2024年7月12日金曜日

2024年7月7日

 2024年7月7日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「イエスさま、す・て・き」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書5:19-36節

 夢のなかで自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、イエスさまの御心に反したことをしてしまう。しかしそうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。

 イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書はそのようにイエスさまのことを記しています。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちがイエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初代のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。

 すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。


2024年7月5日金曜日

2024年6月30日

 2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「イエスさまの言葉に希望を置く」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:43-54節

 いまNHKの朝の連続テレビ小説は「虎に翼」です。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩みました。

 イエスさまは役人の息子を癒やされます。役人はイエスさまが言った「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」という言葉を信じて、カファルナウムに帰ります。役人はただイエスさまの御言葉を信じて、帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。その途中に僕たちに出会い、イエスさまがそのように言われた時刻に息子が癒やされたことを聞きました。

 ヨハネによる福音書では「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所がほかにもあります。「イエスとトマス」(ヨハネ福音書20章34節以下)の物語です。うたがい深いトマスに、イエスさまが言われます。【イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」】。

 いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するのだという信仰です。

 私たちもまたそのように信じています。そして祈ります。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。


2024年6月29日土曜日

2024年6月23日

 2024年6月23日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:27-42節

 「役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う」(鴻巣友季子『全身翻訳家』、ちくま文庫)。翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。翻訳家という人の存在を思うとき、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

 サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。

 私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

 私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

 私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから、種を蒔く人も刈る人も、共に喜び、豊かな歩みをしていきたいと思います。


2024年6月22日土曜日

2024年6月16日

 2024年6月16日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「決して渇かない世界がある」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:5-26節

 詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってきます。しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのでした。

 サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。彼女はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。彼女は、五人の元夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだと思います。

 サマリアの女性は渇いていました。彼女がイエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。彼女はもういやになっていたのです。中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、  彼女のうえに吹いているような気持ちを抱えていたであろうと思います。

 そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。彼女は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、彼女は知ったのです。

 私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。

 イエスさまは私たちにも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。

 私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。


2024年6月15日土曜日

2024年6月9日

 2024年6月9日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「いのちに仕える」 仲程愛美牧師

  マタイによる福音書 6:25-34節

 昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。

 人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。

 イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。

 「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」

 人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。

 「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。

 命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。


2024年6月7日金曜日

2024年6月2日

 2024年6月2日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「新しく生き直そうよ。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 3:1-15節

 5月は中学生、高校生、大学生の前で礼拝説教をするということがよくありました。彼女ら彼らからみると、わたしもおじいさんにみえるのだろうと思います。レベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みながら、わたしも若者に説教をして迷惑をかけないようにしないといけないと思いました。そう思いながらも説教していたりして、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいものだと思いました。

 ファリサイ派の議員のニコデモは、イエスさまのところを訪ねてきます。そしてイエスさまから「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われます。

 ニコデモは「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような一般的な意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

 そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

 新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

 私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。


2024年6月4日火曜日

2024年5月26日

 2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「名を呼ぶ神」 山﨑道子牧師

  ルカによる福音書 20:27-40節

 キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

 その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


2024年5月24日金曜日

2024年5月19日

 2024年5月19日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「神さまと共に生きる幸い」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 14:15-27節

 ペンテコステ、おめでとうございます。

 ティラミスは、イタリア発祥のチーズケーキの一種です。ティラミスはイタリア語です。「tira」は「引っ張って」、「mi」は「わたしを」、「su」は「上へ」という意味です。「わたしを上に引っ張って」ということですから、「わたしを元気にして」という意味です。聖霊に満たされて、元気になった弟子たちが、イエスさまのこと、神さまのことを宣べ伝え始めたのが、ペンテコステの出来事であったわけですから、「わたしを元気にして」という意味のティラミスは、ペンテコステにふさわしいデザートだと思います。ただちょっと気をつけなくてはならないのは、ティラミスは「わたしを元気にして」という意味のほかに、「わたしを恋人にして」という意味があります。「わたしを一段、上へと引き上げて」ということで、「友だちから恋人にして」という意味になります。だからちょっと異性(もちろん同性の場合もあるかもしれませんが)と食べる場合は、ちょっと相手に誤解を与えないか気をつけたほうがいいでしょう。

 「心を騒がせるな。おびえるな」と、イエスさまは言われました。私たちは弱さを抱えて生きていますから、心を騒がせたり、おびえたりすることが、よくあります。そうした弱さを抱える私たちに、イエスさまは別の弁護者、すなわち聖霊を送ってくださるのです。私たちに聖霊が送られるというのは、私たちがりっぱであるからではありません。私たちがイエスさまの御言葉、御教えを守って、イエスさまがおられなくなっても、未来永劫、しっかりと歩んでいくことができるというのであれば、私たちに聖霊が送られる必要はないのです。私たちが弱く、力のないものだからこそ、聖霊は私たちを包み込み、私たちを守り、私たちを励まし、元気にしてくださるのです。

 私たちは神さまによって生きています。私たちはイエス・キリストによって生きています。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」と、イエスさまは言われました。私たちは神さまと共に生きています。これが私たちにとっての大きな幸いです。イエス・キリストは「神、われらと共にいます」ということの徴として、私たちの世に来てくださいました。そして聖霊もまた「神、われらと共にいます」という徴として、私たちの上に注がれるのです。

 神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守ってくださいます。ペンテコステ、聖霊を受けて、神さまに感謝して歩みましょう。


2024年5月18日土曜日

2024年5月12日

 2024年5月12日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「広がりゆく神の国」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 7:32-39節

