2019年8月27日火曜日

2019年8月18日

2019年8月18日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
  「世界の中心で「自分は正しい」と叫びたい私」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 10:25~42節
大阪教区の総会議長をしていたとき、こちらの人からも、あちらの人からも、「それは違う」と言われることがよくありました。あんまり「それは違う」と言われ続けると、わたし自身も疲れてきて、「自分は正しい」と叫びたい気持ちに襲われるときがありました。世界の中心で「自分は正しい」と叫びたいときというのが、私たちにはあります。
私たちにとって大切なことは何なのか。永遠の命を得るためには何をしなければならないのか。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること。また、隣人を自分のように愛しなさい』。そして、いろいろなわずらいを超えて、ただイエスさまが語られる神さまのことを聞くこと。そのように聖書は、私たちに教えてくれています。
そのように教えられていることはわかるわけですが、わたしはこの「善いサマリア人」「マルタとマリア」という聖書の箇所を読みながら、自分を正当化しようとした律法の専門家の気持ち、またイエスさまに対して「何ともお思いになりませんか」となじったマルタの気持ちがとても気になりました。
律法の専門家やマルタはその後、どうしたでしょうか。世界の中心で「自分は正しい」と叫んだあと、部屋に帰って落ち着いたときに、彼女たちはどうしたでしょうか。「やっぱりイエスさまは大切なことを、わたしに必要なことを教えてくださった」と思い直しただろうと、わたしは思います。そして正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられることに気づいただろうと、わたしは思います。
心が弱くなって、イエスさまの言われることを素直に受けとめることができないときが、私たちにはあります。「そんなこと言われたって、イエスさま、・・・・。わたしだけが悪いって言うのですか・・・」。しかし落ち着いて、祈りつつ歩むときに、イエスさまは私たちに永遠の命に通じる道を示してくださっていることに気づかされます。
正しくないわたしを招いてくださる神さまがおられます。「ぜったいわたしが正しい」との思いにとらわれて、高慢な思いになってしまうわたしを諭してくださる神さまがおられます。罪深い私たちを赦し、私たちに慰めを与えてくださる神さまがおられます。神さまは私たちを愛してくださり、私たちに永遠の命を備えてくださいます。












2019年8月19日月曜日

2019年8月11日

2019年8月11日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
   「自分の弱さを受け入れる」 小笠原純牧師
      ルカによる福音書 9:51~62節
ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。わたしはヤコブやヨハネのようなちょっと調子に乗った言葉を聞くと、なんか「ああ、この人たち、わたしとおんなじやなあ」と、妙に安心してうれしくなります。ほんとにいいかげんで、お調子者で、どうしようもない弟子たちです。
イエスさまたちは、サマリアの人々からは歓迎されませんでした。ユダヤの人々はサマリアの人々を差別して、蔑んでいました。サマリアの人々もまたユダヤの人々をよく思っていないわけです。ですからユダヤの人であるイエスさまを歓迎しませんでした。サマリアの人々を蔑む気持ちが、ヤコブやヨハネにあったからでしょう。ヤコブやヨハネは「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。それでイエスさまはヤコブとヨハネを、「戒められた」のでした。
イエスさまは「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」という人には、「そんなこと言っても、わたしと一緒にきてもろくなことないよ」と言われます。しかしまた別の人に対しては、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。無理して気負ってイエスさまのところにやってきた人には、水をかけたのに、煮えきらない人に対しては、こんどは葉っぱをかけるのです。
人は自分の弱さを受け入れられないときに、自分に対しても、人に対しても「こうあらねばならない」という正しさを求めます。ほんとうに神さまにより頼むとき、神さまに罪ゆるされたと思えるとき、人は使徒パウロのように【自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません】(2コリント12章5節)と言えるのだと思います。神さまは私たちの弱いところに働いてくださるのです。
自分の弱さ、なさけなさ。ひきょうな自分、ずるい自分。それを強がったり、こうでなければならないという気持ちで、ごまかすのではなく、まず初めに自分の弱さを受け入れたいと思います。そして私たちの弱さを知った上で、招いてくださるイエスさまについていきましょう。私たちの弱いところに働いてくださる神さまに委ねて歩んでいきましょう。






