2020年4月24日金曜日

2020年4月19日

2020 年 4 月 19 日 復活節第2主日礼拝説教要旨
「赦赦力」 小笠原純牧師 ヨハネによる福音書 20:19-31 節

 「あの人だけは赦せない」というような話を聞かされることがあります。「わたし はあいつにこんなひどい目にあわされた」「ぜったいにあいつのことは赦せない」と 言うので、「それっていつのことか」とたずねると、学生時代の話であったりするこ とがあります。もう35年前の話であるのに、昨日、起こった出来事のように話さ れるのを聞いていると、「ああ、やっぱり人を赦すというのはむつかしいものだな あ」と思ったりします。  「わたしが、わたしが」という思いが強くなっているとき、私たちは「自分が神 さまから赦されている」という大切なことを忘れがちになります。今日の聖書の箇 所であります、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は 赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とい うことは、とても大切な聖書の言葉です。この言葉は、わたしはキリスト教の根幹 にかかわる言葉だと思います。
 「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。神さまは人 の罪を赦されるのです。しかしそれにもかかわらず、わたしたちが人の罪を赦さな いならば、赦されないまま残るのです。罪が残るのは、だれのせいかというと、赦 さないわたしのせいなのです。わたしのせいで罪がこの世に残るのです。なんとも 責任の重い話であり、まさに私たちに「あなたは人を赦すことができるか」と問わ れているのです。
  老人力とか女子力とか、「力」のつくはやりの言葉というものがありますが、よみ がえられたイエスさまが弟子たちに望まれたのは、「赦赦力」ということでした。弟 子たちはお互いに赦しあわなければならなかったのです。お互いに赦しあうことな しには、一緒に進んでいくことができなかったのです。イエスさまは弟子たちに、 赦しあう力を与えると言われました。
 わたしは神さまから人を赦す力が与えられているということに、とても励まされ ます。人を恨んだり、人を赦すことができないと思うことがありますが、しかし神 さまは私たちに人を赦す力を与えてくださっているのです。荒ぶる心を静めて、祈 りたいと思います。あの人とわたしの間に、イエスさまが立って、和解へと導いて くださいますように。どうか互いに赦しあい、新しい歩みをすることができますよ うに。神さまに罪赦されて生かされていることに感謝して歩んでいきましょう。

2020年4月18日土曜日

2020年4月12日

2020年4月12日 主日礼拝説教要旨
  「永遠の命を生きる」 小笠原純牧師
    マタイによる福音書28章1-10節

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストの復活を、こころからお祝いいたします。
 歌人の林あまりさんは『わたしにとって「復活」とは』(日本キリスト教団出版局)という本の中で、つぎのような復活についての短歌を詠んでおられます。 「おはよう」と のんびり明るい声がする 道の向こうで待っているひと
 なんだろう このいい香り 先生のほほえみのたびに、まばたきのたびに  もう死など死ではなくなり いつだってあなたはわたしと共におられる  復活のイエスさまに出合い、私たちはすべての恐れから解き放たれて、私たちはイエスさまと共におられる幸いをこころから感じられることができます。「私たちには希望が与えられている」。世の中にはいろいろな不安や恐れが満ちあふれているけれども、私たちには復活されたイエスさまが共にいてくださり、私たちには永遠の命の希望が与えられている。イースターは私たちにとって、私たちの根底を支える希望の出来事です。
 それぞれの福音書において記されているイエスさまの復活の出来事は、若干の違いがありますし、またそれぞれに味わいがあります。復活については聖書にいろいろと書かれてありますから、いろいろと言うことができるわけです。これはどうだろう。あれはどうだろう。このことはどう説明すればいいだろう。このことについて聖書はどのように書いてあるだろうか。このことは信じられるか、あのことは信じられるか。取り上げると、いろいろと言うことはたくさんあります。ただそうしたものは次第に消え去っていきます。そして本質的な問いが、私たちの前に立ち上がってくるのです。【「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」】。  私たちはみなこの世において死を迎えます。しかしイエス・キリストは復活であり、命です。私たちはイエス・キリストを信じることによって、私たちはイエス・キリストに連なることによって、永遠の命を生きるのです。イエスさまは「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。私たちはみな永遠なるものへと招かれています。  イースター、よみがえられたイエスさまと共に、こころ平安に歩みましょう。イエスさまは私たちのすべての恐れを取り除いてくださり、私たちに希望を与えてくださいます。