 わたしが岡山教会で伝道師をしたあと赴任した教会は、新潟の三条市にある三条教会でした。教会員が20名くらいの教会でした。教会員のAさんが三条教会の創立期の話をわたしにしてくださいました。まず集会をもつ家が備えられました。Aさんの夫君は熱心な教会員で、そのときAさんに「礼拝や集会をもつ家が与えられたから、今度は専任の牧師さんが来てくれたらいいねえ」と言いました。Aさんは「おとうさん、そんなばかなことあるわけないでしょ!。こんなところにだれが来ますか」と答えたそうです。「あのときはぜったいそんなことになるわけないと思っていたけれど、おとうさんのいうとおり、牧師さんがきてくれる教会になったのだから、やっぱりおとうさんが正しかったのですね」。わたしはこの話を聞きながら、「ああ、こういう教会員の方々のあつい願いや祈りによって、教会が立っているのだなあ」と思いました。

 ユダヤ人たちは「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」と言いました。これはイエスさまに対する嘲りの言葉です。この嘲りの言葉が実現していくのが、初期のキリスト教の歴史です。

 イエスさまが十字架につけられ、よみがえられ、天に召されたあと、聖霊が弟子たちにくだり、弟子たちはイエスさまのことを宣べ伝えます。使徒パウロはギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ユダヤ人や異邦人に教えるのです。テサロニケの教会、フィリピの教会、コリントの教会などなど、使徒パウロは手紙を書いて、その手紙が私たちの聖書の中に記されています。ギリシャからローマへ、そして世界中に教会が建っていくことになります。

 イエスさまは弟子たちに「『種を蒔く人』のたとえ」(マルコ4章1-9節)という話をしておられます。「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。讃美歌21の412番には「昔主イェスの」という讃美歌があります。「昔主イェスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて、地の果てまで、その枝を張る、樹とはなりぬ」。

 私たちは御言葉によって支えられ、そして生かされています。この言葉を待っている人たちがいます。私たちはイエス・キリストの命の言葉に支えられ、そして命の言葉を伝えていきましょう。


2024年5月11日土曜日

2024年5月5日

 2024年5月5日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「大丈夫。わたしがいるから。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 16:25-33節

 『死にたいけどトッポッキは食べたい』(光文社)は、韓国でベストセラーになったエッセイです。BTS (防弾少年団)のメンバーのRMの枕元にも置いてあったと言われています。「なんとなく気持ちが沈み、自己嫌悪に陥る。ぼんやりと、もう死んでしまいたいと思いつつ、一方でお腹がすいてトッポッキが食べたいなと思う…。気分変調症(軽度のうつが長く続く状態)を抱える女性が、精神科医とのカウンセリングを通して、自分自身を見つめ直した12週間のエッセイ」。

 イエスさまと弟子との関係は、イエスさまが「わたしについてきなさい」と言われ、弟子が「はい、ついていきます」とついていき、いろいろなことがあるけれども、いけいけどんどんで歩んでいくというような感じです。ですから「メンタルやられて、もうちょっとだめです」というような話はあまり出てきません。

 しかし聖書にも体の調子が悪くなった人の話が出てきます。使徒パウロは体の調子が悪かったときのことを書いています(ガラテヤ4章13-14節)。使徒パウロが体の調子が悪かったとき、ガラテヤの教会の人たちがパウロを大切にしてくれたことによって、ガラテヤの教会はできました。またエパフロディトは、使徒パウロが獄中生活を送っている時に、フィリピの教会の人たちから使徒パウロのお世話をするために送りだされたのですが、途中でちょっとしんどくなって、フィリピに帰りたいと思います(フィリピ2章25-28節)。

 大切な人を失ったあとの喪失感というのは、あとからじわーっときいてくるということがあるわけです。「ああ、イエスさま、もうおられないんだ」。イエスさまの弟子たちはユダヤ人で韓国人ではないですから、『死にたいけどトッポッキは食べたい』とは思わないでしょうけれども、『死にたいけどデーツは食べたい』というような気持ちになる弟子たちもあっただろうと思います。

 イエスさまは弟子たちに、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言われました。わたしと共にいてくださった神さまは、あなたと共にいてくださる。だから勇気を出しなさい。勇気をもって、歩み始めてみてほしい。

 イエスさまは少し疲れた私たちを招いておられます。無理せず、ゆっくりと歩み始めてみましょう。神さまは私たちを守り導いてくださり、私たちに必要なものを備えてくださいます。


2024年5月4日土曜日

2024年4月28日

 2024年4月28日 復活節第5主日礼拝説教要旨

「愛、憎しみの世界での約束」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 15:15-27節

 ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナのハマスの戦争など、私たちの世界はここ数年、とても重苦しくつらい戦争の出来事に覆われています。またイスラエルとイランが行なったミサイル攻撃など、私たちを不安にさせます。争いの多い世界にあって、イエスさまが逮捕された時に言われた言葉を思い起こしたいと思います。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)。イエスさまは力に頼るのではない道を歩まれた方でした。

 イエスさまが十字架につけられる前に、最後に弟子たちに伝えた命令は、「互いに愛し合いなさい」ということでした。あなたたちが生きていくためには、互いに愛し合うことが必要なのだと、イエスさまは言われました。そのあと、イエスさまは弟子たちに、世の人々はあなたたちを憎み、あなたたちは迫害されることになるだろうと言われました。

 迫害をされるということですから、弟子たちは人々から憎まれるということです。弟子たちは憎しみの多い世界で生きることを強いられます。争いや憎しみの多い世界では、力で持って押さえつけるようなことが良いことのように言われます。しかしイエスさまは弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われました。憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うということが大切なのだ。憎しみや争いの多い世界だからこそ、互いに愛し合うことが最後の砦なのだ。互いに愛し合うこと、互いに尊敬しあうこと、それが私たちの世の中で大切なことなのだと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまは十字架への歩みへと進まれます。

 十字架につけられ、人々からののしられるイエスさまが、「互いに愛し合いなさい」と言われます。イエスさまは多くの人々を救いました。しかし自分を救うことはできませんでした。そのイエスさまが、私たちに「互いに愛し合いなさい」と言われます。憎しみや怒りに支配されることなく、イエスさまの愛を拠り所にして生きていく。それがイエスさまが私たちに対してくださった約束です。

 イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちに永遠の命を約束してくださいました。憎しみや怒りに支配されそうになることが私たちには多いですけれども、イエスさまが私たちのところに送ってくださる弁護者である聖霊の働きを信じて、寛容なこころを取戻したいと思います。イエスさまの愛に包まれて、こころ平安に歩んでいきましょう。


2024年4月27日土曜日

2024年4月21日

 2024年4月21日 復活節第4主日礼拝説教要旨

「あなたならできる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 21:15-25節

 食品をこの氷温域に設定することによって、おいしく安全に貯蔵したり加工したりする氷温技術は、山根昭美農学博士の失敗によって発見され研究が進んだ技術です。機械が故障し、4トンの二十世紀梨がマイナス4度で保存をされたのがはじまりです。

 キリスト教の一番の特色は、失敗者によって広められた宗教だということです。イエスさまのお弟子さんたちはみんなイエスさまを裏切った失敗者でした。

 ペトロはイエスさまから「わたしを愛しているか」と問われたとき、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と答えませんでした。ペトロは「わたしが愛している」とか「わたしがどうである」ということよりも、「イエスさまがどうである」「イエスさまがご存知である」ということを自分の生きていく拠り所としたのです。自分がどうするこうするということから、イエスさまに自分をお委ねする生き方へと導かれていったのです。

 イエスさまはそういうペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。イエスさまは自信を失っているペトロを励まされました。「ペトロ、あなたにはできる」という気持ちを込めて、「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。

 私たちは人生においていろいろな失敗をします。「こうしたらよかった」とか「ああしたらよかった」とか思います。「おれはだめなやつだ」「わたしはだめな人間だ」。そんなふうに思えるときがあります。どんなに計画をたててやったとしても、人間のすることですから、やっぱりいたらないことがあります。「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」というのは、人間の常なのです。でもやっぱり失敗すると落ち込んだり、自信がなくなったりします。そして次の一歩が踏み出せないときがあります。

 でもイエスさまは「だいじょうぶなんだ」と言われます。「あなたはだいじょうぶ。あなたならできる。わたしが共にいるから」。イエスさまはそう言って、私たちを導いてくださっています。使徒ペトロに「わたしの羊を飼いなさい。あなたにはできる」と言ってくださったイエスさまは、私たちにも「あなたならできる」と言ってくださっています。イエスさまは私たちを導き、私たちを励まし、そして私たちを用いてくださいます。イエスさまの招きに応えて、安心して歩んでいきましょう。


2024年4月19日金曜日

2024年4月14日

 2024年4月14日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「未来を拓く」 内山宏牧師

  ルカによる福音書 24:36-49節

 イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。

 2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。

 イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。

 この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。

 もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。


2024年4月13日土曜日

2024年4月7日

 2024年4月7日 復活節第2主日礼拝説教要旨

「平安をもたらす神さまの聖霊」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:19-31節

 荒木優太の『サークル有害論 なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)は、なんとも挑戦的なタイトルです。「一人ひとりは心優しい人間だとしても、全てのメンバーが互いをよく知っている小規模で親密な集いには、親密でよく通じ合っているが故に発生してしまう「毒」がある。その集いは人々の間のミクロな違い、その隙間に巣くうコミュニケションによって「有害な小集団」と化し、わたしたちを日々毒す」(表紙裏)とあります。人の集りというのは、なかなかむつかしいもので、良い人たちの集りであっても、なんかうまくいかず、疲れたり、傷ついたりする出来事に出会うということがあります。

 イエスさまのお弟子さんたちの集まりも、ときどきぎくしゃして、互いに対立したりしています。それでもイエスさまを慕って集まり、イエスさまについて歩んでいきます。しかし最終的に、イエスさまが十字架につけられたとき、みんなイエスさまを裏切って逃げ去ったわけです。ちりじりになって逃げてもよさそうなものであるわけですが、なぜかひとところに集まります。そして一つのところに集まりながらも、自分たちはイエスさまを裏切ったという暗い影に脅えていました。

 そうした不安を抱える弟子たちのところに、イエスさまはきてくださり、弟子たちの歩むべき道を示してくださいました。それは聖霊を受けて、神さまを信じて生きるということです。イエスさまは弟子たちに「聖霊を受けなさい」と言われました。そして互いに赦しあって生きることの大切さを示されました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。もしかしたら誰かが自分を裏切るかも知れない。そのような疑心暗鬼な気持ちに包まれている弟子たちに、イエスさまは赦しあって生きることが大切だと言われました。だれかから赦すことができないという思いになるようなことを受けたとしても、赦しあって生きていきなさい。確かな気持ちをもって、自分が人生の主人公として生きていきなさい。あなたが罪を赦したら、その罪は赦されるのだ。いつまでも罪に囚われるのではなく、あなたが罪を赦し、あなたが人生の主人公として生きていきなさい。そのようにイエスさまは言われました。

 赦しあい、助け合い、神さまの聖霊を信じて、健やかに生きていく。復活されたイエスさまは、私たちにそのように呼びかけ、「あなたがたに平和があるように」と、私たちを祝福してくださっています。


2024年4月6日土曜日

2024年3月31日

2024年3月31日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「イースター、穏やかな日常へ」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書28章1-10節


 イースター、おめでとうございます。

 よみがえられたイエスさまは女性たちを通して弟子たちに「ガリラヤで出会う」ということを伝えます。ガリラヤというところは、イエスさまや弟子たちの多くの出身の町です。弟子たちはイエスさまにガリラヤで出会い、そしてイエスさまと共に歩みます。イエスさまが十字架につけられるときに、弟子たちは逃げ出してしまいます。しかしイエスさまがよみがえられたあと、弟子たちはまたガリラヤから新しく歩み始めるのです。

 ガリラヤは弟子たちがイエスさまと出会った場所というだけでなく、「異邦人のガリラヤ」と言われる地域でした。「異邦人のガリラヤ」という言い方は、その地域に住んでいる人たちに対する蔑みの言葉であるわけです。「ガリラヤからすばらしい人が出るはずがない」というような言われ方をするのが、ガリラヤでありました。そうしたエルサレムという中心から離れた地域がガリラヤであるわけです。ガリラヤはまた貧しさを抱え、蔑みを受けるところでありました。イエスさまはそのガリラヤで、復活のあと、弟子たちに会われたのでした。

