2019年4月29日月曜日

2019年4月21日

2019年4月21日 復活節第1主日礼拝説教要旨
  「イエスがおられるところ」 横田法子牧師
    ルカによる福音書 24:1~7節
使徒言行録は、ルカ福音書と同じ記者による続編の関係にあると考えられます。そしてイースターとペンテコステが同じ範疇の経験として意識されているように思います。使徒言行録に描かれる最初期キリスト教共同体は多様性に富んだ人々の群れで、構成も父権性の概念には収まりません。
さて墓場の証言において、マタイ・マルコに記された「あなたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」を、ルカは「ガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい」としています。「弟子たちに告げよ」もなく、彼女ら自身が当事者だという視点を見出します。未来は人任せにすることではなく、今ここから私によって拓かれます。イエスがお話しになったことは46節以下にあります。ここに罪のゆるしと悔い改めの宣言があることが重要です。弟子らはイエスの言動と共に自分の言動も思い出したはずです。ゆるされがたい罪や弱さや失態も含めてイエスに受け入れられていた。「すべての民族に」真に罪の許しを得させるために、真の悔い改めが宣べ伝えられるためにイエスは苦しみを受けられ復活された。イエスが示そうとした神の愛や福音がようやく経験として迫ってきたことでしょう。けれども時は満ちていない。「高いところからの力に覆われるまでは都にとどまっていなさい。」です。
欠けや破れや弱さを抱えた等身大の自分自身を見つめることなしに、復活の主によって贖われ新たに起こされる私自身の復活ストーリーは始まらない。復活の主を確信する場、それは私たちが生きる場です。復活の主は、命や人権や人格がないがしろにされて痛む人と共にいて、痛みのただ中で連帯する者を待っておられる。痛みの中で孤立する人と共にあろうとする時にここそ、私たちは主イエスによって起こされ主の力を得る。イエスは弱く小さくされた者の側に立ち続けました。弱さに徹して十字架に付けられてしまった。弱さが強さにかえられたわけでも、負けから勝ちに逆転したわけでもない。それを神さまが肯定し復活の主とされたのです。しんどいところに立つのはとても勇気がいるけれど、そこにこそ臨んでくださるのが私たちが仰ぎ見る主なのです。

2019年4月15日月曜日

2019年4月7日

2019年4月7日 受難節第5主日礼拝説教要旨
  「追い返し投げ捨てる」 桝田翔希伝道師
   ルカによる福音書 20:9~19節
 イースターを目前に控え、レントの期間も残り少なくなってきました。この時にあって、聖書日課では「ブドウ園農夫のたとえ」とされる箇所が挙げられていました。この物語ではマタイによる福音書とマルコによる福音書でも語られており、ルカによる福音書と同じようにイエスの神殿での出来事である「宮清め」の後の部分に位置づけられています。このたとえ話を読んで、私たちが生きる世界と対比することもできますが、「宮清め」の記事に続いて書かれていることを踏まえると、当時の神殿が祭司長たちによって私物化されていた状況をイエスが批判したことが想像できます。19節でも、この話を聞いて律法学者や祭司長たちが腹を立てている様子が伺えます。マルコやマタイの記述を見ても、このたとえ話が律法学者など特定の人たちに向けて語られたとされていますので、権力者に向けた批判としてこのたとえ話は伝承されていたようです。
 しかしルカによる福音書は、他の福音書とは明らかに書き変えている部分があります。この物語は祭司長など一部の人に向けた話ではなく、民衆に向けて「見つめながら、じっと注視しながら(17節)」語ったとしているのです。初めは僕を侮辱するだけだった農夫は、次第に主人の一人の子どもを殺すほどにエスカレートしたことを語ります。ここにはイエスの物語から少し時間がたって、ルカによる福音書が書かれた当時に、書かれているたとえ話を自分のこととして聞くことの出来ない読者を想定してのことなのかもしれません。急速な変化を迎えている今日の社会では、今までの文脈では理解できないような事柄が起きています。ヘイトスピーチや新元号の発表に伴い注目される天皇制、すべての人に悪い形として私たちに迫ってくるものではないのかもしれませんが、様々な事柄が起きています。自分のこととしてどれほど受け取ることができているのでしょうか。
 そしてイエスは「家を建てる者が捨てた石が隅の親石となる」と語るのです。捨てられるような石こそが一番大切なのだと語るのです。私たちは聖書のたとえ話を読んでも、どこかただの物語としてとらえているかもしれません。しかし、イエスは私たちをじっと見ながらこのたとえ話を語られるのです。私たちが忙しさの中で捨ててしまっている物や事は何でしょうか。

