2026年4月18日土曜日

2026年4月12日

 2026年4月12日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「疑いは幸いに変わり」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 わたしはガスの栓をしめただろうかとか、ストーブをちゃんと消しただろうかとか、たいへん気になる性分です。そのことのために時間をとり過ぎるので、「見ないで信じるものは幸いである」という気がします。

 聖書にはイエスさまの復活の出来事を疑ったということが出てきます。わたしはこの話を読みながら、ほっとします。そういう意味で、今日の聖書の箇所に出てきますトマスという人は、のちのキリスト者にとって、ほんとうに良き働きをした人だというふうに思えます。

 イエスさまの弟子たちは、復活のイエスさまご自身と出会い、生ける力を与えられたのですが、しかしそのとき、たまたまいなかった弟子がいました。それがトマスでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ってしまいます。

 イエスさまは疑り深いトマスのところにも来てくださいました。イエスさまはトマスの疑を責めるのではなく、「あなたがわたしの手のきずに指を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい。あなたがわたしのわきのきずに手を入れることで信じられるというのなら、入れてごらんなさい」というふうに言われたのです。イエスさまは、疑り深いトマスのところに降りてきてくださいました。疑り深いトマスを見捨てられるのではなく、トマスが信じることができるようになるためであれば、どんなことでもいとわないというふうに言われたのです。

 聖書が語ることは、「疑ってはいけない」ということではありません。「疑うものは神さまから裁きを受ける、神さまは信じられない者を裁かれる」ということではないのです。疑ってはいけないということではなく、疑っている私たちを許してくださる神さまがおられるということが大切なのです。

 私たちは疑い深い者であるかも知れないけれども、神さまはそういう私たちの疑いを幸いに変えてくださるかたなのです。私たちをとらえて離さない神さまの愛によって、私たちは見ないで信じる者へと導かれていくのです。疑いは幸いに変わるのです。自分たちのちっぽけな信仰などをあてにするのではなく、疑っても疑っても、私たちを愛してくださる、神さまの愛を信頼して歩んでいきましょう。


2026年4月10日金曜日

2026年4月5日

 2026年4月5日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「不安が取り除かれる朝」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 16:1-8節

 イースターおめでとうございます。

 マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。

 マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

 マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。

 『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

 私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

 力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2026年4月3日金曜日

2026年3月29日

 2026年3月29日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「神に委ねたいのち」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 15:33-41節

 良寛の辞世の歌・句については、いろいろな説があります。「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」「散る桜 残る桜も 散る桜」「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」「師即開口阿一声耳。端然座化」。

 イエスさまの死について、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。マルコによる福音書のイエスさまは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスさまは十字架のうえで嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。そして私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。

 私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。「恐怖に襲われて、わたしは言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました」。

 イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。


2026年3月27日金曜日

2026年3月22日

 2026年3月22日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「あなたのほしいものは何ですか」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:32-45節

 「マダム・イン・ニューヨーク」というインド映画の主人公のシャシという女性は、「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言います。シャシは二人の子供と夫のために尽くすけれども、英語がはなせないということで、ときどき家族からも失礼な振る舞いをされたりします。そのためシャシは「恋は要らないの。欲しいのは尊重されること」と言うのです。人によって、また年齢によって、状況によって、ほしいものはさまざまでしょう。イエスさまは今日の聖書の箇所で、「あなたのほしいものは何ですか」と問われます。

 ヤコブとヨハネは、イエスさまに「イエスさまがえらくなったときは、私たちを特別に用いてください」とお願いをします。ヤコブやヨハネがイエスさまに自分たちの出世を願い出たことについて、他の弟子たちは腹を立てます。イエスさまは弟子たちを諭されます。みんな知っていると思うが、世の中では支配者と見なされている人々が民を支配し好き勝手なことをしている。偉い人たちが権力をもって、人々を虐げている。そんな世の中、あなたたちはどう思うのか。そんな世の中でいいのか。世の中は力やお金で動いているけれども、あなたたちのなかはそうであってはだめだ。偉くなりたい人はみんなに仕える人になってほしい。わたしもまたそのように生きている。わたしは人々の罪のために十字架につくために、この世に来たのだ。

