2024年10月18日金曜日

2024年10月13日

 2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「すてきなわたしにもどる」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 7:1-5節

 ある食堂で学生がラーメンを注文しました。しばらくしておばちゃんが、カウンタに座っている学生に、「ハイヨ」とラーメンの鉢を渡そうとしました。見ると、おばちゃんの指がラーメンの中に入っていました。それを見た、学生が言いました。「おお、おばちゃん、おばちゃんの親指がラーメンの中に入ってる」。すると、おばちゃんは「ああ、だいじょうぶ、あつくないよ。慣れてるから」と言ったそうです。

 みなさんはこの話、どう思われますか?。学生は「おばちゃんの指がラーメンの中に入って汚い」と思って、そのことを指摘したわけです。「わたしのラーメンにおばちゃんの指が入って、きたないじゃないか」と、学生は言ったわけです。でもおばちゃんは学生が自分の指があつくないかと心配してくれたと思ったわけです。学生は「おばちゃん、汚い」とおばちゃんを裁いたわけです。しかし逆におばちゃんの言葉によって、学生は自分が、おばちゃんのことを心配することのできない、思いやりのない人間であることに気づかされるのです。

 イエスさまは「人を裁くな」と言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。イエスさまは人を裁くと自分も裁かれることになる。あなたが人を裁いたように、あなたもまた人から裁かれることになる。そして互いに裁きあう世界に生きることになる。人を傷つけ、自分も傷つけられる世界に生きることになると、イエスさまは言われました。

 日常生活のなかで、いやな自分に出会うということがあります。人を裁いたり、いじわるな気持ちをもつ自分に出会い、「なんかいやなやつだなあ」と思うことがあります。でもそれだけでなく、自分のいいところも見付けてあげてほしいと、わたしは思います。「あっ、いがいに心のやさしいところが自分にはあるんだな」ということにも気がついてほしいと思います。

 私たちはみな、ひとりひとり、神さまに愛されている尊い人間です。神さまが「あなたはわたしにとってもとても大切な人だよ」と、わたしのことを愛してくださっていることに気がつきたいと思います。

 神さまの愛に気づいて、本来の「すてきなあなたに戻って」、人にやさしい言葉をかける、人を励ますことのできる、私たちの歩みでありたいと思います。


2024年10月11日金曜日

2024年10月6日

 2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「私たちに寄り添うイエスさま」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:28-44節

 父が生きているとき、わたしは「元気にしているかなあ」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか。なんか用か」と言いました。わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

 ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。

 しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、そんななさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

 ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

 イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。


2024年10月5日土曜日

2024年9月29日

 2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「神の栄光のために」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:1-16節

 私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」と思います。わたしは母がアルツハイマー認知症になったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

 ラザロの死と復活は、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめている、イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだと言われます。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、同じように愛をそそがれます。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と同じような言葉が、「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネによる福音書9章1節以下)という聖書の箇所でも出てきます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

 人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。またむなしさやはかなさという出来事に見える死についても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまは空言としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。


 

2024年9月27日金曜日

2024年9月22日

 2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「暴力の世界から離れて」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 10:31-42節

 アンナ・ラッセル著、カミラ・ピニェイロ絵、堀越英美訳『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』(フィルムアート社)という本は、いろいろな女性たちのスピーチを集めた本です。この本の中に、マリア・スチュワートという女性のスピーチが出てきます。「別れの挨拶」というスピーチで、1833年のスピーチです。マリア・スチュワートはこう言っています。【人間を形成するのは肌の色ではなく、その人の魂で育まれた行動規範なのですから。どこで生まれた人であっても、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありません】。

 肌の色や、性別などで、人はいろいろなことを決めつけます。あるいは生まれた場所とかもそうでしょう。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれました。ユダヤのエルサレムにいたユダヤ人たちは、ガリラヤのナザレから何か良いものがでるわけがないと思っていました。ユダヤ人たちはイエスさまを受け入れることはできませんでした。

 イエスさまのことを信じることができないユダヤ人たちは、はじめからイエスさまのことを拒否しています。イエスさまが神さまの御心を行なっているということについては関心がないのです。イエスさまは神さまの御心にかなわない社会になっていることで、ユダヤの指導者たちを非難します。彼らはイエスさまが自分たちの意に添わないことをするので、イエスさまのことを敵とみなします。自分の意に添わない人はみな敵なのです。彼らは敵を作り出すことに一生懸命になっていました。

 石を投げようとしてくる人たちに、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われ、共に良い社会を作っていこうと呼びかけられました。お互いに良いところを見つけ出し、共に神さまのために働こうと、イエスさまは言われました。

 日常生活の中で、私たちもいろいろなことに腹を立てたり、いじわるな気持ちになったりします。「あの人のことは大嫌い」という思いに囚われてしまうこともあります。しかし落ち着いて、考えてみなさいと、イエスさまは言われます。心を落ち着けて、意地悪な気持ちから離れて、やさしい気持ちになりなさい。そうするとまた新しい道が開かれてくる。共に神さまのために働こうという気持ちが与えられると、イエスさまは言われます。

 イエスさまと共に、落ち着いて、やさしい気持ちを取戻して歩んでいきたいと思います。


2024年9月20日金曜日

2024年9月15日

 2024年9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「イエスさまに守られている」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 10:22-30節