2019年4月8日月曜日

2019年3月31日

2019年3月31日 受難節第4主日礼拝説教要旨
  「変化する力」 浅居正信牧師
    ルカによる福音書 9:28~36節
 イエスは、弟子の3人を連れ、祈るために山に登られました。
 「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。イエスにとって、祈りは、神の御心を知り、その道を歩む力を受ける場でした。「祈っておられる内に、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。この「奇跡」と「変貌」には決定的な違いがあります。それは、「奇跡」は、イエスが言動をもって主体で動かれましたが、「変貌」は、キリストは完全に受け身だったのです。イエスの変貌は、救い主であるイエスの本質をあらわすため、神が天から一方的に与えられたのでした。
 雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので弟子達は恐れた。すると、「これは私の子、選ばれた者。これに聞け」と言う声を雲の中から聴いたのです。このキリストの変貌を見た経験は、やがて弟子たちが、イエス・キリストを救い主と信じた時に信仰を支えたのでした。
 イエスは、祈るため山に登られます。イエスはひとり山に登られたのでもなく、三人の弟子たちを連れて、祈りに赴かれました。オリーブ山の祈り(ゲツセマネの祈り)の場合も同じことが言えます。そこに将来の教会の姿、イエス・キリストの祈りに励まされて共に祈る弟子たちの姿の先取りをイエス・キリストはなさっておられるのではないでしょうか。
 福音書には、祈りの途中で眠り込んでしまった弟子たちが、イエスの十字架と復活のあと、ペンテコステの日に「心を合わせひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)弟子たちの姿がありました。イエスの祈りの姿によって励まされて弟子たちは祈りへと招かれ、苦難の道を歩みつつ、イエスに従いゆくべく、イエスは生涯の重大な場面で祈ることのできない弟子たちを連れて山へ登られたのです。
 イエスの姿が変わったように、わたしたちにも変化を促しているのかもしれません。無理解な弟子たち、弱さや欠けの多い弟子たちが、イエスに招かれ出会いました。わたしたちひとりひとりは、イエスに出会うことによって変化をする力を備えてくださっているのです。

2019年4月1日月曜日

2019年3月24日

2019年3月24日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「自分も知らない」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 9:18~27節
 3週目の受難節をむかえました。この時にあって聖書日課に与えられた聖書箇所は、イエスが祈った後に弟子たちに対して「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問う場面でありました。今日の社会状況の中で、このイエスの問いかけは何を意味しているのでしょうか。
 総務省の調査によると年々インターネットの利用者が急増しているのだそうです。数年前までは想像もできませんでしたが、スマートフォンの普及も手伝ってインターネットによる生活の変化は大きなものとなりました。教会の活動も、インターネットを利用して行おうとする動きがよく見られるようになりました。いつでもどこでもインテーネットを介して他人とつながることができる、情報を知ることも発信することもできる、そのような時代へと変わろうとしています。しかし便利な反面、インターネットによる差別事件が多く起こっているという実態もあります。「ウソ」で「差別的」な情報がインターネットには多く流れるようになりました。私たちは多くの情報に囲まれて生きていますが、その情報が真実なのか一人一人がしっかりと考えなくてはいけないということが強くなってきています。
 イエスに問われた弟子たちは、巷で流れていたイエスに対する噂話を語ります。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の生き返り」これらの噂話はヘロデ王も聞き、イエスに対して危機感を覚えたものでありました(9:7~9)。これらの噂話を聞き、イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペトロは「神からのメシア」だと答えました。十字架の上で無残に痛みの中で殺されるイエスの受難を前に、「神からのメシアである」とのペトロの告白は、彼の想像を超えた意味を持っていました。イエスによる「あなたはどう思うのか」という問いかけ、今日の社会状況の中で強い意味を持つものではないでしょうか。多くの情報に囲まれる中で、私たち一人一人がどのように考えるのか、何を信じるのかということはいよいよ大切になっています。イエスの受難を知っている私たちは、ペトロのように「神からのメシアです」と告白することができるのか、そう問われているのかもしれません。