2020年3月25日水曜日

2020年3月22日

2020年3月22日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「良い香りが満ちた教会」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書12章1-8節

 ヨハネによる福音書では、ラザロの姉妹のマリアが、イエスさまの葬りの備えとして、ナルドの香油を用いたという話になっています。マリアは大切な兄弟であるラザロを生き返らせてくれた感謝の気持ちを表すために、特別にイエスさまの足に高価なナルドの香油を注ぎ、そして自分の髪でイエスさまの足をぬぐったのでした。
 そうすると「家は香油の香りでいっぱいになった」と聖書には記されてあります。イエスさまに特別な仕方で感謝をささげる女性がいて、そして部屋中がナルドの香油の良い香りで満たされている。とっても幸せな気持ちに、みんながなったことだと思います しかしその幸せな感じをぶち壊すことを言う人が出てきたわけです。それはイスカリオテのユダでした。
 わたしは合理的に考えることがどちらかと言えば好きですので、この「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉に引き寄せられてしまいます。合理的な判断ということから考えると、ひとりの人の足に300万円のナルドの香油を注ぐよりも、まあ貧しい人々のために300万円使ってもらうことの方が良いような気がします。ただイエスさまは言われます。「この人のするままにさせておきなさい」。イエスさまは合理的な判断を大切にされたのではなく、マリアのこころからの感謝の気持ちを大切にされました。わたしはこのナルドの香油の物語をよむときに、合理的だけど・愛のない自分がいることに気づかされます。
 「あのときマリアがナルドの香油を、イエスさまの足にかけてあげて、葬りの備えをしてあげてよかったよね。ほんと良かったと思う」。「イエスさまの十字架のときは、十分なことがしてあげられなかったもんね」。「あのとき部屋のなかにナルドの香油の香りがいっぱいになって、みんなとっても幸せな気持ちになったよね」。多くの人々がそういう気持ちを持っていたからこそ、このナルドの香油の物語は、2000年たっても色あせることのない素敵な出来事として語り伝えられているのです。
 私たちの教会はナルドの香油の香りがいっぱいになった家のように、良きイエスさまの香りのする教会でありたいと思います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という叱責が響き渡る教会ではなく、イエスさまの良き香りのする教会でありたいと思います。そしてイエスさまの良き香りに導かれて、イエスさまが大切にされた歩みを、私たちも歩んでいく、そうした私たちの歩みでありたいと思います。

2020年3月24日火曜日

2020年3月15日

2020年3月15日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「みんなが去っても、わたしは去らない」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:60~71節
 ヨハネによる福音書が書かれた時代は、ユダヤ教との決別という、クリスチャンとしてとてもはっきりとした決断をしなければならない時代でした。しかしユダヤ教から独立するということは、なかなかむつかしい問題がありました。ユダヤ教はローマ帝国のなかで、活動することのできる宗教と認められていました。ですからキリスト教がユダヤ教の一派であるのであれば、キリスト教は自由に活動することができるわけです。しかしユダヤ教から独立すると、ローマ帝国から認められていない宗教ということになるので、活動することが非常に困難になるのです。ですからキリスト教の中でもユダヤ教に留まる人たちと、ユダヤ教から独立する人たちに分かれるという困った出来事が起こりました。そうした事情がこの箇所には反映されています。
 使徒ペトロたちは多くの弟子たちがイエスさまから離れ去ったときに、「みんなが去っても、わたしは去らない」と言ったのです。しかしイスカリオテのユダだけでなく、他の十二弟子たちも結局、イエスさまから去っていくことになりました。
 「『みんなが去っても、わたしは去らない』とおまえはりっぱなことを言っていたではないか。あれは嘘だったのか。みんなの前で格好のいいことを言っていただけなのか。おまえは友人を大声で裁いていたではないか。『おまえは去っていくのか。わたしは去らない』と」。以前、私たち自身がそうであったように、人は冷酷で容赦のない言葉を言い捨てて去っていくのです。
 しかしそのときに、私たちは「みんなが去っても、わたしは去らない」とのイエスさまの御言葉を聞くのです。そうした惨めで弱く、また冷酷で容赦ない私たちのために、イエス・キリストは十字架についてくださったのです。私たちの罪をあがなってくださったのです。そして「みんなが去っても、わたしは去らない」と、私たちに慰めを与え、私たちの隣人となってくださるのです。イエスさまは私たちと共にいてくださいます。「みんなが去っても、わたしは去らない」。わたしは決してあなたを見捨てることはない。だから安心して行きなさい。あなたの罪は赦された。
 イエス・キリストは私たちと共に歩んでくださいます。イエスさまは復活されたあと、去っていった弟子たちをまた呼び集めてくださいました。私たちは傷つけあったり、去っていったりする弱さをもつ者ですけれども、イエスさまはそんな弱い私たちをまた呼び集めてくださいます。私たちが共に和解し、手をとって歩み始めることができるようにと、私たちを呼び集めてくださいます。イエス・キリストと共にまた歩み始めましょう。

