトマス」 内山宏牧師

  ヨハネによる福音書 20:24-29節

 今日のみ言葉に「ディディモと呼ばれるトマス」が登場します。「ディディモ」とは「双子」という意味ですが、登場するのは一人だけです。

 古来よりこの物語から、トマスは「懐疑家」、「実証家」と言われます。しかし、私はこの理解に違和感を覚えます。トマスは11章と14章にも登場し、特に11章16節「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」という言葉は、冷めた人間の言葉ではありません。ある人は、この言葉を「死の哲学を感じさせる言葉」と捉え、納得できる死に方によって自分の人生を意義づけようとしたが、結局、彼も主を捨てて逃亡した弟子のひとりであり、失意の内に他の弟子たちと共にいることさえできず、さまよい歩いたのではないかと考えました。内に熱い思いを秘めながら、イエス様の十字架の出来事によって挫折し、大きな矛盾を抱えた人間トマスです。彼には他の弟子の「わたしたちは主を見た」という言葉も心に響かず、「あの方の手に釘の跡を見…この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」という挑戦的な言葉を吐くことしかできなかったのではないか。彼は「信じない」のではなく、「信じたくても、信じられない」のです。ここに「引き裂かれた人間トマス」がいます。彼の挑戦的な言葉に引き裂かれた人間の叫びを感じます。

 ここに、ユダヤ教の会堂から追放され、脱落者も出る厳しい状況にあったヨハネの教会が重ねられているかもしれません。また、新型コロナによって交わりが揺ぐという体験や、プーチン政権によるウクライナ侵攻によって尊い命が奪われ、人々が引き裂かれ、分断された世界を重ねることができるかもしれません。

 けれども、引き裂かれた人間トマスは、このまま捨て置かれることはありませんでした。深く傷つき、大きな愛を必要としたトマスのもとに復活の主は来られ、十字架の傷を差し出し、「私は、お前のためにもう一度あの十字架の苦痛を引き受けよう。」と言われたのだと思います。トマスの頑な心が解け、引き裂かれた人間トマスが復活の主によって回復された瞬間です。「傷ついた癒し人」として来てくださった復活の主によって、トマスは信じる世界へと連れ戻されました。福音書記者ヨハネにとって、トマスの双子のもう一人の姉妹兄弟とは他ならないヨハネの教会でありました。そして、私たちもまたトマスの姉妹兄弟となることがゆるされています。


2023年4月13日木曜日

2023年4月9日

 2023年4月9日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「立ち上がる力を与えてくださるイエスさま」 

               小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:1-18節

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。今日は、教会に来られた方々に、イースターエッグをお配りいたします。野の花会の方々が作ってくださいました。

 ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアのところに一番最初に、よみがえられたイエスさまがきてくださったと記しています。マグダラのマリアは、イエスさまを失い、悲しみで一杯でした。せめてイエスさまの葬りの準備をしたいと思ってお墓に行くと、イエスさまの遺体すら消えてしまっている。ただただもう泣くしかない。自分はもう何もできない。どうしたら良いのかわからない。この先どのようにして生きていけば良いのかもわからない。もう立っていることさえおぼつかない。そのようなときに、マグダラのマリアはよみがえられたイエスさまに出会います。そしてイエスさまはマグダラのマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、そしてマグダラのマリアは、イエスさまの言葉通り、自分の足で立ち、そしてイエスさまがよみがえられたことを、イエスさまのお弟子さんに伝えました。

 中島みゆきの『時代』は、1975年の曲です。中島みゆきが23歳のときの曲です。48年前の曲ですが、ずっと歌いつがれています。「今はこんなに悲しくて 涙もかれ果てて もう二度と笑顔には なれそうもないけど。そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ」。もう自分の力ではもうどうしようもないと思えるときがあります。悲しくて、悲しくて、もう立ち上がることはできないのではないかと思うときがあります。

 しかし、イースターの出来事は、私たちに苦しいこと、つらいこと、悲しいことがあっても、よみがえられたイエスさまが私たちと共に歩んでくださり、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを教えてくれます。

 悲しみの中にあるマグダラのマリアのところに、イエスさまは一番最初にやってきてくださり、「マリア」とその名前を呼んでくださいました。あたたかい声で、「マリア」と名前を呼んでくださり、マグダラのマリアに立ち上がる力を与えてくださいました。

 イースター、イエスさまが復活されて、私たちのところにきてくださいました。イエスさまと共に、希望をもって歩み始めたいと思います。


2023年4月8日土曜日

2023年4月2日

 2023年4月2日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「声高らかに神さまを賛美して」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 19:28-48節

  「棕櫚の主日」はイエスのエルサレム入城の場面を記念する場面です。人々がシュロ(ヤシ科の植物)の枝を持ってきて、イエスが通る道に敷いたとされます。このことは他の3つの福音書に記されていますが、ルカ福音書では言及されていません。おそらくルカは枝のエピソードを知っていたはずで、敢えて削除したようです。それはなぜでしょうか。

