2021年10月21日木曜日

2021年10月17日

 2021年10月17日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

 「大切な一日と思って生きる」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 25:1ー13節


 イエスさまの時代の人たちは、世の終わりが近いというふうに思っていました。イエスさまの時代からすこし年数がたった、マタイによる福音書の著者の時代になると、すこし感じ方が変わっています。「終末が来る、世の終わりが来ると言われていたけど、なかなか来ないなあ」というふうに思う人たちが出てきました。今日の聖書の箇所はそうした事情が反映されています。【花婿の来るのが遅れたので】というのは、世の終わりがくるのが遅れているということです。

 花婿がなかなかやってこないので、賢いおとめも愚かなおとめも眠ってしまいます。しかし突然、花婿はやってきます。愚かなおとめたちは予備の油を用意していませんでした。それで愚かなおとめたちは賢いおとめたちに、「油を分けてください」と頼みます。賢いおとめたちは愚かなおとめたちに、『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』と言いました。

 この「油を分けてあげるほどはありません」というのは、終末、世の終わりの時には代わってあげることができないことがあるということです。私たちは一人で神さまの前に立たなければならないということです。それは分けてあげたり、代わってあげたりすることはできないということです。

 終末はいつやってくるかわらないわけですから、毎日、毎日を、大切な一日と思って生きたいと思います。神さまは私たちに一日一日,命を与えてくださり、私たちに「生きよ!」と言ってくださるのです。朝、今日一日の命を与えてくださる神さまによって、私たちは目覚めるのです。そして目覚めたら、「大切な一日と思って生きる」のです。

 まあ、人のすることですから、花婿を待っていたいおとめたちのように油断をしてしまって、眠り込んでしまうということもあるでしょう。私たちにとって失敗はつきものです。失敗をしてしまう愚かなものであるからこそ、私たちは神さまを慕い求めて生きています。誇りえるものはないけれども、「神さま、ごめんさない」ということも多いけれども、それでもなお、私たちは神さまを慕い求め、そして神さまから与えられる一日を「大切な一日と思って生きる」のです。

 天地創造のときに人に命の息を吹き入れられた神さまは、今日も私たちに命の息を吹き入れられ、そして「大切な一日と思って生きよ」と、私たちの一日を祝福してくださっています。


2021年10月15日金曜日

2012年10月10日

 2021年10月10日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

   「神様が望むこと」 梅田玲奈神学生

     テサロニケの信徒への手紙(1) 5:16ー18節

 今年の7月から、派遣神学生として平安教会に通っています。梅田玲奈と申します。

 テサロニケの信徒への手紙(一)5章16節~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」この箇所は、私の愛唱聖句です。  しかし私たちは、いつも喜び、祈り、感謝することが出来ているでしょうか。

 このテサロニケの信徒への手紙(一)を書いたパウロという人物は、当初パリサイ派としてキリスト者を迫害する立場にありました。しかしイエスからの呼びかけによって、イエスこそが救い主であるという信仰を持ちました。そしてイエス・キリストの福音を宣べ伝えるため、伝道旅行を行います。

 テサロニケという地も、パウロが伝道旅行の際に立ち寄った町です。港町として様々な文化を持った人々が混在する地でした。パウロから福音を聞いたテサロニケの人々の中には、信じた人々もいましたが、反抗した人たちもいました。反抗した人たちによって暴動が起こされ、パウロはその地を追われています。(使徒言行録17章)パウロは短い期間しかテサロニケに滞在していません。しかし伝道は実を結び、テサロニケにいる信仰者によって教会が出来ました。そのテサロニケ教会に宛てたのが、このテサロニケの信徒への手紙(一)です。

 「神様は私たちに喜び、祈り、感謝することを望んでいる」とあります。今、神様は私たちに期待を託した状態なのです。つまり、現状は完了していません。神様は、私たちに「イエスにおいて=イエスと共にある」ことで喜び、祈り、感謝する姿勢を求めておられます。同時に神様は私たちが、弱くて脆いということも知っておられます。だからこそ、望み、期待を託すという形を示してくださっているのです。

 私たちの生きる社会は、状況によって価値や判断が変動します。しかし神様が私たちに望んでいる、キリスト者としての姿勢というのはパウロの時代でも、今私たちが生きる時代、これからの時代においても変わらないのです。


2021年10月8日金曜日

2021年10月3日

 2021年10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

 「やっぱりイエスさま、信じます。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 21:18ー32節

 イエスさまは、二人の息子のたとえを祭司長たちに話されます。ある人に二人の息子がいた。兄に「ぶどう園で今日、働いてくれ」というと、そのときは「いやだよ」と言ったけれども、後から考え直して、ぶどう園に働きに出かけた。弟にも「ぶどう園で今日、働いてくれ」と言うと、弟は「わかりました」と言ったけれども、実際は働きに出かけなかった。徴税人や娼婦たちの方があなたたちよりも先に神さまの国に入るだろう。あなたたちは洗礼者ヨハネの言うことを信じず、彼の言葉に耳を傾けることはなかった。しかし徴税人や娼婦たちは洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾け、悔い改めたのだから。しかしあなたたちはその様子を見ても、後で考え直して、洗礼者ヨハネを信じようとはしなかった。

 悔い改めるということは、なかなかむつかしいことです。とくに自分は正しいと思っているときに、自分が悪いことをしているということに気づくということは、とても困難なことです。私たちもよく自分が正しいと思って、人を裁きます。自分が正しいと思っているわけですから、なかなか悔い改めることはありません。自分は立派な信仰者だと思っています。しかしイエスさまは、あなたたちに信仰があると思うのであれば、あの山に向かって、「立ち上がって海に飛び込め」と言ってみればわかると言われます。

