ラベル (N03)ルカによる福音書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル (N03)ルカによる福音書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年1月10日土曜日

2026年1月4日

 2026年1月4日 降誕節第2主日礼拝説教要旨

「心配するな。大丈夫。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:41-52節

 日常生活を送っていますと、「わたし、大丈夫かなあ」と思えるときがあります。わたしが最近、体験した、「わたし、大丈夫かなあ」という体験は、古本を買った時の体験です。「ミレニアム4」という本の上下巻を買ったと思っていたのに、下巻二冊を買っていました。「同じ本を買ってくるなんて、わたし、大丈夫か」と思いました。でも「心配するな。大丈夫」と思い直して生きています。

 ユダヤのお祭りの過越祭に、イエスさまの家族はエルサレムで過ごすことにしていました。十二歳になったイエスさまも一緒に過越祭にエルサレムに来ています。祭りの期間を過しての帰り道、ヨセフとマリアはイエスさまがいないことに気がつき、慌ててさがします。三日の後、神殿の境内で学者たちの真ん中で話をしているイエスさまを見つけます。迷子になり、みつかったイエスさまはヨセフとマリアと一緒にナザレに帰ります。そのあとまあ穏やかに、マリアとヨセフに仕えて、イエスさまは大きくなっていきます。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、とても安心できる聖書の言葉です。「ああ、わたしもそんなふうに育ちたいものだ」と思えます。まあもうおじいさんになってしまっているので、育つも何もないわけですが、「すべての人がそんなふうに育ってほしいよね」と思えます。

 私たちの周りではいろいろな出来事が起こります。とても良い出来事もありますが、不安になるような出来事も起こります。しかしそれでも私たちの周りには、私たちのことを愛してくれる人たちがいてくれます。私たちを見守ってくださっている人たちがおられます。そのようにして私たちの世の中は回っていますし、そのようなやさしい社会のあり方を、私たちはこれからも大切にしていかなければなりません。

 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という聖書の言葉は、私たちに「心配するな。大丈夫」と呼びかけています。あなたの周りにはすてきな人たちがいる。その人たちはあなたのことを愛している。そして私たちには神さまがおられる。神さまはあなたのことを愛しておられる。あなたはイエスさまがそうであったように、これからも神と人とに愛されて、幸いな人生を歩んでいく。

 神さまは私たちのことを愛してくださり、そしてみんなでこころを通わせながら、神さまの平安のうちを歩むことを望んでおられます。


2025年12月27日土曜日

2025年12月21日

 2025年12月21日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「クリスマス、小さき私たちのために」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。

 詩人の工藤直子さんの詩に、「あいたくて」という詩があります。

【だれかに あいたくて なにかに あいたくて 生れてきたー

 そんな気がするのだけれど

 それが だれなのか なになのか あえるのは いつなのかー

 おつかいの とちゅうで 迷ってしまった子どもみたい

とほうに くれている

 それでも 手のなかに みえないことづけを

 にぎりしめているような気がするから それを手わたさなくちゃ

 だから あいたくて】

 わたしにあうために生れてきたという人がいるのではないか。そのように思えます。ただひとりの赤ちゃんだけが、永遠に、ずっと変わりなく、私たちにあうために生れてきてくださったのです。クリスマスは、このただひとりの赤ちゃんがこの世に生れたことをお祝いする日です。この赤ちゃんは、神さまの御子イエス・キリストです。イエスさまは「神さまの愛」ということづけを、手のなかににぎりしめて、私たちにそれを手渡すために生れてくださったのです。

 「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と聖書にありますように、イエスさまはこの世に居場所がない者として、お生まれになられました。イエスさまは小さき者として、この世にお生まれになられました。

 御子イエス・キリストは、小さな私たちにあうために、この世のお生まれになられました。イエス・キリストは、神さまからの愛を握りしめて、私たちのとどけるために、この世に生まれてくださいました。私たちに会うために生れてきてくださった方が、私たちにはいてくださいます。そして私たちはクリスマス、イエス・キリストのご降誕をお祝いするのです。

 そしてまた私たちも、イエス・キリストにあうために生れてきたのです。「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」と言われる、イエスさまに応えて、わたしたちもまた「あなたにあうためにわたしはこの世に生まれてきた」との感謝の思いを表わしたいと思います。


2025年6月6日金曜日

2025年6月1日

 2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨

「隠れたことを見ておられる神がおられる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 24:44-53節

 ウォルト・ホイットマンの詩に「わたしはアメリカが歌うのを聞く」という詩があります。この詩を読んでいると、現代のアメリカの労働者の人たちの気持ちがわかるような気がします。神さまの祝福のもと、機械工が、大工が、石工が、船員が、靴屋が、木こりが、母親が、少女が、若者が、誇りをもって歌を歌いながら働くことができるような社会であってほしい。素朴なアメリカの人たちはそんな気持ちをもちながら過ごしているような気がします。しかしそうした気持ちにアメリカ政府は政策として応えてくれなかった、自分たちの声を聞いてもらえなかったという気持ちがあるのだと思います。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまが十字架につけられたときは、イエスさまのことを信じることができずに逃げ出す弱い人たちでした。しかしよみがえられたイエスさまに出会い、イエスさまから赦され、祝福を受け、神さまを信じて新しく歩み始めます。

