2025年6月13日金曜日

2025年6月8日

 2025年6月8日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「教会ー思いやりをもって生きるー」 小笠原純牧師

  使徒言行録 2:1−13節

 ペンテコステおめでとうございます。今日は姉妹教会のPOVUCC教会から、19名の方が礼拝にいらしてくださっています。

 イエスさまの弟子たちに聖霊がくだって、彼らは「ほかの国々の言葉で話しだし」ます。「ほかの国々の言葉で話した」というのは、相手の立場に立って、相手の気持ちになって話をしたということです。自分の都合ではなく、相手の気持ちを大切にして話すことによって、話が伝わっていくのです。

 人はなかなか思っていることを口に出せないものです。人は「大丈夫」と言われると、大丈夫でなくても、「大丈夫」と応えてしまったりします。わたしは若い時に、病気になって入院をするということがありました。大学病院ですから医学部の教授の回診というがありました。みんな病気なので、「ここがいたいとか、ここが気になる」「いろいろ質問してみよ」というようなことを言っているわけです。でも実際に回診のときに教授から「小笠原純さん、大丈夫ですか」と尋ねられると、「大丈夫です」と応えたりしてしまっていました。

 教会というところは、相手の気持ちになってとか、思いやりをもってということを大切にしているところです。それは教会がもともと、相手の気持ちになって、相手の立場に立って、神さまのことを伝えることによってできてきたところだからです。

 そして教会は、「赦し合う」ということを大切にしているところです。キリスト教のもっとも大きな特色は、失敗者・落伍者が伝えた宗教だというところです。イエスさまの一番弟子と言われていたペトロは、イエスさまが十字架につけられるときに逃げてしまいました。ペトロだけでなく、他のお弟子さんたちもイエスさまを裏切りました。しかしそのイエスさまを裏切ったお弟子さんたちが、復活されたイエスさまに出会い、赦されて、神さまのことを伝えて行きました。

 ですからキリスト教は失敗者・落伍者が「自分が赦された」という喜びを伝えた宗教なのです。それで自分が赦されたのですから、キリスト教は「赦し合う」ということを大切にしています。教会は、「思いやりをもって生きる」「赦し合う」ということを大切にしているところです。ちょっと疲れたなあとか、なんかちょっと不安な気がするなあというようなとき、ぜひ教会に行ってみてください。

 皆様のうえに、神さまの恵みと祝福とが豊かにありますようにとお祈りしています。

 

2025年6月6日金曜日

2025年6月1日

 2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「隠れたことを見ておられる神がおられる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:44-53節

 ウォルト・ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。この詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。神さまの祝福のもと、機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として応えてくれなかった、自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

 私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなり、困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、二つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると思っています。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる。神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

 来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


2025年5月31日土曜日

2025年5月25日

 2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「祈りによってわたしが整えられる」 小笠原純

  マタイによる福音書 6:1-15節

 平川克美は『会社は株主のものではない』(洋泉社)のなかで、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」ということを言っています。「お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです」(P.129)。こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところがあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。

 人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。

 「小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする」。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。

 私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。


2025年5月24日土曜日

2025年5月18日

 2025年5月18日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「わたしは道であり、真理である。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 14:1ー11節

 韓国の小説家ファン・ジョンウンは、『誰でもない』(晶文社)という本のタイトルについてつぎのように記しています。【この本のタイトルもまた、『誰でもない』ではなく『何でもない』と誤解されることがありました。・・・。私には、私が属している社会で人々が自分自身について、そして他の人について考えるときの姿勢が、ここに反映されているのだと思えます。私/あなたは、何でもない】。

 「誰でもない」小さな者である私たちですが、しかし「他の誰でもない」大切な一人の人間であるのです。イエスさまもまた私たちにそのことを教えてくださいました。あなたは神さまから愛されているかけがえのない一人の人間である。イエスさまは病気の人々、悩みの中にある人々のところをお訪ねになり、そしてその人が神さまの愛の中にあるかけがえのない大切な一人であることをお伝えになりました。

