2026年10月2日金曜日

2026年9月27日

 2026年9月27日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「イエスさまと共に祈る」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:26-42節

 耕治人の『そうかもしれない』(講談社)は老々介護についての私小説です。耕治人のおつれあいが認知症になり、耕治人はおつれあいを介護することになります。耕治人はトイレで倒れ、意識不明になりながらも、自分がおつれあいの世話をしなければならないという一心で、元気になろうとします。そのことを耕治人は、「呆ほうけた家内が、私を救ったのだ」と言っています。

 私たちは自分が優位な立場に立っているかのように思って、「助けてやらなければ」「教えてやらなければ」「救ってやらなければ」と思ったりするわけですが、しかし実際はそうではないというようなことがあります。人は支え合って生きているのです。弱さを抱え、そして弱さを共にしながら、人は支え合って生きています。

 イエスさまは自分を裏切る弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、弟子たちに目を覚まして、共に祈っているようにと言われました。裏切る弟子たちと共に祈るイエスさま。それがイエスさまなのです。イエスさまは言っておられます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ福音書2章17節)。

 私たちは罪人だからこそ、イエスさまに招かれ、そしてイエスさまと共に祈るのです。弟子たちはイエスさまを裏切りました。イエスさまを裏切るようなだめな人間だからこそ、弟子たちはイエスさまと共に祈らなければならないのです。

 弟子たちはゲッセマネでイエスさまと共に祈ることができなかったことを、後悔したと思います。なぜイエスさまと共に祈ることができなかったのか。しかし弟子たちは祈れなかったけれども、弟子たちはイエスさまによって祈られたのです。そして弟子たちにとって大切なことは、弟子たちが祈ることができたということではなく、イエスさまによって祈られたということなのです。

 私たちもまたイエスさまによって祈られています。私たちは祈るとき、祈られているのです。私たちが祈るとき、イエスさまは私たちのために祈っておられるのです。私たちはイエスさまと共に祈ります。私たちは罪人として招かれ、そしてイエスさまと共に祈ります。私たちはイエスさまの祈りによって守られ、イエスさまと共に祈るのです。


2026年9月25日金曜日

2026年9月20日

 2026年9月20日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「赦しの杯を受けて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:10-25節

 クリスチャンには、二つの幸いが与えられています。一つは創世記の出てくる天地創造の際の幸いです。神さまは天地を創造され、そして良しとされます。私たちの世界は神さまの祝福のもとに造られている。そして私たち一人一人も神さまが良しとされる者として造られているということです。これが一つ目の幸いです。

 そしてもう一つの幸いは「赦しの幸い」です。私たちは赦された者として生きているということです。私たちは神さまの前に良くないことをします。本来、神さまの前に赦され得ない者として立っているということです。神さまの前に赦され得ない者が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって赦される。これが「赦しの幸い」です。

 イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切ります。イスカリオテのユダは祭司長たちのところにいって、イエスさまを裏切ることを話します。祭司長たちはそのことを聞いて喜び、そしてお金を渡す約束をしました。そのあとイスカリオテのユダはどのようにすれば、イエスさまを引き渡さすときをねらっていました。

 イエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切り、自分を祭司長たちに引き渡すということを知っておられます。しかしイスカリオテのユダを、イエスさまは過越の食事に招いておられるのです。そして他の弟子たちも、やはりイエスさまを裏切るのです。イエスさまがとらえられたときに、弟子たちはみんな逃げ去ってしまうのです。イエスさまは弟子たちが自分を裏切ることを知っておられたのですが、イエスさまは自分を裏切る者を招いて、最後の食事をされたのです。

 私たちはクリスチャンとして、赦しの杯を受けて生きています。神さまから「あなたの罪を赦す」という幸いを受けて生きています。そのことが、私たちを根底から支えているのです。邪な思いをもち、ずるいことをしてしまったり、人を傷つけたり、人を恨んだり、人を陥れようとしたりと、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまったりする私たちです。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちの罪を赦し、「あなたはわたしの大切な人だ」と祝福してくださいます。

 どんなときも、わたしの手を離さない方がおられます。罪深いわたしの手を離さず、わたしを導いてくださる方がおられます。この幸いに感謝をして、赦しの杯を受けて、神さまに向かって歩んでいきましょう。


2026年9月12日土曜日

2026年9月6日

 2026年9月6日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「大切なことを見つめる」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:35-44節

 わたしは昔、ケーキを家族に買って帰ってきて、二人の娘が「わたしがこのケーキが食べたい」「いやわたしもこのケーキがいい」というようなことで、いさかいを始めるというようなことがありました。まあせっかくおいしくケーキを家族で食べようと思ったわけですが、まあそれが原因でケンカになるというようなことがおこるわけですから、人間のすることというのは、なかなか大変だあと思います。大切なことはおいしくケーキを食べることであったのに、ちいさなことにこだわってケンカが起こるのです。