 私たちの時代、とくに20世紀から21世紀にかけて、神さまを信じて歩むということが、だんだんと薄らいでいった時代であるような気がします。そして個人主義的な傾向が強くなり、自分の力で生きているかのような錯覚に陥ることが多くなったような時代です。自己責任が強調されるようになり、運良く時代の勝者になった人が自分の力でそのようになったと錯覚することが多くなり、困っている人、悩んでいる人の声に耳を傾けることが少なくなった時代であると思います。そして分断がすすみ、二つに分かれて、極端な対立をするということが多くなりました。ひと言で言えば、「神を求めない時代」と言えるかも知れません。自分の力で生きていると錯覚しているわけですから、神さまを求めることはないでしょう。しかしそういう時代であるからこそ、「神さまを求めて生きる」ということが、とても大切なことであると思っています。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたがたに報いてくださる。神さまが私たちのことを知っていてくださる。神さまが私たちの声を聞いてくださると思えるとき、私たちは対立ではなく、愛によって互いにわかりあう道へと導かれていきます。憎しみではなく、愛によって生きていく道へと導かれていきます。互いに声を聞きあい、互いに尊敬しあって歩んでいくことができます。

 来週は聖霊降臨日、ペンテコステを迎えます。神さまの霊である聖霊を待ち望みつつ、神さまにより頼んで歩んでいきたいと思います。


2025年2月14日金曜日

2025年2月9日

 2025年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

「すなおにおなり」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 5:1-11節

 この聖書の箇所はイエスさまの弟子たちの召命物語です。しかしどうして弟子たちはこうも素直に、イエスさまにつき従うことになったのでしょうか。「すべてを捨てて」イエスさまに従うようになったのでしょうか。わたしは弟子たちが、暗い湖を見つめながら、自らの心の深淵に思いをはせる、自分の罪を深く顧みることがあったからだと思います。弟子たちは暗い湖をみつめるという日常の生活の中から、イエスさまの御言葉に出会ったのです。

 ペトロたちは「夜通し苦労する者」だったのです。ペトロたちは貧しい漁師として生きていました。夜通し苦労しても、何もとれないことがある。食べていかなければならないのに、食べていくための魚は十分には得られない。貧しさの中で、互いに口論することもあったでしょう。「あいつが悪いから、漁がうまくいかなかった」「なんであいつはいつもいばってるんだ」「ちゃんとだんどりをやっとけよ」「なんだその言葉遣いは」。そんなことが私たちの日常生活と同じように起こっていただろうと思います。

 そして暗い海をみつめながら、自らのことを思うのです。「なぜ自分はもっと思いやりのある言葉をかけることができないのだろう」「みんな貧しくて苦労しているのに、自分のことだけ考えて、うまくたちまわるのだろう」「どうして仲間のたらないところを、心優しくおぎなっていくということができないのだろう」「なぜいつもいらいらいらいらして、互いに傷つけあっているのだろう」。暗い夜の湖をみつめながら、正しく生きられない自分の罪を顧みていたのです。「神さま、わたしはほんとうにあなたから祝福されているのでしょうか」「神さま、わたしはあなたから愛されているのでしょうか」。暗い湖のうえ、舟に揺られながら、自分の揺れるこころと向き合っていたのだと思います。

 夜の暗闇の湖に揺られながら、自らの魂の深淵をみつめていたペトロやヨハネやヤコブは、イエスさまと出会い、イエスさまについていきました。私たちもまた罪と暗闇の湖に揺れながら、迷い、傷つき生きている者です。そんな私たちをイエスさまは「恐れるな」「そのままでいいんだ」「素直になりなさい」と招いてくださっています。イエスさまの招きに応え、イエスさまにつきしたがっていきましょう。


2024年12月21日土曜日

2024年12月15日

 2024年12月15日 待降節第3主日礼拝説教要旨

「マリアから生まれた御子」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 ルカ2:1-7節

 アドヴェントも第三週を迎え、クランツのロウソクも3つ、火がともっています。

 イエスさまが馬小屋でお生まれになるということは、それは神さまが定められたことでした。馬小屋で生まれると、どんないいことがあるでしょうか。イエスさまは馬小屋に生まれたので、お祝いにきたい人はだれでもお祝いにくることができたのです。羊飼いは夜、野宿をするという生活をしていました。ですからあまりきれいな格好をしていたわけではありません。羊飼いはあまりきれいな格好をしていなかったので、人々から嫌われていました。そんな羊飼いでありましたが、イエスさまは馬小屋で生まれたので、イエスさまの誕生のお祝いにくることができました。人間だけではありません。イエスさまは馬小屋で生まれたので、動物たちもイエスさまの誕生をお祝いにくることができました。

 黒人霊歌に「Mary had a baby」という歌があります。

 Mary had a baby       マリアはみどり子を授かった

 Mary had a baby, sweet child マリアはみどり子を授かった、美しい子を

 Mary had a baby       マリアはみどり子を授かった

 Mary had a baby       マリアはみどり子を授かった

 Mary had a baby, sweet child.   マリアはみどり子を授かった、美しい子を

 アメリカの黒人たちは自分たちと同じような、ふつうの少女であるマリアからイエスさまがお生まれになったことを喜びました。そしてイエスさまが苦しみ、悩み、呻いている自分たちのところにきてくださったことを喜びました。

 クリスマスの物語に出てくる人たちの多くは、力をもたない人たちです。マリアさんは少女ですし、羊飼いも人々から嫌われていた人たちでした。年をとった人たちや力をもたない人たちが多く、クリスマスの物語の中に出てきます。小さな者たちが互いに寄り添いながら生きているところに、神さまはイエスさまを送ってくださいました。

 イエス・キリストは弱くともしい私たちのところに来てくださいました。悩み、苦しみ、弱り果てる私たちのところに、イエス・キリストは来てくださいました。私たちがどんなに弱く小さな者であったとしても、イエスさまはいまも生きて、私たちに働いてくださっています。


