2026年2月13日金曜日

2026年2月8日

 2026年2月8日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「よき仲間に囲まれて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 2:1-12節

 一緒にいてくれる仲間がいるととても心強い気がいたします。単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。

 イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。この日は大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。

 中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。

 共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。

 私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。


2026年2月7日土曜日

2026 年 2 月 1 日

 2026 年 2 月 1 日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「命の種は広がっていく」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 4:1-9 節


 京都教区と韓国基督教長老教会大田老會との交流の実務者会議で、先週、韓国に行ってきました。会議が終わったあと、ソウルにある京東教会を見にいき、夕礼拝に出席してきました。礼拝は韓国語で行なわれていましたので、話されている内容はわかりませんでしたが、パイプオルガンの奏楽や独唱もあり、とても豊かなときを過ごすことができました。

 礼拝学者である今橋朗牧師は、礼拝の中で行われていることで一番大切なのは、聖書朗読だと言っておられます。聖書の御言葉には力があって、私たちがその御言葉をしっかりと聞くときに、その御言葉は豊かな実を結びます。それは礼拝という場にとどまらず、私たちの生き方を変え、私たちの世界を変える力になるのです。

 私たちはしっかりとイエスさまの御言葉を聞かなければなりません。しかし私たちはいい加減ですから、そんなに一生懸命に御言葉を聞くことができるのだろうかという思いもいたします。私たちは自分のいいかげんさというのをよく知っています。私たちは道端のようなものであり、石だらけの土地のようなものであり、茨が生い茂った土地のようなものです。サタンが来て、御言葉を奪い去ってしまう。御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉をふさいで実らない。まあ、イエスさまは私たちのことをよく知っておられます。

 イエスさまは同じ種のたとえですが、マルコによる福音書4章 26 節以下に、「『成長する種』のたとえ」「『からし種』のたとえ」という話をしておられます。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」とありますように、神の国は人の思いを超えて広がっていくと、イエスさまは言われました。ちいさなからし種が大きな枝を張り成長するように、命の種は豊かに実を結び広がっていく。私たちがどんなにだめな人間であったとしても、イエスさまの御言葉は、私たちの思いを超えて、広がっていきます。

 弱さやいいかげんさをもつ私たちですけれども、私たちもまた聖書の御言葉をしっかりと聞く者でありたいと思います。心を傾けて、しっかりと御言葉を聞くときに、私たちは新しい者へと変えられていきます。聖書の御言葉は、私たちをキリストへと導いてくださいます。御言葉の力を信じて、しっかりと聖書の御言葉に耳を傾けましょう。

2026年1月31日土曜日

2026年1月25日

 2026年1月25日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「汚れた霊が逃げていく」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:21-28節

 韓国のソウルにある警察庁人権保護センターという建物を見学したことがあります。この建物は、昔、南営洞対共分室という内務部治安本部傘下の対共捜査機関の庁舎でありました。政府に反対をして、韓国の民主化運動をしていた人たちを捕まえて、拷問をしていたという施設です。この建物は韓国近代建築の巨匠と言われる建築家によって建てられています。この建物は、外から拷問をしていることがわからないようにするような感じで作られています。とても有名な建築家によってこの建物が設計されているということに、わたしはとても重い気持ちになりました。だれもそんな拷問を行ないやすい建物など、建てたくはないわけです。しかし拷問を行なう国家の指導者が、そのような建物を建てたいといえば、だれかがそうした建物を設計し、建物は建てられます。「おまえなら、どうする」。そういう重い問いが投げかけられているような気がして、警察庁人権保護センターをあとにしました。

 イエスさまが汚れた霊を追い出すようすを見て、人々は「この人は権威ある新しい教え」を語っていると言いました。汚れた霊もイエスさまの言うことに従う。イエスさまは神さまの権威でもって語っておられる。そのように人々は思いました。律法学者たちやファイサイ派の人々が語った教えは、そうした力のない教えでした。汚れた霊や悪霊の働きを容認してしまう教えでありました。「仕方がないよ。どうしようもないのだから。見て見ぬふりをするしかないよね」。私たちも力のない者ですから、世の中の雰囲気に呑まれて、口を閉ざしてしまいそうになります。

 イエスさまは男の人に取りついている汚れた霊に「この人から出て行け」とお命じになられました。そして汚れた霊は男の人から出ていきます。私たちには汚れた霊や悪霊をお叱りになるイエスさまがおられます。イエスさまが力強い御手でもって、汚れた霊や悪霊を追い払い、私たちの社会が神さまの御心に適う社会へと導いてくださいます。