 イエスさまは弟子たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。イエスさまによって、私たちは真理を知り、命を得ることができる。そしてイエスさまによって、私たちは神さまへと導かれていきます。そしてイエスさまによって、イエスさまの十字架と復活によって、私たちは永遠のいのちを得ることができるということです。

 十字架を前にして、イエスさまは弟子たちを励まします。なんとなく不安になっている弟子たちに「あなたたちは大丈夫だ」と言われます。「あなたたちは道であり、真理であり、命であるわたしのことを知っているのだから、大丈夫だ」と言われます。弟子たちは自信がありません。自分がちっぽけな存在であることを知っているのです。誰でもない、何者でもない、自分であることを知っています。そして不安になります。しかし、イエスさまは弟子たちを、他の誰でもない大切な一人として愛してくださいます。そしてわたしを信じなさい。わたしにつながっていなさい。わたしは道であり、真理であり、命である。このわたしはあなたたちを離しはしない、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、弟子たちを招かれたのでした。

 イエス・キリストは私たちを招いておられます。誰でもない、何者でもない私たちを、イエスさまは他の誰でもない大切な大切な一人として、私たちを招いてくださっています。「わたしは道であり、真理であり、命である」。私たちはこのイエスさまが示してくださった神さまへの道を、しっかりと歩んでいきたいと思います。


2025年5月16日金曜日

2025年5月11日

 2025年5月11日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「母の願いをこえて」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 20:20-28節

 今日は母の日なので、わたしの母の思い出の出来事をお話いたします。それは「石油ストーブ丸焼け事件」という出来事です。わたしがストーブを消火することなく、灯油を入れていて、満杯になり灯油が飛び散って、ストーブが燃え始めるということがありました。母はそのときふとんをもってきてストーブを包み、そしてストーブを庭に出しました。そして事無きを得たということがありました。わたしの母は力持ちというような人でもありませんでした。しかしこのときの母は力強かったなあと思います。そしてこども心に、母がいてくれて心強いなあと思いました。

 聖書にもある母親の物語が記されてあります。ヤコブとヨハネのお母さんの話です。ヤコブとヨハネのお母さんはヤコブとヨハネと一緒に、イエスさまに息子たちの出世を願いに行きます。身勝手なお願いをヤコブとヨハネのお母さんは、イエスさまにしたわけですが、このお母さんの気持ちもわかるような気がします。親というのはこうした愚かさをもっているのです。「自分の子がかわいい。そのためには少々勝手なことをしてでも・・・」という気持ちがあるのです。

 しかしこどもはそうした親の思いとは違った生き方をし始めます。ヤコブやヨハネは、イエスさまのところにお母さんと一緒にいって、お母さんに「この二人を大臣にしてください」とお願いしてもらうような人間でした。しかしイエスさまが十字架につけられ、三日目によみがえられたあと、よみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまを宣べ伝える生き方をし始めます。人々の上にたつのではなく、人々に仕える生き方をし始めました。この生き方はたぶんヤコブやヨハネのお母さんが望んだ生き方ではなかったでしょう。「そんなことやめてくれたら・・・」とお母さんは思ったでしょう。しかしお母さんはまた自分のこどもたちを誇らしく思ったことでしょう。そしてこどもたちのために、神さまにお祈りしただろうと思います。「わたしの願いとは違ったけれども、この子たちが、自分の思いどおり、人々に仕え、神さまに仕えて生きていけますように」。私たちは人間ですから、身勝手な思いで、人間的な思いをもつときがありますしかし神さまはヤコブやヨハネのお母さんの思いを越えて、人として確かな道へと、ヤコブやヨハネを導いてくださいました。

 神さまは心のなかに邪な思いをもつ私たちを、それでも愛してくださり、私たちの歩む道を整えてくださいます。神さまの愛の中を安心して歩んでいきたいと思います。


2025年5月9日金曜日

2025年5月4日

 2025年5月4日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「ここにソロモンにまさるものがある」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 12:38-42 節