 私たちも祭司長たちと同じように、自分が正しいと思い込んで、自分が悪いということなど、頭の隅にも思い浮かばないということもあるわけです。なかなか信じることができない。神さまから「わたしのことを信じなさい」と言われても、「いやです」としか言えない私たちがいるのです。しかしそうした私たちにも「後から考え直す」機会が備えられるのです。

 謙虚な思いになって、「やっぱりイエスさま、信じます」と言う者でありたいと思います。信じるのに遅く、心の中に高慢な思いを持つことが多い私たちです。イエスさまから声をかけられても、「えー」とか「なんでー」というような思いになってしまうことの多い私たちです。イエスさまの御言葉に聞き従わず、自分勝手なことをして、迷子になってしまうことの多い私たちです。しかし後から思い直して、「やっぱりイエスさま、信じます」と言う者でありたいと思います。



2021年10月2日土曜日

2021年9月26日

 2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

   「私たちの救い主」 山下毅牧師

    ヨハネによる福音書 1:1-18節

 キリスト者の作家三浦綾子さん著書『海嶺』は、尾張の船乗りあった、岩吉・久吉・音吉が遭難し、1年2か月太平洋上を漂流し、さまざまなつらい体験をし、ぐるりと世界を周って英国からマカオに連れてこられまして、日本に帰ろうとして、挫折する物語です。この三人がマカオに居ました時、ドイツ人のギュツラフ宣教師に出会い、共に力を合わせて、『ヨハネによる福音書』『ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を日本語に翻訳します。――そして、「ハジマリニカシコイモノゴザル コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル」と訳し始めました。この箇所(1節-18節)の中心は、14節です「カシコイモノワ ニンゲンニナラアタ ワタシドモ トモニオッタ ワタクシドモ ヒトノクライヲミタ クライハ チチノヒトムスコ オンゲイホントニイイパイ」です。この翻訳は、漁師の言葉であり、庶民の言葉であり、日本の最初のプロテスタントの翻訳であり、この翻訳には「生きて、命がある」と評価されています。イエス・キリスト私たち人間を救うためにこの世に来てくださいました。この歴史の中にイエスは私たちの罪を贖うために十字架を負い、死にて葬られましたが、復活を成し遂げられました。――私は毎週「朝祷会」に出席していますが、そのメンバーの中に、京都大学医学部教授である、高橋裕子先生が出席されています。高橋先生は7年前に、主の恵みにより、復活のイエスに出会われるという、誠に劇的な、恵みに溢れる体験をなさいました。本当に驚きました。先生はそれまで、キリスト教には関心がなかったのですが、その後洗礼を受け、熱心なクルスチャンになり、現在活躍されています。――ブールハルトは「――神に対して身を起こし、わが父よ、わが父よ、と呼び求める者に、わたしたちどんな人間であろうと、うちのめされていようと、神の国の支配が始まり、御心が行われる」と述べられています。

 イエス・キリストを見上げ、イエスを信じる者こそ、恵まれた存在であり、真実の世界を歩むことが出来ます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。三浦綾子さんの小説『海嶺』の船乗り達も、大変は苦労をして、生き抜きました。わたしたちも、人生の中でいろいろな困難があります。しかしその時、私たちと共に、復活のイエス・キリストが歩んで下さいます。私たちは、主を喜びつつ、感謝しつつ、祈りつつ日々を歩みたいと思います。


2021年9月19日

 2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

   「神さまによって救われる。」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 19:13ー30節

 山本周五郎の『日日平安』の主人公の浪人は、お家騒動の手柄をたて、仕官できるだろうときに、逃げ出してしまいます。自分はもしかしたら仕官できるのではないかというさもしい考えで、このことにあたっているけれども、ほかの人たちは一生懸命に藩のことを考えて純粋な気持ちで行なっている。そのことを考えると、自分のさもしさが身にしみてきて、こんなことでは人間としてだめなのではないかと思い、そして逃げ出すのです。人は、自分は何のために生きているのか。お金のためだけに生きているのか。果たしてそれで良いのかというようなことを、立ち止まって考えるときが、ふいに訪れるということがあるわけです。

 若い時、お金のことが気になって、生活のことが気になって仕方がなかった人も、年を取ると、また少し変わってくるのではないでしょうか。「子供を祝福する」「金持ちの青年」ときて、私たちはどうなのかというところです。天の国は子供たちのものであると、イエスさまは言われました。そして青年のお金持ちを見ながら、イエスさまは「金持ちは天の国に入るのは難しい」と言われました。そしてだんだんと年を取ると、また私たちはどちらかというと、子供たちに近くなります。

 お金は天の国にもっていくことはできません。私たちは年を取り、本当に私たちが必要としているものを求める生き方へと戻っていきます。私たちに必要なのは、お金ではなく、イエスさまからの、神さまからの祝福です。私たちが求めるものは、イエスさまが私たちに手を置いてくださり、「あなたは神さまの子どもです」「あなたは神さまの子としての永遠の命を得ています」という祝福です。

 私たちは神さまによって救われています。神さまの大きな愛のうちに、私たちはあるのです。私たちがなにか善いことをしたから、私たちは救われるわけではありません。ただ神さまが私たちを愛し、神さまが私たちを憐れんでくださるので、私たちは救われるのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と、イエスさまは言われました。

 私たちは天の国に入り、そして私たちは永遠の命を得るのです。ただ神さまの憐れみによって、神さまの愛によって、私たちは大いなる祝福を得るのです。神さまが私たちを救ってくださる。このことを信じて、神さまのお委ねして歩みましょう。