 枝を道に敷いてイエスを歓迎したのは、他の福音書によれば「大勢の群衆」「多くの人」でした。イエスに「ホサナ」と叫んだのもその人たちです。ところがルカ福音書では、「声高らかに賛美」したのは「弟子の群れ」でした。ルカ福音書の構成では、9章末から19章までイエス一行は長い旅をしています。その間に、イエスは多くの奇跡をなし、教えを語りました。弟子たちもまた、そこに忠実に付き従っていたのです。エルサレムに入城する際、弟子たちは「自分の見たあらゆる奇跡のこと」ゆえに喜びました。それは、自分たちが経験した、イエスによって生まれる新しい社会、いわば「神の国」の実現がいよいよ始まるという期待でもあったのでしょう。

 弟子たちの声には、「天には平和、いと高きところには栄光」というルカ独自のものがあります。ここからすぐ想起されるのは、ルカ2章において天使が羊飼いたちに語った「天には栄光、地には平和」という言葉でしょう。2章では天から、19章では地からと対照的な宣言がなされます。しかし19章で「地には平和」と語られていないことは、現実の状況を反映しています。弟子たちの賛美に対し、ファリサイ派から批判の声が上がります。またイエスはエルサレムへの嘆きを述べます。さらには神殿の境内から商人を追い出すのです。祭司長らはイエスへの敵意を高めていきます。地上の平和どころか、争いが渦巻いているのがエルサレムでした。

 ファリサイ派たちは、いわば「分かりやすい敵」です。ところで入城の際に熱狂的に迎えた弟子たちや群衆は、その後どうなったでしょうか。弟子たちはイエスのもとから逃げ去り、群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫びました。それはたった1週間のあいだの出来事です。受難週は、人間の心がいかに変わりやすいものかをも告げ知らせています。私たちの心もまた同じ状態に陥りやすいものです。そのような私たちの内にある「分かりにくい敵」の姿を、受難週に、またイエスの十字架において改めて目に留めましょう。


2023年3月31日金曜日

2023年3月26日

 2023年3月26日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「人をさげすむ世界は消え去り」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 20:9-19節

 私たちの敬愛する小野一郎牧師が天に召されました。小野一郎牧師は日本基督教団のなかで部落解放運動に取り組まれました。差別というのは、人をおとしめる行ないです。ですからそれはとても恥ずかしい行ないです。そうした神さまの前にはずかしい行ないに対して、小野一郎牧師はなんとかしなければならないと思っておられたのだと思います。

 「ぶどう園の農夫のたとえ」はなんとも殺伐とした話です。このたとえ話に出てくるぶどう園の主人は、神さまです。そしてぶどう園の農夫たちは、律法学者たちや祭司長たちです。ぶどう園の主人の僕たちは、預言者たちです。そしてぶどう園の主人の跡取りは、イエスさまです。神さまが律法学者たちや祭司長たちのようなユダヤというぶどう園を治めている人たちのところに、預言者たちを送る。しかし律法学者たちや祭司長たちは、好き勝手にして預言者たちを袋だたきにする。それで神さまが、自分の大切な御子であるイエスさまを送ったら言うことを聞いてくれるだろうと思う。しかし律法学者たちや祭司長たちはイエスさまを十字架について殺してしまう。

 イエスさまは兵士たちにあざけられ、唾を吐きかけられ、侮辱されて、そしてそのあと、ひとびとからののしられながら十字架へと歩まれます。イエスさまの十字架への道のりは、蔑みの言葉に充ちています。この蔑みの言葉に充ちている世界が、私たち人間の世界であるわけです。人を蔑むことによって、そして自分が少しでもえらくなったような気になる。人をバカにすることによって、自分がえらいものだと思い込もうとする。皮肉を言ったり、小馬鹿にしたり、怒鳴ったりして、人を蔑み、そして自分がそうではないことを証明しようとします。

 人を蔑む私たちの世界のなかにあって、イエス・キリストは十字架についてくださいました。そして神さまはイエスさまを三日目によみがえらせてくださいました。神さまは私たちが蔑む人間でも、蔑まれる人間でもなく、ただ神さまから愛されている人間であることを、イエス・キリストの十字架によって、私たちに示してくださいました。私たちは神さまから愛されている人間であり、人を蔑む必要はないのです。人を蔑む世界は消え去ります。それは神さまの御心にかなったものではないからです。そして神さまの御国がくるのです。

