2017年7月24日月曜日

2017年7月9日

2017年7月9日 主日礼拝説教要旨
「法律に書いてますか」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書10章25~37節
皆さんは2003年に起こった「連続大量差別ハガキ事件」というものをご存知でしょうか。この事件は約1年半の間に400以上もの差別ハガキが送られてきたもので非常に悪質なものであります。私はこの事件を、300近い差別ハガキを受け取った被害書本人の講演の中で初めて知りました。その時、何とも言えない怒りが胸の中に湧き上がってきたことを今でも覚えています。
 さて今日のテキストは良きサマリア人のたとえ話と呼ばれる個所です。ある旅人がエルサレムからエリコに向けて歩いている途中で旅人は強盗にあい、半殺しにされてしまいます。サマリア人はなぜ倒れている人を助けたのでしょうか。33節でサマリア人は倒れた人を見て「憐れに思った」から近寄って行ったと説明されています。この箇所をギリシャ語で見てみますと「スプランクニツォマイ」という言葉が当てられています。この言葉は内臓を意味する単語で昔の人たちは感情というものは内臓から出てくるものであると考えていたそうです。
 このたとえ話の中では二つの考え方があります。それは祭司やレビ人のように、決まり事や法律に従う考え方と、サマリア人のように感情に従う考え方の二つです。私たちは法律には従う一方で法律だけを守って生きていいればよいというものでもありません。日本の法律では部落差別そのものを裁くものがありません。この事件も差別そのものを法律で裁くことは難しかったのです。
 イエスは、サマリア人のようにしなさいと言いました。私たちの身の回りには部落差別をはじめ多くの差別が今もなお存在しています。誰も何も言わなければ部落差別は忘れられて、なくなっていくように感じることもあるかもしれません。しかし、差別が忘れ去られるということは、差別は差別のまま無くなっていく、つまり差別によって傷つけられた人の痛みもそのまま忘れ去られていくということなのです。サマリア人がしたように、人の痛みを感じ心を動かすことからすべては始まるのではないでしょうか。痛みに寄り添い、「いたわる」ところにイエスの宣教があるのではないでしょうか。

2017年7月18日火曜日

2017年7月2日

2017年7月2日 主日礼拝説教要旨
「神の豊かな恵みの中で」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章15~20節
 フィリピ書の最後となりました。19節に「わたしの神」という言葉がありますが、これはパウロ独特の言い回しです。神のことを「わたしの神」というのは不遜のような気がしますが、パウロと神がそれほど日常的な密接な関係があるからで、言わば自然の流れで出てきているのです。19節に「必要なものは全て」という表現がありますが、私たちの多くの祈りは「必要なものを求めて」祈るのですが全て満たされているわけではありません。ここで云っているのは、自分が必要だということではなく、神が必要とされているものが与えられるということです。それこそ実は本当に自分が必要としていることだというのです。
 パウロの「必要なものは全て満たして下さった」という表現が素晴らしいのです。そこには「生きていてよかった」という充足感が表現されています。あらゆるものに優って私たちを充足させるものとは、神が必要として私たちに与えて下さるものなのです。それはこの地上のあらゆる宝に優るものなのです。だからパウロはその素晴らしさを「ご自分の栄光の富に応じて」と表現したのです。この宝はパウロが偉大な信徒だから受けることが出来たのではなく、教会に云っているのです。つまり、教会の人々に、私たちに告げられているのです。神は私たちにも御自身の栄光の富を分けて下さるのです。それは「キリスト・イエスによって」という言葉で表されています。神が私たちに与えて下さったものは何でしょうか。それは「生命」です。そして命を捨てても良いほどに愛するということです。必要なもの全て満たされていると感じながら生きるということが出来るのです。そして20節は讃栄の言葉です。パウロは神を讃える言葉で締めくくっています。
キリスト者の特徴を一言で云うと「喜び」ではないでしょうか。世界の中で「自分は神に愛されている」ということを他の人に先駆けて知っているのですから。ですから、「喜びなさい」と語られるのです。

