ラベル (N04)ヨハネによる福音書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル (N04)ヨハネによる福音書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年4月25日金曜日

2025年4月20日

 2025年4月20日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「やさしい声が聞える」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 20:1-18節

 イースターおめでとうございます。

 イエスさまが十字架につけられる受難物語は、とても激しく、叫び声が聞えてくるような物語です。それに比べて、イエスさまがよみがえられる復活物語は、とても静かな物語のような気がします。

 人はどのようにして、困難な出来事の中から立ち上がっていくことができるのか。どのような支えがあることによって、人は立ち直っていくことができるのか。臨床心理学者の東畑開人が「ケアとセラピー」ということを書いています。(「こころのケアとは何かー寄り添いあいと世間知』、今福章二編『文化としての保護司制度 立ち直りに寄り添う「利他」のこころ』、ミネルヴァ書房)。

 心の援助とか対人支援あるいは人間関係には、「ケア」という関わり方と「セラピー」という関わり方の二種類がある。「ケアとは傷つけないことである」。「ケア」が依存を引き受けることだとすると、「セラピー」は自立を促すということである。自立を促すけれども、寄り添っている人が周りにいる。寄り添っている人がいることによって、人は自立をしていくことができる。「ケア」のないところの「セラピー」は暴力になってしまう。「ケア」が十分に足りていないのに、「セラピー」をすると失敗してしまう。そして失敗したので、また「ケア」に戻ってやり直す。「ケア」と「セラピー」はぐるぐる回る。人はそう簡単に立ち上がることはできません。

 マグダラのマリアのところに現れるイエスさまは、マグダラのマリアに寄り添い、そして自立を促します。泣いているマグダラのマリアにやさしく語りかけ、そして「わたしにすがりつくのはやめなさい」と自立を促します。そしてマグダラのマリアは立ち上がるのです。

 私たちもまた、いろいろな悩みや迷いのなかにあるときがあります。「立ち直れそうにない」というような気持ちになるときもあります。しかしそんなときも、イエスさまは私たちにやさしい声で語りかけてくださいます。私たちの名前を呼び、私たちに生きていく力を与えてくださいます。

 イースター。私たちの救い主である主イエス・キリストがよみがえってくださいました。イエスさまのやさしい声に導かれながら、イエスさまにふさわしい歩みをしていきたいと思います。


2025年4月18日金曜日

2025年4月13日

 2025年4月13日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「イエスさまの御国で生きる」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 18:28-40節

 平安教会は新島襄ゆかりの教会です。新島襄が亡命をした船の船長のテイラーは、船主であったハーディーに、新島を紹介します。新島は、Why I escaped Japan ? (なぜわたしは日本を脱出したのか)という長い手記を書きました。できあがったこの手記には、新島がどんなに神さまのことを勉強したいかということがせつせつと書かれてありました。ハーディー夫妻はこの手記を読んで心を動かされます。ハーディー夫妻は、新島がはるばる日本から誰も頼るものがないのに、神さまのことを学びにやってきたということに感動したのです。新島は真剣に「真理とは何であるのか」ということを考えて、そして一生懸命に生きていたのです。

 イエスさまを尋問した総督ピラトは、イエスさまに対して「真理とは何か」というふうにつぶやきました。それはイエスさまに「真理とは何か」ということを尋ねているのではありません。ピラトは「真理などというものがあるのか」というふうにつぶやいているのです。ピラトにとって、本当に正しいことが何であるのかということは、どうでもいいことでした。そしてもう一歩進めて、ピラトは「真理などというものが、そもそもあるのか。そんなものはありはしない」というふうに言っているのです。そして真理について語っておられるイエスさまに対して、「おまえは本当にそんなことを信じているのか」というふうに言っているのです。

 しかし絶望の中にあっても、イエスさまは真理を求めることの力強さを示しておられます。いまどんなに絶望の中にあっても、必ず真理につく者が出てくる。そしてイエスさまの言葉にしっかりと耳を傾ける者が出てくることを、イエスさまは確信しておられます。イエスさまが希望を失うことがなかったのは、それはイエスさまが真理に依り頼んでいたからでした。武力や権力はかならず崩れさって行くものです。しかし真理に依り頼んでいる限り、神さまはイエスさまを見捨てられることはなく、かならず守ってくださることを、イエスさまは知っておられたのです。

 イエスさまは自分がこの世に属するのではなく、ほかの国に属していると言っておられます。イエスさまは神さまの国に属しておられるのです。そこは武力や権力によって支配されているのではありません。イエスさまの御国は真理が満ちている国なのです。