 イエスさまはヤコブとヨハネに「何をしてほしいのか」「あなたのほしいものは何ですか」と問いかけられました。ヤコブとヨハネは「出世したい」「えらくなりたい」と答えたわけです。でもイエスさまは「あなたのほしいものと、あなたが本当に必要としているものは、おなじものではない」と言われます。あなたのほしいものは、出世することやえらくなることかも知れない。でもあなたが本当に必要としていることは、そうしたことではない。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。あなたが必要としていることは、謙虚な思いになって、隣人と共に歩んでいくことだ。神さまが喜ばれる生き方をしてほしい。

 レント・受難節も第五週を迎えました。私たちはイエス・キリストの歩みを、こころに深く受けとめたいと思います。イエスさまは仕えられるためではなく仕えるために来られました。そのイエスさまの愛の姿を、こころに受けとめて、私たちもイエスさまの愛にふさわしい歩みでありたいと思います。


2026年3月21日土曜日

2026年3月15日

 2026年3月15日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「イエスさまは十字架へと歩まれた」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:2-10節

 十字架というものは不思議なもので、刑罰の道具であったものが、いまではジュエリー・アクセサリの形として使われています。十字架はイエスさまが十字架につけられたことによって、栄光のしるしとなりました。

 「イエスさまの姿が変わる」という山上の変容の出来事は、神の御子であることを表す出来事です。イエスさまが神々しい姿で、エリヤとモーセと一緒に語り合っているというのは、いわば天上でのイエスさまの姿です。それは栄光に満ちています。ペトロたちがうれしがるのも無理はないことです。ただ地上でのイエスさまが神さまから託されていることは、ぼろぼろになって十字家につけられるということです。

 しかし神々しいイエスさまの姿は天上の姿であって、それは地上での姿ではないのです。結局、エリヤやモーセはいなくなり、イエスさまだけがペトロたちと一緒におられます。そして天の声は「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と響きます。神さまは十字架への道を歩まれるイエスさまこそが、わたしの愛する子だと言われます。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という聖書の箇所があります。私たちは輝かしいものやりっぱに見えるものに目が向きがちです。そのことがすべてが悪いということもないと思います。やっぱり人間、りっぱになりたいと思いますし、また輝かしい栄光を求めて一生懸命になるということも大切なことだと思います。ただそのことがすべてのことについての価値基準になるとき、やはりすこしおかしなことが起こってきます。何でも手に入れることにだけ心が向いてしまい、自分が自分がという気持ちが大きくなってきます。何でも自分が中心となり、高慢な思いに取りつかれてしまいます。使徒パウロは、イエス・キリストはそうした生き方とは正反対の生き方をされたと言っています。イエスさまは神の身分であったけれども、自分を無にして僕の身分となられた。イエスさまは死に至るまでへりくだり、私たちのために十字架についてくださった。

 受難節、イエスさまの御苦しみを覚えて、私たちは歩んでいます。私たちは、イエスさまが十字架へと歩まれたということを、私たちの心の指針としてしっかりと持っていたいと思います。世は移り変わり、いろいろなものが起こっては消えていきます。しかし消え去るものではなく、永遠なるものに、私たちは心の中心を向けたいと思います。


2026年3月13日金曜日

2026年3月8日

 2026年3月8日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「イエスさまがいつも一緒に」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:27-30節

 周りの人が、何をしているのかということは、とても気になることです。こどもだって、周りのことが気になります。「○○の映画に連れて行って。みんないってる」。大人も周りが気になります。「ひろむは、もう字がかける」とか。しかし人の子と比べることよりも、私たちは「自分の子をしっかりと見る」ということが大切であるわけです。そして私たちが、何を大切に生きているのかを、はっきりともっていることが大切です。わたしにとって大切なことは、「イエスさまがわたしを救ってくださり、イエスさまがいつも一緒に歩んでくださっている」ということです。ほかのことは、自信をもっていうことができませんが、このことだけはだけは、わたしは自信をもっていうことができます。