 レント・受難節も第5週になりました。私たちの中にある邪な思いや、いじわるな思いとしっかりと向き合いながら、このレントのときを過したいと思います。


2023年3月24日金曜日

2023年3月19日

 2023年3月19日 受難節第4主日礼拝説教要旨

 「救われた人々ーーー12年間の祈りとこれから」 

               鈴木祈牧師

 マルコによる福音書 5:34-43節

 ■マルコ福音書5章、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女の話。出血の止まらない病気の女がいました。人前に出ることもゆるされず隔離された12年間。女は律法を破り人々の間に紛れ込んできた。信仰深い会堂長ヤイロには一人の娘がいました。その信仰ゆえに血の止まらない女とは同じ場にいることすらできなかったヤイロ。妻が娘の出産において血が止まらない病気になったとしたら家に置いておくことはできなかった。愛しているかどうかではない、律法を守る生き方、それが会堂長の務めであるから。生きながらにして妻を失っているヤイロ、今度は娘が死にそうになります。娘まで取り上げないでくれと祈りながらイエスさまの所へ走ったことでしょう。そんなヤイロとイエスさまの所へ、家族のもとに帰りたい一心で来た女。ヤイロも女もイエスさまの元に来て、そこで繋ぎ合わされました。しかし両親には同時に「娘の死」が知らされます。

 ■イエスさまが両親と一緒に娘の所へとゆき「起きなさい」と言われると娘はすぐに起き、歩き出します。「もう、12歳になっていたから」、12歳とは第二次成長期、初潮を迎える頃。娘は成長過程において血が出る経験を初めてします。自分も母と同じく追い出され、父親とも会えなくなるという恐れ。病気と別れの恐怖から、ついに死んだふりをします。ウソという死ぬほどの苦しみの中にいた娘に、イエスさまは安心できる状況を作り出し自分の言葉で話しだせるようにされました。そして娘と母と父は新しく出会い直すことができたのです。

 ■血の汚れ意識も、律法や掟による人々の分断も、愚かな事です。愚かな決まりによって人々が引き裂かれることをイエスさまは許しません。ヤイロは律法を守るために愛する人を失っていました。その考えを娘にも知らず知らずのうちに植えつけてしまっていたために、娘までも失いかけました。ヤイロは妻の病気が治ったから一緒に帰ってきたのではありません。病を抱えたままの妻であっても、そして娘が生死にかかわらず、母娘を出会わせ、三人で一緒にこの時を過ごそうと、ヤイロの心こそが変えられたのです。イエスさまの行なった奇跡は、病気の治る奇跡でも、死んだ者が生き返る奇跡でもなく、最も難しい、人の心が変えられるという奇跡でした。

 ■私たちにも、恐れを乗り越え、掟に従う以上のいのちの出会いを重ねることが呼びかけられています。大人たちの愚かな行いは子どもたちへと伝播し、その生き方を狭めてしまいかねません。けれども、私たちに与えられている自由な信仰は、私たちの考えが変わることを拒みません。

 ■多くの痛みのある12年間でした。病も災害も、戦争も、死も、別れも、その悲しみや後悔はうすれても消えることはないでしょう。それでも祈りが、私たちに変化という奇跡をおこしてくれます。嘆きと悲しみの傍にこそおられるイエスさまの歩みを心にとめ、いつも私たちの傍らにおられるイエスさまと共に祈り続けてまいりましょう。


2023年3月18日土曜日

2023年3月12日

 2023年3月12日 受難節第3主日礼拝説教要旨

 「十字架のもとに逃れる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 9:18-27節

 私たちは「何により頼んで生きているのか」という問いの前に立たされています。わたしを救ってくださる方はだれなのかという問いです。自分で自分を救うのか。地域が救ってくれるのか。また国家が救ってくれるのか。経済的なことであれば、自助・共助・公助ということが中心になるかと思います。しかし経済的なことだけで、私たちは生きているわけではありません。イエスさまが悪魔の誘惑に際して言われた、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」ということです。私たちはパンだけで生きているのではありません。パンだけで生きることはできないのです。本当の意味で、私たちを救ってくださる方はだれなのか。

 讃美歌21の「十字架のもとに」の歌詞の1番「1.十字架のもとに われは逃れ 重荷をおろして しばし憩う。あらしふく時の いわおのかげ、荒れ野の中なる わが隠れ家」という歌詞は、作詞者であるエリザベス・クレーフェンの信仰をよく表している歌詞だと思います。エリザベス・クレーフェンは財産を売って貧しい人を助けるということをしていますから、そうした社会の抱える貧困や不条理ということについて、真摯に考え、行動する人であったのだと思います。しかしエリザベス・クレーフェンは、それだけでなく、自分の魂の問題、自分がだれによって守られて生きているのか。自分を救ってくださる方はだれであるのか。あなたがだれにも頼ることができず、周りの人たちもあなたのことを助けることができない、八方ふさがりになって、脅えているときに、あなたが逃れていくところは、どこなのか。そのことをエリザベス・クレーフェンは、「十字架のもとに」という讃美歌の中で明らかにしています。