 今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

 年をとると病院にかかることも多くなります。最近、わたしは尿管結石のため、急患として病院に駆け込みました。「尿管結石は40代、50代の大の大人が痛くて、痛くて苦しんでいる病気の1つです」。「結石は大きくないので、自然に出てくるでしょう」ということでしたが、「こんな小さなものに苦しめられるとは、人間とはなんと無力なものなのでしょう」と思いました。それでもその後、こうして普通に生活をしているので、「ああ、やっぱり神さまから守られているんだなあ」と思えます。日常生活の中で、大変なことに出会うことが、私たちにはあるわけですが、それでも神さまが御手をもって導いてくださることを信じて、私たちは歩んでいきます。

 イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。思えば、私たちはとても大きな安らぎのうちを歩んでいるのです。「わたしは永遠の命を約束されている」「わたしは決して滅びることはない」「わたしはいつもイエスさまの御手のうちに生きている」。イエスさまの御言葉を聞くときに、わたしはとても安心いたします。尿管結石で不安になっていたのが、うそのような気がします。

 私たちはだれからも奪われることのない幸いを手にしています。この世の多くのものは私たちの手から失われていきます。もっと若いときは元気だったのに。もっと若いときは転んでもケガをするというようなことはなかったのに。年をとってくると、体の衰えを感じるということが確かにあります。しかしどんなに年をとったとしても、私たちはイエスさまのお守りのうちに生きています。イエスさまは「だれもわたしからあなたを奪うことはできない」と、私たちに言ってくださっています。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。イエスさまの御声を聞きつつ、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。イエスさまは私たちをしっかりと受けとめてくださり、私たちに安らぎを与えてくださいます。


2024年9月13日金曜日

2024年9月8日

 2024年9月8日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「ただ、神さまの愛がある」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:43-48節

 新美南吉の詩に、「天国」という詩があります。「おかあさんたちは みんな一つの、天国をもっています。どのおかあさんも どのおかあさんももっています」。「おとうさんの背中は天国ではないのか」という疑問もないわけではないです。もちろんお父さんの背中が天国である場合もあると思います。わたしはそうしたことよりも、だれしも天国を持っているということが大切なのだと思います。お母さんであろうとお父さんであろうとおじいさんであろうとおばあさんであろうと、なんらかの天国をもっている。ただそのことに気づかないということが人間にはあります。

 また人は自分がだれかからとても愛されているということに気がつかないということがあります。父や母、あるいは家族や友人だけでなく、私たちは神さまからどんなに愛されていても、気がつかないということがあります。

 神さまの愛は悪人にも善人にも、正しい者にも正しくない者にも注がれる。それは神さまが愛について資格を問うておられるわけではないからです。ふさわしいとか、ふさわしくないとかということが、神さまの愛が注がれることの前提ではないからです。

 私たちは愛ということの前に、権利とか資格ということを問題にしがちですが、しかしイエスさまは言われるのです。私たちに権利があるとか資格があるということが大切なのではない。神さまの愛があるということが大切なのだ。神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。それは私たちにそれを受ける権利があるとか、私たちにそれを受ける資格があるとか、そういうことではない。ただ神さまの愛があり、神さまの愛が私たちに注がれている。そのことが大切なのだ。

 神さまの愛に私たちがふさわしいのかと言えば、そういうわけでもありません。私たちの心の中には、良くない思いもあります。また人を傷つけてしまうようなことを言ってしまったり、じっさいに行ってしまったりすることもあります。神さまの愛にふさわしいとは思えない私たちがいます。

 でも神さまはただ、私たちを愛してくださっています。私たちはそうした慈しみ深い神さまの愛の中に生かされています。どんなときも、神さまは私たちを愛してくださり、私たちを見守ってくださっています。

 神さまがわたしを愛してくださっているということを、こころにしっかりと受けとめて、安心して歩んでいきましょう。


2024年9月10日火曜日

2024年9月1日

 2024年9月1日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「良き志をもって歩め」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 8:37-47節

 ユダヤ人たちは自分たちは特別な民族であると思っていました。ユダヤの指導者たちは自分たちは特別な人間であると思っていました。自分たちは特別であると思うようになると、往々にして、人の意見に耳を傾けることがなくなってきます。自分たちに都合の悪いことを、認めるのがいやになってきます。

 9月1日は関東大震災が起こった日です。今年で101年を迎えます。関東大震災のときに、自警団による朝鮮人に対する虐殺が起こりました。歴史的な文書や証言として残っているわけですが、一方で「そうしたことはなかった」と言い張る人たちも出てくるようになりました。政治家の中でもそうしたことを言い出す人たちがいて、とても困ったことだと思います。

 小説家の芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章を書いています。内容は芥川龍之介と菊池寛の会話です。芥川龍之介は自警団に参加しています。芥川龍之介はデマを信じて、「関東大震災の大火事は朝鮮人のしわざだそうだ」と、菊池寛に言うのです。しかし菊池寛は「嘘だよ、君」と芥川龍之介を諭します。芥川龍之介は自分の愚かさと、菊池寛のすばらしさを、この文章で記しています。人はデマを信じやすいものだと思わされます。芥川龍之介がデマを簡単に信じるのであれば、わたしもデマを信じてしまうだろうなあと思わされ、とてもおそろしい気がいたします。

 イエスさまはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」と言われました。「いくらなんでも、イエスさま、それは言いすぎではありませんか」と思いますが、しかし芥川龍之介が簡単にデマを信じてしまったことなどを思うとき、悪魔から出てきたとしか思えないような人間のそら恐ろしさを、自分のなかにも感じます。

 だからこそ、イエスさまから離れずに歩みたいと思います。イエスさまにつながって歩みたいと思います。イエスさまにつながっていなければ、自分がどこかにいってしまいそうな思いがするからです。イエスさまは「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。イエスさまにつながって、神さまの言葉を聞く者でありたいと思います。「イエスさまにしっかりとつながって生きていく」という、よき志をもって歩みたいと思います。