2018年3月26日月曜日

2018年3月11日

2018年3月11日 受難節第4主日礼拝説教要旨
 「救い主は我々の間におられる」 宇野稔牧師
 ルカによる福音書 4:16~30節
 ルカはイエスの宣教を書き始めるにあたって、故郷ナザレに帰った話から始めます。安息日に会堂に入って礼拝を守るのです。聖書の朗読が行われ会堂長からイエスは指名されます。渡されたのはイザヤ書61章でした。読み終えて巻物を返した時、ナザレ村の人々は一斉にイエスに注目したと云います。読まれた中に驚く言葉が「今日、この言葉は実現した」というのです。人々は驚きと同時に「この人はヨセフの子ではないか」と云います。それに対してイエスは毅然として「預言者は故郷では歓迎されない」と云い二人の預言者を挙げて、救いの言葉はむしろ異邦人の中から実現されると話したのです。それを聞いたナザレの村の人々は激怒しました。イエスを殺そうと思うくらいに激しい怒りをぶつけて来たのです。
 しかし、イエスは怒涛の中、人々の間を通り抜けたとあります。どんな方法か、様相だったかわかりません。ただ、憤る人々のただ中を当たり前のように歩まれたのです。大変不思議なことですが、何故人々はイエスを殺そうと思うほどに怒ったのでしょうか。ガリラヤは革命的な雰囲気の強い町で、この時期は資本の集中が進み、地域経済が破滅しかかっていたのです。ナザレの村も例外でなく土地を手放し小作労働の貧農として生きなければならない人が多かったのです。人々の不満は爆発寸前にありました。その人々が最後の望みとしていたのが、イザヤ書の「復興預言」でした。それを実現する救い主を待望していたのです。
 その時イエスが語ったのは、復興の実現ではなくむしろ異邦人に対する神の憐みだったのです。敵と思っている異邦人にも神の恵みは与えられるという意味が「今日、実現した」という宣言だったのです。神が敵のような私を愛して下さったのだから、あなた方も恩讐を捨ててイエスの愛を生きる者になりなさいと云われています。
受難節、イエスの苦しみは赦すための苦しみでした。愛と赦しのキリストが我々の間にいて下さるのです。

2018年3月20日火曜日

2018年3月4日

2018年3月4日 受難節第3主日礼拝説教要旨
  「優れた方とは」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 3:15~22節
 混乱と困惑の時代にバプテスマのヨハネが現れて、神の裁きの日が近いので悔い改めるようにと人々にすすめます。神の前に悔い改める必要があると説いたヨハネの言動に人々はヨハネこそメシアではないかと思うのです。しかしヨハネは自分が救世主であることを否定し16節を語り、自分はやがて来るメシアと比べるなら僕の値打ちもないと云ったのです。ただイエスが来ることを人々に宣べ伝え、何者であるかについて語ったことこそヨハネの使命だとルカは考えたのです。さらに重要な役割がイエス・キリストに洗礼を授けたということでした。しかしながら、ヨハネの洗礼は神の前に罪を犯した人がそのことを悔い改めるものでしたが、どうしてイエスはこの洗礼を受けられたのでしょうか。
 確かにイエスは神の子なのですから、全てを支配することが出来るでしょう。その方がその権威と力の一切を行使せず、洗礼を自ら受けることによって本当の救い主とはどういうものかを示されたのでした。全能の神が人間に徹底的に共にいようとする、悲しみ、辛さ、寂しさ、切なさ、全てを担い背負う、そういう愛が人を本当の意味で救うということを示すことだったのです。罪の洗礼を人と共に受けることに置いて、救い主の姿を表して下さったのです。ヨハネはイエス・キリストを「私より優れた方」と紹介していましたが、優れたという「にんべん」は人間が互いに支え合っている姿です。「あなたの憂いを自分の憂いとする」のです。ご自分の痛みをご自身の痛みとして下さった、それが神の愛なのだということをイエスの洗礼は示しているのです。
 私たちは神に愛されている存在です。全能者の愛を受ける存在なのです。神はここにおられ、ここであなたを愛し、あなたと共に常に一緒です。私たちの憂いをそっと担おうとして下さっているのです。優れた方が来られる。ヨハネは私たちに救い主を紹介したのです。確かに受け止めましょう。