 私たちはこの世でなんとなくあきらめるのではなく、「真理とは何か」「神さまのみ旨とは何なのか」と、真剣に問うていく誠実な歩みでありたいと思います。


2025年2月22日土曜日

2025年2月16日

 2025年2月16日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「ここにいますよ〜イエスの神殿」 俣田浩一牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 イエスは神殿から商人達を追い出します。でも境内で売り買いされていた牛や羊や鳩は捧げもの用でした。遠くから来る巡礼者達は、牛や羊を連れて旅する分けには行きません。身軽に旅をして、捧げ物は神殿で買うのです。また神殿では献金用のユダヤの伝統的な貨幣に交換する必要がありました。そのために両替人が境内にいたのでした。ですからこれらの商売は必要でした。イエスはそれを破壊したのでした。「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」ユダヤ人達はすぐに反応します。「あなたはこんなことをするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか。」それに対してイエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言います。しかし建てるのに四十六年もかかった神殿を、あなたは三日で建て直すのかと、ユダヤ人達はまた不審に思います。しかしイエスが言う神殿とは御自分の体のことでした。つまり死と復活のことでした。するとなぜイエスはそれを言うために神殿にいる商人達を追い出したのでしょうか。

 過越祭の「過越」はギリシア語で「パスカ」、これはあるものから別のものへと変わるという意味の言葉です。別のものに変わるということは交換が可能ということです。それはお金とも交換可能です。つまり商売です。物はお金と交換されます。価値の交換である商売を神殿でしていた。イエスはどうもそれが気に入らなかったようです。価値の交換をしてはならない、商売をしてはならない。それはなぜか。イエスにとって、神殿、父の家とは交換出来ないものを扱うところだったからです。交換できないもの、それは神から与えられたいのちです。十字架の死からの三日後の復活に顕される、神から与えられた永遠のいのち。「建て直す」という言葉は「よみがえる、復活する」と同じ言葉です。死と復活に示される私達を創られた神との根源的な関係は、何を持ってしても交換できない、かけがえのない関係なのだと。そのことを扱う場所が神殿だと。イエスはそれを言おうとした。そしてそれを行動で現したのではないかと思います。結果的にはこの行為がイエスを十字架の死へと招きました。神から与えられたいのちは何を持ってしても代えられないもので、死に勝利する復活の永遠のいのちだと、イエスは自らの命を持ってそのことを伝えたのでした。


2025年1月31日金曜日

2025年1月26日

 2025年1月26日 降誕節第5主日礼拝説教要旨

「怒りについて」 大谷隆夫牧師

  ヨハネによる福音書 2:13-22節

 私が、関西労働者伝道委員会の専任者として働き始める直前の半年間ほど、アメリカのホームレスの人たちの実態を知るために、アメリカに滞在したことがあります。そのアメリカ滞在中の出来事ですが、ある時、ルカ福音書10章25~37節に書かれている、サマリヤ人にならって、テレビを観ているみなさんも、ホームレスの人々に出来るだけ支援していくためにカンパをしてください!という内容のテレビのコマーシャルが流されたのです。

 実は、私はその時、アルバイトをしていたのですが、そのアルバイトの賃金は非常に低賃金だったのですが、ちょうどこのテレビのコマーシャルが流された時に、私の雇い主もこのテレビのコマーシャルを一緒に観ていて、「TAKOさん!私はホームレスの人たちにもカンパをし続けているんです!」ということを言ったわけです。

 その時に私が思ったことですが、ホームレスの人たちにカンパをするのも良いが、もっと自分の賃金を上げて欲しいと思いましたし、このルカ福音書10章25~37節に書かれている、「善いサマリヤ人のたとえ話」は、単純に隣人愛の話だと考えてはいけないのではないかということでした。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていたある人に出会った時に、サマリヤ人がどう感じたのかということです。私はそこにサマリヤ人の「怒り」というものを感じるわけであります。追いはぎに襲われ、半殺しの状態に置かれていた、そういった不条理な状態にある人が置かれていることに対する、社会悪に対するサマリヤ人の「怒り」であります。このサマリヤ人の「怒り」はイエスの「怒り」でもあるわけですが、このイエスの「怒り」の総決算と言うべきものが、今日、選んだ聖書の箇所に書かれている、イエスが神殿から商人を追い出した行為であると言えます。

 良く考えて見れば、私の30年以上に渡る釜ヶ崎の歩みを支えて来た原動力は、釜ヶ崎日雇労働者、野宿を余儀なくされている労働者が置かれている、不正義、不当な、社会悪に対する怒りであり、憤りであったと思います。

 今日の聖書の箇所に書かれている、イエスのように、いわゆる「社会悪」に対して、本当に怒るべき時は、たった一人でも、支持してくれる人が誰もいないような状況であっても、怒り続けて行きたいと改めて思わされている次第です。

 

2024年10月25日金曜日

2024年10月20日

 2024年10月20日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨

「悪より救い出したまえ」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 17:13-26節

 「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあります。

 イエスさまは弟子たちがみ言葉を信じることによって、聖なる者となることができるようにと、神さまに祈られました。そしてそのために、自分自身をささげて十字架につくと言われました。イエスさまはご自分が十字架という神さまの業を成し遂げることによって、弟子たちもまた神さまの御旨を信じて歩む者になることができると言われました。