 ガリラヤの地もいろいろな問題や課題を抱えるところでありました。それは私たちの生きている世の中や、私たちの生活でもあることです。私たちも生活の中で、いろいろな悩みや困難に出会います。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。すべてのことがうまくいっているわけでもないですし、私たちにとって不都合なことも起こります。ひとから誤解を受けるようなこともありますし、ひとから傷つけられることもあります。さみしい思いをすることもありますし、また自分が人を傷つけてしまい、そのことでまた自分自身が傷つくというようなこともあります。そういう意味では、私たちの生活しているところも、ガリラヤであるわけです。

 イエスさまはいろいろな問題や課題があるガリラヤで、よみがえられたあと、弟子たちに会われます。いろいろなことがあるけれども、しかしその場所からまた新しい思いになって歩み始めることを、イエスさまは望んでおられます。

 私たちの毎日の生活の中で、イエスさまは私たちに伴ってくださり、私たちの歩みを支えてくださっています。

 イースター、弟子たちがガリラヤに帰ったように、私たちもまた穏やかな日常に帰っていきたいと思います。イエスさまが私たちの歩みを導いてくださいます。よみがえられたイエスさまと共に、健やかな歩みをしていきたいと思います。


2024年3月29日金曜日

2024年3月24日

 2024年3月24日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「背筋を伸ばして、胸をはって」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:1-11節

 イエスさまはこの聖書の箇所で、「わたしである」と二度言われます。「わたしである」という言葉は特別な言葉です。ギリシャ語の「エゴー・エイミー」と言われる言葉です。この言葉は、聖書の中では特別な言葉とされ、神さまが自分のことを人間に表わすときの言葉とされています。「神顕現」の言葉とされています。そうした特別な言葉であるので、イエスさまを捕らえにきた手下たちは、後ずさりして倒れるわけです。イエスさまは自分を捕らえにきた人々に、「わたしである」と言われ、自分が逃げも隠れもしないことを宣言されます。イエスさまは「わたしである」と言いつつ、背筋を伸ばして生きています。誰の前にも恐れることなく、神さまの御心に従って歩まれます。

 だれの前にもしっかりと立って、自分が自分であることを宣言するということは、とても大切なことです。だれの前でも「わたしである」と言えると良いと思います。しかし私たちは人間ですから、何か都合の悪いことができると、そこから逃げてしまいたいというような思いにかられるときがあります。人をごまかし、自分をごまかして、逃げてしまおうとするときというのがあります。

 最近、わたしの見たテレビドラマに「セクシー田中さん」というドラマがあります。このドラマの「背筋を伸ばして生きていく」という設定は、とてもすがすがしい気持ちを、わたしに与えてくれました。

 わたしはクリスチャンに大切なことは、「胸をはって生きていく」ということだと思っています。もちろん私たちは人間であり、罪人ですから、こころのなかに邪な思いをもちますし、またじっさいに悪いことをしてしまうということがあります。神さまの前にふさわしくないものであることは、重々承知であるわけです。しかしそんな私たちを愛し、私たちの罪を赦し、私たちを祝福してくださる神さまがおられるのです。「安心していきなさい」と、私たちを励まし導いてくださる方がおられるのです。ですから、私たちは背筋を伸ばして、胸をはって生きていきたいと思います。自分により頼んで生きるのではなく、神さまに、イエスさまにより頼んで生きていきたいと思います。

 棕櫚の主日を迎え、受難週に入りました。イエスさまが私たちの罪のために十字架についてくださいます。私たちの罪を担い、私たちを新しい命へと導いてくださるために、イエスさまは十字架についてくださいます。神さまの、イエスさまの深い愛を信じて、背筋を伸ばして、胸をはって歩みたいと思います。


2024年3月23日土曜日

2024年3月17日

 2024年3月17日 受難節第5主日礼拝説教要旨

「一粒の麦」 森田喜基牧師

 ヨハネによる福音書 12:20-26節

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。」イエスがなぜこのタイミングでこれを語られたのでしょうか。エルサレム入城で大歓迎を受け、フィリポとアンデレにギリシア人たちがイエスに会いたいので仲介してほしいと頼んできた時、彼はどれほど嬉しく、また誇らしかったでしょうか。ところがイエスは彼らの喜びや大きく膨らんだ期待を一蹴するかの如く、語り始めたのです。それがこの一節です。通常「一粒の麦」が「死んで」芽が出たとは言わず、「芽を出した」と言うでしょう。しかしイエスは、あえて「死」という言葉を用いて、ご自身の十字架の上の死を重ねて語られました。ここで「一粒の麦」が語られた理由は、これから歩まれる十字架への道が、弟子たちの抱く期待、人々の歓声とは全く違う方向に向かうものだったからです。多くの人々がイエスを歓迎し、期待する時、弟子たちはその人々の期待をイエスが裏切らないように望みました。イエスが弟子の足を洗われた際、ペトロは「私の足など決して洗わないでください。」と人々に仕える模範を示されたイエスを拒みました。ヨハネ福音書4章には、イエスとサマリアの女との交流が描かれますが、この女性との関わりは、ユダヤ人からは受け入れがたいものでした。イエスの歩みは、人々の期待に必ずしも沿うものではなく、むしろ受け入れがたい方向へと進み、皆から歓迎され、尊敬される立場に執着し、留まることをされませんでした。それが正に十字架への道であり、そのお苦しみの中で、イエスは皆から拒絶され、その結果、孤独の中に生きる人々と寄り添われたのです。ここに希望があります。25節「自分の命を愛する者は、それを失う」とは、自分の大事にしているものを手放さず、執着する生き方であり、神に支えられて生きよというメッセージに、自分を委ねることのない生き方です。26節「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。」十字架へと歩まれたイエスの生き様に学びつつ、私たちが今、誰と出会い、誰と共に生きることが、真の命、永遠の命に生きることなのか、改めてこの受難節に自らの歩みを見つめたいと思います。そしてまた私たちがどんなに挫折し、苦悩することがあっても、一粒の麦として十字架の道を歩まれ、そして復活されたイエス・キリストが、私たちの前を十字架を背負って歩んでおられ、共にいてくださることに、全てを委ねて歩んでまいりましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2024年3月15日金曜日

