2026年2月8日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
「よき仲間に囲まれて」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 2:1-12節
一緒にいてくれる仲間がいるととても心強い気がいたします。単純な作業などひとりでしていると嫌になります。しかしこれを二人、三人、四人ですると、たいして苦にならないということがあります。このようなことでさえひとりでするとなると、私たちはとてもたいへんな気がするのですから、病気というような深刻なことになると、ひとりではどうしたらいいのかわからなるような気がします。
イエスさまは病の人々をいやしてまわっておられました。イエスさまの回りには、たくさんのイエスさまを慕う人々がいます。この日は大勢の人々が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどいっぱいでした。四人の男たちは、中風の友だちを、どうしてもイエスさまのところに連れていきたかったのです。しかし足の踏み場もないほど、人がいて、イエスさまのところにいけそうもない。そこで考えた四人の男たちは、家の屋根に登って、屋根をはがして穴をあけて、イエスさまのところに、友だちをおろしました。
中風の人の回りには、彼を助ける人々がいました。イエスさまは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に対して「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪のゆるしを宣言しています。みんなで力を合わせて、中風の人を運んできた、彼らのしたことを評価しているのです。そのイエスさまを求めて、みんなで力を合わせて中風の人を連れてきたことが、信仰であると言われています。ここにキリスト教の信仰のあり方のひとつの形が現れています。病を担って苦しんでいる人を中心にして力を合わせるということが、信仰の模範的なこととして描かれているのです。
共にいるということは、かけがえのないことです。病の人を看病してきた人は、病の人が天に召されたとき、とてもさみしい思いをします。病気の人が何も話さなくても、やっぱり共にいて、そばにいて世話をすることができるということは、看病している人にとって、大きなこころの支えです。天に召されてしまうと、ぽっかりと穴があいたようになります。それは一方的に看病しているということを越えて、こころの絆があるのです。
私たちは教会に集い、神さまを礼拝しています。そして私たちには信仰の友がたくさん与えられています。同じ神さまによりたのみ、助け合っていきていく、たくさんの友がいます。私たちはひとりぼっちではありません。このことは大きな喜びです。そうした出会いを与えてくださる神さまに感謝したいと思います。