2026年9月27日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨
「イエスさまと共に祈る」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 14:26-42節
耕治人の『そうかもしれない』(講談社)は老々介護についての私小説です。耕治人のおつれあいが認知症になり、耕治人はおつれあいを介護することになります。耕治人はトイレで倒れ、意識不明になりながらも、自分がおつれあいの世話をしなければならないという一心で、元気になろうとします。そのことを耕治人は、「呆ほうけた家内が、私を救ったのだ」と言っています。
私たちは自分が優位な立場に立っているかのように思って、「助けてやらなければ」「教えてやらなければ」「救ってやらなければ」と思ったりするわけですが、しかし実際はそうではないというようなことがあります。人は支え合って生きているのです。弱さを抱え、そして弱さを共にしながら、人は支え合って生きています。
イエスさまは自分を裏切る弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、弟子たちに目を覚まして、共に祈っているようにと言われました。裏切る弟子たちと共に祈るイエスさま。それがイエスさまなのです。イエスさまは言っておられます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ福音書2章17節)。
私たちは罪人だからこそ、イエスさまに招かれ、そしてイエスさまと共に祈るのです。弟子たちはイエスさまを裏切りました。イエスさまを裏切るようなだめな人間だからこそ、弟子たちはイエスさまと共に祈らなければならないのです。
弟子たちはゲッセマネでイエスさまと共に祈ることができなかったことを、後悔したと思います。なぜイエスさまと共に祈ることができなかったのか。しかし弟子たちは祈れなかったけれども、弟子たちはイエスさまによって祈られたのです。そして弟子たちにとって大切なことは、弟子たちが祈ることができたということではなく、イエスさまによって祈られたということなのです。
私たちもまたイエスさまによって祈られています。私たちは祈るとき、祈られているのです。私たちが祈るとき、イエスさまは私たちのために祈っておられるのです。私たちはイエスさまと共に祈ります。私たちは罪人として招かれ、そしてイエスさまと共に祈ります。私たちはイエスさまの祈りによって守られ、イエスさまと共に祈るのです。