2017年7月11日火曜日

2017年6月25日

2017年6月25日 主日礼拝説教要旨
「平和の神が共にいる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章8~9節
 この書を書いた使徒パウロは、元々キリスト教徒を迫害する人物でした。それがキリストに出会って劇的な人生の変更をした人物なのです。迫害者からキリストのことを宣べ伝える人物となったのです。それ以来は全力で世界中を駆け巡り、イエスこそがキリストであると宣べ伝えて来ました。ですがそのような活動は、順風満帆と言えない時も多々あったに違いありません。しかしパウロは自分の人生について「喜んでいる」というのです。しかもこの手紙を書いている時は牢獄に入れられていたのです。パウロはフィリピの教会宛てにこう書いています。「すべて真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なことを心に留めなさい」と云うのです。
 この世界に果たしてそんなものがあるでしょうか。騙されているということは「これこそ真実なことだ」と思っていたのに、それがウソだということでしょう。だから私たちは苦しみ、辛く涙を流すのです。しかしパウロは、この世界にそれらがあると証言します。それは人間のことではなく、人間として生きて下さったイエス・キリストのことです。確かに裏切られ、だまされ、どうしようもない立場に追い込まれてしまった時、そして恨みや妬みが胸をかきむしるような時、「イエス・キリストのことを心に留めなさい」と云うのです。
 パウロは獄中で死を目前にしながらも、死への恐怖を感じさせない、それでいて穏やかな愛に満ちた手紙を書いたので、フィリピの信徒への手紙は「白鳥の手紙」とも表現されます。私たちの人生は何があるかわかりません。ヨハネ12:24「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒の麦のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」とあります。哀しみは変わらない、しかし、その哀しみの闇に光を与えることの出来る方、それが神なのです。イエス・キリストなのです。イエスを思う時、そしてイエスの御心を生きる時、神の平和があなた方を包むのです。

2017年7月3日月曜日

2017年6月18日

2017年6月18日 主日礼拝説教要旨
「主の平和を生きる」 宇野稔牧師
フィリピの信徒への手紙4章2~7節
 先ず2人の名前が挙げられています。この女性たちはかつては共に歩んでいたが、意見の違いから教会を離れていたようです。でも、パウロはこの2人を「支えて上げて下さい」と願うのです。もう一度イエスの前に戻れるようにと語っています。それに続いて「喜びの勧め」が語られますが、主において喜びなさいと云うのです。即ち、主イエスは私たち一人ひとりを愛して下さっているその事実に立ちなさいと語っているのです。
 私たちは哀しみや辛さを数えることは得意です。悔しさや不安で、眠れぬ夜を過ごすことも多々あります。しかし、パウロは「患難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む!」(ロマ書5:3~4)と云ったのです。この違いは何でしょうか。それは、パウロは愛されているという事を確信していたという1点です。だから「主はすぐ近くにおられます!」と語るのです。主において喜ぶこと、喜びの力とは、患難を希望に変える力なのです。憎しみを赦しに変える力なのです。
 キリスト者とは、その喜びの力を神からいただいていて、そして主の愛において希望を持つのです(6節)。「思い煩うな」は招きの言葉です。信仰に立って大胆に愛し、赦し、善を行うのです。そして私たちをその大胆な決断へと押し出す力、それが「祈り」です。パウロはどのような祈りをしていたのか、「感謝、願い、打ち明ける」という単語です。
 祈りには、私たちの目の前にあるどうしようもない現実を変える力があります。それでも変わらないかもしれませんが、自分を捉えて放さない心の鎖を解き放つ力があるのです。そこに神の世界が開かれていくのです。
 主に愛されていることを喜ぶこと、神の力を祈り求めること、それによって私たちは人知を越える平和と出会うのです(7節)。私たちの思いを越える平安の中に置かれるのです。そのことによって群れは守られるのです。