2020年2月24日月曜日

2020年2月16日

2020年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨
  「ひとつの信仰」 井上正道牧師
   マタイによる福音書 25:31~46節
 マタイ福音書25章31~46節は、羊とヤギを「右」と「左」に分けて話が展開していきます。その内容は、右側にいる者たちには「天地創造のときからお前たちに用意された国」(34節)。左側にいる者たちには、「私から離れ去り悪魔とその手下のために用意してある永遠の火にはいれ。」(41節)と「天国と地獄」に分けられるお話となっています。そして、裁きの判断基準は、40節に書かれている「最も小さい者の1人にしたことは私にしてくれたこと。」と「最も弱くされた者」に対して行う施しだと教えます。それは、イエスは神のみを見る「特別視」ではなく、小さい者と同等の「一体視」する信仰を求めたのでした。
 私自身、この箇所を読むと尊敬する一人の医師の言葉を思い出します。それは、私が医師に「イエスってどこにいるんですかね?」と質問しました。それに対して、「イエスという存在は、自分の中にいるのではなくて、人の心の中にいるもんだと考えている。私が医者を目指して、医者をしていられるのも、患者さん一人ひとりの中にイエスがいて、導かれ、自分がしなくてはならないことが自然と与えられている。…精神病の患者さんの中でも100人いたら9割の人はなんとか自分の力でやり過ごすことができる。しかし、残りの1割の患者は、自分の力ではどうしようもできないほど病んでしまっている。その1割を見つけて、その人々に寄り添っていくことこそが課題であって、目標でもある。」と教えてくれたのです。その先生の言葉はイエスという存在は、全てが同じではなく、一人ひとりの中に備わる想いによって異なるものが「イエスという存在」であると気づかされたのでした。
 現代では、「特別視」という視点が社会の中心におかれ、「特別な何か」を持った人間が注目されています。しかし、重要なのはそこではないのです。私たちは、これから信仰の道を歩む上で、見えない神だけを見つめるのではなく、イエスの求めた「一体視」となる弱くされた者と共に歩みたいと思うのです。そして、人が心の中に持つイエスにそれぞれが導かれ、共に信仰を通して語り合い平等に歩んで行きたいのです。

2020年2月17日月曜日

2020年2月9日

2020年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
  「汚れつちまつた悲しみに」 小笠原純牧師
   ヨハネによる福音書 8:21~36節
 中原中也は洗礼を受けたクリスチャンではありませんが、「近代詩人中まれにみる宗教詩人である」(河上徹太郎『わが中原中也』)と言われています。中原中也は、「罪」「悲しみ」「後悔」「孤独」というような、人間の魂の出来事を掘り下げ、素直に詩で表現しました。「汚れつちまつた悲しみに」という言葉など、ちょっと歌謡曲のような感じで、なかなかいいなあと思います。
 殺伐とした世の中になり、「汚れてもいいじゃないか」と開き直るような世情のなかにあって、やっぱり「汚れつちまつた悲しみに」というような思いは大切なことだと思います。自分が抱える罪に気づくのは、たましいの気高さというものがあるからでしょう。自分の歩みを振り返って、「汚れつちまつた悲しみに」と、ため息をつく。そして自分の心の中をしっかりと見つめるときに、私たちは自分の罪に出会います。
 ユダヤ人たちは、自分たちは律法を守って、天に召されると神の国にいくことができると思っていました。「だって、私たちは律法を守っているんだから」。ユダヤ人たちは、律法を守って正しい生活をしている私たちが、神の国に行けないはずはないと思っていたのです。
 イエスさまを信じないユダヤ人と、イエスさまを信じたユダヤ人の違いは、自分の罪に出会うかどうかということでした。「私たちはアブラハムの子孫であり、ユダヤ人は選ばれた民である」と思っている間は、イエスさまに出会うことはありませんでした。「汚れつちまった悲しみ」がないわけです。汚れているのに、汚れていることに気がつかず、自分はきれいだと思っている。自分はアブラハムの子孫だ。神さまにつながる者だと思っている。
 自分が罪人であるということに気がついたときに、はじめて本当の意味での神さまとの出会いがあるのです。自分の罪の大きさに気づいたとき、その罪をあがなってくださったイエスさまの十字架の愛の広さに驚き、私たちはただ神さまに頭を垂れる者へと導かれていきます。「人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり」という中原中也の句の通りであるわけです。赦されない罪が赦され、裁かれなければならない者が救われる。イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださり、私たちは自由な者とされたのです。
 私たちは自由にしてくださったイエスさまに感謝しつつ、悔い改めの気持ちをしっかりとこころにとめて、歩んでいきたいと思います。私たちの罪を贖ってくださったイエスさまと共に希望をもって歩んでいきましょう。

