2018年2月28日水曜日

2018年2月11日

2018年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨 ~信教の自由を守る日~
 「平和を実現する人々は幸いなり」 宇野稔牧師
   マタイによる福音書 5:9節
 イエス・キリストは山上の教えの中で「平和を実現する人々は幸いである」と語りました。この言葉はギリシャ語でエイレーノポイオス(複数形)と云い聖書の中ではここ1ヶ所しか使われておりません。当時のローマ社会では一般に単数形で使われていた言葉です。「平和を実現する人」とはローマ皇帝その人であったのです。「すべての道はローマに通ず」と云われるぐらいローマの支配は確たるものとなっていたのです。特に、軍事力、経済力、政治力でした。周辺諸国を侵略し、力による支配をいきわたらせたのです。「ローマの平和」はこの圧倒的な力の支配によるものだったのです。しかしイエスは「平和を実現する人」ではなく「平和を実現する人々」と語っています。ローマ皇帝だけではなく、一人ひとりが「平和を実現する者たち」であると告げています。
 それはイエスの周りに集まっていた人々、ローマの支配のもとに置かれ、抑圧と搾取の中で貧しい生活を余儀なくされている人々、その人に向かってイエスは「あなた方、平和を実現する人々は幸いである」と告げ、その人々こそ神の子たちと呼ばれるのです。その人々とは、言葉を変えれば「愛に生きる」人々のことです。さらに「敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさい」を実行する人々です。それは暴力によってではなく、人を支配し人の上に立とうとするのではなく、キリストが私たちに仕えられたように互いに仕え合う道なのです。
 平和とは、イザヤが預言したように「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の中を歩もう。(イザヤ2章4節)」今私たちに出来ること『ハチドリのひとしずく』という書物から示され教えられました。イエスは「平和を実現する人々は幸いである」と語られた時、何万何十万もの大きな運動を意味されているのではなく、平和のために今あなたが出来ることをしていくことを語られているのです。今できることは何かを見つけましょう。主の導きを祈りつつ。

2018年2月19日月曜日

2018年2月4日

2018年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
 「当たり前のこと」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 2:41~52節
 イエスが12歳になった時の物語で、ルカにしか記述がありません。慣例に従って両親は過ぎ越しの祭りにエルサレムへ巡礼に行くのです。ナザレからエルサレムへ行くのにおおよそ3日間の旅だと云われています。祭りに参加するため、何日か滞在した帰り道で両親はイエスがいないことに気づきます。両親は翌1日かけてエルサレムに戻り、そして3日目に神殿にいるイエスを発見します。その間の両親の気持ちは心配を越えた「悶え苦しむ」という意味を示します。48節の両親の言葉に対して49節のイエスの言葉は両親にとって意味が不明であったとも書かれています。
 ではこの物語がなぜ書かれているのでしょうか。何か重要な意味を持っているのでしょうか。まず「3日」という数字です。つまり3日という数字を出すことで、これはイエスの十字架と復活に関する物語だと云っているのです。次に「捜す」「見つける」です。つまり「捜す、見つける」は死んだような存在に再び生命を与える神の愛を示します。だからこの物語は12歳の少年イエスの物語を借りながら、実は十字架と復活のことを語っているのです。ルカはイエスの言葉として「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのが当たり前だということをご存じなかったのですか」と記しました。当たり前という言葉は原語で「神が定められた」という意味を持っています。つまり十字架と復活のイエスこそ救いの中心であってこれが神の定められたことなのだというのです。イエスの両親は見失ったと思い、悶え苦しみました。しかし彼らは3日目に出会います。
イエスは自分を裏切り見捨てた人間のために十字架につかれました。イエス自ら十字架の苦難を負うことによって愛とは何か、愛によってつくる神と人間の関係は何かを具体的に教えてくださったのです。復活して生命となって下さったのです。その3日目のイエスこそ救いの中心です。神が定められたことであり「当たり前のことだ」とルカは語ります。私があなたを愛していることは「『当たり前のこと』なのです」と。

