2019年7月30日火曜日

2019年7月21日

2019年7月21日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨
  「一人一人が生き生きと」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 28:16~20節
 学生のときに聞いた天国に関する小噺によると、天国に入るときは天国の門の前で自分の罪を思い出し、悔い改めながら、自分の犯した罪をチョークで書いていくそうです。(小噺省略)。みなさんは天国に行くときに、だれが天国に連れていってくれると思っておられますか。わたしを天国に連れていってくれるのは、信徒の皆さんだと思っています。わたし自分を天国に連れていってくれる人と一緒に、教会生活を送っていると思っています。
 神さまによって、ひとりひとりが召されています。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という言葉は、教会に集うひとりひとりに語られています。そして「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉は、ここに集うひとりひとりに語られているのです。
 わたしがこうなればいいなあと思う平安教会のイメージは、こうです。ペトロとヨハネが天国で、平安教会の話をしています。「ああ、平安教会か、あの教会はええ教会やねえ」。「ほんと、あの教会はええ教会や」。「平安教会には、信徒のAさんがおるわ。あの人は熱心や」。「そうそう、平安教会には、信徒のBさんもおるわ。りっぱな人や」。「あ、それから信徒のCさんも平安教会や。あの人の信仰には頭がさがるわ」。「ああ、Dさんもおるわ。あの人はほんとに謙虚な人や」「そうや、平安教会はええ教会だから、平安教会の牧師のところに、天国から贈り物をしようよ」。「そりゃ、ええ考えや。さすがペトロさん、ええこと言うわ。グッド、アイデアや」。そして使徒ペトロが、最後に使徒ヨハネに尋ねます。「それは、そうと、平安教会の牧師って、だれっだけ?」。
 この話は天国での話ですが、現実に世界でも、「平安教会の牧師の名前は知らないけれど、平安教会には信徒のFさんがいる」というような教会であってほしいと思います。もちろんわたしも「平安教会には、かっこよくて男前の牧師さんがおられる」というふうに言われるように、一生懸命にこころを込めて、伝道・宣教のわざに励みたいと思います。
 教会は自由なみんなの広場です。ひとりひとりが自由に、そして生き生きと神さまから与えられた賜物を生かしてわかちあう、みんなの広場です。私たち一人一人、みんなが主役です。そしてひとりひとりが神さまに召された者として、共に尊敬しあって歩んでいきましょう。

2019年7月22日月曜日

2019年7月14日

2019年7月14日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
  「支えあって生きる」 小笠原純牧師
    マルコによる福音書 9:30~37節
わたしが牧した三条教会のある、新潟県三条市の近くに伝えられる民話を紹介いたします。ある貧しい男が毎日花売りに来て、余ると、川に投げ入れて乙姫様にあげていました。ある日、乙姫様に招かれ、お礼に「トホウ」という子どもをもらいます。トホウは汚れているけれど、何でも願い事をかなえてくれます。男は家を、着物を、お金をトホウに出してもらいます。男は大金持ちになります。大金持ちになると、どこにでも付いてくる汚れたトホウが邪魔になります。男がトホウを追い出します。トホウが家を出ると、たちまち家も、着物も、すべてのものがもとどおりになってしまいました。男は途方(トホウ)にくれてしまいました。この民話はトホウに象徴される小さき者を除け者にしていく人を風刺しています。昔の人々は民話をとおして、小さき者に対する配慮を忘れてはならないという大切なことを、子に、孫に伝えていったのです。
イエスさまはご自分の死と復活とを弟子たちに告げられました。しかし弟子たちは理解することができませんでした。弟子たちが望んでいたことは、イエスさまがダビデ王のようにえらくなることであり、そのときには自分たちもえらい者になることであったからです。そうした弟子たちに対して、イエスさまは仕える者になることを教えられ、子どもに象徴される小さき者を大切にするあり方を示されました。
申命記24章5節以下には「人道上の規定」という表題のついた聖書の箇所があります。そこには寄留者・孤児・寡婦に対する配慮することが、神さまの命令として記されています。イスラエルの民は、エジプトの国で奴隷になっていたときに、神さまが救いだしてくださったことを忘れず、寄留者や孤児、寡婦に対しての配慮について、申命記のなかで記しています。日本の民話のトホウの話のように、自分たちが救われて、豊かな生活ができるようになったときに、小さい者たちへの配慮を忘れてはいけないとの思いが、イスラエルの民の中にしっかりと根付いていたのでした。
私たちは強いときもありますし、弱いときもあります。そして私たちはみな弱い部分を抱えて生きています。支えあい、励まし合って、生きていく。だれかがだれかを支配したり、だれかがだれかの上に立つというのではなく、互いに仕え合う。イエスさまが示してくださった愛の道を、私たちも一緒に歩んでいきましょう。