2020年2月9日日曜日

2020年2月2日

2020年2月2日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
  「とけていく社会に抗して」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:13~25節
 二人の娘たちが小さいころ、一緒に積み木で遊ぶということをしていました。積み上げていくということは、希望のわく作業です。私たちの社会のイメージというのも、いろいろな良くないことを良いものに変えて、そして良き社会を作り上げていくという、ある意味、積み木に似たような感じがあるような気がします。
 わたしはここ十数年で、日本の社会は大きく変わったような気がしています。わたしの感覚では、悪くなった気がします。以前は個別の政治家の資質の問題であるのではないかと思ったりしていたのですが、社会全体がもうすでに大きく変わってしまい、倫理的な基盤そのものが、失われてしまっているような気がしています。政治家の心ない悲しい振る舞いをみるときに、わたしは「私たちの社会がとけていく」というふうに思います。私たちの社会はとけていっているのです。壊れていくのではなく、とけていくのです。
 この神殿で商売をしている人々を神殿から追い出されたという出来事は、とても象徴的な出来事です。神さまに献げ物をする、そうした場所さえも、この世的な価値観に支配されてしまっているということを表している出来事が、神殿での商売ということでありました。
 イエスさまは羊や牛を神殿の境内から追い出しなら、私たちの問うておられます。「あなたたちは本当に、神さまのみこころに反した社会で良いのか」。イエスさまは両替人の机をひっくり返しながら、私たちに問うておられます。「あなたたちは、あなたたちの社会が、このままどんどんととけてしまってよいのか」。
 私たちはこころの弱い者ですけれども、とけていく社会に抗して生きていきたいと思います。私たち自身が良き歩みを求めて生きたいと思います。とけていく社会を変えていく唯一の方法は、私たちがまっとうに生きていくということです。うそに満ちている社会においてどのように生きるのか。人をさげすむようなことが広がっている社会でどのように生きるのか。人にいじわるをしておもしろがる社会でどのように生きるのか。
 それは、うそはつかない。人をさげすむようなことはしない。人にいじわるをしない。私たちクリスチャンは、そうした当たり前の倫理的な歩みを大切にしたいと思います。イエスさまが歩まれたように、愛に満ちた、やさしさに満ちた歩みを求めて歩んでいきましょう。

2020年2月3日月曜日

2020年1月26日

2020年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
  「祝福された時を共にする」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 2:1~11節
 歴史学者の小島道裕さん(国立歴史民俗博物館)によりますと、一揆とは「同じ目的で意思を統一した人々が集団を結ぶことを意味してい」るのだそうです。一揆ということで大切なのは、志が同じであるということです。身分が高いとか低いとか、が大切なわけではありません。そうしたことを形に表すために、作り出された書式形式が円卓会議方式だと言われています。真ん中に、「まる」を書いて、そのまるに沿って、名前を書いていく方式です。
 一揆というのは、私たちの教会のあり方とよく似たものだと思いました。私たちはイエス・キリストの恵みを大切にするという目的で集まり、そして集まった私たちの中では、だれがえらいとかそういうこととではなく、みんな神さまに等しく恵みを受けた人として集っています。そして私たちは、イエスさまが言われたことを行なうということを大切にして、自分がしたことで、周りの人々から「すごいね」と言われることを求めるわけではありません。  
 イエスさまが最初の奇跡を行われたのが、ガリラヤのカナで開かれた婚礼であったと、ヨハネによる福音書は記しています。それは、幸いはイエスさまからやってくるということです。婚礼というとても幸いなときに、イエスさまが最初の奇跡を行われるのです。
 そして、私たちはイエスさまによって祝福された時を共にするという恵みに招かれているということです。【このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった】。召し使いたちはイエスさまから言われて、水を大きな水がめに入れて、それを世話役のところに運んで行ったので、それがぶどう酒になったことを知っていました。召し使いたちは周りの人々から誉められるということはないのですが、しかし召し使いたちは、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。
 カナの婚礼の召し使いたちがそうであったように、私たちもまた、イエスさまによって祝福された時を共にしているのです。私たちはイエス・キリストこそ、私たちの救い主であり、私たちの希望であることを知っています。イエスさまが教えてくださったので、私たちは私たちが神さまの民としての大きな祝福を受けていることを知っています。イエスさまによって祝福された時を共にして、イエスさまに従って歩んでいきましょう。