2022年10月29日土曜日

2022年10月23日

 2022年10月23日 降誕前第9主日礼拝説教要旨

 「神の前に豊かになる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 12:13-31節

 ピーター・ノーマンは、1968年オリンピックメキシコシティー大会で、陸上男子200メートルで、第2位になったオーストラリアの選手です。ピーター・ノーマンはクリスチャンの一つの派である「救世軍」に属する両親のもとに育ちます。お父さんはピーター・ノーマンに、「肌の色など関係ない。人間はみんな平等なんだ。それを忘れてはいけない」と言っていました。そうした信仰のもと、ピーター・ノーマンは、トミー・スミスとジョン・カーロスと行動を共にしました。「ブラックパワー・サリュート」(黒人の力を示威する敬礼)という事件です。ピーター・ノーマンは、自分のために富みを積むことよりも、神の前に豊かになることを選んだのでした。

 人は取り去られる命を生きています。私たちがいつ天に召されるかはわかりません。お金持ちも、貧しい人もみんな、取り去られる命を生きています。自分勝手に生きて、周りの人々のことを考えないで生きていると、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われるのです。

 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、イエスさまは言われます。だれしも天に召されます。そしてお金を持って、神さまのところに行くことはできません。人はみな神さまから与えられた命を生きています。神さまから与えられた能力をもって、この世での生活を送ります。私たちはみな神さまによって与えられた者によって生きています。ときどき、人はそのことを忘れて、すべてのものを自分の力で得たかのように勘違いしてしまい、周りの人たちに対して冷たくあたったりすることがあります。

 私たちはみな神さまのところに帰ります。神さまのところに帰るのですから、やはりそのとき神さまにできれば誉めていただきたいなあと思います。ですから自分だけのことを考えて生きるのではなく、倫理的な生き方をしたいと思います。

 だれからみてもりっぱな生き方はできないかも知れないけれども、やはり私たちクリスチャンは神さまの前に誠実な生き方でありたいと思います。神さまは私たちを見てくださっています。すべての点でりっぱではないかも知れないけれども、しかしやさしい気持ちを大切にして、周りの人々の幸せを祈りながら生きている、私たちの歩みを、神さまは見ていてくださいます。神さまの前に豊かになる歩みを、これからも大切にして歩んでいきましょう。


2022年10月22日土曜日

2022年10月16日

 2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

 「涙をぬぐってくださる方」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:1-12節

 向田邦子の『阿修羅のごとく』のなかで、印象的だった言葉は、「10年たったら笑い話だよ」というお父さんの言葉です。10年たったら笑い話になるようなことも、そのときはとても腹が立って、とりかえしのつかないことをしてしまうということもあります。私たちは将来どのようなことが起るのかということを、先の先まで知ることはできません。ですからできればあまりその場限りの激情に流されるのではなく、すこし落ち着いて、周りの人が幸せになる道を探るということも大切ではないかと思います。

 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。この言葉はこの『幸い』という個所を全体的に考える上で、典型的な言葉です。それは「幸い」である理由というのが、「神さまがおられるから」だからです。「心の貧しい人々は、幸いである」のも、「悲しむ人々は、幸いである」のも、「柔和な人々は、幸いである」のもそれは神さまが私たちと共にいてくださるからなのです。

 私たちクリスチャンは、今だけを見て生きているわけではありません。今だけを見て生きているのであれば、「悲しむ人々は、幸いである」ということはできません。本当に辛く悲しいわけです。しかし私たちはたとえ苦しくても、たとえ辛くても、かならず救いの御手を差し伸べてくださる方がおられるということを信じています。どんなに辛いときも、どんなに悲しいときも、神さまが私たちと共にいてくださるということを、私たちは信じています。

 「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3ー4節)。

 私たちには慰めてくださる方がおられる。私たちの涙をぬぐってくださる方がおられる。この方を信じ、この方を信頼して歩んでいこう。私たちの神さまはいつも私たちと共にいてくださり、私たちを愛してくださっている。イエスさまはそのように言われ、愛の神さまが私たちをしっかりととらえてくださっていることを教えてくださいました。

 私たちには慰めてくださる方がおられます。私たちの涙をぬぐってくださる方がおられます。神さまを信じて、歩んでいきましょう。


2022年10月14日金曜日

2022年10月9日

 2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

 「自分の愚かさを知る」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:26-42節

 わたしのゼミの先生でした野本真也先生は、私たちを教会に送り出す時に、「あなたたちのことは信じていないけれど、あなたたちを教会に送り出す神さまのことを信じている」と言われました。新島襄は卒業生の前途を祝して、Mysterious Hand guide you!と言いました。神さまの不思議な御手があなたを導いてくれる。あなたは大した者ではないかも知れないけれども、神さまの不思議な御手があなたを守り導いてくださる。

 イエスさまのお弟子さんたちも、聖書を読む限りにおいては、そんなに大した人ではありませんでした。よく失敗もしますし、イエスさまから怒られることもあります。弟子たちは絶対にイエスさまを裏切ることはないと言いました。しかし弟子たちはイエスさまの十字架に際して逃げ出してしまうことになります。またゲッセマネでイエスさまから、「目を覚まして祈っていなさい」と言われても、みんな眠り込んでしまいました。

 弟子たちは愚かです。自分が愚か者であることに気づいていないのです。自分がだめな人間であることに気づいていないのです。わたしは愚か者でないと信じているので、イエスさまのことを裏切らないと言うのです。愚かな弟子たちは、イエスさまの小さな願いを聞くことができないのです。「目を覚ましていなさい」と言われても、弟子たちは目を覚ましていることができないのです。