 この世でいろいろな事件が起こる時に、わたしはちょっと不安になるときがあります。もしかしたらこの事件を起こした人のように、自分も誘惑に負けて、同じようなことをしてしまうのではないかと思う時があります。ですから主の祈りのなかにある「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、わたしにとってはとても切実な祈りです。

 そんな私にとって、イエスさまが天に召される前に、弟子たちのために神さまに祈られた「悪い者から守ってください」という祈りは、とてもうれしい祈りです。イエスさまは私たちのために「悪い者から守ってください」と、神さまに祈られました。私たちは弱いですから、いろいろな誘惑に陥ってしまうときがあります。ふらふらと悪い者へと誘われてしまうときがあります。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、ものの見事にみんないなくなってしまいました。イエスさまはそうした私たちの弱さを知っていてくださり、私たちのために神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださったのです。イエスさまが私たちのために祈ってくださり、そして私たちは神さまの守りのうちにあります。

 神さまが私たちを守ってくださっています。弱い私たちですけれども、確かな方である神さまが私たちを守ってくださっている。このことを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。いたずらに不安になった、恐れたりするのではなく、私たちには確かな方がおられるということを信じて歩んでいきましょう。


2024年10月11日金曜日

2024年10月6日

 2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「私たちに寄り添うイエスさま」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:28-44節

 父が生きているとき、わたしは「元気にしているかなあ」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか。なんか用か」と言いました。わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

 ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。

 しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、そんななさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

 ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

 イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。


2024年10月5日土曜日

2024年9月29日

 2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「神の栄光のために」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:1-16節

 私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」と思います。わたしは母がアルツハイマー認知症になったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

 ラザロの死と復活は、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめている、イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだと言われます。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、同じように愛をそそがれます。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と同じような言葉が、「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネによる福音書9章1節以下)という聖書の箇所でも出てきます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

 人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。またむなしさやはかなさという出来事に見える死についても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまは空言としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。


 

2024年9月27日金曜日

2024年9月22日

 2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「暴力の世界から離れて」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 10:31-42節

 アンナ・ラッセル著、カミラ・ピニェイロ絵、堀越英美訳『だから私はここにいる 世界を変えた女性たちのスピーチ』(フィルムアート社)という本は、いろいろな女性たちのスピーチを集めた本です。この本の中に、マリア・スチュワートという女性のスピーチが出てきます。「別れの挨拶」というスピーチで、1833年のスピーチです。マリア・スチュワートはこう言っています。【人間を形成するのは肌の色ではなく、その人の魂で育まれた行動規範なのですから。どこで生まれた人であっても、すばらしい知性はきらめき、天分の才能の輝きは隠しきれるものではありません】。

 肌の色や、性別などで、人はいろいろなことを決めつけます。あるいは生まれた場所とかもそうでしょう。イエスさまはガリラヤのナザレで育たれました。ユダヤのエルサレムにいたユダヤ人たちは、ガリラヤのナザレから何か良いものがでるわけがないと思っていました。ユダヤ人たちはイエスさまを受け入れることはできませんでした。

 イエスさまのことを信じることができないユダヤ人たちは、はじめからイエスさまのことを拒否しています。イエスさまが神さまの御心を行なっているということについては関心がないのです。イエスさまは神さまの御心にかなわない社会になっていることで、ユダヤの指導者たちを非難します。彼らはイエスさまが自分たちの意に添わないことをするので、イエスさまのことを敵とみなします。自分の意に添わない人はみな敵なのです。彼らは敵を作り出すことに一生懸命になっていました。

 石を投げようとしてくる人たちに、イエスさまは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と言われ、共に良い社会を作っていこうと呼びかけられました。お互いに良いところを見つけ出し、共に神さまのために働こうと、イエスさまは言われました。

 日常生活の中で、私たちもいろいろなことに腹を立てたり、いじわるな気持ちになったりします。「あの人のことは大嫌い」という思いに囚われてしまうこともあります。しかし落ち着いて、考えてみなさいと、イエスさまは言われます。心を落ち着けて、意地悪な気持ちから離れて、やさしい気持ちになりなさい。そうするとまた新しい道が開かれてくる。共に神さまのために働こうという気持ちが与えられると、イエスさまは言われます。

 イエスさまと共に、落ち着いて、やさしい気持ちを取戻して歩んでいきたいと思います。


2024年9月20日金曜日

2024年9月15日

 2024年9月15日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「イエスさまに守られている」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 10:22-30節

 今日は礼拝の中で、「恵老祝福」が行われます。平安教会では、「恵み」に「老い」と書いて「恵老」としています。神さまがご高齢の方々に豊かな恵みを与えてくださっているということで、「恵老祝福」としています。