 律法学者たちは細かいことにこだわって、大切なことを見失ってしまうということがありました。「律法にこう書いてある」「この律法の箇所は、このように解釈をするべきだ」というようなことにこころが向いてしまっていました。ですから律法学者は「メシアはダビデの子孫から生まれなければならない」というようなことにこだわっているわけです。

 そうした細かなことが大切なのでなくて、神さまの愛が貧しいやもめに向けられているということに気がつくことが大切だろう。神さまが私たちを愛してくださり、欠けたところの多い私たちをそれでも許し、愛してくださっているということが大切だろう。貧しいやもめが、神さまを信じ、こころからの献げ物を神さまに献げようとしていることのほうが大切だろうと、イエスさまは言われるのです。

 家柄がいいとか、裕福な生活をしているとか、たくさんの知識を持っているとか、そういうことが大切なことではないと、イエスさまは言われました。大切なことは、神さまが私たちを愛してくださっているということなのだと、イエスさまは言われます。貧しいやもめはそのことをよく知っていました。ですからやもめは神さまに対して自分ができる精一杯の感謝を表したのでした。

 神さまはあなたを愛してくださっている。あなたがどんなに邪な思いをもつ者であったとしても、あなたが神さまにふさわしい者でなかったとしても、それでも神さまはあなたを愛してくださっている。自分のことを信じるのではなく、神さまを信じて歩みなさい。神さまは罪深いあなたを許してくださり、イエス・キリストの十字架と復活によって、あなたに永遠の命を約束してくださった。その憐れみ深い神さまの愛を信じて歩んでいきなさい。

 イエス・キリストの招きにこたえて、神さまを信じて歩んでいきましょう。


2026年9月4日金曜日

2026年8月30日

 2026年8月30日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「あなたは、神の国から遠くない」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:28-34節

 アメリカの会衆派の宣教師によって建てられた神戸女学院の教育の基盤となる標語は「愛神愛隣」です。「みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています。なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です」(松澤員子元院長・元学長)。

 律法学者はイエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問をしました。それに対してイエスさまは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と答えました。そして、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えました。

 イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまはこの第一の掟と第二の掟は切り離すことができないのだということを言われたわけです。「愛神愛隣」ということはキリスト教において大きな道しるべの規範です。イエスさまがそのように生きられ、そして多くのクリスチャンがそのことを心にしっかりと受けとめて歩んでいます。

 イエスさまは一人の律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。微妙な言葉です。遠くないけど、着いたわけでもない。ちょうどわたしのカーナビの「目的地周辺に到着いたしました。右です」というような響きです。もうあなたは神さまのことをよく知っている。神さまの祝福はあなたに届いている。あとはあなたがそれを受け入れるかどうかだと、イエスさまは言っておられるのです。

 信仰というのは理解をし、そして生きるということです。クリスチャンになったらすべての迷いがなくなるというわけではありません。いろいろな迷いや信仰的な挫折があります。わたしは上手に生きることも、正しく生きることもできません。しかしわたしは神さまを信じて、確かに生きることができます。

 「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスさまの教えを知り、私たちはイエスさまと共に生きます。イエスさまが私たちに先立ってくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。イエスさまの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。


2026年8月28日金曜日

2026年8月23日

 2026年8月23日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「暴力の支配は終わり」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:1-12節

 戦争というのは、簡単には終わらないもののようです。イランとアメリカの戦争終結の覚書も計画通りには進んでいません。ロシアとウクライナの戦争も続いています。私たちの世界はとても暴力的な世界になりました。このことについて、アメリカやロシア、中国といった大国の責任というのは大きいと思います。アメリカのトランプ大統領が行なった、ベネゼエラに対する軍事作戦は国際法上許されることのないものです。力でもって、暴力的に解決していくという大国の態度は、私たちを不安にさせます。アメリカがやるのであれば、ロシアもやる。アメリカがやるのであれば、中国もやる。というような感じになってくると困ります。そろそろ大国が悔い改めて、まともな国になってほしいと思います。

 イエスさまのたとえである「ぶどう園と農夫のたとえ」は、なんとも暴力的な話です。僕たちは殴られ、侮辱され、殺されます。愛する息子も殺されます。そして農夫たちもまた殺されます。救いようのない人間世界の様子が語られています。イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と話されました。しかし神さまはそのようにはなさいませんでした。救いようのない暴力的な世界に対して、暴力でもって解決をされるということを、神さまはなさいませんでした。神さまは暴力的な世界に対して、神さまの愛を示されました。神さまは神さまの愛によって、暴力の支配を終わりにされたのです。それがイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。

 私たちは神さまの愛のなかに生きています。私たちは神さまの許しのなかに生きています。私たちは邪な思いをもちますし、人を傷つけたり、人のことをねたんだりもします。神さまの前に恥ずかしい思いを、心の中のもつことも多いです。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちに寄り添って下さいます。