2024年6月4日火曜日

2024年5月26日

 2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「名を呼ぶ神」 山﨑道子牧師

  ルカによる福音書 20:27-40節

 キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

 その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。


2024年4月19日金曜日

2024年4月14日

 2024年4月14日 復活節第3主日礼拝説教要旨

「未来を拓く」 内山宏牧師

  ルカによる福音書 24:36-49節

 イースターの賛美歌を一つ選ぶなら、こどもさんびかの「イースターのあさはやく」を選びます。各節にある「じゅうじかでしんだ/あのイエスさまが」という言葉が、共に生き、神の愛を伝えたのに、十字架の死によってもう会えない、「あの」イエス様が本当によみがえられたという驚き、喜びを表します。

 2番では、十字架の出来事に絶望し、エマオへ向かう二人の弟子の物語が歌われます。共に歩み始めた復活の主に、二人は心を塞がれ気づきませんが、食事の席で「あのイエスさま」に気づきます。この物語に続くのが今日のみ言葉です。二人の弟子が、使徒たちにこの出来事を話していた時に、復活の主が現れます。「あなたがたに平和があるように」と挨拶され、御自身であることを示されますが、弟子たちはうろたえます。その弟子たちにイエス様がなさったことがおもしろい。「何か食べ物があるか」と言われ、差し出された魚を食べられました。おいしそうに魚をむしゃむしゃと食べるイエス様を想像します。

 イエス様のユーモアです。ユーモアは、人が行き詰まった時に、肩の力をぬき、本来の力を取り戻す力があります。昔読んだ話ですが、野球の試合が進み、一発逆転されそうなピンチを迎えます。コントロールを失ったピッチャーに、監督はタイムを要求して伝令を送り、一言伝えます。ピッチャーは落ち着きを取り戻し、危機を乗り越えます。みんなが不思議がって監督に聞くとこう言ったそうです。「たかが野球じゃないか」。叱咤激励ではなく、この一言がピッチャーの力を取り戻させます。これがユーモアです。イエス様のユーモアがこのように戸惑う弟子たちを回復させます。

 この物語は、10章の「七十二人を派遣する」という話を念頭に記されたと言われ、言わば復活の主がそれを再現したことになります。ここに二つの意味があります。一つは、十字架の出来事によって破れた関係を取り戻し、共同性を回復することです。第二は、回復された共同体がどこに向かうかを示すことです。弟子たちを宣教へと送り出す備えです。過去を修復し、未来を拓きます。

 もう一つ、復活の主と再会しながら、うろたえる弟子の姿に私は慰めを感じます。人生においても、戸惑い、恐れ、うろたえることがあります。いつも元気とはいきません。けれども、それで良いと思います。イエス様は私たちにも弟子たちと同じようにしてくださるからです。み言葉によって、あるいは他者の言葉や行動かも知れませんが、それぞれにふさわしいあり方で、私たちを回復し、未来も拓いてくださいます。弟子たちの物語は、私たちの物語です。


2024年2月24日土曜日

2024年2月18日

 2024年2月18日 受難節第1主日礼拝説教要旨

「罪人らしく連帯しようよ」 熊谷沙蘭牧師

 ルカによる福音書 16:1-13節

 神学者のケネス・E・ベイリーはこの箇所の直前にある「放蕩息子のたとえ」と重ねて読むことができると解釈しています。「不正な管理人のたとえ」と「放蕩息子」にはいくつもの共通点があります。1つ目は身勝手な人が登場して、それを驚くほど寛大に受け止める人がいること。2つ目はお金を浪費する人が登場すること。3つ目は、お金を浪費した人はそのことを父や主人に受け止めてもらうことで新しい道が切り開かれていくこと。4つ目は、お金を浪費した人の運命は父や主人が握っており、父や主人の憐れみにすがることによって生きることができていることです。

 このたとえは、主人が神を表し、管理人が人間を表しています。管理人は主人のお金を横領して好き勝手している姿は、神から与えられているものを好き勝手して生きる人間の姿です。断罪される時が来た時に、不正な管理人は真剣に生き残る道を考えました。その生き残りを賭けた方法が他者の借金を棒引きするという驚くべき方法でした。借金は神への罪を表します。好き勝手してきた人間は生き残るために、他者の罪を勝手に赦すという、他者と共に連帯して生きていく方法を取るのです。決して褒められたやり方ではないですが、好き勝手な生き方をしてきた人間がここでようやく、誰かと共に生きる道を探し出すのです。主人(神)はその方法を褒めました。罪深い人間の打算的な行動であっても、他者と共に生きるという道を神は褒められたのです。

 私たちが神を信じて生きることも、不正な管理人と同じではないでしょうか。「隣人を愛せよ」と言われるイエスの言葉を、どこか打算的に自分の保身を計算しながら行おうとします。また自分も罪深い人間でありながら、人の罪を赦してあげようとします。私たちはどうやってもイエスの憐れみにすがらなければ、信仰を持って生きていると言える人間ではないのです。私たちが誰かと共に生きるということは、打算も身勝手さも引きずりながら、それでも神様、互いを助け合い生きていきますよと神の前に立つことなのではないでしょうか。美しくも綺麗でもないこの姿を神は褒められています。そこにこそ神の救いと憐れみが表れているのです。

 罪人であることは開き直ることでも、諦めることでもありません。互いが神・イエスの憐れみを得て生きるということなのです。信仰生活とはそのことを通して他者と連帯していくことなのです。