2024年3月10日

 2024年3月10日 受難節第4主日礼拝説教要旨

「わたしもイエスさまに香油を塗りたかった」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 12:1-8節

 歴史学者である中島岳志は、『「利他」とは何か』という本のなかで、近代・現代社会は人間の意志によってすべての行為が行われているということが強調されすぎていると言います。しかし私の意志とは思えないような思いに駆られて、このことをしたいと思うということがあるわけです。「ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは、「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をします。」・・・。「私はあなたを愛している」というのも、「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている」。私が合理的にあなたを解析して好きになったのではなく、どうしようもない「愛」というものが私にやってきた」。

 マリアが香油をイエスさまの足にぬったのをみて、イスカリオテのユダがマリアを叱ります。人の家のお金に使い方について、どうこういうというのは、現代であれば控えるべきことであるような気もします。しかしイスカリオテのユダの言った「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」という言葉も、そんなにおかしなことでもないような気がします。合理的な正しい意見のような気がします。

 しかし正しい意見であるからこそ、そこに愛がないことに配慮をしなければならないのだと思います。イスカリオテのユダの言ったことは、正しいけれども、愛がないのです。そしてまた先のことは、私たちにはわからないのです。イエスさまが十字架につけられたあと、みんなあとから思ったのです。「ああ、あのとき、マリアがイエスさまの足に香油を塗ってさしあげて、葬りの備えをしてあげることができて、ほんとによかったよね」。そのようにみんなあとから思ったのです。「わたしもイエスさまに香油をぬってさしあげたかった」とみんな思ったのです。「合理的に考えるとなんかちょっと変だよねと思えることだったし、イスカリオテのユダがそのことをはっきりと口に出して、マリアを叱ったけど、でもなんかマリアは何かに突き動かされるように、イエスさまの足に香油を注いだんだよね。いまから考えると、あのとき、マリアがイエスさまに香油を塗って差し上げて、ほんとによかったよね。神さまの導きとしか思えないね。聖霊の働きだよね」。

 私たちもまたイエスさまに仕えるマリアであるのです。イエスさまのために良いものをおささげしたいという思いをもっています。自分の思いとも思えないほど、きれいな思いが私たちのこころのなかにあるのです。神さまが私たちにくださる愛による思いなのです。神さま、どうか私たちを、あなたの良きことのために用いてくださいと祈りつつ、このレント・受難節のときを過ごしたいと思います。


2024年3月3日

 2024年3月3日 受難節第3主日礼拝説教要旨

「人は去っても、われらは信ずる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:60-71節

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、1941年6月24日に30数教派の教会の合同によってできました。アジア・太平洋戦争の時代です。日本基督教団は国家による宗教団体管理の流れのなかで、国家によって合同させられたという面があります。ナチス・ドイツまたもドイツの教会を国家の管理下に置こうとしました。そうしたなかでこうした国家主義的な教会の動きに反対する告白教会と言われるグループが出てきます。告白教会の人々は迫害にさらされながらも、ナチス政府を批判し、神さまの言葉に教会が固く立つことを求め続けました。

 ヨハネによる福音書は、ヨハネの教会がとても大きな危機的状況の中にあるときに書かれてあります。ユダヤ教から異端として追放されるという状況の中で、自分たちの信仰を確立するか、あるいは会堂から追放されることを恐れてユダヤ教にとどまるのかということが問われたのでした。そして実際にヨハネの教会に残る者とヨハネの教会から去っていく者が出てきました。

 信仰というものは、とても不安定なものです。イエスさまから離れていかないような強い人には、信仰は必要ないのです。イエスさまから離れていく弱い者に、信仰は必要なのです。でも弱い者が持っている信仰ですから、その信仰は強いものではないでしょう。私たちは使徒ペトロのように信仰を告白しながらも、一方で自分の中にイスカリオテのユダを抱えて生きているわけです。私たちは「あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と告白しながら、心の中にイスカリオテのユダを抱えているのです。しかしもう一方で、私たちは「イエスさまから離れたくはない」という思いを持っています。この弱い信仰しかもっていない、弱く惨めなわたしを救ってくださる方は、イエスさましかおられないという思いを持っています。

 ヨハネによる福音書は「人は去っても、われらは信ずる」という信仰に立って書かれています。しかしそれは自分たちがりっぱな信仰をもっているということではありません。「わたしはりっぱな人間だから、たとえ人は去っていっても、わたしはイエスさまを信じます」ということではありません。「自分は弱く惨めな者で、自分の中には確かなものなどない。だからこそ、永遠の命の言葉をもっておられるイエスさまにすがるしかないのだ」ということなのです。

 信仰生活の中で私たちは自分たちの信仰の弱さに出会います。ちっぽけな信仰しか持ち合せていない自分に出会います。しかし弱く惨めな私たちだからこそ、イエス・キリストは私たちを憐れみ、御手でもってしっかりと支えてくださっています。イエス・キリストを信じて、この方により頼んで歩んでいきましょう。


2024年3月2日土曜日

2024年2月25日

 2024年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨

「わたしに注がれる神さまの愛がある」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 9:1-12節

 青木優牧師は、ヨハネによる福音書9章3節の御言葉に出会い、クリスチャンになり、牧師になりました。「ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。青木優『行く先を知らないで』(日本基督教団出版局)の中にかかれてあります。「私は、イエスが「お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ」と語りかけておられるのを感じた」(P.32-34)。

 私たちの生きている日本社会は、ここ数十年、ゆとりがなくなり、自分のことだけを考える人たちが増えてきました。自己責任ということが過剰に言われるようになり、弱い立場の人たちを攻撃して、悪者探しをするようなことがよく行われました。悪者を探し続けましたが、あまり良い社会になりませんでした。