2020年3月17日火曜日

2020年3月8日

2020年3月8日 受難節第2主日礼拝説教要旨
   「過去に目を閉ざす」 桝田翔希伝道師
     ヨハネによる福音書 9:13~41節
 ヨハネによる福音書9章では、生まれつき目が見えなかった男性がイエスによって見えるようになるという奇跡物語が描かれています。私たちは、奇跡物語を読むとどうしても「どのように奇跡が起こったのか」という瞬間的な事に注目してしまいがちかもしれません。しかし41節にわたり書かれているこの物語の背後には、奇跡だけでは終わらない神の働きが描かれています。物語の初めで、弟子たちは目の見えない人を見て、「見えないのは、この人が罪のせいなのか、それとも親の罪のせいか」とイエスに尋ねます。即ち、病の原因を気にしています。罪のせいで病が現れるという因果応報のような考えは、当時のユダヤ教社会で一般的に考えられていたことでした。しかしここでイエスは原因に注目するのではなく、どの人にも神の業が現れるということを語られます。注目するべきは、瞬間的なものではなかったのです。
 これを知った人たちは大議論を始めます。目の見えない人を癒す奇跡というのは、旧約聖書の中では救い主だけがすることができる奇跡とされ、これを行うことができた人はいませんでした。イエスを救い主と認めざるを得ない状況でありました。信じたくなかったファリサイ派の人たちは奇跡の起こった人にしつこく質問します。しかし最後には「あなた方もイエスの弟子になりたいのですか」と言い返されてしまい、腹を立てその男性を会堂(社会・議論)の外へと追いやってしまいました。イエスの弟子になるとはどういうことなのか、それは奇跡を受けることではなく、神の愛の中で変わっていくことなのかもしれません。目が見えるようになった人が追い出された後、再びイエスが現れこの人と対話をしています。
 私たちが生きる社会では、病気の原因が罪であるとは考えませんが、大きな変化の中を生きています。弟子たちのように「この人の罪のせいか」と問うことはありません。しかしここでイエスが示されたのは、救いへの課程であったのではないでしょうか。イエスが示しておられる方向性を考えながら歩むものでありたいと思います。