2024年1月5日金曜日

2023年12月31日

 2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「すべての人の救いを見る」 山下毅牧師

  ルカによる福音書 2:21-28節

 クリスマスから数えて8日後の大晦日の日を迎えています。本日の聖書の箇所は、神殿で幼な子であられるイエス・キリストと主を待ち望む熱心な信徒であるシメオンが出会う場面です。この歌は<シメオンの賛歌>と呼ばれます。

 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たからです。これは万民のまえに整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

 神学者ヘンリ・ナウエンは、<シメオンの賛歌>、イエス・キリストとの出会いは大きな救いの出来事である。老人にありがちな悲観的な見方、気の滅入るような物の見方を打ち砕いてくれます。老いの訪れは、目も耳も開かれ、光に向かう道になる、と述べています。

 何故シメオンはこのような救いの確信を得たのでしょうか。それは、「聖霊」によって、神の霊に捕らえられ、神の霊によって導かれ、神の霊に支えられ、自らの救いのために、イスラエルの救いのために、全世界の救いのために、熱心に祈っていたのです。救いを見るまでは、自分は死ぬわけにはいかないと言う祈りをささげていたのです。 

 祈りは厳しい仕事です。祈りは暇人のやることではないのです。教会に生きる者皆がやることです。いやここにこそ教会の姿があります。神から救われなければ、人間は自分を救うことは出来ません。どんなに知恵があっても、だんなに科学が発達しても、救われる道はないのです。

 シメオンは幼な子を見ました。幼な子イエスという、目に見える事実となったのです。神の聖霊に導かれて、心を開かれたわれわれは、他の人々の見ない神の救いを幼な子イエスの中に見るのであります。――信じてこれを見るものにとっては、ここにシメオンが主ご自身を抱いて与えられたのと同じ、幼な子イエスの恵みにあずかるのであります。私達は、聖霊のみちびくままに、深い祈りに生きたいと思います。その祈りとひとつとなった愛に生きたいと思います。そしてその祈りに答えて、幼な子イエスがわれわれの手に与えられた事実を、年老いていようが、病んでいようが、どんな苦労の中にあろうが、信仰をもって堅く受けとめたいと思います。そして日本の救いのために、世界の救いのために、熱い祈りにひたすら走り続けたいと思います。


2023年12月28日木曜日

2023年2月24日

 2023年12月24日 待降節第4主日礼拝説教要旨

「主の平和の年がやってくる」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 2:1-7節

 クリスマス、おめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

 わたしの出身大学の逍遥歌(学生歌のようなもの)の三番目の歌詞は、「ああ南溟なんめいの曉に 無念の涙胸に秘め 今永劫に散りゆきし 旅人ありと我は聞く」というものです。「南方の海、明け方に、無念の涙を胸に秘めて、もう帰ることのなく散っていった、旅人がいると、わたしは聞いた」という歌詞です。いまも私たちの世界では、ウクライナとロシアとの戦争のために、パレスチナのハマスとイスラエルとの戦争のために、ペンの代わりに銃をもって戦っている学生がいます。戦争は終わりそうもなく、私たちもこころを痛めつつ、このクリスマスを迎えています。

 ヨセフとマリアは為政者によって人生を翻弄されるふつうの人です。多くの人々は為政者たちの都合によって、右往左往させられます。とくにイエスさまの時代は、民主主義というようなことではないわけです。命令は上から突然おりてきます。「住民登録せよ」「これこれの税金をおさめよ」。ヨセフもマリアも、その命令に翻弄されつつ、生きていました。

 「飼い葉桶に寝かせた」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますように、イエスさまは居場所のない民として、その歩みを始められました。イエスさまは生まれてまもなく、難民として、エジプトに逃げることになります。ちょうどパレスチナのガザ地区の人々が、エジプトの方へ逃げようとしていたように、イエスさまもエジプトに逃げていくのです。聖書は、イエスさまがうまれたときから、為政者によって翻弄され、危険な目にあったり、逃げ惑う人々と同じことを経験された方であることを、私たちに告げています。イエスさまは小さき者の苦しみを共にされた方でした。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争。私たちの世界は争いに満ち、暴力によって自分の思いどおりにすることでもって、世の中を支配しようとする力に満ちています。そうしたなかにあって、私たちは私たちの救い主イエス・キリストが、平和の君として、私たちの世にきてくださったことを、しっかりと受けとめたいと思います。クリスマス、主の平和の年が来ますようにと祈りたいと思います。新しい年が、神さまの愛に満たされた年となりますように。神さまの平和が来ますようにとお祈りいたします。


2023年10月26日木曜日

2023年10月22日

 2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「天を仰ぎつつ」 小﨑眞牧師

  ルカによる福音書 19:11-27節

 オープンチャペルにお招き頂きありがとうございます。今朝の聖書日課で与えられている「『ムナ』のたとえ」の話は、自己都合に閉ざしている現代の私たちに対して洞察に富む示唆を与えます。マタイにも「『タラントン』のたとえ」という似た話があります。理解を深めるために、今日の日本社会の貨幣価値に転換すると1ムナは約80万円となり、1タラントンは4800万円です。ゆえにルカは「ごく小さなものにも忠実」と語ります。また、マタイでは異なる額が託され、ルカは全員に同額でした。

 良い僕は、「『あなたの1ムナ』が儲けました、稼ぎました」と、僕自身の資質や判断から解放された視座(ムナが主語、同額の委託)を提供します。さらに「ごく小さな事」への僕の忠実さ(信頼、信仰と同様の言葉)が評価されます。一方、悪い僕は、自分自身の判断や思い(恐怖や不安)が優先され、何もしていません。「主人が厳しい方」との自己判断に縛られ、身動きが取れない状況(自己保身)へ陥っています。