2018年3月13日火曜日

2018年2月25日

2018年2月25日 受難節第2主日礼拝説教要旨
  「霊の力に満ちて」 宇野稔牧師
    ルカによる福音書 4:14~15節
 イエスは宣教を始める前、荒野で祈りつつどのような仕方で人々を救うか考えられ、徹頭徹尾神の愛によって人を救うという結論に至り、その宣言の箇所です。ポイントは「霊の力に満ちていた」という言葉をどう理解するかでしょう。イエス・キリストに従うのがキリスト者なのですから「霊の力に満ちている」という表現もイエスの姿として描かれると同時に、キリスト者がどのようなものであるかを語っている所と云えます。
 教会の中には非常に熱心な伝道活動をする教会があります。しかし、多くの教会は「聖霊を受ける」ことを強調されているように思えます。「霊」というものは、聖霊のことで「見えないけれど私たちに働きかける神の力」のことです。さらにもっとも重要な決定的な霊の働きとしては神と人間を結びつけることです。不思議なことに今まで何でもなかったキリストの言葉が今の自分自身への神のメッセージとして響いてくることがあるのです。ある時は決断を促す言葉として、ある時は忍耐を求める言葉として迫ってくるのです。それこそが聖霊の最も大きい働きなのです。モーセはエジプトで奴隷であったイスラエルを導いてエジプトから脱出し約束の地に人々を導いた時、とても苦しい状況の中で神は必ず民を救って下さると確信し何事にもうろたえなかったのです。パウロは獄中にとらえられていつ殺されるかわからない状況の中で「喜びの手紙」を書き「感謝」「恵み」という言葉が出て「霊の力に満ちて」いるからと云うのです。
 この二人は死と隣り合わせの毎日を送っているのですから、心の中には焦燥が生まれ、不安と闘っていたことでしょう。その思い当たるのがキリストは十字架の死に至るまで徹頭徹尾耐えられたし、へりくだられ、愛して下さったという事実でした。その恵みを私たちは信じているのですから、苦難の中でも喜び感謝して生きているのです。それが「霊の力に満ちる」という生き方です。

2018年3月6日火曜日

2018年2月18日

2018年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨
  「神殿で献げられる」 宇野稔牧師
   ルカによる福音書 2:25~38節
 シメオンとアンナという2人の人物が登場します。シメオンというのは「聞き入れられる」という意味です。同様のことはアンナにも言えます。2人を支えてきた願いは、それはイエスを拝することによってかなえられたということです。しかし、何故赤ちゃんイエスに出会ったことがそんなに重要なのでしょうか。もう一つ不思議なことはシメオンは赤ちゃんイエスを祝福してから、マリアに対して不穏なことを伝えているのです(34~35節)。即ち「倒されたり、立ち上がらせたりする」とは、戦いがあるということでしょう。救い主の登場とこの悲劇な歌は矛盾しているように見えますが、決して矛盾していないとシメオンは云います。救いというのは、たとえ私たちの人生の絶頂の時に訪れるのではなく、困惑し、混乱し、恐れ悲しんでいる時に訪れるのです。
 むしろ、順風満帆の時は神の業を発見することが出来ないのです。知らずして自分の力を過信するようになり、何事も自分の魅力と能力でやり遂げてしまうと考えているのです。ところが絶頂期とは反対に、もう終わりだという時に神の働きを救いとして経験します。共にいて下さっているイエス・キリストと出会うのです。実はこのシメオンの言葉は十字架の預言です。キリストが来たことは喜びであり同時に十字架の死が預言されているのです。
では何故2人は喜んだのでしょうか。それは29節からのシメオンの歌「主よ今こそ(ヌンクデミタス)」と呼ばれ、世々の教会で愛唱されてきたのです。幼子の中にシメオンが見たものは何かと云えば、神の意志であり、十字架についてまで人間を救済するのだという神の強い決意、云いかえれば、自らを悲惨の極みに赴くという生き方、神の救いを人々に啓示するという神の愛を見たのです。シメオンとアンナは「今、この時に神の愛は自分に向けられている」それが「主よ今こそ」の意味に他なりません。