2016年8月28日日曜日

2016年8月14日

2016年8月14日 主日礼拝説教要旨
  関わりを生きる~平和の実現を祈り~
  小﨑眞牧師(同志社女子大)
  (ルカによる福音書10章25節~37節)

  今年の「平和宣言」で発せられた「情熱(広島)」、そして、「英知(長崎)」に関心を払いつつ、聖書との対話を通し、平和の実現を共に模索してみたい。「情熱と共に」との言語世界(Com-Passion)は「憐み」や「共感」の意として聖書の中では理解されてきた。一方、「英知」は「主を畏れることは知恵(英知)の初め」(箴言1.7)と語られるように、人間と神の関係性を解き明かす洞察に満ちた言葉として用いられてきた。
「共感」は愛が発動する上で重要な要素であろう。しかし、「共感」には相手を支配する暴力性が内在することもある(熊谷晋一朗「痛みの哲学」)。容易に回収できない痛みをわかった風に「自己の物語」へ組み込もうとする姿勢は、相手を支配し、一層、相手に苦痛を与える。ゆえに、共感し得ないことへの痛切な実感こそが、真の共感関係を創出し得るのかもしれない。サマリア人の譬話は真の共感関係を問う。サマリア人は「憐れに(com-passion:共感‐内臓が引き裂かれるような痛みと共に)」思い、旅人を助けた。その後、宿屋(「すべてを受ける」との意)へ出向き、一晩の介抱後、宿屋の主人に2デナリオン(24泊分の宿賃)を託し、その場を離れた。旅人の痛みを回収し得ない現実をサマリア人は自覚していたのかもしれない。一方、宿屋の主人は、痛みの共感より旅人の現実を「すべて受けとめ」、いわゆる「社会的サポート(社会復帰への援助、身体への介助)」(熊谷晋一朗)を実践した。傷ついた旅人を含め、様々な客人たちをもてなす宿屋の主人の姿を容易に想像できる。特定の旅人との「助けた、助けられた」という固定化した共感関係性は打破されたに違いない。宿屋の主人は種々の営業経験を通し、客人たちの多様な要求に忍耐強く対応し得る英知を育んでいたと言えよう。
確かに、他者との共感関係(SNSの「いいね」など)に身を置くことは安心、安全との思いを育むのかもしれません。しかし、自分自身の既存の発想を転換する視座は創出し得ない。安易な共感による熱狂性や集団性(メディアに扇動された「愛」のキャンペーン活動など)と距離を保ち、真の英知(多様性・複雑性への耐性/忍耐力)に根差して他者の到来を迎える時、その只中に新しき希望を創出すべく隣人が立ち現われてくる。「共感し得ないことへの痛切な実感」を懐き、忍耐強く問い続ける時、新しき関わりが創出すると言える(「問いは人を結びつける」エリ・ヴィーゼル)。真の共感と真の英知を求めて共に平和の実現を祈り合う者でありたい。

2016年8月23日火曜日

2016年8月7日


2016年8月7日 主日礼拝説教要旨
  「あなたがたは神の宮である」宇野稔牧師
  (コリントの信徒への手紙Ⅰ3章1〜9節)


 戦争が世界のどこかで絶え間なく続いていることを考える時、「何かの力によって戦うよう仕向けられているではないか」と思っています。その誘惑と力は私たちの中にも存在するのです。

 今日の箇所で描かれているのはコリントの教会の中での「派閥争い」です。パウロにつく、アポロにつく、この二大勢力の対立も激しかったのでしょう。そこでパウロは「アポロとは何者か。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神である」と云うのです。

神がこの教会を育てておられるのに、争っているのは本当に情けないことだ。パウロはキリスト者とは聖霊によって生きる「霊の人」であるべきなのに、他の人と何ら変わらない「肉の人」ではないかと叱るのです。

 私たちは誰のために生きているのでしょうか。パウロは人々が生きるのは「神のため」であると云うのですが、そうだと窮屈な気がしてしまいます。自分は自分らしく生きてこそ、価値が有ると考えたいですし、またそのために生まれて来たと思ってしまいます。

 しかし人間は「自分のため」に生きているのでしょうか。時間と富を思う存分使って自分の楽しみだけを求めて生きたその結果、幸福になることはできるのでしょうか。私たちの周りで幸福そうに生きている人が増えたでしょうか。昨今、多くの高齢者、若者、女性、子どもが「孤独の中で苦しんでいる」という事件が多発しています。孤独は大人だけではなく確実に広がっているのです。犯罪を生み出す悲しみがなんと多いことでしょうか。

 けれども私たちが神のために力を合わせる時、あなたたちの人生は、実り豊かな畑であると云われます。イエスは「平和を実現する者は幸いである」と云います。世の中の諸悪の大きさを考える時、「自分一人がやっても」という思いになりますが、最悪の時代の中でも神の言葉に心を傾ける人がいる、それが平和への希望なのです。

 どんな時代にあっても平和を実現しようと祈り志している人がいます。それが平和を生み出す原動力なのです。私たちは神の宮です。「成長させて下さるのは神です」、信じて歩みましょう。

2016年8月14日日曜日

2016年7月31日

2016年7月31日 主日礼拝説教要旨
  「神の選んだ器」宇野稔牧師
  (使徒言行録9章26〜31節)