 さて、私たちはこの物語から何を学ぶのでしょう。「1ムナを布に包んでいる僕」は私たち一人ひとりの姿であるのかもしれません。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである(カール・ヤスパース)」との警鐘に耳を傾ける必要があるのかもしれません。教会を教会の上に築くのではなく、教会を外へと委ねることが期待されています。その意味でのオープンチャーチでありたいものです。

 ある哲学者は、私たちを他者から切り離され独立した人間存在(Human being)として捉えるのではなく、関わりの中で変容・変質し続けて「人間になる(Human becoming)」と表現します。さらに他者と共に関わり相互に変容・変質する意味を込めて、Coとの接頭語をつけた「Human Co-becoming」という人間のあり方を提案しています(中島隆博『人の資本主義』参照)。

 私たちは共に変わることのできる存在です。教会自体を「包んだ布(自己都合)」の中から解放していくことが期待されています。私たちの判断基準に縛れ、自身の世界にのみ心を閉ざすのではなく、むしろ、天を仰ぎ、主へと拓かれたいものです。その只中にこそ、「Human Co-becoming」さらには「Human Co-creating」という新たな人間の創造(主の御業)が現出します。絶望と思える夜の帳や雑踏に紛れた寂寥感や孤独の只中にこそ働く「主の力」を確信する歩みへと呼び出されたく思います。


2023年10月20日金曜日

2023年10月15日

 2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「見えないけど、感じる神さまの愛」 小笠原純牧師

ルカによる福音書 17:20-37節

 『絶対音感』という本で有名な最相葉月は、2022年10月に、『証し 日本のキリスト者』(角川書店)という本を出しています。最相葉月は、インタビューにあたって何度も聞いた質問というのがあります。【その一つは、自然災害や戦争、事件、事故、病のような不条理に直面してなお、信仰はゆるぎないものであったかということ。神を信じられないと思ったことはないのか。それでも信じるのはなぜかということ】。

 イエスさまの時代、世の終わり・終末が、いつ・どのような形で来るのかということは、とても不安なことでした。ですからファリサイ派の人も、世の終わり・終末はいつ来るのかと、イエスさまに尋ねました。しかしまあそれから2000年ほどの年月がたっているわけです。世の終わり・終末は来るけれども、それはいつ来るか、どのような形で来るのかということは、わからないのです。でも同時に、明日来ないということでもないわけです。いつ来るかわからない。それはイエスさまの時代から変わらないことです。

 世の終わり・終末に事柄に関わらず、私たちは不安がつきまとう人生を生きています。あるときは信仰のゆらぎを感じる時もあります。神さまはわたしのことを忘れておられるのではないか。神さまはわたしを見捨てておられるのではないか。そのような思いになるときもあります。

 しかしまた私たちは自分が神さまの救いの中に生きていることを感じます。私たちは神さまの愛を感じて生きています。私たちの都合の良いように、神さまが働いてくださるというわけでもありません。現実の生活の中で、私たちは右往左往させられ、不安になったり、悩んだりもします。しかしそうした中にあっても、私たちは神さまの愛を感じて生きています。「ここにある」とか「あそこにある」というように見えるわけではないので、説明をするのがとてもむつかしいわけですけれども、私たちは弱い私たちを支え、導いてくださる神さまの愛を感じて生きています。

 信仰とはほんとに不思議なものだと思います。いろいろな出来事にあい、もちろん信仰がゆらぐということもあるわけです。しかしそれでも、私たちは神さまの愛を感じて歩んでいます。わたしは、それはとても幸いなことであり、そしてとても平安なことだと思います。

 ぜひ「わたしも共にそのような歩みに導かれたい」との思いをもつ方がおられましたら、私たちと一緒に、神さまを信じて、共に歩んでいくことができればと思います。


2023年10月13日金曜日

2023年10月8日

 2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「ごめんね。いいよ。謝罪と赦し。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 17:1-10節

 いろいろな組織が不祥事を起こし、謝罪会見を行います。やはり悪かったことをしっかりと謝罪し、誠実に対応していくということを大切にする社会であったほしいと思います。ウソやごまかしが幅を利かすようになると、私たちの社会はとめどもなく衰退していくだろうと思います。

 今日の聖書の箇所は「赦し、信仰、奉仕」という表題のついた聖書の箇所です。赦し、信仰、奉仕という個別のことが書かれてあるわけですが、しかし赦し、信仰、奉仕ということを通して、クリスチャンとしての生き方、どのように神さまに向き合いつつ、私たちが私たちの人生を歩んでいくのかということが書かれてあります。

 私たちはいつのまにか自分の力で生きているような気持ちになってしまいます。「わたしはこんなにしっかりと生きているのに、あの人はどうして失敗したり、罪を犯したりするのだ。怠け者だからだ。悪い奴だからだ」。そうした思いになり、人の失敗や罪を赦すことができないという思いが強くなります。しかし自分の力で生きていると思って高慢になっている私たちに、弱い立場の人をつまずかせるようなことをしてはいけない。またあなたに対して罪を犯した人を赦してあげなさいと、イエスさまは言われます。

 また自分の力で生きていると思っている私たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と願うときに、「あなたの信仰が深いとか、信仰熱心だということが大切なのではなく、信仰の弱いあなたのことを愛してくださっている神さまの憐れみに気づくことが大切なのだと、イエスさまは言われたのです。

