2021年2月25日木曜日

2021年2月21日

 2021年2月21日 受難節第1主日礼拝説教要旨

   「誘惑も命の言もあなたの近くに」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 4:1-11節

 イエスさまは荒れ野で悪魔の誘惑にあわれます。「荒れ野」「40」という数字から分かるように、この悪魔の誘惑という話は、出エジプトの出来事を背景にして語られています。イスラエルの民は神さまを信じることができず、出エジプトのあと、荒れ野で40年間を過ごすことになります。イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝ってくださり、私たちを悪魔から守ってくださいます。

 「誘惑を受ける」という聖書の箇所は、悪魔もまた聖書の言葉を用いて誘惑しているということを、私たちに教えてくれます。困ったものです。イエスさまと手をつないで歩いているつもりで、「ねえ、イエスさま」と声をかけると、振り向いた顔が悪魔の顔だったというようなことが起こってしまいます。でも私たちの世の中はそういう世の中なのだと思います。「誘惑も命の言もあなたの近くに」あるのです。誘惑は私たちから遠くにあるのではありません。

 私たちはいかにして、いろいろなことを吟味すればいいのでしょうか。わたしは信仰において、ひとのことが妙に気になるときは、自分が神さまから離れているのではないかと考えてみなければならないと思います。自分の心の中に「あの人は・・・」とか「あいつは・・・」という思いが妙に出てくるときは、心を静かにして自分の信仰について考えてみるべきだろうと思います。また自分の心の中に「わたしは正しい」「わたしは絶対正しい」という思いが妙に出てくることは、心を静かにして神さまに祈るべきだろうと思います。そして妙に「聖書にこう書いてある」と思う時は、鏡をみて自分の顔がサタンになっていないか、あるいはお尻にしっぽが生えていないか、注意しなければならないのだと思います。といいつつ、わたしは自分のお尻がとっても気になります。

 イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝ってくださいました。私たちは弱く、すぐに誘惑に負けてしまう者かも知れません。しかし私たちにはイエスさまが共にいてくださいます。恐れることなく、安心して歩んでいきましょう。悔い改めの心を大切にして、歩んでいきましょう。

 イエスさまは言われました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。私たちは神さまを見つめて歩みたいと思います。人を見つめるのではなく、自分の罪を見つめて歩みたいと思います。


2021年2月12日金曜日

2021年2月7日

 2021年2月7日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

    「常識を打ち破った「この女」は立派だ。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 15:21-31節

 世の中いろいろなことが変わっていきます。Googleが策定した「Googleが掲げる一〇の事実」の中の九番目に「スーツがなくても真剣に仕事はできる」という項目があるそうです。いまはビジネスマンではなく、プロスポーツ選手がスーツをカッコよく着て登場するのがはやっています。(中野香織「スポーツとファッション」)

 「カナンの女の信仰」の話は、とても印象的な話です。イエスさまの弟子たちはカナンの女をけぎらいしています。「この女を追い払ってください」と弟子たちは言っています。カナンの女は「この女」呼ばわりされています。しかしカナンの女はそうした扱いに負けることなく、イエスさまに頼み込み、そして娘をいやしてもらい、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」という祝福を、イエスさまからいただくのです。カナンの女は、いまはやりの「わきまえない女」です。

 「良きことをあきらめない」というのは、やはりとても大切なことだと思います。世の中は差別に満ちていたとしても、やはり世の中に差別があるのは良くないです。「そんなこと言ったって、変わらないよ」という思いになってしまいそうになりますが、でもやはり「良きことをあきらめない」。世の中、意外に変わるものです。ビジネスマンはスーツを着なくなり、スポーツ選手がスーツを着るのです。

 神さまの救いは異邦人にも広がっていくということの始まりは、カナンの女の「とんち」だったということが聖書に記されているというのは、なかなか興味深いことだと思います。弟子たちにも従わず、イエスさまにも従わなかった女性の話を、「でもこの話、よく考えたらいい話よね。笑えるし」と思って語り伝えた人たちがいたのです。それは女性だけでなく、男性もそのように思って語り伝えたのだと思います。

 「良きことをあきらめない」「良きことを求めて生きていく」「良き社会を願いつつ生きていく」。そうしたことはとても大切なことです。イエスさまは私たちに語っておられます。「あなたの願いどおりになるように」。イエスさまから祝福されるような「願い」をもちつつ、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2021年2月4日木曜日

2021年1月31日

 2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

   「愛に生きる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:17ー20節

 インターネットのニュースなどを見ていますと、よく「苦言を呈した」とか「持論を展開」とか出てきます。【自民・A氏、審議前の修正協議に苦言 新型コロナ】【(お笑い芸人)Bが政権批判のテレビメディアに苦言「強制的に経済止めるといったら放送止めますか?」】。まあやはり人は「自分が正しい」という思いをもつものです。

 福音書などを読みますと、イエスさまの時代、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派というようないろいろな派の人々がいたことがわかります。イエスさまのところに「わしが正しい」と思っている人々が、イエスさまに論争をしかけにやってくるわけです。

 【「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである】と、イエスさまは言われました。もともと律法や預言者は人々に神さまの愛を知らせるものであるのに、ファリサイ派の人たちが人を裁くための道具にしてしまっていることに対して、イエスさまは憤りをもっておられました。イエスさま御自身は律法や預言者を大切なものだと思っておられました。そしてそれを大切なものとして守り、もともと律法が持っていた愛の力が満ちあふれるような世の中であってほしいと願っておられました。

 「正しさが先に立つと愛が消える」ということがあります。正しさばっかりが主張されるところでは、愛が消えてしまいます。それは社会運動などでもそうでしょうし、会社でもそうでしょうし、教会のなかでもそうでしょう。使徒パウロは【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる】(1コリント8章1節)と言いました。【自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです】(1コリント8章2節)と言いました。

 私たちは「自分が正しい」という思いに取りつかれたとき、自分が何かを大切なものを落としていないか、周りをよく見回してみなければなりません。もしかしたら私たちの足によって踏みにじられた神さまの愛が落ちているかも知れません。

 「正しさが先に立つと愛が消える」。私たちは愛に生きるということに、こころをとめたいと思います。小さくてもいいから愛に生きる者でありたいと思います。