 守ってくださる方がおられるということは、とても安心なことです。ここに逃れればいいのだというところを知っているということは、とても安心なことです。それはクリスチャンに与えられている幸いだと、わたしは思います。悲しい時、さみしい時、行き詰まった時、ぼろぼろになったとき、私たちは逃れるところを知っています。「ああ、それ、いいな」と思われた方は、ぜひ、洗礼を受けてクリスチャンになっていただきたいと、わたしは思います。

 私たちを守り、導いてくださる、確かな方であるイエス・キリストがおられます。私たちはイエス・キリストを信じて歩みます。教会に集うお一人お一人の歩みが、イエスさまに守られて、健やかな歩みでありますようにとお祈りいたします。


2023年3月11日土曜日

2023年3月5日

 2023年3月5日 受難節第2主日礼拝説教要旨

 「口を利けなくする悪霊からの解放」 

             小笠原純牧師

  ルカによる福音書 11:14ー26 節

 為政者に庶民の声はなかなか届かないものだと、新聞記事を読みながら思いました。ウクライナ戦争を続けているロシアのプーチン大統領のところにも、なかなか声が届かないのだろうと思います。周りの人もプーチン大統領が不機嫌になることを伝えたいとは思わないのです。アジア・太平洋戦争のときも、やはり同じようなことが行われていたようです。イギリスの代表的な現代作家と言われるジュリアン・バーンズは、「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」と言っています。世界や国家がおかしなことをしているとき、私たちは「それはちょっと恥ずかしいよ」と声をあげたいと思います。

 イエスさまは口を利けなくする悪霊を追い出され、口の利けない人がものを言い始めるようにされました。それをみて、群衆は驚きます。しかしイエスさまが悪霊を追い出されたのをみて、「イエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」という人たちがいました。またイエスさまに奇跡をしてほしいと言って、イエスさまを試す人たちもいました。

 イエスさまは、自分は悪霊の力ではなく、神さまの力によって悪霊を追い出している。だから神さまの国はあなたたちのところに来ている。だから安心しなさいと、言われました。また、わたしに味方しない者はわたしの敵である。わたしと一緒に歩んでいかない人は、わたしの仲間だということだけれど、あなたたちはわたしに敵対していて、それでよいのか。と、イエスさまは言われました。

 私たちは主の祈りで、「御国が来ますように」と祈ります。私たちは武力がこの世を治めているとは思いません。私たちの世界を治めているのは、神さまの愛です。「黙ってたほうがいいかなあ。まあわたしが言うことでもないか」というような気持ちになることが多いですが、しかし「口を利けなくする悪霊によって口が利けなくされているのではないか」と、立ち止まって考えてみることも、私たちには大切です。

 自由にものが言えない社会は、滅びへと向かっていきます。ですから私たちは、口を利けなくする悪霊が出ないように、私たちの国でも社会でも会社でも教会でも、そのような雰囲気にならないように気をつけたいと思います。みんなが自由にものが言えるように、穏やかに話しあうことができる社会を作り出していきたいと思います。


2023年3月3日金曜日

2023年2月26日

 2023年2月26日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「試みに打ち勝つ力を与えてください。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 4:1ー13節

 ウクライナ戦争も1年を過ぎましたが、なかなか解決の糸口がありません。ウクライナ戦争が続いているとき、私たちにできる良いことは、アジア・太平洋戦争のときに、私たちの国がアジアの国々に侵略をしたときのことを学び直すということではないかと、わたしは思います。

 歌人であり、芸術家でもあり、「智恵子抄」で有名な高村光太郎は、「シンガポール陥落」という詩を書いています。どうしてあの「智恵子抄」で人々を感動させている高村光太郎が、「シンガポール陥落」というような詩を書いたのだろうかと思うのです。私たちもよく「あとから考えると、なんかおかしなことをしてしまっていた」というようなことがあります。りっぱな芸術家だと言われている人が、こうもまあ変な感じのことをしてしまうのだと思う時に、やっぱり誘惑ということについては、ほんとうに気をつけなければならないことなのだと思うのです。

 コンビニや飲食店でろくでもないことをして、それを動画配信するというようなことが行われて、あとからとんでもないことになるというような事件が起こります。ふつうに考えて、犯罪を行っているところを動画配信すると、とんでもないことになるというようなことは、わかりそうな気がするわけですが、でも実際、そうしたことがわからず、とんでもないことになるわけです。その場の「ノリ」というか、その場の雰囲気で、軽い気持ちで行ってしまうわけです。やっている仲間内の人たちは、それが悪魔の誘惑であることに気がつきもしないのです。

 悪魔の誘惑は何が誘惑であるのかもわかりにくいのです。ですから私たちはなおのこと、イエスさまが言われたように、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(ルカ4章8節)ということが大切になるのです。主の祈りで、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ります。とても切実な祈りだと思います。神さま、私たちを試みにあわせないでください。神さまは、私たちを誘惑にあわせないでください。私たちは弱いのです。