 そして神さまが私たちに託してくださった能力を生かして、神さまの前に立つ者として、仕える生き方をしなさいと、イエスさまは私たちに言われました。高慢な思いになるのではなく、あなたに託された良き業を誠実に行なっていくような生き方でありなさいと、イエスさまは言われました。

 神さまがイエス・キリストのゆえに、私たちを赦してくださり、そのイエスさまが私たちに言われるのです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。私たちは欠けたところも多いですから、失敗をしたり、傷つけあったりすることもあります。ですから補い合い、赦しあい、支え合って生きていきます。そしてそうした誠実な私たちの歩みを、神さまは導いてくださり、支えてくださいます。


2023年10月7日土曜日

2023年10月1日

 2023年10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「やっぱり世のため人のため」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 16:19-31節

 「僕がまだ年若く、こころに傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えたくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件をあたえられているわけではないのだと」」(P9)(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳『グレート・ギャツビー』、中央公論新社)。

 死は貧しい人にもお金持ちにも、等しく訪れます。お金持ちだからと言って、死なないわけではありません。ラザロはこの世では貧しく大変な生活であったわけですが、死んだあとは天使たちによって天上の宴会に連れていかれ、そしてアブラハムのすぐそばにくることになりました。お金持ちも死にました。たぶんこの世で丁重に葬られただろうと思います。しかし死んだあとお金持ちは陰府でさいなまれることになります。

 ユダヤ教では「ヘセドを施せ」ということが、よく言われます。「ヘセド」というのは「慈しみ」ということです。慈愛というような意味です。箴言11章17節には「慈しみ深い人は自分の魂に益し、残酷な者は自分の身に煩いを得る」という言葉があります。この「慈しみ」というのが「ヘセド」です。ユダヤの人々は小さい頃から「ヘセドを施せ」ということを言われながら成長します。

 『天国に行くための8つの知恵』という本の中で、ハロルド・S・クシュナーは恩師のヘッシェルの言葉を引用しています。「恩師アブラハム・ジョシュア・ヘッシェル先生の次のような言葉をよく思いだします。「若い頃は賢い人を尊敬しました。しかし年齢を重ねていくにつれて親切な人を尊敬するようになりました」」(P3)。わたしも、なんとなく自分の中でそうした気持ちが出て来たような気がします。そして賢い人間にならなくても、親切な人、良き人でありたいと思います。

 小さな良き業に励むことは、私たちが悪人に成り果てることを阻んでくれるのです。だから「ヘセドを施す」のです。慈しみを大切にして生きるのです。

 世の人から笑われるかも知れませんが、私たちクリスチャンは「やっぱり世のため人のため」という心意気で生きていきたいと思います。私たちは一人で生きているわけではありません。私たちは神さまから命をあたえられ、そして周りの人々に支えられて生きています。小さな善き業に励み、神さまの御前に誠実に生きていきましょう。



 

2023年9月22日金曜日

2023年9月17日

 2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「抱きしめられたい夜もある」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 15:11-32節

 30、40代の女性に人気のあるコラムニストのジェーン・スーは、女性はみな自分のなかに「小さな女の子」をもっているのだと言います。そうしたことはわたしにも思いあたります。ただただ切なかったり、悔しかったり、いやだったりする気持ちを、大人であるわたしは表面上は隠すわけですが、でもわたしの中の「小さな男の子」は、「いやだ。悲しい。くやしい」と泣き声をあげるのです。

 「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。レンブラントの絵に、「放蕩息子の帰還」という絵がありますが、この聖書の箇所が描かれています。ひざを折って悔い改めている放蕩息子の肩に、お父さんが手を置いて、憐れみ深く抱きしめている絵です。

 傷つき、疲れ果てて、倒れそうなとき、だれしも「抱きしめられたい」と思います。放蕩息子はお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。そしてまた放蕩息子のお兄さんも、お父さんに抱きしめてもらいたかったのです。父のもとを離れず、父のそばにいて、一生懸命に父のもとで働いていた。父の言いつけをすべて守るような人だったので、父もあまり気にしていなかったわけですが、放蕩息子のお兄さんはお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。しかし放蕩息子のお兄さんは、そのことをお父さんに言うことができず、逆にお父さんに対して、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と叫ぶのです。小さな男の子のように。

 人はだれしも「抱きしめられたい夜がある」のです。放蕩息子もそうですし、また放蕩息子のお兄さんもそうなのです。そして私たちにも抱きしめられたい夜があるのです。人に傷つけられたり、また人を傷つけてしまったり。人に辛くあたったり、人から辛くあたられたり。最愛の人を天に送ったり。どうしようもなくさみしくて、悲しくて、だれかに抱きしめられたいと思う夜があるのです。

 そして私たちには、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられるのです。身勝手な放蕩息子を許して、抱きしめたように、私たちの悲しみや辛さに寄り添ってくださり、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられます。悲しみの中にある私たち、さみしさの中にある私たちの傍らにいてくださり、私たちを慰め、支えてくださる神さまがおられます。安心して、神さまの祝福のなか歩んでいきましょう。


2023年9月15日金曜日

2023年9月10日

 2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「だめな人だけど、でもいいよそれで」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:25-35節

 アブサロムはダビデ王の子どもですが、ダビデ王に反旗をひるがえし、ダビデ王を殺そうとしました。アブサロムは結局、ダビデ王の兵に負けて、逃げる途中に木に宙吊りになり、ダビデ王の部下のヨアブによって殺されます。アブサロムが死んだということを聞いて、ダビデ王は嘆くのです。自分を殺そうとした息子であるわけですが、それでもダビデ王はアブサロムのことを愛さずにはいられないのです。

