ラベル (19)詩編 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル (19)詩編 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年11月9日土曜日

 2024年11月3日 降誕前第8主日礼拝説教要旨

「新しい歌を主に向かってうたえ!」 関谷直人牧師

詩編 96:1-4節

 平安教会では毎年、11月3日にバザーを行なってきました。11月3日が日曜日のときは、その前後で行なってきました。ことしはどうしようかとバザー委員会で話し合った結果、11月3日(日)に礼拝からバザーを始めるということにいたしました。そして音楽礼拝のような形でもつことにいたしました。音楽でメッセージを語ってくださる方はおられないかと考え、同志社大学神学部の教授の関谷直人牧師にお願いをいたしました。バザーの名称も、「バザー賛美フェス」といたしました。

 関谷直人牧師が歌ってくださった歌の一曲目は、「君は愛されるために生まれた」でした。2000年代に韓国でよく歌われた賛美歌です。韓国で自死が多くあったときに、こころを痛めた方が作られた賛美歌ということです。

 君は愛されるため生まれた

 君の生涯は愛で満ちている

 君は愛されるためにうまれた

 君の生涯は愛に満ちている

 永遠の神の愛は

 われらの出会いの中で実を結ぶ

 君の存在が 私には

 どれほど大きな喜びでしょう

 君は愛されるためうまれた

 今もその愛受けている

 君は愛されるため生まれた

 今もその愛受けている

 そのほか、こどもさんびか改訂版の「きみがすきだって」、こどもさんびか改訂版の「かなしいことがあっても」、「土の器」「帰り道」「感謝します」「勝利者」「うるわしの白百合」「イェス君イェス君」を歌ってくださいました。

 ふだんとは少しちがった賛美歌にふれながら、とても力強い神さまの愛を感じることができました。ゆたかなときをバザー賛美フェスにきてくださった方々と共にわかちあうことができました。            (記:小笠原純)


2018年10月21日日曜日

2018年10月7日

2018年10月7日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨
 【世界聖餐日・世界宣教の日 讃美礼拝】
   「歌い続ける歌」 桝田翔希伝道師  聖餐式:横田法子牧師
     詩篇 40:1~7節 マタイによる福音書 26:26~30節
 チャペルコンサートに引き続き、讃美礼拝を守ることが出来感謝であります。私たちは教会で讃美歌をはじめ様々な音楽を通して聖書や神と触れ合います。一方聖書の中には詩篇と呼ばれる部分があります。詩編に関してはわからないことも多いのですが伴奏をつける歌であったことが想定さていれます。このことから音楽を通して神に触れるということはとても昔から続けられてきました。今日の礼拝では、説教を通して聖書に聴く場面が強調される傾向があるかもしれません。説教と言うと、言葉ではっきり語りますから「客観的なもの」と言えるかもしれません。一方、音楽を通して神に触れるということは「感性的なもの」ということが出来るのではないでしょうか。
 11月7日は教団により「世界聖餐日・世界宣教の日」と定められています。世界聖餐日が定められたのは1940年代、様々なキリスト教の教派の連合により呼びかけが始まりました。1940年代ですから世界中で戦争が起こり、平和を願いながらも恐怖や嫌悪、悲しみが渦巻いていた時代であったことが想像されます。そんな時代にあって、平和を願いキリスト教の様々な教派を越えてイエスの食卓・聖餐式を共に行い祈るためにこの日が定められたのです。
 平和を願いながら、讃美礼拝を守るこの日にあって、聖書は私たちに何を問いかけているのでしょうか。当時イエスと敵対していた人たちに対して、イエスの語り方は非常に含みを持ったものと言えるかもしれません。断罪するでもなく、質問に質問で答える。客観的と言うよりも、感性的なものとも言えるかもしれません。私たちは平和を願いつつも泥沼に足を突っ込んだように、もがきながらも、他人を言葉で客観的にさばいているかもしれません。しかし、イエスは危機的な時に讃美歌を歌いました(マタイ26:30)。客観的な破れのない言葉ではなく、感性を共にするような新しい歌を口ずさみながら平和を願う者でありたい。