 イエスさまは「わたしのことを人は、いろいろと言っているけれども、あなたはどう思うのか」と、弟子たちに問われました。「人はいろいろと言っているだろう。でも、あなたはどう思うのか」。そんなふうにイエスさまは問われました。そして使徒ペトロは、「あなたは、メシアです」。「あなたはわたしにとっての救い主です」と、使徒ペトロは答えました。

 イエスさまは言われます。「周りを見回すだけでは、大切なことは得られないんだ」。「どうだペトロ、おまえはどう思うんだ」「ペトロ、おまえはどう生きるんだ」。そんなふうにイエスさまは、使徒ペトロに問われたのでした。そしてペトロはなかなか立派な答えができたわけです。

 しかし、まあこう言いながらも、結局、使徒ペトロはイエスさまを裏切って、イエスさまが十字架につけられるのを、見殺しにしてしまったわけです。人間はそうした弱さをもっています。しかしそのあと、ペトロは十字架につけられ、よみがえられたイエスさまと出会い、やっぱりイエスさまに付き従う歩みをしました。苦しいとき、悲しいとき、もうだめだと思えるとき、使徒ペトロを支えたのは、救い主イエス・キリストだったのです。ペトロは裏切ったけれども、イエスさまはペトロを裏切りませんでした。いつもペトロを支え、励まし、導き、その生涯を守り、弱いペトロを神さまへと導かれたのでした。

 私たちはひとりで人生を歩んでいるのではなくて、いつもイエスさまが一緒に歩んでくださっています。そしてわたしはそのことを知っているのです。イエスさまと共に歩みましょう。イエスさまは私たちが崩れ折れそうなときも、私たちをしっかりと抱きしめ、私たちと共に歩んでくださいます。


2026年3月7日土曜日

2026年3月1日

 2026年3月1日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「凛としてあきらめない」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 3:20-27節

 イスラエルとアメリカがイランへの攻撃を始め、世界は混とんとしてきました。2026年1月3日にアメリカがベネズエラに対して軍事行動を起こして、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領を拘束し、アメリカへ連行するということが起こりました。人は「この人がいなくなれば、世界が良くなるのではないか」「この人がいなくなれば、この戦争は終わるのではないか」というようなことを考えたりするようなときがあります。わたしは頭のなかでそのようなことを考えていたのですが、しかしアメリカのトランプ大統領は実際にそのことを行いました。わたしが頭のなかで考えていた手法が、実際に行なわれたのをみたときに、なんともいやな気持ちがしました。

 不法な手段によって物事を解決するというのは、やはりよくないことです。そうしたことを許せば、世界中でそうしたことが行なわれるようになり、どんどんと世界は混乱していきます。ですから「取り除いてください」ではなく、「わたしも悔い改めて良き人になりますから、○○大統領が心から悔い改めて、良き人となりますように」と祈りたいと思いました。

 私たちクリスチャンは神さまの前に良き生き方を求めて歩んでいきたいと思います。律法学者たちは、自分にとって都合の悪い人は、「悪い奴」と決めつけます。そして「あの男は悪霊に取りつかれている」「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言います。イエスさまは律法学者たちからそのように言われました。またイエスさまは「あの男は気が変になっている」というようなことも言われました。

 私たちもまた自分とって都合の悪い人を、あしざまに言ってみたり、また話すことさえできないというような思いになったりします。しかしだれしも、神さまにとって大切な一人であることを思い出したいと思います。落ち着いて、人を信じるという気持ちをもちたいと思います。

 悪霊の力はなかなか強いですし、人は誘惑に陥りやすいものです。しかしそうした世の中にあっても、私たちは聖霊の力を信じて、神さまの愛に立ち返る生き方をしたいと思います。だれもが神さまからの愛を受けて生きているかけがえのない一人です。互いに尊敬しあい、互いに助けあい、互いに祈りあう。聖霊は私たちを導いてくださり、私たちを良き人へと立ち返らせてくださいます。

 「凛としてあきらめない」。そうした私たちの歩みでありたいと思います。神さまの義と平和にみちた世界が来ることを信じて歩んでいきたいと思います。