2023年2月23日木曜日

2023年2月19日

 2023年2月19日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

「だいじょうぶ。イエスさまがいるから」      小笠原純牧師

  ルカによる福音書 9:10-17節

 子どもの教会で歌う讃美歌に、「きみがすきだって」という讃美歌があります。イエスさまが「きみがすきだ」「きみはだいじ」「きみといくよ」「きみがすきだよ、ともだちだよ」と言ってくださり、私たちを励まし、導いてくださっているということが感じられる、とてもすてきな讃美歌です。「Kindermutmachlied」(キンダーミットマッハリード)「こどもを勇気づける歌」ということです。しかしこどもだけでなく、私たち大人も不安になったり、悩んだりすることがありますから、やっぱり勇気づけてくれる、励ましてくれる人がいてほしいなあと思います。ほんとうは良い世の中になってほしいと思っても、「現実」というものの前に、気落ちしてしまい、「やっぱり仕方がないのかなあ」と思ったりすることがあります。でも私たちにはイエスさまがおられ、そしてイエスさまは気落ちしている私たちを励ましてくださるのです。「だいじょうぶ。わたしがいるから」。

 この「五千人に食べ物を与える」という奇跡は、私たちに大きな励ましを与えてくれます。五つのパンと二匹の魚しかなかったのに、イエスさまが神さまに祈られ、弟子たちを用いられたときに、五千人の人々がお腹一杯食べることができたのです。「ああ、絶対、無理だ」「そんなこと不可能だ」「良いことだと思うけれども、やっぱりあきらめるしかない」。そのような思いにとらわれることが、私たちには多いですけれども、そうではなく、イエスさまが私たちと共にいてくださって、私たちが不可能だと思えるようなことも、神さまのみ旨に適うことであれば、それは必ず実現すると、聖書は私たちに教えてくれているからです。

 アメリカの公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は、黒人に対する人種差別を撤廃するために働きました。しかしそれはとても困難なことでありました。それは「現実」という言葉の前には、当時は「夢」のように思えました。しかしそれでもキング牧師は、「わたしは夢がある」と言いました。【どうか絶望の谷間でのたうち回らないようにしましょう。わが友よ、私はあなたがたに申し上げたいと思います。私たちは今日も明日もさまざまな困難に直面するでしょうが、それでもなお私は夢を持っています。】(クレイボーン・カーソン編、梶原寿訳『マーティン・ルーサー・キング自伝』、日本基督教団出版局)

 いろいろな出来事で、現実ばかりを見て、絶望の谷間でのたうち回ることが多いですけれども、私たちもまたイエスさまが共にいてくださることを覚えて、希望を持って歩みたいと思います。


2023年2月18日土曜日

2023年2月12日

 2023年2月12日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「神の名を語る人、神を讃美する人」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 5:12ー26節

 「植物の多くは重力に逆らう形で天に向かって枝が繁っている」(石川九楊、『<花>の構造ー日本文化の基層ー』)。ついつい下を向いて、つぶやくことの多いわたしは、「たしかに植物は天に向かって伸びているなあ」と思います。

 イエスさまが中風の人をいやされるときに、「あなたの罪は赦された」と言われたことについて、律法学者たちやファリサイ派の人たちが、心の中で考え始めました。「あなたの罪は赦されたなどというのは、神さまを冒涜することだろう。神さまのほかに誰が罪を赦すことができるというのだ。イエスという男は自分が神さまにでもなったつもりなのか」。

 律法学者たちやファリサイ派の人たちは、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と言います。「イエスは神の名を語っている」というわけです。しかし律法学者たちやファリサイ派の人たちこそ、神の名を語っているのです。自分たちは神さまの側の人間であり、「あの人は神を冒涜している」「あの人は罪を犯している」と言って、神の名を語っているのです。

 現代においても、人を裁く時に、しばしば神の名を語る人がいます。「こうしたことは聖書に罪として書かれてある」というように語って、「特定の人々が罪を犯している」と言うのです。しかしモーセの十戒には「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)に書かれてあるのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の名を語り、そしてイエスさまを裁きます。しかし一方、多くの人々は、みんなイエスさまのされたことを見て、神さまを賛美します。神の名を語る人、神を讃美する人がいるのです。

 小さなことが気になってしまい、大切なことを見失ってしまうことが、私たちにはあります。ファリサイ派の人々や律法学者たちはそうでした。彼らは人を裁くことに関心がいってしまい、神さまを賛美することを忘れてしまっていました。それはとても残念なことです。

 花の多くは天を向いて、枝を広げ、花を咲かせます。私たちもまた天を向いて、神さまを賛美して歩んでいきたいと思います。神さまが用意してくださるたくさんの恵みに感謝して、神さまに向かって歩んでいきたいと思います。