 暴力的な世の中に生きていると、暴力的なことがふつうになってしまいます。少々うそをついてもいいじゃないか。みんなやってることだよ。というような思いになってしまいます。しかし暴力的な世の中だからこそ、少しでも神さまの愛を示していける歩みでありたいと思います。私たちは神さまの愛によって生きています。神さまの愛をゆたかに感じて、神さまの民として歩んでいきましょう。


2026年8月21日金曜日

2026年8月16日

2026年8月16日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「平和平和と語り伝える」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:46-52節

 昨日は、8月15日、敗戦記念日でした。81回目の敗戦記念日です。戦時下になると、自由のない、相互監視の強い、窮屈な社会になってきます。戦争の時代ならないようにしなければならないと思います。関西セミナーハウス活動センターが、『「戦争の時代」にしないために 非暴力・平和主義を求めて』という本を発行しています。この本の中で、岡本厚がこんなことを書いています。国家は嘘で戦争を始めるというのです。「イラク戦争になる直前、イラクは大量破壊兵器を持っている証拠があると米国の国務長官が国連で発言しました。しかし実際には存在しませんでした。こうして嘘を言って米国は戦争を始めたのです。日本だってかつて柳条湖事件、盧溝橋事件で嘘をついて戦争を始め、拡大しました。戦争を始めたい側が嘘をつく、フェイクニュースを仕掛け、国内国外の人びとの感情を煽るというのが歴史の教訓だと思います」(P.37)。

 私たちの愛する国が、嘘をつき、人々をだまし、倫理観のない国家になってしまうというのは、とても残念なことです。ですから私たちはいつも愛する国に対して、そんなことにならないように、「戦争をしてはだめですよ」「世界の国々と平和に過ごしてください」と、声をかけ続けていきたいと思うのです。

 イエスさまは盲人バルティマイの目を見えるようにされました。バルティマイが何度も何度も「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたからです。私たちもまたあきらめることなく、「わたしは平和が良い」「戦争には反対いたします」と語っていきたいと思います。

 暴力的な私たちの世界にあって、私たちはいま、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」というバルティマイの叫びを思い起こしたいと思います。戦争を終わらせることのできない、みじめな世界に、私たちは住んでいます。イエスさまの憐れみによって、私たちの世界を変えていただきたいと思います。私たちは人間の力により頼んで生きているのではなく、神さまの愛に依り頼んで生きています。そして神さまが神さまの愛に満ちあふれる世界にしてくださることを、私たちは信じています。

 神さまの義と平和に満ちあふれた世界になりますように。暴力ではなく、神さまの愛によって、私たちの世界が整えられますように。互いに尊敬しあい、互いに助け合う私たちの世の中でありますように。そうした祈りを神さまに献げながら、平和を祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2026年8月14日金曜日

2026年8月9日

 2026年8月9日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「こどものように」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:13-16節

 平和聖日に向けての早天祈祷会で『平安教会100年史』の戦争中の箇所を読みました。1941年6月6日には内山完造が「支那事情講演会」の講師として講演したと書かれてあります。内山完造は上海で内山書店を立ち上げ、中国の作家である魯迅と交流の会った人でした。

 魯迅の作品に、『狂人日記』という作品があります。ある男の人が自分が食べられるのではないかと思い始めます。そして自分もまた人を食べたのではないかと思うようになります。この『狂人日記』というお話で、魯迅が言いたかったことは、世の中の人が、人を人として見ないで、人を物として見ている。人を自分が利用するための道具としてみている。そういう人と人とのあり方が、人を食べているということです。

 『狂人日記』の最後は「人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・」という言葉で終わります。これはこのお話を書いた魯迅が、こんな人が人を傷つけ合って成り立っている社会、人を食っているような世界がなくなってほしい。そしてそうした世界に染っていない子どもたちに、人を食べるような世界ではない、人が互いに傷つけ合っているような社会ではない、人が助け合って、人が支え合って生きていく社会をつくりだしてほしいという願いが込められています。

 イエスさまは「子どもたちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。大人たちは人を役にたつとか役にたたないというようなことで人を見ることが多いけれど、子どもたちはみんな神さまから愛されている大切なひとりひとりとして見ることができると、イエスさまは言われます。また大人は「世の中こんなもんだ」というふうに人を食べるような世の中を認めてしまいますが、しかし子どもたちは神さまの愛にふさわしい世の中を求めようとします。イエスさまは子どもたちを祝福しながら、この人が人を食べるような世の中に負けることなく大きくなってほしい。そして人を傷つけ、苦しめる、人を食べるような世の中を、神の国へと変えてほしいと思いながら、子どもたちを祝福されました。

 イエスさまは子どもたちを祝福されたように、大人たちに対しても、やはり招いておられます。こどもたちのように、神さまの国を求めて生きなさい。イエスさまはそのように私たちを招いてくださっています。