 イエスさまのお弟子さんたちは、生まれつき目の見えない人を見て、イエスさまに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と言いました。弱い立場の人を見て、その人や家族の人たちに罪を見いだそうとして、自己責任の世界にありがちな、犯人探しをしたわけです。

 しかしイエスさまは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。私たちの神さまは、困っている人や立場の弱い人たちをおとしめたりするような社会を望んでおられるはずがない。神さまは愛に満ちた方であるから、困っている人や立場の弱い人が健やかに生きていくことができるために、私たちをお遣わしになっているのだ。「神の業がこの人に現れるために」、だれしも神さまの愛の内を歩んでいて、神さまの業がその人のうえに働くのだ。私たちはだれも神さまの愛の中に生きている。すべての人に神さまの愛が注がれているのだ。そのようにイエスさまは言われました。

 いろいろな出来事の中で、不安になったり、行き詰まったりすることが、私たちにはあります。「どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのか」。そうした出来事に、私たちは出会うことがあります。神さまの祝福から、わたしは外れているような気がする。そうした気持ちにさえなることが、私たちにはあります。

 しかし生まれつき目の見えない人が、イエスさまによっていやされたように。イエスさまから「神の業がこの人に現れるためである」と声をかけられたように、私たちにもまた神さまの愛が注がれているのです。

 わたしに注がれる神さまの愛があるのです。恐れることなく、神さまを信じ、神さまを信頼して歩みたいと思います。神さまを見上げつつ、こころ平安に歩んでいきましょう。


2024年2月24日土曜日

2024年2月18日

 2024年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「罪人らしく連帯しようよ」 熊谷沙蘭牧師

 ルカによる福音書 16:1-13節

 神学者のケネス・E・ベイリーはこの箇所の直前にある「放蕩息子のたとえ」と重ねて読むことができると解釈しています。「不正な管理人のたとえ」と「放蕩息子」にはいくつもの共通点があります。1つ目は身勝手な人が登場して、それを驚くほど寛大に受け止める人がいること。2つ目はお金を浪費する人が登場すること。3つ目は、お金を浪費した人はそのことを父や主人に受け止めてもらうことで新しい道が切り開かれていくこと。4つ目は、お金を浪費した人の運命は父や主人が握っており、父や主人の憐れみにすがることによって生きることができていることです。

 このたとえは、主人が神を表し、管理人が人間を表しています。管理人は主人のお金を横領して好き勝手している姿は、神から与えられているものを好き勝手して生きる人間の姿です。断罪される時が来た時に、不正な管理人は真剣に生き残る道を考えました。その生き残りを賭けた方法が他者の借金を棒引きするという驚くべき方法でした。借金は神への罪を表します。好き勝手してきた人間は生き残るために、他者の罪を勝手に赦すという、他者と共に連帯して生きていく方法を取るのです。決して褒められたやり方ではないですが、好き勝手な生き方をしてきた人間がここでようやく、誰かと共に生きる道を探し出すのです。主人(神)はその方法を褒めました。罪深い人間の打算的な行動であっても、他者と共に生きるという道を神は褒められたのです。

 私たちが神を信じて生きることも、不正な管理人と同じではないでしょうか。「隣人を愛せよ」と言われるイエスの言葉を、どこか打算的に自分の保身を計算しながら行おうとします。また自分も罪深い人間でありながら、人の罪を赦してあげようとします。私たちはどうやってもイエスの憐れみにすがらなければ、信仰を持って生きていると言える人間ではないのです。私たちが誰かと共に生きるということは、打算も身勝手さも引きずりながら、それでも神様、互いを助け合い生きていきますよと神の前に立つことなのではないでしょうか。美しくも綺麗でもないこの姿を神は褒められています。そこにこそ神の救いと憐れみが表れているのです。

 罪人であることは開き直ることでも、諦めることでもありません。互いが神・イエスの憐れみを得て生きるということなのです。信仰生活とはそのことを通して他者と連帯していくことなのです。


2024年2月17日土曜日

2024年2月11日

 2024年2月11日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「小さきわたしを用いられる神さま」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 6:1-15節

 美学者の伊藤亜紗は初めてアイマスクをして伴奏者と走る経験をすることによって、人を信頼することがなんと気持ちの良いことであるのかということと、そしていままで自分がいかに人を信頼していなかったかということに気づきます。(伊藤亜紗の『手の倫理』、講談社選書メチエ)

 この伊藤亜紗の経験は、私たちが信仰ということを考える時に、「ああ、たしかにこういうことってあるよね」と思える経験です。はじめは神さまを信じ始める時、ちょっとおどおどしながら信じているわけですけれども、しかし「やっぱりわたしは信じたい」という思いで信じます。するといままでになかった安心感を得ることができます。神さまを信じて生きていくことの幸いを、私たちは感じます。もちろんときに信じられなくなったり、不安になったりすることもあるわけです。しかしそれでも私たちは神さまが私たちを守ってくださり、良き道を備えてくださることを信じて歩みます。

 この「五千人に食べ物を与える」という物語は、とても具体的な話です。悩みは具体的なものであり、そしてとても切実なものです。そして切実なるがゆえに、また「ほんとうにその望みは叶うのだろうか」という疑うこころも私たちの中に起こります。弟子たちはイエスさまの奇跡をいままで経験しているわけです。それでも弟子たちの中には、信じきれない気持ちがあります。

 しかしイエスさまは、少年の持っていた大麦のパン五つと魚二匹を用いてくださり、五千人に食べ物を与えるという奇跡を行われます。弟子たちからすれば、「何の役にも立たないでしょう」と思えるものを用いて、イエスさまは五千人の人々を満腹にされました。

 小さな者である私たちを愛し、そして私たちを用いてくださる神さまがおられます。私たちは神さまの祝福のなかを歩んでいきたいと思います。そしてまた神さまに用いていただきたいと思います。私たちのわざは小さな業かもしれません。しかし神さまは私たちのその小さなわざを喜んでくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2024年2月10日土曜日

