2022年1月27日木曜日

2022年1月23日

 2022年1月23日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

 「力強い方の導きに応えて」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:21-28節

 『カッコーの巣の上で』を書いたケン・キージーは、精神病院を舞台に小説を書いているわけですが、当時のアメリカの若者たちは、アメリカが管理社会として自由を失っていくことに対抗する小説として、この小説を読んだのだと言われています。社会がいつのまにか人の自由を制限して、おかしな方向へと流れていくというようなことがあります。それは社会自体が悪霊に取りつかれているような感じです。そして社会が悪霊に取りつかれているような感じになっていることに、そのときは気がつかず、破滅的なことが起こったのちに、あとからそうだったと気づくのです。ナチス・ドイツの時代がそうでした。

 イエスさまが男性から汚れた霊を追い出されたことは、人々にとってはとても驚きであり、こんなことができるのはただの人ではないと思えたことだろうと思います。そしてそれゆえに律法学者のようではなく、権威ある者のようだと思えたというのも、そうだろうと思います。力強い神さまの御子イエスさまとして、人々の心に刻まれた出来事でした。

 力強い神さまの御子としてのイエスさまの働きを、私たちは同じように行うことができるというわけではありません。しかし汚れた霊に取りつかれているような社会を、良き社会へと変えていくということは、私たちにもできることです。病で苦しんでいる人々を、あの人が病に苦しんでいるのは、なにか悪いことをしたからだと責める社会のありようがあります。あの人が貧しいのは、あの人が怠け者だからなのだ。あの人は努力が足りないから、あの人は貧しいのだ。それは自己責任なのだ。しんどい思いをしている人や困っている人に対して、追い討ちをかけるようにひどい言葉をあびせる社会は、汚れた霊に取りつかれている社会のような気がします。そうした暖かみのない社会を、神さまの愛に満ちた社会へと招いていくことは、私たちにもできることです。

 「神の国は近づいた」「御国が来ますように」。イエスさまはそうした思いをもって、権威ある者としてお教えになりました。神さまの愛に満ちた国がやってくる。だから私たちは御国を待ちつつ、神さまの愛にふさわしく歩んでいこう。病気を患っている人に対して、あの人は神さまから罰を受けているのだと言う、やさしさを失ったこころをもつのではない。しんどい思いを感じられる人間らしい歩みをしようよ。神さまはあなたを愛し、あなたをやさしいすてきな人としておつくりになられたのだから、神さまの愛にふさわしく歩んでいこう。

 イエスさまの招きに応えて、やさしい思いになって歩んでいきましょう。



2022年1月22日土曜日

2022年1月16日

 2022年1月16日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

 「招いてくださる方がいる幸い」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:14-20節

 ジブリの映画にもなりました、角野栄子の「魔女の宅急便」は、主人公の魔女であるキキが住む街を決める話から始まります。自分の住むところを自分で決める。わたし自身はそうしたことがありませんでした。わたしは牧師という仕事につきましたので、赴任した教会に住むことになります。牧師は招かれてその教会に赴任します。辞令が出て「ここに行きなさい」ということではなく、招いてくださる方々がおられるところに行くということの喜びがあるような気がします。それは住む街を自分で決めるのとは、また違った喜びのある歩みだと思います。

 四人の漁師を弟子にする」という、イエスさまの弟子選びの話の基本は、「イエスさまは招き、弟子たちは応える」ということです。弟子たちが、わたしはあなたの弟子にふさわしいから、あなたの弟子になると言ったわけではありません。イエスさまが弟子たちを招かれ、そして弟子たちはその招きに応えたのです。

 わたしはここに、「招かれている幸い」ということがあると思います。就職活動をしている学生が落ち込むメールに、「お祈りメール」というのがあります。不採用通知を知らせるメールのことです。最後に「心よりお祈り申し上げております」とあるので、「お祈りメール」と言われます。お祈りされているけど、招かれてはいないわけです。入試の合格不合格電報も「サクラサク」「サクラチル」とかありました。世の中は、合格不合格というようなことが多いわけです。