2019年8月11日日曜日

2019年8月4日

2019年8月4日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨
   「ちいさな者だけれど、平和を祈る。」 小笠原純牧師
       ルカによる福音書 8:1~3節
私たちの平安教会が属しています日本基督教団は8月の第一主日を、平和聖日としています。あさっては、8月6日、74回目の広島原爆記念日を迎えます。
ドイツで行なわれた反ナチス運動に、「白バラ」というのがあります。ショル兄姉とその友人たちは、ナチスドイツに反対するビラをつくり大学などで蒔きました。そしてゲシュタポにつかまり、逮捕されて四日で、ギロチンで処刑をされました。「あの人たちは何も超人的なことを企てたのではないのです。・・・。ある単純なこと、つまり個人の権利と自由、各人の自由な個性の発達と自由な生活への権利とを、背負って立ったにすぎないのです。・・・。彼らの欲したことはみんなが、わたしもあなたも、人間的な世界に生きうるということだったのです」(『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』、未来社)。ショル兄妹たちのその精神は引き継がれていきます。白バラは散らず、白バラは散らない。白バラは咲き続けるのです。小さな花であるかも知れないけれども、しかし白バラは咲き続ける。ショル兄妹たちはふつうの小さな人たちでしたが、しかしそのふつうの小さな人たちの良心が、この世界を支えています。
イエスさまの周りには、十二弟子たちと、そしてガリラヤから付いてきた女性たちがいました。イエスさまが十字架につけられたときも、そしてイエスさまがよみがえられたときも、女性たちはイエスさまのことを忘れることがありませんでした。女性たちは「自分の持ち物を出し合って」とあるように、自分たちのできる範囲のことを、誠実に行ないながら、イエスさまにお仕えしたのです。彼女たちは他人のものをもってくるのではなく、「自分の持ち物を出し合う」のです。もちろんそれでは足りないということもあったでしょう。それはそれで仕方のないことです。足りないことは神さまにお任せして、自分たちは自分の持ち物を出し合って、誠実に歩んでいったのです。マグダラのマリア、ヨハナ、スサンナの名前は記されていますが、しかしそのほかの多くの女性たちの名は記されることはありません。それでもやはり誠実に、イエスさまにお仕えして歩んだのです。
私たちもまた小さな者ですが、多くの女性たちのように誠実に歩みたいと思います。74回目の広島原爆記念日を迎え、そして8月9日の長崎原爆記念日、8月15日の敗戦記念日を迎えます。神さまの平和を求めて、祈りつつ歩みたいと思います。






2019年8月4日日曜日

2019年7月28日

2019年7月28日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
   「あなたの罪は赦された」 小笠原純牧師
     ルカによる福音書 7:36~50節
 田口ランディは「魂のコード」(「根を持つこと、翼をもつこと」、晶文社)というエッセーのなかで、自分のもつ弱さやずるさ、人としての冷たさを素直に書いています。
イエスさまがファリサイ派のシモンの家で食事をされた時、罪深い女と言われていた女性が、イエスさまの足もとに近寄り、泣きながらイエスさまの足に接吻して香油を塗りました。それをみてシモンは「この人が預言者なら、罪深い女が自分に振れていることが分かるはずだ」と思い、この人は大した人ではないと、心の中で決めつけました。
 わたしは「高みの見物としてのキリスト教」というものと、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」ということがあると思います。「高みの見物としてのキリスト教」は、キリスト教がどうであるかとか、イエスさまがどうであるのかということに関心があてられています。ファリサイ派のシモンは「高みの見物としてのキリスト教です」。彼は自分が高みにいて、イエスさまに対する評価を下します。
 もう一方の「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」というのは、自分を救っていただきたいということ関心があてられています。罪深い女と言われていた女性は、「わたしが赦される出来事としてのキリスト教」です。この女性は自分の罪を悔いながら、イエスさまに救っていただきたいと思っていました。
 イエスさまは「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。わたしは自分の心の冷たさが嫌いです。「この冷たい固まりに触れると、世界が音を立てて凍ってしまうのではないかと思える、私の中にあるこの冷たい凍った固まりをどうにかしてほしい」という思いをもっています。
 イエスさまは罪深い女と言われていた女性に、「あなたの罪は赦された」と言われました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」を聞くと、ちょっと元気がなくなってしまうわたしですが、この「あなたの罪は赦された」という言葉には、大きな安らぎを感じます。この女性の罪を赦してくださった方は、わたしの罪をも赦してくださると思えるからです。
 私たちの神さまは、私たちの罪を赦してくださる神さまです。私たちはこのことを謙虚に、感謝をもって受け入れるものでありたいと思います。