 年をとると病院にかかることも多くなります。最近、わたしは尿管結石のため、急患として病院に駆け込みました。「尿管結石は40代、50代の大の大人が痛くて、痛くて苦しんでいる病気の1つです」。「結石は大きくないので、自然に出てくるでしょう」ということでしたが、「こんな小さなものに苦しめられるとは、人間とはなんと無力なものなのでしょう」と思いました。それでもその後、こうして普通に生活をしているので、「ああ、やっぱり神さまから守られているんだなあ」と思えます。日常生活の中で、大変なことに出会うことが、私たちにはあるわけですが、それでも神さまが御手をもって導いてくださることを信じて、私たちは歩んでいきます。

 イエスさまは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言っておられます。思えば、私たちはとても大きな安らぎのうちを歩んでいるのです。「わたしは永遠の命を約束されている」「わたしは決して滅びることはない」「わたしはいつもイエスさまの御手のうちに生きている」。イエスさまの御言葉を聞くときに、わたしはとても安心いたします。尿管結石で不安になっていたのが、うそのような気がします。

 私たちはだれからも奪われることのない幸いを手にしています。この世の多くのものは私たちの手から失われていきます。もっと若いときは元気だったのに。もっと若いときは転んでもケガをするというようなことはなかったのに。年をとってくると、体の衰えを感じるということが確かにあります。しかしどんなに年をとったとしても、私たちはイエスさまのお守りのうちに生きています。イエスさまは「だれもわたしからあなたを奪うことはできない」と、私たちに言ってくださっています。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。イエスさまの御声を聞きつつ、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。イエスさまは私たちをしっかりと受けとめてくださり、私たちに安らぎを与えてくださいます。


2024年9月10日火曜日

2024年9月1日

 2024年9月1日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「良き志をもって歩め」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 8:37-47節

 ユダヤ人たちは自分たちは特別な民族であると思っていました。ユダヤの指導者たちは自分たちは特別な人間であると思っていました。自分たちは特別であると思うようになると、往々にして、人の意見に耳を傾けることがなくなってきます。自分たちに都合の悪いことを、認めるのがいやになってきます。

 9月1日は関東大震災が起こった日です。今年で101年を迎えます。関東大震災のときに、自警団による朝鮮人に対する虐殺が起こりました。歴史的な文書や証言として残っているわけですが、一方で「そうしたことはなかった」と言い張る人たちも出てくるようになりました。政治家の中でもそうしたことを言い出す人たちがいて、とても困ったことだと思います。

 小説家の芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章を書いています。内容は芥川龍之介と菊池寛の会話です。芥川龍之介は自警団に参加しています。芥川龍之介はデマを信じて、「関東大震災の大火事は朝鮮人のしわざだそうだ」と、菊池寛に言うのです。しかし菊池寛は「嘘だよ、君」と芥川龍之介を諭します。芥川龍之介は自分の愚かさと、菊池寛のすばらしさを、この文章で記しています。人はデマを信じやすいものだと思わされます。芥川龍之介がデマを簡単に信じるのであれば、わたしもデマを信じてしまうだろうなあと思わされ、とてもおそろしい気がいたします。

 イエスさまはユダヤ人たちに対して、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない」と言われました。「いくらなんでも、イエスさま、それは言いすぎではありませんか」と思いますが、しかし芥川龍之介が簡単にデマを信じてしまったことなどを思うとき、悪魔から出てきたとしか思えないような人間のそら恐ろしさを、自分のなかにも感じます。

 だからこそ、イエスさまから離れずに歩みたいと思います。イエスさまにつながって歩みたいと思います。イエスさまにつながっていなければ、自分がどこかにいってしまいそうな思いがするからです。イエスさまは「神に属する者は神の言葉を聞く」と言われました。イエスさまにつながって、神さまの言葉を聞く者でありたいと思います。「イエスさまにしっかりとつながって生きていく」という、よき志をもって歩みたいと思います。


2024年8月30日金曜日

2024年8月25日

 2024年8月25日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「光指す方へと歩む」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 8:12-20節

 イエスさまはご自分のことを、いろいろな象徴的なもので言い表されます。今日の聖書の箇所では、「わたしは世の光である」と言われ、イエスさまに従って生きる人は、暗闇の中を歩むことがなく、誤った道を歩むことがないと言われました。

 キリスト教はユダヤ教からの一つの派であったわけですが、ユダヤ教から独立をすることによって、イエスさまを慕っているユダヤ教から、キリスト教という一つの宗派になります。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教でしたので、そこから独立するということは、異端宗教になるということを意味しました。そのためキリスト教のなかに留まるのではなく、ユダヤ教に帰っていくという人たちも出てきました。

