2026年8月2日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨
「互いに平和に過ごしなさい。」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 9:42-50節
今日は平和聖日礼拝です。アジア・太平洋戦争が終わり、81年となります。今年、12月10日に私たちの平安教会は教会創立150周年を向かえます。平安教会百史には、戦争中の教会の様子について書かれてあります。「教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている」と、この時代について、反省を踏まえながら、教会の歩みの苦悩を記しています。戦争が始まると教会は苦悩します。それは戦争が神さまのみ心に反した、人間の暴力的な営みであるからです。神さまのみ心にしたがって「戦争反対」を口にすると、周りから「非国民」の大合唱がわき起こります。そんな時代でした。
イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われました。小さな者をつまずかせる者を、神さまがお許しにならないと、イエスさまは言われます。そして、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と、イエスさまは言われます。あなたは地獄に行くことになっても良いのか。やっぱり地獄は避けたいと思います。そしてイエスさまは、「人は皆、火で塩見を付けられる」と言われます。塩見というのは、神さまのみ心をしっかりと受けとめているということです。小さな者をつまずかせることなく、人間として神さまに恥ずかしくない歩みをするということです。
小さな者を軽んじないという姿勢が失われてしまうと、社会はやさしさを失い、効率ばかりが叫ばれ、「社会に迷惑をかけているものはだれだ」「なまけものはだれだ」と叫ぶ恐ろしい人たちが幅を利かせるようになっていきます。アジア・太平洋戦争中は、私たちの国はそうした社会であったのです。だからこそ、イエスさまはあなたたちの内に塩を持ち、小さな者の一人をつまずかせない者として生きていきなさいと言われるのです。
そして「互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われます。いたずらに対立をあおったりすることもなく、自分自身の内にはしっかりと塩を持ち、平和に過ごしていきなさいと、イエスさまは言われます。争いが続き、平和とは到底言うことのできない世界ですけれども、神さまの義と平和に満ちた世界になりますようにとの祈りをもちつつ歩んでいきたいと思います。