 人は何か確かに見えるものを求めようとします。まあ何か形があれば、安心できます。しかしいまはほんとうに簡単に映像もあったかのようにつくることができるようになりました。1945年8月16日の毎日新聞の一面は、「皇居二重橋前広場で土下座する人々」という写真が載っています。この写真は合成写真だそうです。

 イエスさまがよみがえられたことを信じられなかったトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました。まあそれでイエスさまはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われてしまいます。「見ないで信じる人は、幸いである」というのは、「ただ」信じるということです。

 基本的に、信仰というのは、二つの「ただ」でなりたっています。使徒パウロは信仰義認ということを言いました。信仰義認というのは、何かをしたから救われるというのではなく、「ただ」信じることによって、救われるということです。神さまも私たちに「・・・してくれたら」とは言われないのです。「律法を守ってくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、神さまは言われませんでした。「りっぱなことをしてくれたら、あなたたちを救ってあげる」とは、言われませんでした。私たちが救われるのは、神さまの憐れみによって救われるのです。いわば、私たちが救われるのは、「ただ」で救われるのです。こんなふうに、信仰の世界というのは、基本的に、「たら」の世界ではなくて、「ただ」の世界であるのです。「ただ」で救われたのだから、「ただ」信じるのです。「・・・してくれたら」の「たら」の世界ではなく、「ただ」信じるという世界に、私たちは生きているということです。

 イエスさまは私たちに与えられるしるしは、ヨナのしるしだけであると言われました。ヨナのしるしというのは、イエスさまの十字架と復活の出来事です。三日三晩、大魚のお腹の中にいたヨナのように、イエスさまも十字架につけられて葬られ、三日目に甦られるということです。そしてイエスさまのことを信じて、神さまの前に悔い改めて生きていく。このことが大切だということです。

 イエスさまは言われました。「ここに、ヨナにまさるものがある」「ここに、ソロモンにまさるものがある」。ヨナにまさる方が、ソロモンにまさる方が、私たちと共にいてくださるのです。イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩みましょう。



2025年5月2日金曜日

2025年4月27日

 2025年4月27日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「すこやかな歩みを大切に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 28:11-15節

 社会から倫理というものが失われてくると、「まあ少々嘘をついてもまあええか」という人が出てくるようになります。現代は嘘活用社会です。嘘を活用して、うまくこの世を乗り切ろう。嘘を証明するのには、証明するのに時間がかかる。嘘をついて、その場をごまかし、ことを有利に運んでいけば、成功すること間違いなし。嘘かどうかというようなことは大したことではない。という「嘘活用社会」です。とても困ったことだと思います。

 マタイによる福音書には、イエスさまの復活について、ユダヤの指導者たちが、イエスさまの遺体を弟子たちが盗み出したというように嘘をつくように、兵士たちにもちかけたという話が出てきます。

 気軽に嘘が広がっていく社会は、その社会に住んでいる人々にとって、あまり良い社会にはなりえません。嘘は簡単につくことができます。しかしその嘘が嘘であることを証明するためには、いろいろな労力が必要になります。どんどん嘘をついていけば、嘘を嘘であると証明する労力はもっともっと大変になってきます。そういう意味では嘘には勝てないのです。しかし嘘がなければ、その嘘を証明する必要はないわけですから、ほかのもっと良いことのためにその労力をつかうことができるので、社会にとっては良いことです。嘘は社会を疲弊させ、社会を貧しくさせていきます。

 エフェソの信徒への手紙には、「クリスチャンはこんな感じで生きたいよね」ということが書かれた聖書の箇所(エフェソの信徒への手紙4章25−32節)があります。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。江戸の狂歌、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」のように、あまり倫理ばかりが強調されるのもしんどいと思います。しかし。なるべく、嘘はつかず、互いに親切にして、憐れみの心を大切にして、互いに赦しあいながら生きていく。そうした健やかな歩みでありたいと思います。

 私たちは一人一人、神さまから愛されている大切な人間です。私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださいました。そして復活されて私たちの希望となってくださいました。神さまは私たちをとても大切な人として愛してくださっています。神さまに愛されていることを受けとめて、すこやかな歩みでありたいと思います。