 そして私たちもまた汚れた霊を遠ざけるような生き方をしたいと思います。私たちはいつも主の祈りを礼拝の中で祈り、「悪より救い出したまえ」と祈ります。「悪より救い出したまえ」。誘惑の多い世の中です。また気づかないうちに、悪に取り込まれてしまうというようなこともある世の中です。「悪より救い出したまえ」と祈りつつ、神さまを信じて歩んでいきたいと思います。


2026年1月24日土曜日

2026年1月18日

 2026年1月18日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「今の『時』」 東島勇人牧師

  マルコによる福音書 1:14-20節

 関西労働者伝道委員会の働きを覚えて祈る交換講壇礼拝を共にでき、感謝しています。また、この機会に平安教会が当初から「街の教会」として地域の人々と共に歩もうとされてきた宣教姿勢を知ることができ、励まされています。

 昨日は、阪神・淡路大震災発生から31年の日でした。震災時、私は関学神学部に在学中で、西宮の木造アパートに住んでいて被災しました。丁度その日が修士論文提出日だったのですが、私は一旦無事だった友人宅に避難した後、友人たちの安否確認や地域の救援活動をする前に、危険な状態のアパートにわざわざ戻って論文を取り出し、大学に提出しに行きました。しかし、提出日は延期との張り紙がありました。その時になって私は、人の命や困難よりも自分のことを心配していた現実を思い知らされ、自分の愚かさ、罪深さに愕然としました。4月から広島流川教会担任教師となることが決まっていたのですが、自分のような者が牧会者になってよいのかとの問いの中で葛藤しました。その時に、励ましを与えられたのが今日のイエスの言葉と招きの出来事でした。

 イエスは宣教のはじめに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。ここで注目すべきは、「時は満ち」という言葉です。この時ユダヤ人たちは、ローマとユダヤの支配者たちによる圧政と重税に苦しめられ、心は不安や恐れに、生活は貧しさや困難に満ちていました。しかしイエスは、今この時が神の国が現実となる時なのだと宣言したのです。そして、「悔い改めて福音を信じなさい」、すなわち「生き方の方向転換をして、神の良き報せを信じなさい」と呼びかけました。この宣言の後、イエスの招きに応えて漁師であったペトロたちが弟子となりました。ペトロたちは貧しさや困難や人間的な弱さを抱えていましたが、イエスはあえてペトロたちを選び、その招きは無条件でした。

 私たちも、今この時にイエスの招きを受けている者として、どう応えていけばよいのでしょうか。イエスは招きの際に「人間をとる漁師にしよう」と言われました。「とる」は「生けどりにする」という意味の言葉です。それは、様々な現実を抱えて生きる一人ひとりと出会い、大切にし、喜びや悲しみを分かち合い、共に神の国の福音の喜びに与っていくことなのだと思います。関西労働者伝道委員会の働きも、その意味での大切な宣教活動として続けられています。労伝と、それぞれの教会の働きの上に、主の祝福と導きをお祈りいたします。


2026年1月17日土曜日

2026年1月11日

 2026年1月11日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「気づかないかな。ほら、そこに。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:9-11節

 昔、岡山教会の伝道師をしていたときに、土曜日の夜に教会に電話がありました。「明日、教会に行きたいと思って、岡山教会を探しています。近くにあるようなのですが、見つからないので、お電話しました」。それでわたしが「どこにおられるのですか」とお聞きすると、「岡山のビューホテルにいます」と言われました。それでわたしは「ビューホテルの前に岡山教会があります」と応えると、その方は驚いておられました。「ホテルの前も何度もとおったんですけどねえ」と言っておられました。たぶん岡山教会がこの方の頭の中で想像していた教会の形(木造で三角屋根で十字架がついているというようなもの)でなかったので、気がつかなかったのだと思います。 

 あるものが見えない。あるものに気づかない。あるいは別のものに見える。私たちにはそういうことがあります。それは人と人との関係においてもそうですし、また私たちと神さまとの関係においてもそうです。神さまから愛されているのに、そのことに気がつかない。神さまから守られているのに、そのようには思えない。 

 イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえます。この声は、私たちに対しても語られています。私たちは神さまの愛する子であり、神さまの御心に適う者なのです。それは私たちが神さまの愛を受けるにふさわしい立派な子であるとか、神さまの御心に適うりっぱなことができているということではありません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、神さまの大きな祝福の中に生かされているということです。 

 「気づかないかな。ほら、そこに」と、神さまは私たちに言っておられます。神さまは私たちを愛してくださっています。神さまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、イエスさまを祝福され、そして私たちの世にイエスさまを送ってくださいました。そしてイエスさまは神さまの心に適う者として、私たちのために十字架についてくださいました。 

 私たちは神さまにふさわしい者ではないかも知れません。しかしそれでも神さまは私たちのことを「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言ってくださり、私たちに神さまの愛を示してくださいます。神さまの大きな愛のうちにあることを信じましょう。神さまからの招きに応えて、胸を張って、新しい一週間の歩みをいたしましょう。


