2026年5月16日土曜日

2026年5月10日

 2026年5月10日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「生まれてきてよかった」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 16:12-24節

 今日は5月第二週の日曜日で、母の日です。カナの婚礼の物語(ヨハネによる福音書2章1節以下)を読むと、イエスさまとマリアさんの親子関係があまりよくないような印象を受けます。マリアさんはイエスさまのことをいつも心配していただろうと思います。そしていろいろあるにしても、イエスさまが「生まれてきたよかった」と思えるような人生であってほしいと思っていたと思います。

 良い季節ですから、宝ヶ池に散歩に出かけます。宝ヶ池では幸せそうな人たちがいます。池を背景にして、スマホで自撮りをしているカップル。池の近くにシートを敷いて、お弁当を食べている若者二人。小さな幸せを楽しんでいる人たちを見ながら、「よかったね」と思えるのは、とても幸せなことだなあと思います。人の幸せをみても、「よかったね」と思えないときというのもあるわけです。自分がつらい思いをしているときは、なかなか「よかったね」と思えません。自分だけがどうしてこんな目にあわなければならないのだろうか。みんな幸せそうにしているのに、どうして自分だけが不幸なのだろうか。とても人の幸せをみて、「よかったね」と思えない。そんなときも、私たちはあるわけです。

 イエスさまは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われました。イエスさまは弟子たちに、わたしがいなくなり、あなたたちは大きな悲しみを経験する。しかしわたしはよみがえり、あなたたちと再び出会うことになる。そしてあなたたちは、こころから喜ぶことになるのだと言われます。そしてその喜びは神さまがあなたたちに対して与えてくださる喜びであるので、けしてそれが消えてしまうことはない。わたしがよみがえるそのときに、はじめてすべてのことが、あなたたちのうちで理解されるようになり、大きな喜び、大きな安心にあなたたちは満たされる。どんな不安ななかにあっても、神さまはあなたと共にいてくださる。だからわたしの名によって神さまに願いなさい。神さまがすべてのことを導いてくださるから大丈夫だ。神さまにお委ねして歩みなさい。そうすればあなたたちは喜びで満たされることになる。

 「生まれてきてよかった」。イエスさまは私たち一人一人がそのように思える人生であってほしいと願っています。そして私たちが悲しいとき、さみしいとき、いつも私たちの傍らにいてくださり、私たちを守ってくださっています。「その悲しみは喜びに変わる」、大丈夫、わたしがいるから。安心して歩んでいきなさい。イエスさまの慰めの言葉に励まされ、また新しい歩みを始めたいと思います。


2026年5月8日金曜日

2026年5月3日

 2026年5月3日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「イエスさまにつながって生きる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 15:1-11節

 わたしが高松で大学生活を送っていた時、まだ瀬戸大橋はできていませんでした。瀬戸大橋ができて、便利になったなあと思います。四国に住んでいた者としては、やはりつながるということは、なかなか安心なものだと感じます。ただ橋ができることによって、経済的な発展がなされたかというとそうでもありません。四国の電車の本数はどんどんと少なくなりました。安易につながるのではなく、やはり自分がどういうものを基盤として生きていくのか、何につながっていきていくのかということをしっかりと考えるということも大切なのだと思います。

 ぶどう畑やぶどうの木は、イスラエルにおいては、選ばれた民の象徴として用いられています。しかしイスラエルは神から選ばれた民であったのに、神から離れていくことがしばしばありました。そうしたことがイザヤ書5章1節以下には書かれています。

 イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木」、そして「わたしにつながっていなさい」と言われます。これほどイエスさまにつながっていることが強調されるのは、ヨハネによる福音書の書かれた時代に、ひとつには理由があります。ヨハネによる福音書の書かれた時代は、ユダヤ教の一派であるとされていたキリスト教が、ユダヤ教から異端であるとされた時代です。そのためいったんクリスチャンになっていながら、またユダヤ教のほうに帰っていった人々が出てきています。ですからヨハネによる福音書が書かれた時代の人々は、「イエス・キリストにつながっている」ということが大切になってきました。そしてそうした時代の中で、「まことのぶどうの木とは誰であるのか」ということが、真剣に問われたのです。

 そうした事情がありますが、それでもこの聖書の箇所は、私たちにやすらぎを与えてくださる箇所です。イエス・キリストに依り頼むことの確かさを豊かに表わしてくれています。イエス・キリストにつながって生きるということは、生き生きと自分らしく生きるということです。「クリスチャンとしてこうしなければならない」という思いに縛られて、自分では何もできない奴隷のようなつながりということでもありません。イエス・キリストは私たちを自分らしく生き生きといかしてくださいます。私たちはイエス・キリストにつながって生きていると、私たちは自分が神さまに愛されているかけがえのない一人であることを知ることできます。そして自分らしく生きていくことができるのです。


2026年5月1日金曜日

2026年4月26日

 2026年4月26日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「なんかとってもほっとするよね」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 13:31-35節

 『ことりっぷ』などの観光本のなかには、名所・旧跡だけでなく、おしゃれなカフェなど、雰囲気のよい写真と共に掲載されています。「なんかとってもほっとするよね」というような感じが大切なのだと思いました。