2023年2月9日木曜日

2023年2月5日

 2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「種を蒔いたらどうなるか」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 8:4-8節

 イエスは「たとえ話」が上手でした。イエスは大工(家具造りなども含む)という、人々の生活に密着した仕事をしていく中で、人々がよく分かるような「たとえ」の対象を思いついていったのでしょう。「種蒔きのたとえ」は有名なものですが、現在の聖書ではそれぞれの種はこういう人のことである、という説明がついています。これは本来イエスが語りたかった意味ではなさそうで、のちに教会がつけていったものと考えられています。

 イエスが語ったのは、農業に携わる人たち、またガリラヤに生きる人たちが実際に経験していたことでしょう。ここでの種蒔きは現代からすればずいぶん大雑把に思えますが、しかし19世紀に描かれたミレーの絵「種を蒔く男」も同じ姿です。聖書のスタイルの農業はつい150年ほど前まで続いていたようです。道に落ちた種を踏んだ経験のある人たちも多かったでしょう。岩の上に落ちれば芽が出てもすぐ枯れてしまうさまや、茨などの雑草に埋もれてしまうのも通りがかりの人たちが見ていたと思われます。しかし良いところに落ちると、一粒の種が百倍の実りを結ぶと言います。たった一粒から大きな実りが生まれるという驚き、神の国もそのようなものであるというのがイエスの主張だったと考えられます。

 人間は「因果関係」を考える性質があります。それは「あれを食べると苦しむ」のように、身を守るために必要だった能力でしょう。しかし私たちは、「これこれを実行したのだから何かの結果があるに違いない」と考えてしまいます。「種を蒔いたのだから、全ての種に百倍の実りがあるはずだ」というわけです。しかし今日の「たとえ」にあるように、「種を蒔いたらどうなるか」という結果は、私たちには分からないのです。それは人知を超えたこと、まさに神の働くところです。

 では、結果が分からないのだからといって、私たちは何もしなくても良いのでしょうか。「種を蒔く人」は、文字通り「種を蒔いて」います。その結果は分からないけれども、それでも種を撒き続ける。多くの種は実を結ばないかもしれない。しかし「百倍の実り」がある可能性を信じて、種を蒔き続けます。それこそが、私たちに求められている信仰と言えるでしょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。


2023年2月3日金曜日

2023年1月29日

 2023年1月29日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

 「神の神殿は、生きているか」 汐碇直美牧師

   ルカによる福音書 21:1-6節

 ナチス・ドイツ時代の牧師・神学者、ボンヘッファーは「他者のための教会」という印象的な言葉を残しました。つまり教会は、神さまと人に仕えるために存在しているということです。

 ルカ福音書21章5節以降で主イエスは神殿のあり方を問われ、その建物は神殿の本質ではないと指摘されました。「教会」を意味するギリシア語「エクレシア」の本来の意味は「集会」です。どれだけ立派な建物があっても、そこに神さまを礼拝する人々が集っていない限り「教会」とは呼べません。

 今日のみ言葉の前半部分、「やもめの献金」の物語は、教会、つまり礼拝する人の内実を表しているものです。ある貧しいやもめが、彼女の全財産であったレプトン銅貨2枚をささげました。1レプトンは今の日本円で約78円、2レプトンで約156円です。ユニセフの定める「極度に貧しい暮らし」は1日1.9ドル、約200円以下で生活しなければならない状態ですから、それに近い状況です。

 このささやかな献金に目を留めたイエスさまは、「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」とおっしゃいました。「生活費」に当たるギリシア語「ビオス」は元々は「命」や「生活」「人生」という意味です。イエスさまは金額の大小という「目に見える部分」ではなく、彼女が自分のすべてをささげた、その「心」を見られたのです。

 やもめの状況をリアルに想像するほどに、その厳しさの中で2レプトンをささげた彼女のすごさがわかり、「私にはできない」と尻込みしてしまいます。しかしそれでイエスさまの招きを拒んでしまうのは、あまりにももったいない。私たちも実は毎週の礼拝献金で彼女と同じように、お金だけではなく、体、心、たましいも含めた「私」という存在の全てをおささげしているはずなのです。

 最初に、教会とは神さまと人に仕える存在だとお話ししました。それはまるで十字架のように、神さまに向かう垂直方向の献身と、隣人に向かう水平方向の献身の二つがあるということです。関西労働者伝道委員会と専従者の大谷隆夫先生の場合は、釜ヶ崎の労働者という横方向への献身であり、この隣人への奉仕を通して、神さまに仕えておられます。

 「教会は生きているか」と、主イエスは問われます。実に厳しい問いです。しかしイエス・キリストは十字架と復活というみ業によって、神さまと隣人に仕え、共に生きる道を切り拓いてくださいました。感謝と祈りをもってこの道を一筋に、共に歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。