2017年2月27日月曜日

2017年2月12日

2017年2月12日 主日礼拝説教要旨
  「愛の神殿」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書13章1〜2節)

  イエスが神殿から出て行こうとされた時、一人の弟子が「先生、ご覧下さい」とイエスに呼びかけるのです。この後の記事を見るとイエスはオリーブ山に向かうところでした。即ち、イエスは前方を向き進んでおられたのですが、当然弟子たちも同じ方向を見ていたことになりますが、実は神殿を見ていたのです。つまり後を振り向いていたのです。当時のイスラエルでは群を抜いて壮麗なるもので弟子たちは「ここにこそ神が住み給う」と感嘆し、この神殿は永遠に残るものだと考えていたのでしょう。だからイエスを引き留めたのでしょう。
 しかし、イエスは「建物を見ているのか、こんなものは完全に壊れてしまって石ころ一つ残らないのだ」。その通り紀元70年ユダヤ戦争によって破壊され尽くされます。このイエスの言葉は単なる預言ではなく、見かけの素晴らしさに心を奪われている弟子たちに、本当に目を向けなければならないものは何であるかということを訴えているのです。私たちも立派なもの、優れたもの、貴重なものに心をすぐに奪われます。しかし、全てに勝って大切で価値ある素晴らしいものは「愛」なのです。
 インドの独立運動を担ったガンジーは「何時の時代を見ても必ず愛と真実が勝利する。しばらくは暴力が勝っているように見えても、最後は何時でも愛と真実が勝利する」と云い、差別撤廃運動に取り組み、百年後アパルトヘイト法が完全に撤廃されたのです。
 私たちは何を見て生きるのでしょうか。弟子たちが見るべきところは後方ではなく、前方、即ち先立って歩んで下さっている方でした。私たちもそうです。私たちの人生の先にはイエス・キリストが立っておられるのです。イエスは私たちの罪を贖うために十字架に向かっています。しかもそれは、愛し尽くされたその先になお進まれています。愛を完成させるために、人間に本当の愛が如何なるものであるかを示すために、十字架へ赴いて行かれるのです。この決意、思い、愛こそ私たちも見つめるものなのです。目に見える神殿に心を奪われるのではなく、目を向けるべきは愛の神殿、イエス・キリストです。

2017年2月24日金曜日

2017年2月5日

2017年2月5日 主日礼拝説教要旨
  「気をつけなければならないこと」宇野稔牧師
   (マルコによる福音書12章35〜40節)

 イエスはキリストがダビデの子であることを何故否定しなければならなかったのでしょうか。エルサレム入城の場面でイエスをダビデの子と呼んで迎えたと記されています。だから反論したのです。「キリストは律法学者等に対して、ダビデの子という言葉で表現しているものとは全く異なるのだ。お前たちの云うような意味でのダビデの子がどうしてキリストであろうか」と。そして真のキリスト像はまさにキリストの生き様、とりわけ受難によって人々に具体的に明らかにされながら展開されていくのです。
 ここで律法学者たちの姿と対比されているのは、真のキリストとしてのイエスの生き様でした。律法学者やファリサイ派の欠点は、自分を正しい座において色々なことを人々に教えるが、自分ではそれを実行しなかったというところにあります。普通云うだけでそれを実行しない人の話しなどは聞くなとなるが、イエスは「彼らの云うことは真理を云っているのだから、それを聞きなさい。しかし、彼らはそれを行っていないのだから、その真似はするな」と云われたのです(マタイ23章参照)。そこにイエスの寛容な態度を知ることが出来ます。
 一つがダメだから全てダメとは云わない方なのです。確かに、イエスが人に対する態度の中には、偽善な律法学者よ!と鋭い言葉で語りながら、攻撃のためでなく、イエスが事実を述べられて、その事実から人々の悔い改めや救いを語っておられるのです。
 聖書は、律法学者ファリサイ人が出てきますが、それに共通していることは「外側」ということです。宗教というものは「内側」を大事にしていくものです。内側をいいかげんにして外側をよくしていこうとするのは、何時の時代でも宗教の陥る欠点なのです。それをここでは鋭く突いておられるのです。
 律法学者は外側をいかにも重々しいような生活をしているかのように見せるが、しかし、先生とか教師とか呼ばれてはならないと書かれている。「あなた方の教師はただ一人、即ちキリストである」とあります。その事を徹底的に実行せねばなりません。私たちの信じる神はそのような神なのです。