2020年3月10日火曜日

2020年3月1日

2020年3月1日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神さまが養ってくださる」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 4:1~11節
 2月26日(水)から、レント・受難節に入りました。イエスさまの御苦しみを覚えつつ、また自らの心の中の罪に向き合いつつ、しっかりとこのレント・受難節のときをすごしたいと思います。
 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、第二次世界大戦の時代に、ナチス・ドイツと戦った牧師です。アドルフ・ヒトラーの暗殺計画に加わりました。ただ「牧師として人を殺す計画に加わって、ほんとうにそれでよいのか」という悩みや迷いが、ボンヘッファーにはあっただろうと思います。
 最近、話題になっている検察官の定年延長についての事柄も、いろいろと考えさせられます。こうした誘惑を前に、「いやそれはおかしなことだと思うので、定年延長されても、63歳で辞めます」とわたし自身言えるかなあと思うと、ちょっとこころもとない気がします。できれば、こんな誘惑、目の前に現れないほうが良いのにと思うのですが、誘惑というのは、ときに私たちの目の前に現れて、私たちを苦しめます。人はいろいろな誘惑の前に立たされて悩みます。そして魂を売り渡したような決断をしてしまったあと、大きく後悔をするというようなことがあります。
 イエスさまは公的な活動をされる前に、悪魔から誘惑を受けられます。マタイによる福音書は、たまたま悪魔の誘惑に合われたのではなく、イエスさまが悪魔からの誘惑を受けるために、荒れ野に行かれたと記しています。イエスさまが悪魔の誘惑にあわれるというのは、人間を代表して、悪魔の誘惑にあっておられるのです。私たちが誘惑にあわれるのと同じように、イエスさまは誘惑にあわれるのです。
 イエスさまは誘惑を前にして、人は何によって生きているのかをはっきりさせた方が良いと言われます。そうすればその誘惑の前にかしずくべきなのかどうかが見えてくると言われます。イエスさまは、人は「神の口から出てくる一つ一つの言葉で生きる」。人は神さまの御言葉によって生きているのだと、イエスさまは言われました。人は神さまの「生きよ」という言葉によって生かされているのです。人は自分の力で生きているのではなく、神さまによって生かされているのです。
 私たちは弱いですから、日々の小さな誘惑を前にしても、どきどきしたり、誘惑を跳ねのけることもできず、あとで後悔したり、どうしてこんなに心が弱いんだろうと嘆いたりします。自分のことが恥ずかしくなることもあります。しかし、神さまによって生かされていることを、神さまが私たちをその愛でもって包み込んでくださっていることを、感謝をもって受けとめたいと思います。私たちを養ってくださっている神さまを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。

2020年3月2日月曜日

2020年2月23日

2020年2月23日 降誕節第9主日礼拝説教要旨
  「命と糧と分かち合い」 桝田翔希伝道師
    ヨハネによる福音書 6:1~15節
 5000人以上の人々を前にしたイエスが、「この人たちを食べさせるにはどれくらいの金額がかかるか」と問うと弟子のフィリポは「200デナリオンよりもっとかかる」と答えています。ここで5000人とは男だけの数でありました。男性中心の意識が今より強かった時代状況を伺うことができます。そしてフィリポが「よりもっとかかる」と言ったのは、数えられない人たちがいたことも示唆させます。そして子どものが持っていたわずかな食料に頼らざるを得ないほどに、弟子(人間)たちは無力でした。この物語は様々に解釈されてきたように思いますが、聖書に書かれていることは非常に限定されており、どのようなことが起こったのかを想像する力が要求されます。
 今日よりも経済的に貧しかった当時にあっては、「食事」というものの意味合いは今よりも強く、また宗教的な意味合いも強くありました。夕食の時には必ず家族が集まり、祈りがささげられてから食べたのだそうです。一方、私たちが生きる現代で、食事の意味は大きく揺れ動いています。徳冨蘇峰と共に働いた松原岩五郎というジャーナリストは『最暗黒の東京』(1893年)には、当時の東京に「残飯屋」があり士官学校や繁華街の残飯が取引され、それを利用せざるを得ない人々の様子が記録されています。繁栄する東京とは対照的に「最暗黒」に置かれた人たちがいました。また、文明批評家のイヴァンイリイチは男性中心の社会にあって「家事労働」は重要視されないことを指して「シャドウ・ワーク(影の仕事)」と言いました。また、ナチスドイツ下のユダヤ人収容所では少ない食事でやせ細りながらも働かされた人たちがいました。このような「安価な労働力」によって成長した企業もありました。一方で現代に生きる私たちはどのような食事をしているでしょうか。社会が経済的に発展しようとするとき、労働者が人間であることを忘れることがあるのです(藤原辰史、2014年)。私たちの社会の中にも、「人間であることを忘れさせる」ような力の中で、隠されていたり気づいていないことがたくさんあることを思わされます。
 パンと魚を巡ってどのような奇跡が起こったのか、私たちには分かりません。イエスを中心に分かち合いの連鎖があったのかもしれません。しかし聖書は、2匹の魚と5つのパンで人々が、確かに満たされたことを伝えています。ここには無力にも思える人間が確実に持つものを活かしてくださるイエスの姿があります。私たちは弱い存在です。社会の大きな力を前に多くのことを忘れ去ってしまいます。しかし知りえない部分を想像する中で、私たちの力を活かしてくださる神の力を信じ、祈り歩みましょう。