 使徒言行録を読んでいると、ふと思うことがあります。「もしパウロという宣教者がいなかったら、キリスト教はせいぜい地中海沿岸地方に散在していたユダヤ教の一派にとどまっていた」、そんな仮説が立てられるくらに、パウロがキリスト教全体に及ぼした影響は大きいものがあります。
 パウロはローマの属州キリキアのタルソスで生まれ、ローマの文化も吸収し、学問を研き、精神的には一点の曇りもなユダヤ人として育ったのです。会堂においても律法教育を受けて育ち、アラム、ヘブライ、ギリシア語に精通していました。ローマの市民権を得ており裕福な家庭だったのです。
 パウロはキリスト教迫害運動に加わりダマスコを目指したのですが、到着するという所で彼は強烈な体験をします。それは主イエス・キリストとの出会いです。それによって回心し、キリスト教の宣教者になるのです。
 それで今日の箇所につながります。3年間ダマスコで宗教活動をしたのですが、まだ信頼されてなかったようで、そのパウロをエルサレム教会とつないだのがバルナバでした。パウロがまことのキリスト者であり、情熱の伝道者であることを知り、ペトロに紹介しました。主の兄弟ヤコブともつながります。バルナバはパウロを招き教会形成を共にします。そしてアンティオケア教会から世界宣教が始まっていくのです。
 パウロは主の選ばれた器でした。彼の働きは大きいものでした。しかし、器が働くためにどんな人々が必要だったでしょうか。周りで支える人、共に働く人がいなければパウロも存在しなかったのです。私たちも主に選ばれた器です。「自分はそんな器ではありません」と云うかもしれない、でも器が立派だから選ばれたのではありません。大切なのは「神が選んだ」ということの方です。神が選び用いて下さるのです。私たちが逃げ出しても追いかけて下さる。迷ったら探しだして下さる。傲慢になったら諌めて下さる。危険な時には守ってくださる・・・・それが選ばれたということです。
 これこそ私たちの喜びであり、希望なのです。その確信をもって生きて行きましょう。



2016年8月8日月曜日

2016年7月24日

2016年7月24日 主日礼拝説教要旨
  「神に喜ばれる関係」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章32〜37節)

 そういう、姿の教会は多くの人に好感をもって受け入れられたとあります。「イエスこそ、キリストだ」と語り、その徴として「分かち合って」いたのです。そして、その姿こそ何よりの証しだったに違いありません。私たちの教会の姿は、如何なものでしょうか。今一度、この箇所と2章44〜47の初代教会が行われていた理想的な信者の生活を報告するまとめのことばを読み、私たちが目指すべき姿と為して行きましょう。 貧しい人は明日を生きることも苦境の中にいました。そういう時代と社会の中にあってイエス・キリストを信じる群れは「全てのものを共有し貧しい者は一人もいなかった」というのです。人が「持てるものを出し合い、必要なものを受け取る」、それこそ人間の理想の社会です。それが初代教会の姿だったのです。強制的でなく洗脳でもなく、イエス・キリストを見上げる中で自然に行われていたというのです。 もう一つの特徴は、「全てを共有し、貧しい者は一人もいなかった」という点です。昔がよい社会であったのではありません。当時のイスラエルは、現代と似通った経済状況、社会状況でありました。ローマ帝国の出現による経済構造の急激な変化の中で貧富の差が拡大していたのです。 その初代教会の姿をルカが伝えているのが、この箇所です。その特徴的なものの一つは「心も思いも一つにしていた」という事です。教会は様々な方が集まります。各々に考えも違うでしょう。でもその中で「心は一つ」というのです。皆が同じことを云うのではなく、「一つ」とは目指しているところが同じであるということでしょう。皆がイエス・キリストを見上げて歩んでいるのです。 ペトロが「この人にこそ救いがある」とイエス・キリストを語り、そこに人々が集ってきたのですから、世間の人々は注目したに違いありません。「イエス教の連中は、救われる、救われるというけれど、その救いとはどのようなものであるか」という目で教会を見たに違いありません。

2016年8月5日金曜日

2016年7月17日

2016年7月17日 主日礼拝説教要旨
  「思い切って、大胆に」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章23〜31節)

 ペトロとヨハネが釈放されて教会に帰ってきました。心配していた仲間たちにこれまでの顛末を全て話したのです。ということは、「今後イエスの名によって何も語るな」と脅されたことを語ったのです。教会は小さく弱い群れでした。その教会に権力者が脅しをかけているのです。
 私たちなら「迫害が自分たちを襲うことがないように」と祈るのではありませんか。ところが、初代教会は「思い切って大胆に御言葉を語ることが出来ますように」と祈ったのです(29節)。それによってもっと大きな艱難が来るかもしれません。圧倒的力による迫害が起こるでしょう。それなのに今まで以上に「大胆に御言葉を語る」ことを求めて祈ったのです。
 その時、一同の集まっていた場所が揺れ動いたと記されています(31節)。
迫害や困難で動揺する時、私たちは何をすべきなのでしょうか。キリストは神に向かうのです。神を疑うような出来事は再三起こりまます。イエスキリストによって愛することを選択しても、この世界がそれを評価してくれるわけではありません。むしろ、それを嘲笑うような行動や言葉が返ってきます。
 愛に生きるなんて何の意味もないように思えることも起こってきます。でも私たちはどこに立つのでしょうか・・・・・。私たちは思い切って大胆にイエス・キリストの名に立つのです。キリストの十字架、十字架に向いていく愛こそが自分の生きるべきところであるという確信に立つのです。
 この世の力を目の当たりにしながら、見えない神の力に立つという決断をするというのは大変なことです。しかし、その決断力は祈りによって与えられるのです。私たちは「思い切って大胆に御言葉を語ること」「思い切って大胆に御言葉によって生きること」を求めて祈ろうではありませんか。
 神は祈りに応えて下さるのです。「求め、探し、叩き続けよ」というのがイエスが教えて下さった祈りの姿勢です。「思い切って大胆に」語り生きられるように祈っていきましょう。