2018年2月12日月曜日

2018年1月28日

2018年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「ペトロ イエスの足跡」 山下 毅伝道師
  ルカによる福音書 5:1~11節
 内村鑑三の門下生には、商売人の方が多くいました。その商売人に対して「まず神の国と、神の義を求めよ」そして、神のために商売せよ、と述べています。
 イエスも現実の生活に関心を持たれていました。ルカ5:1―11には、ペトロはガリラヤ湖でまる一昼夜漁をしていたけれども、何も捕れなかったという物語があります。失望に落ち込んでいるペトロの「空の船」にイエスが乗り込んで来られます。イエスの指示に従って、網を下したところ、多くの魚が網にかかりました。この出来事は、漁の経験豊かなペトロにとって、驚きでした。イエスがペトロとともに漁師として働いて下さり、ペトロの「空の船」を満たして下さるのです。ペトロの「空の船」は、私達に、意味深長な教訓を与えてくれます。ですから、私達は、人生を歩む道で、「空の船」になる場面がありますが、絶望してはならないのです。悲しく苦しい時、まさに父なる神が私達を、訪ねて下さる良いチャンスなのです。多くの人は、この世の中で、肉の欲とこの世の誇りに従って世俗に酔って、人間の知恵と手段と方法で、何のために生きるのか知らずにいきています。
マタイ6:33には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」これは私達に人生の真の目的を教えてくれる言葉です。主を信じる私達は人生を生きて行く目的を、この世の経済や名誉を高めることに置かないで、神の国とその義とを求めることに置くとき、父なる神の恵みの中を進んで行くとき、世の中に生じて来るすべての必要な問題は父なる神が解決して下さることを体験します。主はいつも教会の中だけにおられ、「霊魂」の問題だけを解決されるのではありません。イエスは御言葉を伝えられた後、ペトロと事業に参加されました。イエスは私達と共に、職場に、家庭に、事業場に訪れて現実の問題を解決して下さるのです。

2018年2月5日月曜日

2018年1月21日

2018年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨
  「質素に」 桝田翔希伝道師
  マタイによる福音書 6:25~28節
12月の初め、家の冷蔵庫が壊れました。変な音がしていてどうしたんかなぁと思い2~3日様子を見ていたのですが、冷凍庫の氷が溶け出してしまいました。新しい冷蔵庫を買わんといかんなぁとは思ったのですが、今週買いに行こうと思いながら1ヶ月が終わってしまいました。結局、今でも冷蔵庫なしの生活をしているのですが、無くても案外生活できるなぁと思っています。
さて今日の聖書箇所では思い悩まずに、私たちの周りに普通に生きている鳥や、普通に生えて咲いている花をよく見なさいと語られています。考えてみますと、私たちは2000年前の人たちと変わらないような悩み事も抱えていますけれども、それ以上に多くのことで自分をよく見せよう、着飾ろうとして悩んでいるようにも思うのです。私たちの生活は2000年前に比べて非常に便利になりました。車や携帯、様々なもののおかげで私たちの生活は非常に便利なものになりました。しかし、便利なもので着飾るような生活のなかで私たちの生活は逆に「余裕」がなくなってきたように思います。そもそも私たちは野の花や空に飛ぶ鳥を眺めるような時間や心の余裕を持っているのでしょうか。冷蔵庫がなくても電気を使わないエコな生活ができると思いましたが、結局のところ自動販売機やコンビニと言った電気を使ったものに頼り切っている自分に気づきました。私たちの生活は、公害などの人の悲しみを含みながらも、ある程度後戻りできないようなものになりつつあります。着飾らない質素な生活はとても難しい生活なのではないでしょうか。
この聖書箇所では長々と思い悩まないようにと奨めていますが、最後に神の国と義を求めなさいと要約されています。一見すると難しいことを求められているようにも思いますが、野の花を見よという言葉と並んで語られていることに意味があるのだと思うのです。野の花を見るように、そんな自然な姿で、日々神に向き合いなさいと奨めているのではないでしょうか。空を飛ぶ鳥を仰ぐように神を思う生活を送りたいものです。