 初期のクリスチャンたちは迫害を受けることになります。クリスチャンであるのか、ユダヤ教に戻っていくのか。ユダヤ教に戻っていくことのほうが、平穏無事な感じがします。その方が光が指している道であるような気がします。しかし初期のクリスチャンたちは、イエスさまの「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という言葉を信じて、イエスさまに従いました。イエスさまの言葉を信じ、こちらが光さす方であると信じて、初期のクリスチャンは歩みました。

 フォトジャーナリストのユージン・スミスは、水俣病患者に寄り添い活動をしました。写真集『MINAMATA』に収録されている「入浴する智子と母」が代表作だと言われています。ユージン・スミスの写真でもう一つ、有名な写真は「楽園への道」といわれる作品です。庭で遊んでいる男の子と女の子が、光が差すほうへと歩み始めるという写真です。「この「楽園へのあゆみ」は、そのころ世界最大の自動車会社だったフォード社の広告に使われて、アメリカじゅうの人びとの目にふれることになりました。暗いところから明るいところへ、まさにあゆみだそうとしている子どもたちの写真は、ユージンとおなじように、戦争へのいやな思い出をわすれることができずにいた人たちに、明るい未来を感じさせました」(土方正志『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』、偕成社)(P.32)。

 私たちもまたいろいろな困難に出会うときがあります。気が滅入ってしまい、もうどうでもいいわと思う時もあります。光が差すとは思えないような気になる時もあります。しかし世の光であるイエスさまは、私たちの歩む道を照らしてくださり、私たちに良き道を備えてくださいます。世の光であるイエスさまを信じて、イエスさまが導いてくださる道を歩んでいきましょう。


2024年8月24日土曜日

2024年8月18日

 2024年8月18日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「これからは、もう罪を犯してはならない」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 8:3-11節

 罪を悔いるということは、新しく生き直すということです。同じ過ちを犯さないようにするということです。そこには心からの決意が必要です。

 律法学者たちやファリサイ派の人たちは、イエスさまのところに姦通の現場で捕らえられた女性をつれてきます。イエスさまは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。すると「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去」りました。イエスさまは女性に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。

 ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)という本の中に「ラク町のお時」という話が出てきます。敗戦後に生活のために身を売るしかなかった女の人の話です。ラク町のお時はNHKの記者のインタヴィユーに答えました。「そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もないワタシたちはどうして生きていけばいいの・・・・・好きでサ、こんな商売している人なんて何人もいないのヨ・・・・・それなのに、苦労してカタギになって職を見つけたって、世間の人は、アイツはパン助だって指さすじゃないの」。世間を責め立てたラク町のお時は、ラジオから聞こえてきた自分の声が、まるで悪魔のようであったことにショックを受けて、その道から足を洗うことにしました。だめな自分に気がつき、新しく出直すことの尊さということがあります。

 私たちの教会が属しています日本基督教団は、1967年3月26日に、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を出し、戦争中の歩みを悔い改め、新しく生き直す決意を言い表しました。

 戦後79年という月日がたち、戦争や平和をめぐる状況は、大きく変わりました。しかし変わらないこともあります。戦争によって多くの人々が悲惨な目にあい、悲しみが憎しみをつくり出し、憎しみが暴力を生み、暴力が新たな憎しみを生み出していくことです。

 79年前に敗戦を経験した私たちは、「もう罪を犯してはならない」というイエスさまの言葉をしっかりとこころにとどめたいと思います。神さまの平和がきますようにと、お祈りいたしましょう。


2024年8月17日土曜日

2024年8月11日

 2024年8月11日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「あなたがすべてをご存じです」 小笠原純牧師
 ヨハネによる福音書 21:15-19節

 わたしが初めて教会で働き始めたのは、岡山教会でした。そこで牧師になる前の伝道師をしていました。伝道師の仕事で、いろいろな印刷物を作るということがありました。あるとき印刷物の間違いが多く、苦情が殺到した時がありました。つぎの週、わたしは間違いがないように念入りに、週報をつくりました。しかし印刷してみると、間違いがあります。200枚の週報をすり直しました。悪いとは思いつつ、証拠隠滅をはかり、間違った週報は家に持って帰り、メモ用紙に使っていました。メモ用紙を使うたびに、毎回反省するわけです。「わたしが悪かった。わたしが悪かった」。「人は知らないけど、この紙は知っている」。「人は知らないけど、神は知っている」。「人は知らないけど、神さまはご存じだ」。
 こんなわたしが牧師をしていられるのも、キリスト教が失敗者の宗教だからです。キリスト教の大きな特色は、それは失敗者がイエス・キリストを宣べ伝えたということでした。イエスさまの弟子たちはみな、イエスさまを裏切りました。なかでも使徒ペトロはそうでした。しかしそのペトロが初期のキリスト教で、大切な働きをしました。ペトロは、初期の教会のかしらとして用いられたのです。
 イエスさまは三度、ペトロに「わたしを愛しているか」と尋ねます。ペトロはこころを痛めます。それはイエスさまが十字架につけられるときに、ペトロが三度、イエスさまのことを知らないと言ったからでした。イエスさまから三度「わたしを愛しているか」と問われることは、ペトロにとってとても苦しく、悲しいことだと思います。
 イエスさまはペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられ、大切な役割をペトロに託されました。イエスさまによって許され、そして同時に大きな役割を命じられたことによって、ペトロは新しく生きる決心ができたと思います。それは自分の力を信じて生きていくのではなく、神さまに委ねて生きていくと生き方です。それは「神さま、あなたは何もかもご存じです」という生き方です。自分の失敗を他人が知っており、蔑んでいるということが大切なのではないのです。神さまが知っておられ、神さまが許してくださるということが大切なのです。
 神さまは私たちを大きな愛で包み込んでくださり、私たちの嘆きや悲しみをいやしてくださるのです。すべてを知っていてくださる神さまの、大いなる赦しと、祝福の中に、私たちは生かされています。このことに希望を置いて歩んでいきましょう。