2024年2月4日

 2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

「神さまのお守りの中にある。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 5:1-18節

 沢知恵『うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史』(岩波ブックレット)には、全国のハンセン病療養所に建てられている貞明皇后の歌碑について書かれてあります。「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という短歌です。国家によって隔離政策がとられ、家族から棄てられ、以前の友だちに連絡を取ることもできず、孤独を味わった人たちにとって、この歌は、慰めの歌であったのでした。

 エルサレムの羊の門のそばにベトザタという池がありました。その池にときどき天使がやってきて、池の水が動く時に、一番先に水の中に入ることができると、どんな病気であってもいやされるというふうに言われていました。そのため病気の人たちは、近くの回廊に横たわって、水の動く時を待っていました。そのなかに38年もの間、病気で苦しんでいる人がいました。

 このベトザタの池も、なかなかしんどいところです。いつ水が動くということがわかっていないわけですから、まあそれまでは病人同士で、「こうしたらちょっと痛みが和らぐよ」というような話がなされ、いたわりあいがあるのではないかと思います。でも水が動いたら、そうしたいたわりあいなどなかったかのように、我先にと水の中に飛び込まなければなりません。そうでなければ、自分の病気は治らないのです。38年間病気であった人は、38年間、自分も含めた病気の人たちの争いを見続けてきたのです。こころもすさんでくることになります。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」という彼の言葉は、そうした絶望の叫びの言葉であるのです。

 イエスさまはこの病気の人を癒やされました。安息日の出来事でしたので、ユダヤ人たちは安息日違反だと、イエスさまを非難します。イエスさまは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われました。神さまは憐れみ深い方で、苦しんでいる人、悲しんでいる人を、見過ごされる方ではないと、イエスさまは言われます。あなたがいくらお祈りしても、今日は安息日なので、あなたのお祈りを聞くことができないのだと、神さまは言われない。神さまは悲しみの中にある人、苦しみの中にある人のために、いつも働いておられる。だからわたしも神さまと同じように、安息日であろうと、病気で苦しんでいる人々を癒やすのだと、イエスさまは言われました。

 私たちの神さまは、私たちの悩みや苦しみ、またやるせない気持ちをご存知です。そして私たちを愛してくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。神さまが私たちのために働いてくださっている。このことを信じて、私たちもまた神さまの御心にそった歩みでありたいと思います。共に祈りつつ、共にこころを通わせ合いつつ歩んでいきましょう。


2024年2月2日金曜日

2024年1月28日

 2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「神の国を目指して」 老田信牧師

  マタイによる福音書 20:1〜16節

 イエスは天の国の一つのイメージをとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られました。しかし、私たちはこのたとえにつまずきます。というのも、私たちの多くがこの話の中で、夜明けから丸一日働いた人と5時から働いた人が同じ賃金であることに不公平さを感じるからです。結果、このイエスのたとえが腑に落ちず、歓迎できません。

 しかし、このたとえには次のようなことが書かれてあります。「午後5時ごろにも…人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」。明け方から働ける人というのは、誰が見ても申し分のない働き盛りの男性であり、「役に立つ」人です。午後5時になっても雇ってもらえない人は、反対にどこの雇い人も雇いたいとは思わなかった人だということです。彼らは決してサボっていたわけではありません。

 雇い人が雇いたいと思わない人とはどのような人なのか考えてみると、障がい者、高齢者等、少なくとも働き盛りの健康な男性ではありません。つまりマイノリティです。

 マジョリティとマイノリティは、「多数派」「少数派」に加え、「特権側」と「従属側」あるいは「周辺側」という意味を持ちます。

 午後5時まで職探しに明け暮れていた彼らは、明らかに周辺に置かれた者です。イエスは中央のエルサレムではなく、ガリラヤのナザレでお育ちになり、自らもそのような存在となりました。またまずガリラヤで伝道し、周辺の人たちに向けて福音を宣べ伝えたのでした。このようにして社会が後ろに置きがちな人のところへと先に来たのです。しかし全ての人が1デナリオンをもらっているように、神は誰一人として不足な状態に追いやるのではなく、満たしています。そしてそのようなところを「天の国」と言っているのです。

 私たちはこのような神の国の実現を待ち望む者として、教会に集まっています。最も良いところとして、主イエスが示してくださっています。しかしただ待ち望むだけではもったいない。せっかく最も良いところのイメージを与えてくださっているのですから、具体化して予行演習をしたいのです。教会はそのような神の国の予行演習の場として与えられています。ぜひとも平安教会の皆さんが今の平安教会ならではの神の国を表現してください。そしてそれを多くの人と分かち合い、さらに発展させていくことが出来ますように祈りましょう。


2024年1月27日土曜日

2024年1月21日

 2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝説教要旨

「水汲み人生に起きる最初の奇跡」 宮岡信行牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-12節

 イエス様の奇跡は福音のしるしです。カナの婚礼はイエス様の最初の奇跡であり、同時に私たちに与えられた最初のしるしです。そもそもぶどう酒は神様の祝福の象徴であり、婚礼ではぶどう酒こそが最上の喜びでした。ところが、その婚礼でぶどう酒が無くなるという問題が起こります。その時、母マリアだけがイエス様と召使たちを仲介するように声をかけます。母マリアがイエス様にとりなしたことで奇跡の予兆が示されました。そして、これが世にある教会の働き、この地に建てられた教会の役割なのです。喜びを失う世界に教会があるのはなぜか。私たちが主日の礼拝をするのはなぜか。それは神の恵みとキリストの復活を信じる教会の喜びが、この世に神の救いを指し示す大切なしるしになるからです。

 一方で、思いがけない良いぶどう酒の登場に大喜びする宴会の世話役は、まだ天の国の喜び、救いの恵みに気付いていない人の姿です。宴会のような華やかな人生に満足しながらも、見えないものに目を注いでより善く生きるような最上の喜びを知らないのです。私たちの周りにもぶどう酒に変わった水を飲んで大喜びしてもらいたい人がいるのではないでしょうか。