 何が誘惑であるのかさえわかりにくい世の中に、私たちは生きています。ですからなおのこと、私たちは「試みにあわせず、悪より救い出したえ」という祈りを大切にしたいと思います。また「試みに打ち勝つ力を与えてください」との祈りを持ちたいと思います。そしてなにより、イエスさまが言われたとおりに、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、謙虚で健やかな歩みでありたいと思います。


2023年2月23日木曜日

2023年2月19日

 2023年2月19日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

「だいじょうぶ。イエスさまがいるから」      小笠原純牧師

  ルカによる福音書 9:10-17節

 子どもの教会で歌う讃美歌に、「きみがすきだって」という讃美歌があります。イエスさまが「きみがすきだ」「きみはだいじ」「きみといくよ」「きみがすきだよ、ともだちだよ」と言ってくださり、私たちを励まし、導いてくださっているということが感じられる、とてもすてきな讃美歌です。「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」ということです。しかしこどもだけでなく、私たち大人も不安になったり、悩んだりすることがありますから、やっぱり勇気づけてくれる、励ましてくれる人がいてほしいなあと思います。ほんとうは良い世の中になってほしいと思っても、「現実」というものの前に、気落ちしてしまい、「やっぱり仕方がないのかなあ」と思ったりすることがあります。でも私たちにはイエスさまがおられ、そしてイエスさまは気落ちしている私たちを励ましてくださるのです。「だいじょうぶ。わたしがいるから」。

 この「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、私たちに大きな励ましを与えてくれます。五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、イエスさまが神さまに祈られ、弟子たちを用いられたときに、五千人の人々がお腹一杯食べることができたのです。「ああ、絶対、無理だ」「そんなこと不可能だ」「良いことだと思うけれども、やっぱりあきらめるしかない」。そのような思いにとらわれることが、私たちには多いですけれども、そうではなく、イエスさまが私たちと共にいてくださって、私たちが不可能だと思えるようなことも、神さまのみ旨に適うことであれば、それは必ず実現すると、聖書は私たちに教えてくれているからです。

 アメリカの公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は、黒人に対する人種差別を撤廃するために働きました。しかしそれはとても困難なことでありました。それは「現実」という言葉の前には、当時は「夢」のように思えました。しかしそれでもキング牧師は、「わたしは夢がある」と言いました。【どうか絶望の谷間でのたうち回らないようにしましょう。わが友よ、私はあなたがたに申し上げたいと思います。私たちは今日も明日もさまざまな困難に直面するでしょうが、それでもなお私は夢を持っています。】(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』、日本基督教団出版局)

 いろいろな出来事で、現実ばかりを見て、絶望の谷間でのたうち回ることが多いですけれども、私たちもまたイエスさまが共にいてくださることを覚えて、希望を持って歩みたいと思います。


2023年2月18日土曜日

2023年2月12日

 2023年2月12日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「神の名を語る人、神を讃美する人」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 5:12ー26節

 「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」(石川九楊、『<花>の構造ー日本文化の基層ー』)。ついつい下を向いて、つぶやくことの多いわたしは、「たしかに植物は天に向かって伸びているなあ」と思います。

 イエスさまが中風の人をいやされるときに、「あなたの罪は赦された」と言われたことについて、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、心の中で考え始めました。「あなたの罪は赦されたなどというのは、神さまを冒涜することだろう。神さまのほかに誰が罪を赦すことができるというのだ。イエスという男は自分が神さまにでもなったつもりなのか」。

 律法学者たちやファリサイ派の人たちは、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言います。「イエスは神の名を語っている」というわけです。しかし律法学者たちやファリサイ派の人たちこそ、神の名を語っているのです。自分たちは神さまの側の人間であり、「あの人は神を冒涜している」「あの人は罪を犯している」と言って、神の名を語っているのです。

 現代においても、人を裁く時に、しばしば神の名を語る人がいます。「こうしたことは聖書に罪として書かれてある」というように語って、「特定の人々が罪を犯している」と言うのです。しかしモーセの十戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書かれてあるのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の名を語り、そしてイエスさまを裁きます。しかし一方、多くの人々は、みんなイエスさまのされたことを見て、神さまを賛美します。神の名を語る人、神を讃美する人がいるのです。

 小さなことが気になってしまい、大切なことを見失ってしまうことが、私たちにはあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそうでした。彼らは人を裁くことに関心がいってしまい、神さまを賛美することを忘れてしまっていました。それはとても残念なことです。

 花の多くは天を向いて、枝を広げ、花を咲かせます。私たちもまた天を向いて、神さまを賛美して歩んでいきたいと思います。神さまが用意してくださるたくさんの恵みに感謝して、神さまに向かって歩んでいきたいと思います。


2023年2月9日木曜日

2023年2月5日

 2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「種を蒔いたらどうなるか」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 8:4-8節