 しかしイエスさまは弟子たちを招かれました。イエスさまは「お前は要らない」と言われませんでした。イエスさまはすべての人を招かれます。イエスさまの弟子である12弟子には、イスカリオテのユダがいます。イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切って、ユダヤの指導者たちに引き渡し、イエスさまは十字架につけられることになります。しかしイエスさまは自分を裏切ることになるイスカリオテのユダを招かれ、自分の弟子としたのです。イエスさまは罪人と言われ、人々から嫌われている人たちを招かれました。イエスさまは罪人を招き、一人一人が神さまの愛のうちにあることを伝え、祝福をされたのでした。

 弟子たちを招かれたイエスさまは、私たちひとりひとりを同じように招いておられます。「あなたは大切な神さまの子なのだ」「神さまあなたのことを愛しておられる」「わたしについて来なさい」。イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを歩んでいきましょう。



2022年1月13日木曜日

2022年1月9日

 2022年1月9日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

 「あなたはわたしの愛する子」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:9−11節

 わたしがクリスチャンになったのは、まだ18歳の青年でした。クリスチャンになるということに、ある種の気負いがあったように思います。「りっぱなクリスチャンにならないといけない」。しかしいまはそうした気負いというものがなくなって、いい意味で、ただのクリスチャンという気がします。わたしはとくに敬虔なクリスチャンになることもできませんでした。でもわたしはクリスチャンになってほんとうによかったと思います。わたしはクリスチャンになって、神さまに委ねて生きるということの確かさを味わうことができました。たぶん自分を頼りにして生きていたら、わたしは大変だっただろうと思います。困難にぶつかった時、わたしは人生を投げ出してしまったかも知れません。しかしわたしは幸いなことにクリスチャンだったので、神さまにお委ねして生きるということを心においています。わたしはとても幸いだと思います。

 W.H.ウィリモンというアメリカの神学者は、『洗礼 新しいいのちへ』(日本キリスト教団出版局)という本の中で、洗礼についてこう記しています。「キリスト者は、洗礼を通して、しかも最終的に、自分が誰であるのかを学ぶのです。洗礼は、アイデンティティを与える式です。洗礼は、あなたが誰であるのかということについて、論じるのではなく断言し、説明するのではなく宣言し、要求するのではなく断定し、ほのめかすのではなく行為によって明らかにし、描き出すのではなくそのように生きよと働きかけます」(P.35)。

 神さまはイエスさまに語られたのと同じように、私たちに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と語りかけてくださっています。私たちはりっぱであるわけでもありません。どちらかと言えば、崩れ折れてしまうような弱さを抱えて生きています。もちろんできれば良き人でありたいと思います。りっぱな人でありたいと思います。しかし弱さを持ち、どうしたらいいのかわからない不安を抱えるときもあります。到底、神さまの御心に適う者として生きているとは思えません。しかしそれでも、私たちは神さまにとって、「わたしの愛する子」なのです。私たちがどんな者であったとしても、神さまにとって私たちは「愛する子」なのです。私たちは愛の神によって、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という恵みの中に入れられています。

 神さまは「さあ、わたしと共に歩もう。わたしの愛する子よ」と、私たちを招いてくださっています。2022年の歩みが、あなたの人生にとって新しい歩みとなりますようにとお祈りしています。


2022年1月7日金曜日

2022年1月2日

 2022年1月2日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

 「神と人とに愛されて」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 2:41−52節

 クリスマス、イエスさまをお迎えして、新しい年の歩みを始めました。

 佐高信さんの『日本国憲法の逆襲』(岩波書店)には、佐高信さんと、落合恵子さんの対談がのっています。落合恵子さんは「むすんでひらいて」が大切だといっています。【落合「私たち、より声の小さいほうにいる側は、「どれだけ手を柔らかく握り合うことができるか」が大切ですよね。ギュッと強く握り合い、自由に動けなくなるのは、いま声の大きい側の人たちがやっている。そうではなく、「むすんでひらいて」ができるような柔らかさをもって個人としてどれだけつながっていけるかが問われているような気がします」】。