 このダビデ王のアブサロムに対する気持ちは、私たちに対する神さまの気持ちに似ています。神さまに愛されるのに私たちはふさわしくないわけですが、しかし神さまは私たちを愛してくださっています。神さまはだめな私たちを愛さずにはいられないのです。

 イエスさまは「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」というたとえの中で、なかなかきびしいことを言われます。イエスさまの弟子になるためには、1)自分の十字架を背負ってついてくる。2)途中でやめない。3)自分の持ち物を捨てる。そんなことを言われると、ちょっと「わたしには無理かも」というふうに思えます。どうみても自分がこの条件を満たすことはできそうもありません。それではイエスさまのお弟子さんになることはできないのか。

 使徒パウロは「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」と言いました。人は何かできるから義とされるのではありません。何もできなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。何もできないけれども、神さまの愛と憐れみによって、私たちは罪赦され、そしてクリスチャンになるのです。この「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というのが、いわばクリスチャンになる裏口です。しかしこの裏口こそが、ある意味、表口であるのです。

 弱さや高慢さのゆえに罪を犯す私たちのために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださったのです。イエスさまは「自分の十字架を背負ってついてきなさい」「途中でやめてはだめです」「自分の持ち物を捨てて、わたしについてきなさい」と厳しいことを言われます。でも結局、イエスさまは私たちに言われます。「だめな人だけど、でもいいよそれで」「わたしのところにやってきなさい」。

 イエスさまの招きに応えましょう。イエス・キリストこそわたしの救い主と告白し、そして神さまの深い愛によって祝福され、こころ平安に歩んでいきましょう。


2023年9月9日土曜日

2023年9月3日

 2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「幸いなあなた。こちらへどうぞ。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:7-14節

 1990年代にフェミニスト経済学が登場し、経済学においても、いままでの学問体系のなかで抜け落ちていたことに対する問い直しがなされています。このカトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を訳した、高橋璃子さんは「訳者あとがき」にこう記しています。【私たちが生活できるのは、そして食事を食べられるのは、アダム・スミスのいう「自己利益の追求」のためだけではありません。家事労働があり、人とのふれあいがあり、ケアがあってはじめて、社会は機能するのです。経済人が目を背けてきた「依存」や「分配」にここで光が当てられます】(P.267)。

 イエスさまも一般的に社会で考えられていることとは違うことを言われます。人は自分の都合とか、自分の利益ということで物事を考えるということがあります。しかしイエスさまは「神さまはどう思われるかな」という視点で、物事を考えられて、そして私たちに生きる道を教えてくださいます。

 イエスさまが話された「客と招待する者への教訓」という話は、前半の話など、ちょっと処世術ぽい話で、「現代マナー講座」というような話で出てきそうな話です。ただ一般庶民と違って、メンツを重んじる人たちもいるわけです。そうした人たちにとっては、やはり上席・末席の問題はなかなか大きな問題であったのでしょう。処世術ぽい話はともかくとして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということに気をつける必要があったのだと思います。

 人がどのように見ているのかということではなく、「神さまがどのようにご覧になっておられるのか」ということを大切にしなさいと、イエスさまは言われるのです。謙虚な思いになって、いろいろなことを見直してみるということは大切なことです。私たちはついつい、この世のことだけに目がいってしまいます。しかし私たちによきものを備えてくださるのは、神さまです。イエスさまは「あなたは幸いだ。こちらにどうぞ」と、私たちに良き席を整えてくださっています。この世のことだけに目がいってしまい、上席と言われるその席に居座っていると、とんでもないことになるから、こちらにどうぞ。あなたの謙虚でやさしい振る舞いを、神さまはみておられるから、こちらにどうぞ。「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

 神さまの愛のうちを、謙虚に歩んでいきましょう。神さまは私たちを祝福し、私たちに良きものを備えてくださいます。




2023年9月2日土曜日

2023年8月27日

 2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「私たちにもサマリア人はいるのか」 金鍾圭牧師

  ルカによる福音書 10:25-37節

 イエスの「善きサマリア人のたとえ話」は、イスラエル人とサマリア人の深い対立を背景にしている。北イスラエル王国滅亡後、首都サマリアでは、アッシリアの政策による雑婚が行われた。その結果、サマリアを含む元北イスラエル王国の人々は、血統の純粋を失い、誤った信仰を歩み始めた。さらにサマリア人は、200年後バビロン捕囚から戻った南ユダヤ人たちのエルサレム神殿再建を妨害しながら敵意を表し、ユダヤ人たちもこのようなサマリア人を嫌うようになったのである。これをきっかけで、ユダヤ人はサマリア人を差別し、両者の歴史的な対立が根深く続いていた。イエスは、このたとえ話を通じて「隣人愛」の範囲を問い直しているのではないのか。

 このたとえ話は、ある律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことをきっかけに語られる。イエスと律法の専門家の問答は、律法を軸に展開される。そして「では、わたしの隣人とはだれですか」との律法の専門家の問いかけに、イエスは「善きサマリア人のたとえ話」を語り始めた。たとえ話では、襲われた人を助けたのは、ユダヤ人が憎んでいたサマリア人だ。律法を厳守していた祭司やレビ人は、襲われた人を無視して通り過ぎたことが描かれている。