 イエスは「たとえ話」が上手でした。イエスは大工(家具造りなども含む)という、人々の生活に密着した仕事をしていく中で、人々がよく分かるような「たとえ」の対象を思いついていったのでしょう。「種蒔きのたとえ」は有名なものですが、現在の聖書ではそれぞれの種はこういう人のことである、という説明がついています。これは本来イエスが語りたかった意味ではなさそうで、のちに教会がつけていったものと考えられています。

 イエスが語ったのは、農業に携わる人たち、またガリラヤに生きる人たちが実際に経験していたことでしょう。ここでの種蒔きは現代からすればずいぶん大雑把に思えますが、しかし19世紀に描かれたミレーの絵「種を蒔く男」も同じ姿です。聖書のスタイルの農業はつい150年ほど前まで続いていたようです。道に落ちた種を踏んだ経験のある人たちも多かったでしょう。岩の上に落ちれば芽が出てもすぐ枯れてしまうさまや、茨などの雑草に埋もれてしまうのも通りがかりの人たちが見ていたと思われます。しかし良いところに落ちると、一粒の種が百倍の実りを結ぶと言います。たった一粒から大きな実りが生まれるという驚き、神の国もそのようなものであるというのがイエスの主張だったと考えられます。

 人間は「因果関係」を考える性質があります。それは「あれを食べると苦しむ」のように、身を守るために必要だった能力でしょう。しかし私たちは、「これこれを実行したのだから何かの結果があるに違いない」と考えてしまいます。「種を蒔いたのだから、全ての種に百倍の実りがあるはずだ」というわけです。しかし今日の「たとえ」にあるように、「種を蒔いたらどうなるか」という結果は、私たちには分からないのです。それは人知を超えたこと、まさに神の働くところです。

 では、結果が分からないのだからといって、私たちは何もしなくても良いのでしょうか。「種を蒔く人」は、文字通り「種を蒔いて」います。その結果は分からないけれども、それでも種を撒き続ける。多くの種は実を結ばないかもしれない。しかし「百倍の実り」がある可能性を信じて、種を蒔き続けます。それこそが、私たちに求められている信仰と言えるでしょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。


2023年2月3日金曜日

2023年1月29日

 2023年1月29日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

 「神の神殿は、生きているか」 汐碇直美牧師

   ルカによる福音書 21:1-6節

 ナチス・ドイツ時代の牧師・神学者、ボンヘッファーは「他者のための教会」という印象的な言葉を残しました。つまり教会は、神さまと人に仕えるために存在しているということです。

 ルカ福音書21章5節以降で主イエスは神殿のあり方を問われ、その建物は神殿の本質ではないと指摘されました。「教会」を意味するギリシア語「エクレシア」の本来の意味は「集会」です。どれだけ立派な建物があっても、そこに神さまを礼拝する人々が集っていない限り「教会」とは呼べません。

 今日のみ言葉の前半部分、「やもめの献金」の物語は、教会、つまり礼拝する人の内実を表しているものです。ある貧しいやもめが、彼女の全財産であったレプトン銅貨2枚をささげました。1レプトンは今の日本円で約78円、2レプトンで約156円です。ユニセフの定める「極度に貧しい暮らし」は1日1.9ドル、約200円以下で生活しなければならない状態ですから、それに近い状況です。

 このささやかな献金に目を留めたイエスさまは、「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」とおっしゃいました。「生活費」に当たるギリシア語「ビオス」は元々は「命」や「生活」「人生」という意味です。イエスさまは金額の大小という「目に見える部分」ではなく、彼女が自分のすべてをささげた、その「心」を見られたのです。

 やもめの状況をリアルに想像するほどに、その厳しさの中で2レプトンをささげた彼女のすごさがわかり、「私にはできない」と尻込みしてしまいます。しかしそれでイエスさまの招きを拒んでしまうのは、あまりにももったいない。私たちも実は毎週の礼拝献金で彼女と同じように、お金だけではなく、体、心、たましいも含めた「私」という存在の全てをおささげしているはずなのです。

 最初に、教会とは神さまと人に仕える存在だとお話ししました。それはまるで十字架のように、神さまに向かう垂直方向の献身と、隣人に向かう水平方向の献身の二つがあるということです。関西労働者伝道委員会と専従者の大谷隆夫先生の場合は、釜ヶ崎の労働者という横方向への献身であり、この隣人への奉仕を通して、神さまに仕えておられます。

 「教会は生きているか」と、主イエスは問われます。実に厳しい問いです。しかしイエス・キリストは十字架と復活というみ業によって、神さまと隣人に仕え、共に生きる道を切り拓いてくださいました。感謝と祈りをもってこの道を一筋に、共に歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2023年1月26日木曜日