 ルカによる福音書2章52節の【イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された】という言葉を聞くと、なんかとってもほっとします。イエスさまは神の子として、神さまから祝福され、そして人々に愛されて育たれたのでした。このイエスさまが迷子になられたという話も、マリアやヨセフたちはあわてたでしょうが、なんかとってもあたたかみのある話です。

 しかしまたほっとするのと同時に、私たちはこれからのイエスさまの歩みに思いをはせます。イエスさまは「小さくても神の子」です。イエスさまは神の子としての歩みをなさいます。「神と人とに愛される」というのは、とても意味深長な言葉だと思います。イエスさまは神さまから愛されていました。しかし神さまは私たちの罪のために、イエスさまを十字架につけられたのです。そして神の子として歩み始められたイエスさまを、はじめこそ人々は歓迎したわけですが、人々はののしりながら、イエスさまを十字架につけたのでした。

 私たちはイエスさまによって、自らの罪をあがなっていただき、罪をあがなわれた者として生きています。罪をあがなわれた者として生きるということは、人を信頼して生きていくということだと思います。もちろん人は罪人の集まりですから、裏切られることもあるかも知れません。しかし同じ罪人として、それでも信頼して生きていくということなのです。

 私たちは「むすんでひらいて」生きていくことが大切だと思うのです。凝り固まって人を裁いたり、ぎゅっと手をにぎって自分の方に引っぱっていくのではない。私たちが手を開いても、神さまはいつもその人と共にいてくださいます。神さまのお守りのうちに、新しい年も健やかに歩んでいきましょう。


2021年12月26日

 2021年12月26日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

 「喜びの中のクリスマス」 山下毅牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 私の信仰の友である牧師さんから、年末にお手紙を頂きました。それは「クリスマスのお祝い」、「年賀状」、「喪中につきの挨拶」という内容でした。日本の習慣では、年賀状を控えるという習慣が未だ残っていますが、そのような習慣を乗り越えて、自分は進むという内容でした。「自分は愛する兄が亡くなって悲しいけれども、その悲しみを強い力で喜びに変える力が、クリスマスにはある、私はいつでもクリスマスの喜びの中に立ち得る、そういうものがクリスマスではないか」と記されていました。――本当に教えられるものがあります。

 マタイ2章1-12節の聖書箇所は本当に喜びの少ないところです。10節に「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されているこの箇所だけが喜びがあるのです。しかも、マタイ2章全体は「殺意」、「恐れ」、「悲しみ」に満ちています。しかも、「喜びにあふれた」のは、ユダヤの民にとっては、捕囚の地バビロンから来た、禁じられている占いを業とする、占星術の学者達でした。異邦人でした。--ユダヤの民は、ベツレヘムで救い主の御子が、旧約聖書「ミカ」の預言で生まれることを知っていながら、誰も会いに行きませんでした。――ここに考えさせるものが有ります。私たちは本当にクリスマスを心から喜んでいるでしょうか。喜んでいても薄っぺらな喜びであるのではないでしょうか。――神は、星占い自体は間違っており、学者たちが異邦人であることも承知しておられました。三人の学者をお立てになりました。これは神のなさることです。――学者達は、星を頼りに、険しい道のりを旅して来たのです。分からなくても尋ねたのです。そして彼らの求道の旅に、神が答えて下さったのです。「東方で見た星が、先立って進み、ついに幼子のいる場所で止まった」のです。本当の王がおられることを、星がついに指し示すことが現実となったのです。学者達は、自分らが大切にしていたささげ物をささげました。――救い主は人間の罪の墓に生まれ、墓に葬られましたが、三日目に墓の内からよみがえられました。私たちの立つ位置は神から遠いように思う思いは私たちの思いです。――しかしその遠さは、神にとっては、ものの数ではありません。神ご自身が私どもに近づいてくださるのです。どんな自分の不信仰に逆らっても、「されど」、「神は私たちの父」と叫ぶことのできるのです、クリスマスの喜びの歌声が生まれるのです。