 信仰は自分の愚かさを認めるところから始まります。イエスさまを裏切ることなく、イエスさまと一緒に死んでいくすばらしい人であれば、イエスさまを信じる必要はありません。イエスさまにより頼んで生きていく必要もないだろうと思います。イエスさまの小さな願いをきくことができず、眠り込んでしまう愚かな弟子たちだからこそ、イエスさまを信じる必要があるわけです。イエスさまのことを三度知らないと言う弟子たちだからこそ、神さまにより頼んで生きていく必要があるわけです。

 自分勝手な私たちをイエスさまは知ってくださり、私たちのことを愛してくださいます。わたしは「自分のことは信用ならない」と思いますが、しかしわたしを愛してくださる神さまを信じています。神さまは皆様、お一人お一人を愛してくださり、悲しい時もさびしい時も共にいてくださり、皆様のひと足ひと足を守ってくださっています。愛の神さまがおられます。神さまにすべてをお委ねして歩んでいきましょう。


2022年10月8日土曜日

2022年10月2日

 2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

 「涙の食事〜裏切る人と共に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:10-25 節


 『現代ウクライナ短編集』(群像社)のなかに、「未亡人」(ワシーリ・ハーボル著)という短編小説があります。村長が若い未亡人のところを訪ねていくと、そこにいたのは自分の息子だったという、なんともなさけない話です。どの国に住んでいる人たちも、色々なさけないことを抱えながら生きているのだと思いました。

 イエスさまは食事の際に、弟子たちが驚くような話を始めます。こうしていま食事をしているあなたたちの中のひとりが、わたしを裏切ろうとしている。弟子たちは驚きます。そして「まさかわたしのことでは」と口々に言い始めます。イエスさまは「いま、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がわたしを裏切るのだ」。そして「わたしを裏切るその人は不幸だ」と言われました。

 「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」と言えば、すっきりして言いような気がするわけです。しかしイエスさまがイスカリオテのユダを名指しで、「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」とは言われませんでした。イスカリオテのユダに対するイエスさまの愛があるわけです。

 最後の晩餐は、涙の食事であるのです。イエスさまは裏切る者とともに食事をされ、そして裏切る者のために嘆かれ、そして裏切る者のために祈られたのです。最後の晩餐は聖餐式のひな形であると言われます。そういう意味では聖餐式というのは、私たちがイエスさまを裏切る者であり、罪深い者であり、いい加減な者であることを思い起こす儀式であるということです。そしてイエスさまを裏切る罪深い私たちが、イエスさまの憐れみの中に生かされていることを、感謝をもって受けとめるということです。

 聖餐に預かるということは、クリスチャンになった特権として聖餐に預かるということではありません。私たちがイエスさまの憐れみの中に生かされているということを受けとめるということです。私たちは依然として、こころもとない者であり、弱くいい加減な者です。神さまの憐れみなしには生きていくことのできない者です。

 しかしそうした私たちは憐れみ、導いてくださる神さまが、私たちにはおられます。神さまの深い愛に感謝して、神さまの民として、新しい一週間の歩みをはじめたいと思います。

2022年10月1日土曜日

2022年9月25日

 2022年9月25日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

 「初めて手にした十字架」 平松譲二牧師

    ヨハネによる福音書 20:24-29節

◆ 復活の出来事から1週間、ようやくトマスが弟子たちとの交わりを再開したその時に、復活のイエスが現れました。そして、トマスに「あなたの指をここに当てて手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語られました。トマスは、復活のイエスとの直接出会った驚きと喜び、また恐れを持って、「私の主、私の神よ」と、思わず叫び、告白したのでした。しかし、トマスを責めることはできません。私たちも実体験としてイエスの十字架と復活を目の当たりにしていません。十字架と復活の出来事を理解しているとしても、そのことをどのように理解し、私たちの信仰につなげていくのかを誰しも悩んだ経験があります。

◆ 今年の夏、妻と二人で南ドイツのオーバーアマガウを訪れました。オーバーアマガウは約400年前から10年に一度、村あげてイエス・キリストの受難劇を開催する人口約5400人の小さな村です。たくさんの村人が役者、オーケストラ、制作などの役割を担いながらこの受難劇にかかわり、約半年間(5月から10月)の受難劇を作り上げていきます。イエスの受難のシーン、まさに弟子の裏切り、イエスの逮捕、真夜中の裁判、ゴルゴタへの道、十字架上の受難などが、聖書の記述に沿った形でとてもリアルに描かれていました。思わず目を背けたくなるシーンもあり、様々な思いと共に約5時間の超大作を鑑賞させていただきました。

◆ この受難劇を通して、やはり私たちの信仰の原点はイエスの受難と復活にあるのだということをあらためて教えられました。現代を生きる私たちは今も、戦争や貧困、病気や疫病などの問題に直面しています。人類はそれらの問題とどのように向き合い続ければよいのでしょうか。その答えは、十字架に向かうイエスの語る言葉にすべて入っているのではないでしょうか。そして、復活のイエスが弟子のトマスに語られた、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いである。」という言葉に、復活を信じる私たちの信仰の原点があります。

◆ 受難劇を鑑賞させていただいた次の日、劇場のすぐ裏の木彫り職人さん工芸店でこの小さな十字架を購入させていただきました。受難劇で使われた十字架の縮小版を木彫りされたものですが、息を引き取られたイエスが十字架から降ろされた後、イエスが身に付けていた白い布が十字架にかけられたものを再現されています。私自身初めて手にした十字架なのですが、この十字架を見るたびに、キリストの十字架と復活の意味を覚えたいと願っています。