 イエスさまは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。弟子たちにとって「互いに愛し合う」ということは、「互いに赦し合う」ということでもあります。このあと、弟子たちはイエスさまを裏切ります。そしてみんな自分たちのことが信じられなくなります。イスカリオテのユダが、イエスさまを裏切ったように、あいつもわたしを裏切って、自分だけ助かろうとするかも知れないという思いに引きずり込まれます。そして逆に自分が裏切れば、ひとりだけ助かることができるのではないかという思いも出てきます。そしてそんな恥ずかしい思いをもつ人間であることに気づかされ、自分のことが嫌いになります。弟子たちはそうしたなかにあって、復活のイエスさまに出会い、イエスさまの新しい掟、「互いに愛し合う」ことを大切に歩んでいきます。「互いに愛し合い」「互いに赦し合う」。そしてそうした暖かい交わりを見て、人々がイエスさまの弟子である幸いを感じるようになります。

 私たちはキリスト教を伝えていくにはどうすれば良いのだろう。私たちの教会に新しい人が来てくださるにはどうしたら良いのだろうと思います。聖書はその方法について語っています。ヨハネによる福音書13章35節の言葉です。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」。

 私たちが互いに愛し合っているということが大切であるということです。「ああ、やっぱりいいよね。この教会。みんな互いに愛し合い、敬いあっている感じがする」。そのように思われることによって、多くの人々が教会に集うようになったということです。怒鳴り合い、非難し合っていたヨハネの教会が、そうではなく互いに愛し合い、そこに集う人々が安らぎを感じる場にしていったように、私たちの教会もまた安らぎを感じることができる教会でありたいと思います。「なんかとってもほっとするよね」。みんながそんなふうに感じることのできる教会の歩みをこれからも続けていきたいと思います。


2026年4月24日金曜日

2026年4月19日

 2026年4月19日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「良い羊飼いに導かれ」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 10:7-18節

 人生のなかには良き出会いというものがあり、この人に出会うことによって自分の人生が変わったと思えるような人に出会うということがあります。

 イエスさまは「わたしは羊の門である」と言われます。イエスさまは門で、イエスさまを通って入る者は救われるということです。どこの国でもいつの時代でも、自分のために政治を行っている国の指導者たちがいるわけです。おかしなことをしていても、自分たちのやっていることを正当化します。盗人のような指導者です。そういう人たちのところに行くのではなく、わたしのところに来なさいと、イエスさまは人々を招かれました。

 イスラエルの指導者たちが民のために政治を行おうとしないので、人々は疲弊し、苦しんでいます。預言者エゼキエルは「牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル書34章8節)と、イスラエルの指導者たちを非難します。イエスさまの時代のユダヤの指導者たちも、そうでした。民のために政治を行おうとせず、自分たちのための政治を行っていました。良い羊飼いがほしいのだと、人々は思っていました。それで、イエスさまは「わたしは良い羊飼いである」と言われるのです。

 私たちにとって、イエスさまは単なる指導者や導き手と違うのは、イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださったからです。「この人についていきたい」ということとは別なこととして、イエスさまには「わたしは羊の門である」ということがあります。羊の門であるイエスさまを通して、私たちは神さまの前に赦され、神さまの民として歩むことができるのです。イエスさまは私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖い、私たちを神さまのところに連れて帰ってくださるのです。

 イエスさまに委ねてあゆむとき、私たちは幸いな人生を歩むことができます。イエスさまは私たちのことをよく知っていてくださいます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。私たちは弱いところもありますし、またいいかげんなところもあります。熱しやすく冷めやすく、安物の器のようなところもあります。それでも私たちはイエスさまが私たちのことを愛してくださっていることを知っています。イエスさまが私たちにとっての慰め主であることを知っています。悲しい時、さみしい時、私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださる方であることを知っています。主イエス・キリストに導かれ、良き人生を歩みたいと思います。


2026年4月18日土曜日

2026年4月12日

 2026年4月12日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「疑いは幸いに変わり」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 わたしはガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、たいへん気になる性分です。そのことのために時間をとり過ぎるので、「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。

 聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。

 イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ってしまいます。

 イエスさまは疑り深いトマスのところにも来てくださいました。イエスさまはトマスの疑を責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。

 聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださる神さまがおられるということが大切なのです。

 私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。


2026年4月10日金曜日

2026年4月5日

 2026年4月5日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「不安が取り除かれる朝」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 16:1-8節

 イースターおめでとうございます。

 マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。

 マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

 マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。

 『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

 私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

 力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2026年4月3日金曜日

2026年3月29日

 2026年3月29日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「神に委ねたいのち」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 15:33-41節

 良寛の辞世の歌・句については、いろいろな説があります。「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」「散る桜 残る桜も 散る桜」「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」「師即開口阿一声耳。端然座化」。

 イエスさまの死について、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。マルコによる福音書のイエスさまは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスさまは十字架のうえで嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。そして私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。

 私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。「恐怖に襲われて、わたしは言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました」。

 イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。