2024年8月9日金曜日

2024年8月4日

 2024年8月4日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「神さまの平和を求める」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 7:1-17節

 今日は私たちの属する日本基督教団が定めた「平和聖日」です。8月15日に、79回目の敗戦記念日を迎えます。アジア・太平洋戦争において、私たちの国はアジアの諸国に対して侵略戦争を行ないました。日本基督教団は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という信仰告白を行なっています。

 ユダヤ人はイエスさまを殺そうとねらっています。人々もイエスさまについて公然と語ることはできません。自由にものを言うことができない雰囲気が社会に漂っているわけです。そうした雰囲気のあるなかで、声をあげて自由に話をするということは、とてもむつかしいことであると同時に、とても大切なことです。

 戦争へ向かっていく途中、「戦争反対」の声をあげることができるときがあったわけですが、しかしだんだんとそういた声をあげることはむつかしくなっていくわけです。それはどこの国でもそうでしょう。いざ戦争状態になってしまうと、「戦争反対」と声をあげることはとてもむつかしいことになるわけです。

 京都の進々堂というパン屋の続木満那は、戦争中、スパイ容疑をかけられた人を殺せと言う命令を受けますが、裁判もなにもないままスパイだと決めつけられている人間を自分は殺すことはできないと、その命令に従いませんでした。続木満那は自由学園の男子部一回生として創立者の羽仁もと子・羽仁吉一夫妻に薫陶を受けたクリスチャンです。続木満那は1952年、食パンをスライスした状態で包装して販売し始めました。商品名は「デーリーブレッド」です。主の祈りの「日毎の糧を今日も与えたまえ」から取られています。その名に「私どもの造るパンが神に祝福され、人類の健康と幸福に役立ちますように」との祈りを込めたとのことです。(『パン造りを通じて神と人とに奉仕する 進々堂百年史』、「二等兵物語」P110-111)(『島森路子インタビュー集2 ことばに出会う』、天野祐吉作業室、P.61-62)(続木創「パン造りと真摯に向き合う」、信徒の友2020年9月号、P.26)

 私たちは主の祈りで「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ります。そして私たちは主の祈りで「御国を来させたまえ」と祈ります。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。

 神さまの国がきますように。神さまが求めておられる平和な社会に、私たちの社会がなりますように。そうした祈りを大切にして、神さまの御心に従って歩んでいきたいと思います。


2024年8月2日金曜日

2024年7月28日

 2024年7月28日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

「イエスさまのツイッター禁止令」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:41-59節

 ソーシャル・ネットワーキング・サービスの一つに、Twitterがあります。Twitterは「さえずる」とか「つぶやく」という意味の言葉です。Twitter上で激しいやり取りがなされたりして、読んでいて「ちょっとどうなんだろうねえ」という気持ちになる時もあります。今日の説教題は「イエスさまのTwitter禁止令」にしました。今日の聖書の箇所に「つぶやき合うのはやめなさい」とあるからです。

 ユダヤ人たちは、イエスさまのことを理解することができませんでした。そして「イエスのことでつぶやき始め」ます。イエスさまは「つぶやき合うのはやめなさい」と言われます。しかしユダヤ人たちは「互いに激しく議論し始め」ます。この様子はまさに、Twitterの世界だなあと思わされます。インターネットのなかのTwitterという小さな世界のなかに閉じこもり、激しく議論をすると、だんだんと暴力的になっていきます。小さな世界のなかで議論をしているにも関わらず、そのことに気がつかず、自分が世界の中心にいるかのように錯覚してしまうのです。