2023年1月22日

 2023年1月22日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

 「悲しむ人たちへの良き知らせ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 21:1-6節

 平安教会創立の関連牧師である新島襄は、1890年1月23日に帰天しています。明日が帰天日です。新島襄で有名な話は、「自責の杖」の話です。この出来事を原田助や堀貞一は、感動をもって受けとめています。しかし徳富蘇峰はあまり良いようには受けとめていませんでした。同じ出来事を経験しても、その感じ方というのはやはりいろいろなのだなあと思います。イエスさまについても同じように、イエスさまはすばらしいと思った人と、そうでもなかった人たちもいたようです。

 イエスさまが育たれたナザレですから、イエスさまが小さい頃のことを知っている人たちが大勢いたのです。またイエスさまのお父さんのヨセフさんのこと、マリアさんのこと、そしてイエスさまの家族のことを知っている人たちが大勢いました。そうした人たちはあまりにイエスさまのことが身近に感じられるので、イエスさまのことを信じることができないわけです。「この人はヨセフの子ではないか。」。そんな大した人間であるわけがないと思えるのです。

 イエスさまもそうしたことがわかっているので、ちょっと斜に構えたような話をしています。あなたたちは「イエス、お前はカファルナウムでいろいろな奇跡を行なったわけだから、地元であるナザレでも同じようにしてくれよ」と言うだろう。「いや、わかっている。預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」。「あなたたちはわたしのことを敬おうというような気持ちはないだろうし、わたしを信じることはないだろう」。イエスさまはそのように言われました。

 イエスさまはユダヤの会堂で、イザヤ書61章1節の「貧しい者への福音」という表題のついている聖書の箇所を読まれました。イエスさまは自分がこの世にきたのは、貧しい人々に福音を告げ知らせるためなのだと言われたのです。あなたたちのような小手先の関心ではなく、心の底から神さまを求めている人たちに対して、神さまの祝福がその人の上にあると告げるのだと、イエスさまは言われました。

 イエスさまは言われます。【「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる】(ルカによる福音書6章20節以下)。

 さみしいとき、かなしいとき、イエスさまは私たちにともなってくださり、私たちの涙をぬぐってくださいます。イエスさまと共に安心して歩んでいきましょう。


2023年1月21日土曜日

2023年1月15日

 2023年1月15日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

 「舟を岸へ引き上げて」 山本有紀牧師

  ルカによる福音書 4:16ー30節

 私たちは、人生の中で何度も、息をすることさえ忘れるような驚きを体験することがあります。満天の星空、日の出の光景、壮大な地形、或いは奇跡的としか言いようのない「救い」の体験は、私たちを鷲掴みにし、畏怖と驚愕を与えます。その聖なる「驚き」は私たちを打ち砕き、へり下らせ跪かせるでしょう。そうして私たちは、今までとは違う世界観、人生観を得、新しい価値観へと「方向転換=悔い改め」して行くのです。飼い葉桶の幼児を見つけた羊飼いたちも、輝く星に導かれた賢者たちも、イエスの洗礼を目撃した人たちも、そして、ナザレのイエスが福音を語り人々を癒すのを見た人たちも、深い、聖なる驚きにとらえられ、打ち砕かれ謙って跪き、やがて、今までとは違う、新しい人生を歩み始めたのでした。最初の弟子となった4人の漁師たちもまた、この聖なる驚きを体験し、畏れを伴う激しい驚きに鷲掴みにされ揺さぶられて、新しい人生を、イエスと、そして同じ体験を分かち合う仲間と共に歩み始めるのです。

 その朝、イエスはガリラヤ湖の岸辺を歩いていました。そこへ多くの人がイエスを求めて押し寄せてきます。そこでイエスは、夜通しの漁の後、疲労困憊するペトロの舟に乗り込み、水上から人々に語りました。ペトロにしてみればいい迷惑だったでしょうが、人々は話に聴き入り、小一時間ほど後、イエスが語り終えるころにはすっかり満たされた様子となります。その頃合いに、イエスがペトロに一対一で語りかけます。「湖の深いところへ漕ぎ出して網を下ろしてご覧」。

 イエスの促しに抵抗を示しながらも「しかし、お言葉ですから」と、不信や諦めと、一方で、「ひょっとしたら、昨晩とは別の結果が出るかもしれない」という根拠のない期待が入り混じる曖昧な気分のまま、ペトロはイエスの「馬鹿げた提案」に付き合うくらいのつもりで網を降ろしたに違いないでしょう。すると、そこには今まで経験したどんな大漁とも違う、驚くべき体験が待っていました。

 ルカ福音書のギリシャ語の通りに読めば、まさに「驚きが、ペトロを掴んだ」のです。ペトロ自身の能力にも知識にも、もちろん信仰の有無にも全く左右されない、「聖なる驚き」がペトロを鷲掴みにし、彼を圧倒し打ち砕き、へりくだらせ、方向転換=悔い改めを迫りました。