 普段サマリア人を見下していたユダヤ人は、このたとえ話に衝撃を受けたに違いない。この話は、律法の専門家だけでなく、イエスの弟子たちにも向けられていると思う。ルカによる福音書9章51節を見ると、弟子たちはイエスと共にエルサレムに向かうため、サマリアを通ろうとした際に、村人に歓迎されず、別の村に行ったと記されている。この経験によって、弟子たちはサマリアに対する怒りを感じていた。イエスは、このたとえ話を通じて、目の前にいる律法の専門家のみならず、ご自身の弟子たちにも「隣人愛」の真の意味を理解させようとしたのではないかと考えられる。

 イエスは「自分側の人」だけでなく、他者や敵に対しても愛を表すべきであることを示している。イエスの十字架の死は、すべての者に対する神の慈しみ深い愛である。私たちも「隣人愛」を振り返り、自分の隣人は誰なのかを考え直す良い機会と捉えるべきなのだ。差別や偏見に囚われず、イエスの教えを実践することで、より豊かな人間関係と愛の共同体を築いて歩んでいきたい。


2023年8月19日土曜日

2023年8月13日

 2023年8月13日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「おごれる人も久しからず」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 12:35-48節

 「おごれる人も久しからず」は、平家物語の冒頭の一節です。近代外科学の開祖と言われるアンブロアズ・パレという人は、謙虚な人だったと言われています。パレが残した有名な言葉は「我、包帯し、神、これを癒やしたもう」という言葉です。「よくなりましたね」「はい、先生のおかげです」「いえ、私は包帯をしただけです。あなたを治したのは神さまですよ」。そのようにパレは患者に接していたようです。

 世の終わり・終末のときに備えてちゃんとしている忠実で賢い管理者である僕は、神さまから大きな祝福を受けるわけですが、そうではなくいいかげんなことをしている不忠実な管理者は、神さまから罰せられるのです。神さまは管理者である僕にいろいろなことをまかせているわけです。ある意味信頼されているのです。だからその信頼に応えなければならないのです。

 神さまから託された管理者として、してはいけないことというのは、「下男や女中を殴ったりしてはいけない」ということです。「下男や女中を殴ったりしてはいけない」というのは、結局、「謙虚になりなさい」ということなのです。力で人を支配しようとするのは、それは神さまの目からすると、それは異常なことなのです。自分のことを考えられないくらい高いところに置くからこそ、力で人を支配することができるのです。暴力的であったり、力で人を支配しようとすることを、神さまは強く戒められ、「謙虚になりなさい」と言われるのです。

 讃美歌1編の11番の「おごらず、てらわず へりくだりて わが主のみくらと ならせたまえ」という歌詞は、なかなか印象的な歌詞です。私たちクリスチャンは、「終末を見つめて、きちんと生きる」ということが大切です。周りの人々から誉めたたえられるような生き方でなくても、神さまとの関係を正しく保って、きちんと生きるのです。私たちは罪人ですから、正しく生きることはできないかも知れません。それでもやはり神さまの前に立つ一人の罪人として、きちんと生きるのです。世の終わり・終末に、神さまの前に立つということを、心に留めて、きちんと生きるのです。できなかったことはできなかったこととして、神さまにご報告し、だめだったことはだめだったと、神さまにご報告する。そして神さまに守られ、神さまに愛されて、人生を歩むことができた幸いを、心から感謝したいと思います。

 「おごらず、てらわず へりくだりて」、クリスチャンとしての良き人生を歩みましょう。


2023年8月11日金曜日

2023年8月6日

 2023年8月6日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

 「隣人を自分のように愛しなさい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 10:25-42節

 ことしは平和聖日に、「戦争プロパガンダ展」を計画いたしました。私たちは過去の戦争を振り返りながら、自分たちが戦争に駆り出されて行くことのないようにしたいと思います。

 「わたしの隣人とはだれですか」という問いに対して、イエスさまは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と、律法の専門家にたずねています。隣人の定義はどうだこうだということではなく、「人は隣人になる」のだと、イエスさまは言われます。「隣人はだれか」ではなく、「隣人になる」のだ。隣人とはそういうものだ。隣にいる困っている人が隣人で、その人をあなたが助けて、その人の隣人になるのだと、イエスさまは言われました。

 私たちは「永遠の命を受け継ぐためには」「隣人とは」「困っている人たちを助けたい」「世界の平和のために」というようなことを話しながら、実際は家族のなかで、「あいつ、どうよ」というようなことを繰り返します。

 マルタはマリアの態度がいやでした。イエスさまがお家にやってきたので、マルタはイエスさまをもてなすために一生懸命に働いています。しかしマリアはイエスさまの足もとに座って、イエスさまの話を聞いています。それでマルタは「あいつ、どうよ」と思います。そしてイエスさまに「なんとか言ってください」と頼みます。

 いいことをしていると思っているときには、人は人のことを裁きがちです。「あいつ、どうよ」と思います。「わたしが一生懸命に、イエスさまのおもてなしをするために働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしがこんなに世界平和のために一生懸命に働いているのに、『あいつ、どうよ』」。「わたしが一生懸命にイエスさまの話を聞いているのに、『あいつ、どうよ』」。

 イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。マルタがそうであったように、身の回りのことでも、私たちはついつい腹を立てて、自分の心の中を憎しみまみれにしてしまうことが多いです。「あいつ、どうよ」「どうして、あの人、あんなことしているの」。心の中がついつい憎しみや怒りに支配されてしまうということがあります。しかしイエスさまは「愛しなさい」と言われました。あなたは憎しみに支配されてしまっているけれど、でも大丈夫。わたしの愛をあげるから、あなたも愛するようになりなさい。

 神さまの愛に満たされて、平和を実現する人として、隣人を愛し、神の子として歩んでいきましょう。