 ユダヤ人たちも自分たちの世界のなかで、激しい議論をしていくうちに、自分たちのメンツや名誉というようなことが大切なものになってしまい、神さまのことが忘れ去られていくのです。神さまのことについて議論をしていながら、神さまのことは忘れ去られていくのです。神さまの律法でもって人を支配し、神さまの言葉でもって人を傷つけていくのです。そうした暴力的な激しい議論をしているユダヤ人たちに対して、「つぶやき合うのはやめさない」と、イエスさまは言われたのです。

 議論好きなユダヤ人たちに対して、議論ばかりして、自分の正しさばかりを主張するのではなく、もっと大切なことにこころを向けなさいと、イエスさまは言われました。イエスさまは「わたしは命のパンである」と言われました。私たちが神さまの憐れみによって、永遠の命に連なる者であるということが大切なのだ。そうした神さまの愛のなかに、私たちが生かされているということが大切なのだ。

 神さまの愛の中に生きている。神さまが私たちを愛して、愛して、愛してくださっている。だから私たちは愛された者として、神さまの御心を受けとめて、感謝をもって、隣人と共に生きていく。そのことが大切なのだと、イエスさまは言われました。

 神さまが私たちを愛してくださっています。安心して、神さまの御心に従って歩んでいきましょう。


2024年7月26日金曜日

2024年7月21日

 2024年7月21日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「朽ちる食べ物のためではなく」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 6:22-27節

 フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの看護婦です。17歳のときに、「くだらないことがらに時間をむだに使うのではなく、私はなにかきちんとした職業とか、価値ある仕事がしたくてたまらない」と思います。ナイチンゲールは、「クリミヤの天使」とか「ランプの貴婦人」と讚えられた人ですが、「少数者による静かな着手、地味な労苦、黙々と、そして徐々に向上しようとする努力、これこそが、ひとつの事業がしっかりと根を下ろし成長していくための地盤なのです」(長島伸一『ナイチンゲール』、岩波ジュニア新書230)と記しています。

 イエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。永遠の命に至る食べ物とはいったいなんでしょうか。それはヨハネによる福音書6章35節に書かれてあります。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。永遠の命に至る食べ物は、主イエス・キリストを信じることです。

 イエスさまは私たちに五千人の食べ物を与えるという奇跡を通して、いのちは天から恵みとして与えられているものであり、食べ物はわかちあうものであることをお示しになられました。そしてイエスさまは人々が助け合って、共に分かち合って生きていくことを、世の人々に示されました。イエスさまは朽ちるものではなく、永遠なるものにつながって歩みなさいと言われました。

 フローレンス・ナイチンゲールは上流階級の暮らしを望みませんでした。それは何も生み出さない朽ちる食べ物のような生活であったからでしょう。そうではなくナイチンゲールは、永遠の命につながる働きがしたかったのだと思います。

 環境破壊もテロも食糧も金融も労働条件もボーダレスの世にあって、私たちはもう一度、自分たちの生き方を考えなければならないときに来ているような気がします。私たちは神さまの御前にしっかりと生きるということを大切にしたいと思います。人頼みにしてしるしを求めたりするのではなく、自分がしっかりと小さいことでもいいから誠実に行なっていくことを大切にしたいと思います。「御国がきますように」と祈りながら、神さまから託されている小さなわざを誠実にコツコツと行なっていきたいと思います。神さまは私たちの歩みを見守り、祝福してくださっています。


2024年7月19日金曜日

2024年7月14日

 2024年7月14日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「この人のするままに」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 12:1-8節

 今日は「きてみて・れいはい」にいらしてくださり、ありがとうございます。

 わたしの好きな中国の笑い話に、「氷がにげた」という話があります。「南の国の、しょうしょう頭のたりない男が、北の国のおよめさんをもらった。あるとき、およめさんを自分の家において、ひとりで、およめさんの家に行って、はじめて、氷というものをくった。こいつはうまい、ひとつおよめさんにおみやげにしようと、そっと紙につつんで、ふところに入れて家に持って帰った。「おまえの里に、とてもおいしいものがあったので、おまえに食べさせたいと思って持ってきたよ」。ふところをさがして、氷をつつんでおいた紙ぶくろをとりだしたが、「おや、これは・・・・・・・。あいつめ、小便をしてにげてしまった」」(P90)(『中国の笑いばなし』、学燈社)。この男の人は、愚かだけれども、愛があります。わたしもできれば、「愚かだけれども、愛がある」世界に生きていたいと思います。

 「合理的ではないけれども、そこには愛がある」という話は、ほかにもあります。わたしがこの「氷がにげた」という話を読んで思い出した話は、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」という話です。

 マリアはイエスさまの足に高価な香油を注ぎ、髪の毛でその足をぬぐいました。それをみてイスカリオテのユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」とマリアを叱り飛ばします。しかしイエスさまは「この人のするままにさせておきなさい」と言われました。イエスさまはマリアに対して、「何かもっとふさわしいものを」とか、「常識的な役に立つことを」というふうに言われませんでした。