2026年1月10日土曜日

2026年1月4日

 2026年1月4日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「心配するな。大丈夫。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:41-52節

 日常生活を送っていますと、「わたし、大丈夫かなあ」と思えるときがあります。わたしが最近、体験した、「わたし、大丈夫かなあ」という体験は、古本を買った時の体験です。「ミレニアム4」という本の上下巻を買ったと思っていたのに、下巻二冊を買っていました。「同じ本を買ってくるなんて、わたし、大丈夫か」と思いました。でも「心配するな。大丈夫」と思い直して生きています。

 ユダヤのお祭りの過越祭に、イエスさまの家族はエルサレムで過ごすことにしていました。十二歳になったイエスさまも一緒に過越祭にエルサレムに来ています。祭りの期間を過しての帰り道、ヨセフとマリアはイエスさまがいないことに気がつき、慌ててさがします。三日の後、神殿の境内で学者たちの真ん中で話をしているイエスさまを見つけます。迷子になり、みつかったイエスさまはヨセフとマリアと一緒にナザレに帰ります。そのあとまあ穏やかに、マリアとヨセフに仕えて、イエスさまは大きくなっていきます。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、とても安心できる聖書の言葉です。「ああ、わたしもそんなふうに育ちたいものだ」と思えます。まあもうおじいさんになってしまっているので、育つも何もないわけですが、「すべての人がそんなふうに育ってほしいよね」と思えます。

 私たちの周りではいろいろな出来事が起こります。とても良い出来事もありますが、不安になるような出来事も起こります。しかしそれでも私たちの周りには、私たちのことを愛してくれる人たちがいてくれます。私たちを見守ってくださっている人たちがおられます。そのようにして私たちの世の中は回っていますし、そのようなやさしい社会のあり方を、私たちはこれからも大切にしていかなければなりません。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、私たちに「心配するな。大丈夫」と呼びかけています。あなたの周りにはすてきな人たちがいる。その人たちはあなたのことを愛している。そして私たちには神さまがおられる。神さまはあなたのことを愛しておられる。あなたはイエスさまがそうであったように、これからも神と人とに愛されて、幸いな人生を歩んでいく。

 神さまは私たちのことを愛してくださり、そしてみんなでこころを通わせながら、神さまの平安のうちを歩むことを望んでおられます。


2026年1月3日土曜日

2025年12月28日

 2025年12月28日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「御子イエスが招いてくださる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 クリスマスに、御子イエス・キリストをお迎えして、私たちは歩み始めました。新しい年もイエスさまの招きに応えて歩んでいきたいと思います。

 2025年、最後の日曜日です。2025年は男子普通選挙が実施されて100年、治安維持法が施行されて100年という年でした。この1925年(大正14年)という年に、細井和喜蔵の『女工哀史』が出版されています。細井和喜蔵は『女工哀史』の「序」でこう書きます。「虐げられ蔑まれ乍も日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育んでいる日本三百萬の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏っているものなれば何びともこれを一読する義務がある」。細井和喜蔵には『女工哀史』を書かずにはいられない女工に対しての尊敬と愛がありました。そしてこの書物は多くの人々に読まれました。『女工哀史』は、私たちの世界が小さき者たちの愛によって成り立っていることを、私たちに教えてくれる書物であるわけです。

 占星術の学者たちは夢のお告げで「ヘロデのところに帰るな」と言われます。そしてヘロデのところに帰ることなく、自分たちの国へと帰ってきます。ヘロデ王のところに帰っていくと、たぶん良いこともあったわけです。お礼をもらえたと思いますし、旅の安全の保障もしてくれたのではないかと思います。しかし占星術の学者たちは、ヘロデ王のところに帰ることなく、自分の国へと帰っていきます。力ある人との約束を無視するということですから、わかると大変なことになるかも知れなかったわけです。「ヘロデのところに帰るな」というのは、ひとつの生き方であるわけです。暴力的な力のある者に従って生きていくのか。それとも神さまが示してくださる愛に根ざした道を歩んでいくのかということです。

 暴力的な世の中にあって、イエスさまは小さな人たちの愛に守られて、その命を保ちます。クリスマスの話に出てくる人たちの多くは、力のない人たちです。ヨセフもマリアも、羊飼いもバプテスマのヨハネの母のエリザベトも、力のない人たちです。しかし彼らには神さまの愛がありました。彼らはみな神さまに望みをおきつつ、祈りつつ、その生涯を歩みました。

 イエスさまは神さまに祈りつつ歩んでいる私たちを招いておられます。私たちは弱くともしい者ですけれども、イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを、新しい年も歩んでいきたいと思います。