2020年4月6日月曜日

2020年4月5日

2020年4月5日 主日礼拝説教要旨
  「イエスさまはろばの子に乗って」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書12章12-16節
 こころがぎすぎすとしているなあと思えるようなとき、わたしはお気に入りの映画のDVDを見て、こころを整えることにしています。こころ休まるお気に入りの映画というのが、いくつかわたしにはありますが、よく見るのが、中山美穂主演、岩井俊二監督の「Love Letter」という映画です。この「Love Letter」という映画は、亡くなった人の思い出が語られていくという点で、聖書の福音書に似ています。聖書の福音書も、イエス・キリストという亡くなった人について書かれた書物であるからです。そして福音書には、イエス・キリストの良き思い出が記されています。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが天に帰られたあと、イエスさまとの良き思い出を思い起こしながら、イエスさまの歩みを人々に伝えていきました。その良き思い出の一つが、棕櫚の主日、イエスさまがエルサレムにやってこられたときの思い出です。
 棕櫚の主日の出来事は、ただ十字架への道を思わせる悲しみの出来事であるのかというと、それだけはないような気がします。大勢の群衆が、イエスさまがエルサレムに来られるのを聞いて、なつめやしの枝をもって迎えました。そしてみんな「ホサナ、ホサナ。私たちを救ってください」「イエスさまに神さまの祝福がありますように」と言いつつ、迎えます。もちろん移ろいやすい人々であり、支配者によってだまされたり、弱さを抱える人々であることを、イエスさまは知っておられただろうと思います。しかしそうした人々を裁かれるのではなく、イエスさまは愛をもって、人々を受け入れられました。そしてその証しとして、イエスさまは軍馬に乗るのではなく、ろばの子に乗って、エルサレムにやって来られたのです。そしてそのことによって、どんなときも神さまの愛の中にあることを、イエスさまは私たちに教えてくださいました。
 イエスさまはどんなに愚かな私たちであったとしても、私たちを赦し、私たちの代わりに、私たちの罪のために十字架についてくださいます。そしてその証しとして、イエスさまはろばの子に乗って、エルサレムにやって来られました。軍馬に乗って、私たちを裁くために来られたのではなく、ろばの子に乗って、私たちを暖く迎えてくださるためにきてくださいました。  イエス・キリストは私たちの罪のために十字架についてくださり、私たちを神さまの愛のうちに招いてくださっています。私たちは生涯、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と誉めたたえつつ、歩んで行きましょう。

2020年4月4日土曜日

2020年3月29日

2020年3月29日 受難節第5主日礼拝説教要旨
「川の流れのように」 桝田翔希伝道師
マルコによる福音書4:26~32節
 3年間の任期が終わり転任することとなりました。この間、多くの方々に助けていただき感謝しています。本当に楽しい3年間でした。この日にあって神の国が説明されている「『からし種』のたとえ」とされる箇所を選ばせていただきました。旧約聖書の中で神の国を連想させる「鳥が巣をつくる」豊かな木のイメージがあり、それらは樹高が30メートル以上にもなる立派な「レバノン杉」を通して描かれています。しかしイエスは、そのような樹木ではなく、そこらへんに生えていて、しかし普段の生活を養ってくれる、「からし種の木」を神の国のイメージとして用いられました。人間の思いや理想を越えた場所にある神の国の姿を、挑戦的に提示しているのかもしれません(山口里子、2017年)。
 1911年に創立35年を覚えてラーネッド先生が平安教会に書いた手紙が教会に残されています。平安教会は第三公会として1876年に結成されましたが、この二週間前には、宣教師のラーネッド宅にて第一公会が結成されています。後に第一公会は合併となり平安教会が形成されました。手紙の中には同じく宣教師であるディビス先生が、エゼキエル書の47章に基づき説教をしたことが記されています。エゼキエルがエルサレムの神殿から水が湧き出て、東に流れる幻を見ています。その水は死海の水でさえきれいにして、生き物にあふれさせました。ラーネッド先生は「当時は本当に小さな教会でした。エゼキエルが見た幻のように、川の始まりのようなものでした。しかし、わたしは豊かさの中にある教会を見ることができ、感謝でいっぱいです。」と書いておられました。キリスト教禁制が解かれて間もない京都での伝道は困難を極め、時にはうっとうしがられ、辛く、不安で仕方なかったと思います。しかし、20人から始まった第三公会は川の流れのように大きくなっていったのです。
 私たちは社会で生きる中で、どうしても物質的な豊かさを求めてしまいます。しかし今日の状況は人を人とは思わないものへと変わっています。しかし、そのような常識を超えたところにある「神の国」をイエスは語りました。私たちはどのように生きるべきなのでしょうか。川のほとりに植えられた、からし種の木のようでありたいと思うのです。そして、長い歴史の中で様々な困難の中にあっても、京都の地にあって、多くの鳥が集うように、豊かに人が交わる平安教会の歩みが、これからもますます祝福されますように祈ります。