2017年2月13日月曜日

2017年1月29日

2017年1月29日 主日礼拝説教要旨
  「イエスと希望」桝田翔希神学生
   (ルカによる福音書8章40〜48節)

キリスト教の教会では、「希望」という言葉がよくつかわれていると思います。この「希望」という言葉は日常生活でもよく聞かれる言葉だと思います。そこで聖書の中で希望という言葉がどのように使われているのかを調べてみますと、4つの福音書の中でイエスは希望という言葉を一度も使っていないのです。なぜイエスは希望を語らなかったのでしょうか。イエスには希望がなかったのでしょうか。
イエスが希望を語らなかった理由は色々考えられます。神の国が近づいたという確信に裏付けられた宣教であったからなのかもしれませんし、編集者によって削除された可能性もあります。
今回選びました聖書箇所は「流血の女」や「長血の女」と呼ばれる箇所であります。出血が止まらない病気にかかったという事は「健康でない」ということと同時に「社会からはじかれてしまう」「仲間はずれにされてしまう」ということも意味しています。聖書にはこの女性が、12年間もこの病を患い、治す為に多くのお金を使ったことが書かれています。病が治り仲間として受け入れられることをひたすらに願った12年間だったのではないでしょうか。病が癒えることこそが彼女の「希望」として生きていたのではないかと思います。そんな女性をイエスは癒し、送り出しの言葉として「安心して行きなさい」と語っています。ここでイエスは未来に責任を置くような発言をせずに今の姿を肯定するかのように声をかけています。
なぜイエスは希望という言葉を使わなかったのでしょうか。イエスが出会いに行ったり癒したりした人というのは、当時の社会で差別されていじめられていた人や、病気にかかった人でした。今まさに苦しみの中にある人たちに対して、未来に責任を置くような言葉は使わなかったのかもしれません。未来に責任を置くよりも、今目の前にいる人たち、今目の前で起こっていることに真剣に、大切に、愛をもって向き合っていたからこそ希望や期待というような言葉は使わなかったのかもしれません。私たちも安心のなかで今この瞬間を生きたいものです。

2017年2月6日月曜日

2017年1月22日

2017年1月22日 主日礼拝説教要旨
  「レプトン銅貨2枚」宇野稔牧師
   (マルコによる12章41〜44節)

 聖書に登場する律法学者はまじめな生活態度と生活上の権威者のような存在で、「裁判長」の様な役割をする者でした。人々は服従していましたが、イエスはその権威者の権威を引きずり下ろすのです。律法学者には真の権威はないと宣言したのです。人々は「では本当の権威者は誰なのか」との問に今日の物語が挿入されたと考えていいでしょう。
 神殿での献金の場面です。ここで注目を集めるのは金持ちです。当時多くの財産を持っていることは、神の祝福のしるしだと考えられていましたし、立派な人間の証しでした。
 しかし、そこに一人のやもめが来ます。隅の方でそっと献金しました。男性本位の社会で夫に先立たれてしまった女性は最も来るし生活を強いられる人々でした。 人々は、多額の献金をする金持ちに目を向けますが、イエス・キリストの目は隅でそっと献金をしたやもめに向けられていたのです。神の視点は小さい者に向けられるのです。強さか弱さかで云うと弱さに向けられるのです。
 私たちはどうでしょうか。神は私たちの弱さを含めて受け容れて下さっていると聞かされても、この世の富、この世界の評価が必要だと思ってしまいます。それこそ私たちの弱さではないでしょうか。真理を知らされていても、やはり目に見える現実の力を望んでしまいます。やもめはレプトン銅貨2枚を献げます。この彼女の全生活を献げよう、即ち「委ねよう」という決断をイエスは賞賛されたのです。私たちは委ねる前に自分の持っているものの大きさを過信したり、少なさに卑下したりするあの律法学者と同じなのです。
 しかし、イエス・キリストは「神はあなたの味方だ。あなたを愛しているのだから神に委ねなさい。心配も不安も全て神に委ねるのです」と言います。最初から全て委ねるのは難しいかも知れません。しかし、私たちはレプトン銅貨2枚、今病んでいること、悩んでいることを委ねることから始めませんか。一日を祈りから始めませんか。その時私たちはイエスの言葉に出会うでしょう。「悲しんでいる人、あなたは幸いである」。