 この時、召使たちが水をくんで淵までいっぱいにした6つの石の水がめはおよそ合計600㍑ほどでした。水汲みは地味で単調な作業です。その努力が形や成果にならず、どれだけ水がめに汲んでも使えば何も残りません。にもかかわらず、イエス様はぶどう酒という喜びがなくなりそうな困難な時にも、いつものように水くみをしなさいと言われるのです。誰もが何の役に立つのか分からなかったことでしょう。ところが、水を汲んだ召使いたちが宴会の世話役のところに水を運んだところ、水はぶどう酒に変わっていました。

 水がぶどう酒に変わる。この奇跡を目の当たりにしたのは、水を汲んできた召使いだけでした。思いがけない神の恵みが広がるところにいた召使いたち。彼らこそ私たち自身なのです。カナの婚礼は繰り返しキリのない水汲みのような人生に、初めて起きた神さまの祝福のしるしを語ります。誰もが楽しむ婚礼の席に、神さまの恵みを持ち込むのは私たちです。喜びが失われたところに最上のぶどう酒を運ぶのは私たちの役割です。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。水汲み人生に最初に起きる奇跡、すなわち私たちが主イエスに呼び集められ、教会で礼拝を献げて、この世に証しを立てる、神の救いのしるしになる。この喜びを抱いて歩む者でありたいと切に願っています。


2024年1月20日土曜日

2024年1月14日

 2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝説教要旨

「イエスさまに引き寄せられて」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 2:1-22節

 わたしの友人は高校浪人をしているときに、教会の高校生会のキャンプに誘われて、教会に来るようになりました。なんだか引き寄せられるように、教会に来るようになったのです。「高校浪人中だから、勉強をしなければならないので、教会の高校生会の夏のキャンプになんか参加できるわけがないだろう」と言っても良かったわけですが、彼は夏の高校生会の夏のキャンプに参加をするのです。そしてイエスさまに引き寄せられて、彼の信仰生活が始まるのです。

 マルコによる福音書などの、イエスさまの弟子選びの話では、「二人はすぐに網を捨てて従った」というように、弟子たちの側の信仰の勢いのようなことが語られています。信仰とは一面ではそうした、「わたしが信じる」「わたしがついて行く」という面があるわけです。使徒信条のように、「われは天地の創り主、全能の父なる神を信ず」というように、「われは信じる」のです。

 ヨハネによる福音書では、どちらかというと、弟子たちはイエスさまに引き寄せられるように、イエスさまについて行きます。アンデレは洗礼者ヨハネの弟子であったわけですが、「見よ、神の小羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスさまに呼ばれているわけでもないのに、イエスさまに従います。ナタナエルなどは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」というようなことを言っていたわけですが、イエスさまと話をして、イエスさまに引き寄せられるように、イエスさまを信じて歩み始めます。

 なんらかの出来事で、教会に来ることになり、いわゆる求道者生活を送るようになりますと、わたしは本当に、神さまを、イエスさまを信じているということになるのだろうか、というような思いにかられることがあります。「わたしが信じている」ということの問題を考えるのです。信仰とは、「わたしが信じている」ということの大切さがあるからです。しかしもう一方で、やはりイエスさまに引き寄せられているということがあるのです。言葉では説明がつかないけれども、イエスさまに引き寄せられて、教会に集い、礼拝を守ります。いつのまにか、「わたしはイエスさまのことが大好きなんだ」という思いで生きるようになります。イエスさまに引き寄せられるのです。

 イエスさまは私たちを招いてくださり、「あなたはわたしの大切な人だ。わたしを信じて、わたしについてきなさい」と、私たちに語りかけてくださっています。イエスさまを信じて、イエスさまにより頼んで歩んでいきましょう。


2024年1月13日土曜日

2024年1月7日

 2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「この方こそ、わたしがついていく方」 小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 1:29-34節

 マーガレット・F・パワーズという人の書いた「フットプリント あしあと」という詩があります。私たちはときとして、神さまはおられないのではないと思えるような出来事に出会うことがあります。イエスさまは共にいてくださると信じていたのに、そのように思えないということがあります。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」(「あしあと」)

 洗礼者ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を人々に授けていました。洗礼者ヨハネは自分のあとに、救い主がこられ、そして世の罪をあがなってくださる。自分はその救い主が来られる前に、少しでもこの世を神さまにふさわしい世にするために、悔い改めの洗礼を授けている、それが自分に与えられた仕事なのだと思っていました。

 洗礼者ヨハネはイエスさまを見て、「わたしが言っていたのはこの方のことである」と言いました。ついにわたしが言っていた方がこの世に来られた。わたしはこの方のために人々に水で洗礼を授けて、悔い改めの洗礼を行っていたのだと、洗礼者ヨハネは言いました。

 洗礼者ヨハネが言いたかったことは、「この方こそ、わたしがついていく方だ」ということです。そして洗礼者ヨハネは実際にそのように生きたのです。イエスさまの前に現れていたのだけれども、しかし洗礼者ヨハネはイエスさまに従って歩んだ人でした。そして人々に悔い改めの洗礼を授けながら、「この方について行きなさい」と、イエス・キリストを証しした人でした。

 イエスさまは私たちを見捨てることはありません。私たちはそんなにりっぱな者ではないですし、力ある者でもありません。しかしそれでも私たちは心の中で、「この方こそ」「この方こそ」、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもっています。私たちは自分がこの方の役に立つとか、自分はこの方にふさわしいとかということとは関係なく、ただただ「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをもって、イエスさまについて行きます。

 イエス・キリストは私たちを見捨てることなく、私たちを支え、守り、導いてくださいます。私たちは2024年も、「この方こそ、わたしがついていく方」という思いをしっかりと思って、イエスさまにお仕えして歩んでいきましょう。


2024年1月5日金曜日

2023年12月31日

 2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「すべての人の救いを見る」 山下毅牧師

  ルカによる福音書 2:21-28節

 クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。

 何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 

 祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。

 シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。