2016年12月5日月曜日

2016年11月20日


2016年11月20日 収穫感謝 子どもの教会合同礼拝説教要旨
  「地は主の慈しみに満ちている」宇野稔牧師
  (詩篇33篇1〜7節)


 日本でも世界でも沢山悲しいことがあります。世界は悲しいことに溢れているようです。しかし今日は収穫感謝の日です。沢山の実りがあることを神さまに感謝する日で、神から恵みを頂いていることを再確認するという意味があります。

 詩篇の作者は「この地は神さまの慈しみに満ちている」と云っています。でもこの人も沢山の哀しいことを観ていたに違いありません。悲しくて泣きたくなったこと、辛いことも沢山あるけれども、それでもこの世界には神さまの恵みが沢山あるんだということを謳っています。

 「少女パレアナ」という本を知っていますか。色々悲しいことや辛いことがある中で、彼女はそれにめげないで生きていきます。その力は、お父さんが彼女にゲームを教えてくれた「喜びを見つけるゲーム」です。「どんな時にも神の恵みがあることを忘れないで」という教えでした。

 彼女のそんな生き方が、周囲の人たちを感化して喜びを広めて行くという物語なのです。お父さんは、「いつも喜びは見つけるもので、中々見つけにくいかもしれないけれど、聖書の中にも沢山の言葉がある」、と言います。「主にありて喜べ」とか「大いに喜べ」とか「喜び歌え」などあるように、神様の恵みはこの地に満ちているのだ、お父さんも喜びを探し、見つけて感謝しているのだ」と。

 またもう一つ大事な事は、神様からの恵みを見つけて獲得したからといって、それを一人占めにするのではなく、皆で恵みを分かち合うことによってお互いを支えることが出来たら、その時悲しみや辛さも分かち合うことが出来るのです。

 そして悲しいことがあるこの世界の中でもあなたが希望をもって生きることが出来るのだと確信がもてるのです。

 神様は、喜びも悲しみも分かち合うようにとお望みです。そして、この収穫感謝礼拝もそのことを皆で確かめる時なのです。


2016年11月21日月曜日

2016年11月6日

2016年11月6日 聖徒の日・召天者記念礼拝説教要旨
  「生涯の日を数える」宇野稔牧師
  (詩篇90篇3〜12節)

 お名前が記されている669名の方を覚えての礼拝です。死は自然のことでありますが、12節には生涯の日を正しく数えるように教えて下さいとあります。しかし数えるとはどういう意味でしょうか。数えるとは必ず死があるということです。限界のある生涯を送るのは、どのように正しく数えていくのか、即ち、神の前にどのように生きて行くべきかなのです。故に、その知恵ある心を得させて下さいと要求されていると思うのです。
 しかしながら、人間の知恵とは賢くはありません。例えば、愛する人々の死を前にして、何故何故と問い続けてしまいます。こんなにも早くなら間違いではないですか、と。死と向き合う時、神の御業を現すべく生涯の日を数えて行かなくてはならないのに、主の御旨を正しく知るということは、中々わからないものです。しかし、一人の人生はその長短ではありません。この世に生きている、この世にいなくなっても生きている間に神の前にどう生きたかがものを云うのです。まさに、キリストに結ばれた者は、命なくとももの種であるということを教えられます。
 人は死んでも今なお語るということは本当です。私たちの生涯は罪と死の恐怖から救い出されました。このイエス・キリストの死が何のためだったのか、このことを正しく考える時に、その事自体が知恵ある心となるのです。十字架の死がこの罪と死の力を打ち破って私たちを救い上げて下さったのです。ですから、このことを信じ受け入れることが知恵ある心であり、<主を畏れる>ことは知恵の始めであるとあるように、主を畏れ主のなされる御業を受容することです。
 私たちは恵みにより救いにあずかっています。恵みにより生きているものは、命なくてももの種なのです。従って生きるにも死ぬるにも、この身に公然とキリストの御業が現れることを願うのが、おのが日を数えて生きる者の姿ではないかと思うのです。
 先に召された669名の兄弟姉妹の上に、主の豊かなお慰めをお祈りします。