2019年7月15日月曜日

2019年7月7日

2019年7月7日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨
  「大きな丸太が目の中から」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書 7:1~5節
今日は敬愛する平安教会の皆様と共に、礼拝を守ることができ、とてもうれしく思います。7月1日(月)から平安教会での歩みが始まりました。わからないことだらけですので、桝田翔希伝道師にお聞きしながら、いろいろなことを始めております。
わたしは16年ほど前まで、四国の伊予小松教会という教会の付属の保育園で、園長をしていました。キリスト教主義の保育園でしたから、目を閉じてお祈りをするということがありました。お祈りの歌を歌ったあと、お祈りをします。保育士の先生がお祈りをし、そしてお祈りが終わったあとに、先生のところにやってきて、「先生、聖子ちゃんが、お祈りのとき、目をあけていました」と教えてくれるこどもがいます。先生は言います。「ほんと?。教えてくれて、ありがとう。でもどうして聖子ちゃんがお祈りのとき目を開けていたって、明菜ちゃんにわかったの?」。
イエスさまは「人を裁くな」と言われました。人を裁くとき、あなたも同じようなことをしていることがあることに気づきなさい。そして「自分が裁くと、人もあなたを裁く」と言われました。裁きの世界に生きている限り、互いに裁きあい、傷つけ合うだけだと、イエスさまは言われました。
ヤコブの手紙5章15節には【信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます】とあります。「主が赦してくださるのです」。ですから私たちのすべきことは、裁くことではなくて、祈ることです。
イエスさまは「人を裁くな」という話をされたときに、「まず自分の目から丸太を取り除け」と言われました。もちろん人の目の中に丸太があるわけはありません。イエスさまは「裁くな」という深刻な話をするときに、ちょっと極端なことを言って、話の場を和ませたのです。正しいことを言うときは、少し配慮をしなければならないと、イエスさまは私たちに教えておられるのです。このことも大切なことだと、わたしは思います。
人を裁いたりすることの多い私たちです。しかし自分の目の中に丸太があるのではないかと思う、謙虚な気持ちを忘れることなく、歩んでいくことができるようにと、神さまにお祈りいたしましょう。

2019年7月2日火曜日

2019年6月23日

2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
  「招かれた食卓」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 14:15~24節
6月23日は沖縄では「慰霊の日」として守られる日です。私事ですが、3月に沖縄研修旅行に参加させていただき、様々なことを見せていただき聞かせていただきました。宮古島での住民の危険を顧みない基地の建設や、辺野古での基地建設、戦争の記憶、など様々なことを見聞きしました。「帰ったらこのことを伝えてね」と私たちを温かく迎えて下さいました。「行こう」と思い研修に参加しましたが、「招かれた」ような感覚を覚えました。
 沖縄県知事室の屏風には「万国津梁の鐘」に刻まれている漢文が書かれています。この文章には、沖縄・琉球が近隣の国と平和に外交を行い、懸け橋のような役割を担ってきたことが書かれています。しかし次第に日本により支配されるようになり、第二次世界大戦にあっては本土の捨て石として利用され、現在でも軍事基地が多く存在します。沖縄出身の平良修牧師は「万国の橋渡し役ではなく、常に侵略国家の政治の一端を担わされることになった」と著書の中で語っておられました。本土から見て「小さな島」は支配下に置かれてしまっています。
 与えられた聖書箇所は、ファリサイ派の人たちが集まる中でイエスがたとえ話を語り、張り詰めた空気の食事会の様子を伝えています。その中でイエスがたとえ話を語ります。宴に招かれた人たちはそれを断り、打って変わって街の隅々を探して人が集められました。その範囲は小道にまで及びましたが、これはこの世の端っこや周辺という意味も含まれているようです。この箇所の冒頭では、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と語ったことがわざわざ記録されています。私たちも自分こそが正しいという風に思ってしまうものですが、この言葉の背景には「自分こそが正しく救いに預かることができる」という思いを読み取ることができます。私たちの社会では、都会ばかりが栄え「田舎」は利用されどんどん貧しくなります。ここには「中心と周辺」の構造があります。ファリサイ派の発言を受けイエスの語った物語で、食卓に招かれたのは小道や町の端っこにいる人たちでありました。
 私たちの身の回りには、このたとえ話に登場するようなキツイ生活を余儀なくされる痛みがたくさんあります。しかし、ついつい自分を中心に生きてしまいます。この世の中の端っここそイエスは大切にされたのです。「小さいから」と、ないがしろにしないイエスの姿勢に学ぶものでありたい。