 イエス・キリストは私たちに「この人のするままにさせておきなさい」と言ってくださっています。イエス・キリストは私たちが、「りこうであるから、役にたつから、配慮があってすばらしい人であるから」、私たちを受け入れてくださるのではありません。また「もう少しりこうになったら、もう少し役に立つことができるようになったら、もう少し配慮を身につけなさい」と言っておられるのでもありません。「この人のするままに」、「あなたをそのままで受け入れているんだよ」というふうに言っておられます。

 私たちは「この人のするままに」というイエスさまの温かい言葉に支えられながら生かされています。


2024年7月12日金曜日

2024年7月7日

 2024年7月7日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「イエスさま、す・て・き」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書5:19-36節

 夢のなかで自分がいやなことをしてしまい、夢から覚めて、「ああ、夢でよかった」というふうに思うことがあります。しかし夢のなかとはいえ、自分のなかの良くないことが、まざまざと現れるということですから、なんとなく意気消沈してしまいます。良き人として生きられない自分に出会うということです。イエスさまを信じ、イエスさまに従って歩もうと思いつつも、イエスさまの御心に反したことをしてしまう。しかしそうしたどうしようもない自分がいるからこそ、イエスさまのことがとてもすてきな方だと思えるのでしょう。

 イエスさまは神さまの御子として、神さまの御心に従って歩まれる。神さまの御心に従って、私たちの罪のための十字架についてくださり、私たちを救ってくださる。イエスさまは自分のことを誇ることなく、謙虚に神さまに従って歩まれる。ヨハネによる福音書はそのようにイエスさまのことを記しています。

 フィリピの信徒への手紙2章1節以下には「キリストを模範とせよ」という表題のついた聖書の箇所があります。この「キリストを模範とせよ」という箇所には、初代のクリスチャンたちがイエス・キリストはこんな人だったと言い表している信仰告白が使われています。フィリピの信徒への手紙2章6ー11節の御言葉です。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

 イエスさまは本当にすてきな方だと思います。「イエスさま、す・て・き」。初代のクリスチャンたちもまた、そのような思いをもって、イエスさまに付き従っていったのだと思います。

 すてきな方が、私たちを導いておられます。神の御子が私たちのところにきてくださり、私たちと共に歩んでくださいます。その恵みに感謝をして、イエスさまに従って歩んでいきたいと思います。


2024年7月5日金曜日

2024年6月30日

 2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「イエスさまの言葉に希望を置く」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:43-54節

 いまNHKの朝の連続テレビ小説は「虎に翼」です。ドラマの中ではなんども日本国憲法第14条が出てきます。「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」。戦後、日本国憲法が施行されたとき、多くの人々はそのような社会ではないけれども、そのような社会になってほしい、そのような社会を作っていくのだという思いをもって、戦後の苦しい時期を歩みました。

 イエスさまは役人の息子を癒やされます。役人はイエスさまが言った「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」という言葉を信じて、カファルナウムに帰ります。役人はただイエスさまの御言葉を信じて、帰っていきます。イエスさまの言葉を信じよう。イエスさまが必ず、息子をいやしてくださる。その途中に僕たちに出会い、イエスさまがそのように言われた時刻に息子が癒やされたことを聞きました。

 ヨハネによる福音書では「見ないで信じる」ことの大切さが記されている聖書の箇所がほかにもあります。「イエスとトマス」(ヨハネ福音書20章34節以下)の物語です。うたがい深いトマスに、イエスさまが言われます。【イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」】。

 いつの日か、神さまの御心が実現する。アメリカの公民権運動の指導者でありました、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、その思いを、I have a dream that one day.「わたしには夢がある」という言葉で言い表わしました。キング牧師、「いつの日か」と言います。「いつの日か」ですから、それはいま叶っているということではないのです。しかしキング牧師は、演説の終わりを、「ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝する。われわれはつい に自由になったのだ!」という言葉で終わります。いま叶っているわけではないけれども、神さまがおられるのだから、それは必ず実現するのだという信仰です。

 私たちもまたそのように信じています。そして祈ります。神さま、私たちはあなたにより頼んで生きていきます。どんなことがあったとしても、神さま、あなたが私たちに良きものを備えてくださり、私たちを導いてくださることを信じています。神さま、私たちはあなたの御言葉を信じて歩みます。どうかあなたの国が来ますように。私たちをあなたの愛で満たしてください。


2024年6月29日土曜日

2024年6月23日

 2024年6月23日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:27-42節

 「役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う」(鴻巣友季子『全身翻訳家』、ちくま文庫)。翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。翻訳家という人の存在を思うとき、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

 サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。

 私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

 私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

 私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから、種を蒔く人も刈る人も、共に喜び、豊かな歩みをしていきたいと思います。