2026年5月17日 復活節第7主日礼拝説教要旨
「イエスさまの祈り」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 17:1-13節
西方キリスト教会最大の教父と言われるアウグスティヌスは偉大な聖人であると言われるわけですが、少年時代には友だちと一緒に物を盗んだり、勉強をなまけて遊んだりしています。また青年時代にはもっともっと悪くなり、欲望のままに女性に溺れていったり、キリスト教から離れてマニ教をいう異端を信じたりと、なかなかたいへんなワルでした。
母モニカはアウグスティヌスのことが心配でたまりません。モニカはアンブロシウスに、アウグスティヌスが悔い改めるようにと働き掛けてほしいとお願いします。アンブロシウスはモニカにこう言いました。「しかし、子供さんを今のままにしておきなさい。そしてあなたは、ただひたすら、子供さんのために、主に祈りなさい。そうすれば、子供さんは、自分で本を読んで、その誤りがどのようなものであるかを、またその不信がどのように甚だしいかを、さとるだろう」「さあ、帰ってもらおう。あなたのいのちに掛けても、そのような涙の子が滅びたりなどするものか」。モニカは祈り続け、アウグスティヌスは悔い改めます。
祈りということは、現実的ではないですし、一見愚かにも思えることです。「祈って何になる」。そんなふうにも思えたりします。しかしアウグスティヌスをまっとうな道へと導いたのは、母モニカの愚かにも思える祈りであり、涙であったのです。一見、力のないように思える涙と祈りが、放蕩三昧を繰り返していたアウグスティヌスを、まっとうな道へと導いたのでした。
『育てるものの目』(婦人之友社)という本を書いておられる、保育士の津守房江さんは「私は子どもに対して目をつぶるということは、祈ることであると思う」と言われます。
私たちの世界は、祈りによって支えられています。放蕩三昧を繰り返すアウグスティヌスのために祈る母モニカの祈り。子どもたちの健やかな成長を願う母・津守房江の祈り。イエス・キリストの祈りは、そうした私たちの祈りを結び合わせ、包み込む祈りなのです。
私たちの罪のために、十字架についてくださったイエス・キリストは、十字架によってすべての絶望を希望に変えてくださいました。イエスさまはいまも、弱い私たちのために祈ってくださっています。私たちの弱さ、悩み、苦しみを、イエスさまは知っていてくださり、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」と、いつも私たちを招いてくださっています。