2018年7月23日月曜日

2018年7月8日

2018年7月8日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨
  「見失った羊」のたとえ」 山下毅伝道師
   ルカによる福音書 15:1~10節
 ルカによる福音書15章では、3つの物語が語られています。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえが語られています。何かを失ったとき、それを見つけた時の神の喜びをあらわしています。この物語の共通テーマは神の国には誰が入れるか?と言う問題です。ファリサイ派の人々は当時、「口伝律法」を重んじ、羊飼い、女性、「いなくなった息子」「放蕩息子」を軽蔑していました。イエスは軽蔑されていた、徴税人や罪人達と共に、食事をします。「見失った羊」の羊飼はイエスです。イエスはいなくなった羊の一匹を求めて捜し歩かれます。「悔い改めた一人の人」を指しています。神の小羊のことを思うたびに、「まばたきの詩人」水野源三さんのことを考えざるをえません。脳性小児麻痺になった源三さんは、手足を自由に動かせず、ものも言えなくなってしまいます。しかし幸いなことに、源三さんにキリストの福音が伝えられ。国語辞典に書いてある「あいうえを」の表を使い、母親が指をさし、源三さんが目で合図し、詩を作っていきます。源三さんが作った詩の中に「わたしのようなものが」と言う詩があります。「主イエス様の御姿は見えない 御声は 聞こえない だけど――わたしのようなものが 喜びにあふれ 望みにみちて生きている。」何という奇跡的な信仰でしょうか。イエスはどんな人にでも、甦りの喜び、命の復活を与える方として働いていらっしゃいます。99匹は悔い改める必要のない人々を指しています。
ドラクメ銀貨を十枚持っていた女性は一枚を無くします。これは大切な花嫁料で、結婚指輪と同じくらい大切なものです。見つかったら、近所の女達を集めて喜びます。一人の悔い改めは、神の天使たちに喜びがあります。この三つの物語は、三位一体の神の物語ともいえます。子なる神はいなくなった羊を捜し、無くした銀貨を聖霊の火をともして捜し、父なる神は、本来の私に戻ることを望んでおられます。

2018年7月17日火曜日

2018年6月24日

2018624日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
「善きサマリア人のたとえ」 山下毅伝道師
ルカによる福音書 10:2537
 「善きサマリア人のたとえ」は聖書の中でも、よく知られた箇所です。イエスは70人の弟子達を2人一組にして伝道に派遣しました。70人の弟子たちは派遣から帰って来て大喜びでイエスに報告しました。神の言葉は単純素朴な霊的に幼子のような人に、お示しになりました。――その報告を聞いていた律法学者は、不愉快に思い、イエスに尋ねます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスは「律法には何とかいてあるか。」と言われると、律法学者は答えます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えます。イエスは言われた、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と答えられます。
しかし、なおも律法学者な「では、わたしの隣人とはだれですか」と言います。イエスは答えられます。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにしたまま立ち去った。」「祭司、レビ人がその人を見ると、道の向こう側を通っていった。」ところが、サマリア人は、そばに来ると、その人を見ると憐れに思い――宿屋に連れて行って介抱した。」「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になった思とうか?」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」当時サマリア人はユダヤ人から軽蔑されていた。雑婚や異教などが入り込み、律法の純粋性を保とうとする、ユダヤ人は交わりさえしませんでした。

結論  隣人愛を持っている人は人種を越えて人を助けます。「永遠の命」はイエス・キリストを信じることによって与えられます。ヨハネ316節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とのべられています。