 驚きと畏れに打たれて立ちすくむペトロに、イエスは「恐れることはない」と声をかけます。聖なるものとの出会いを恐れるべきではない、その体験によってもたらされる新しい価値観を受け容れること、そしてそこから始まる新しい人生へと歩み出すことを恐れてはならない、あなたはその恵に相応しい、とイエスは語りかけたのでした。その言葉に押し出されて、ペトロたちは、「舟を岸へと引き上げ」新しい人生、新しいし時間へと歩み出すのです。

 聖なる驚きに鷲掴みにされた仲間と共に、イエスと共なる旅を始める、その道を選び続ける者でありたいと願うものです。「恐れることはない」のですから。


2023年1月13日金曜日

2023年1月8日

 2023年1月8日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

 「洗礼。新しいいのちへ」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 3:15ー22節

 もう23年も前の話になりますが、わたしの母は病床洗礼を受けました。わたしの母はアルツハイマー病でしたので、自分の意志で信仰告白を行うことはできませんでした。一般的な印象からすると、「もう洗礼を受けなくてもいいのではないか。神さまは母のことをよくわかってくださっているのだから」とも思えます。しかしそれでも敢えて洗礼を受けてキリスト者になるということの大切さというのがあるような気がします。

 W.H.ウィリモン『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本は、洗礼について書いてある本です。ウィリモンは【キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です】と言います。

 イエスさまが洗礼を受けられたとき、天から声が聞こえました。【「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」】。この天からの祝福は、私たちに与えられた祝福でもあるわけです。私たちがりっぱな神の子になったから、私たちは洗礼を受けるわけではありません。私たちが神さまから愛されるのにふさわしい者になったから、私たちは洗礼を受けるのではありません。そうではなく、私たちはただ「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの祝福を、洗礼を受けることによって、宣言されるのです。そのことによって、私たちは自分が誰であるのかということを知ることができるのです。

 人はわたしのことをいろいろと言います。「なまけもの!」「臆病者!」「いいかげんな人間だ!」「いばってばかりでいやなやつ!」「弱虫、毛虫!」「役立たず!」。そうしたことは、たしかにそうであるわけです。わたし自身にも「そうかも知れない」と思い当たることがあります。しかし、しかし違うのです。そうではないのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これがわたしなのです。洗礼とはこのことを受け入れるということです。

 世の中の困難な世相や、また自分自身のだらしなさや弱さのゆえに、なんとなく希望がないように思える時もあります。しかし大切なことは、神さまが私たちのことを愛してくださり、私たちを救ってくださったということなのです。神さまが「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福してくださっているということなのです。

 新しい年も神さまの愛する子として、胸を張って歩んでいきましょう。


2023年1月6日金曜日

2023年1月1日

 2023年1月1日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

 「新しい年。神の恵みに包まれて」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:21ー40節

 クリスマスに救い主イエス・キリストをお迎えし、そして2022年を終え、2023年を迎えました。新しい年も皆様のうえに、神さまの恵みと平安とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 童謡の「クラリネットをこわしちゃった」は、もともとフランスの童謡で、「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」というのは、フランス語です。『オ・パッキャマラード』は、「行進せよ、同志!」(Au pas camarade )。「一歩、一歩だよ。友よ」というような感じの意味になります。

 「クラリネットをこわしちゃった」の子どものように、なにかうまくいかないと、あわてふためいて、「こわしちゃった。どうしよう。どうしよう」と不安になることが、私たちにもあります。神さまからおこられる。イエスさまから怒られると慌てふためくことがあります。イエスさまは私たちを「オーパキャマラド パッキャマラド パオパオ パパパ。オーパキャマラド パッキャマラド パオパオパ」と励ましておられると思います。新しい一年も、一歩一歩、イエスさまと一緒に歩んでいきたいと思います。

 シメオンはイエスさまを腕に抱いて、神さまを讃えました。ついに自分は救い主・メシアに会うことができたと確信したのでした。いままでずっと待ち望んでいたけれども、ついに救い主に会うことができた。その喜びにあふれて、シメオンは神さまをほめたえたのでした。アンナもまたシメオンと同じように、マリアさん、ヨセフさん、イエスさまに出会い、神さまを讃美しました。そして救い主がこの世に来られたことを人々に伝えました。

 1月1日は、イエスさまが初めて、エルサレムの神殿に連れてこられた日です。そしてずっと救い主を待ち望んでいたシメオンとアンナが、イエスさまに会うことのできた日です。年をとった二人にとっては、とても幸せな日でした。聖書は、神さまを信じて生きる人たちに、大きな希望が与えられることを、私たちに語っています。

 新しい一年も、神さまにお委ねして、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。神さまは若い人にも、年を重ねた人にも、豊かな祝福を備えてくださいます。どんなすてきなことを神さまが用意してくださっているのかを楽しみにしながら、神さまをほめたたえつつ歩んでいきましょう。