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2026年10月2日金曜日

2026年9月27日

 2026年9月27日 聖霊降臨節第19主日礼拝説教要旨

「イエスさまと共に祈る」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:26-42節

 耕治人の『そうかもしれない』(講談社)は老々介護についての私小説です。耕治人のおつれあいが認知症になり、耕治人はおつれあいを介護することになります。耕治人はトイレで倒れ、意識不明になりながらも、自分がおつれあいの世話をしなければならないという一心で、元気になろうとします。そのことを耕治人は、「呆ほうけた家内が、私を救ったのだ」と言っています。

 私たちは自分が優位な立場に立っているかのように思って、「助けてやらなければ」「教えてやらなければ」「救ってやらなければ」と思ったりするわけですが、しかし実際はそうではないというようなことがあります。人は支え合って生きているのです。弱さを抱え、そして弱さを共にしながら、人は支え合って生きています。

 イエスさまは自分を裏切る弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われ、弟子たちに目を覚まして、共に祈っているようにと言われました。裏切る弟子たちと共に祈るイエスさま。それがイエスさまなのです。イエスさまは言っておられます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである(マルコ福音書2章17節)。

 私たちは罪人だからこそ、イエスさまに招かれ、そしてイエスさまと共に祈るのです。弟子たちはイエスさまを裏切りました。イエスさまを裏切るようなだめな人間だからこそ、弟子たちはイエスさまと共に祈らなければならないのです。

 弟子たちはゲッセマネでイエスさまと共に祈ることができなかったことを、後悔したと思います。なぜイエスさまと共に祈ることができなかったのか。しかし弟子たちは祈れなかったけれども、弟子たちはイエスさまによって祈られたのです。そして弟子たちにとって大切なことは、弟子たちが祈ることができたということではなく、イエスさまによって祈られたということなのです。

 私たちもまたイエスさまによって祈られています。私たちは祈るとき、祈られているのです。私たちが祈るとき、イエスさまは私たちのために祈っておられるのです。私たちはイエスさまと共に祈ります。私たちは罪人として招かれ、そしてイエスさまと共に祈ります。私たちはイエスさまの祈りによって守られ、イエスさまと共に祈るのです。


2026年9月25日金曜日

2026年9月20日

 2026年9月20日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「赦しの杯を受けて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 14:10-25節

 クリスチャンには、二つの幸いが与えられています。一つは創世記の出てくる天地創造の際の幸いです。神さまは天地を創造され、そして良しとされます。私たちの世界は神さまの祝福のもとに造られている。そして私たち一人一人も神さまが良しとされる者として造られているということです。これが一つ目の幸いです。

 そしてもう一つの幸いは「赦しの幸い」です。私たちは赦された者として生きているということです。私たちは神さまの前に良くないことをします。本来、神さまの前に赦され得ない者として立っているということです。神さまの前に赦され得ない者が、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって赦される。これが「赦しの幸い」です。

 イスカリオテのユダは、イエスさまを裏切ります。イスカリオテのユダは祭司長たちのところにいって、イエスさまを裏切ることを話します。祭司長たちはそのことを聞いて喜び、そしてお金を渡す約束をしました。そのあとイスカリオテのユダはどのようにすれば、イエスさまを引き渡さすときをねらっていました。

 イエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切り、自分を祭司長たちに引き渡すということを知っておられます。しかしイスカリオテのユダを、イエスさまは過越の食事に招いておられるのです。そして他の弟子たちも、やはりイエスさまを裏切るのです。イエスさまがとらえられたときに、弟子たちはみんな逃げ去ってしまうのです。イエスさまは弟子たちが自分を裏切ることを知っておられたのですが、イエスさまは自分を裏切る者を招いて、最後の食事をされたのです。

 私たちはクリスチャンとして、赦しの杯を受けて生きています。神さまから「あなたの罪を赦す」という幸いを受けて生きています。そのことが、私たちを根底から支えているのです。邪な思いをもち、ずるいことをしてしまったり、人を傷つけたり、人を恨んだり、人を陥れようとしたりと、神さまの前に恥ずかしいことをしてしまったりする私たちです。それでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちの罪を赦し、「あなたはわたしの大切な人だ」と祝福してくださいます。

 どんなときも、わたしの手を離さない方がおられます。罪深いわたしの手を離さず、わたしを導いてくださる方がおられます。この幸いに感謝をして、赦しの杯を受けて、神さまに向かって歩んでいきましょう。


2026年9月12日土曜日

2026年9月6日

 2026年9月6日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「大切なことを見つめる」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:35-44節

 わたしは昔、ケーキを家族に買って帰ってきて、二人の娘が「わたしがこのケーキが食べたい」「いやわたしもこのケーキがいい」というようなことで、いさかいを始めるというようなことがありました。まあせっかくおいしくケーキを家族で食べようと思ったわけですが、まあそれが原因でケンカになるというようなことがおこるわけですから、人間のすることというのは、なかなか大変だあと思います。大切なことはおいしくケーキを食べることであったのに、ちいさなことにこだわってケンカが起こるのです。

 律法学者たちは細かいことにこだわって、大切なことを見失ってしまうということがありました。「律法にこう書いてある」「この律法の箇所は、このように解釈をするべきだ」というようなことにこころが向いてしまっていました。ですから律法学者は「メシアはダビデの子孫から生まれなければならない」というようなことにこだわっているわけです。

 そうした細かなことが大切なのでなくて、神さまの愛が貧しいやもめに向けられているということに気がつくことが大切だろう。神さまが私たちを愛してくださり、欠けたところの多い私たちをそれでも許し、愛してくださっているということが大切だろう。貧しいやもめが、神さまを信じ、こころからの献げ物を神さまに献げようとしていることのほうが大切だろうと、イエスさまは言われるのです。

 家柄がいいとか、裕福な生活をしているとか、たくさんの知識を持っているとか、そういうことが大切なことではないと、イエスさまは言われました。大切なことは、神さまが私たちを愛してくださっているということなのだと、イエスさまは言われます。貧しいやもめはそのことをよく知っていました。ですからやもめは神さまに対して自分ができる精一杯の感謝を表したのでした。

 神さまはあなたを愛してくださっている。あなたがどんなに邪な思いをもつ者であったとしても、あなたが神さまにふさわしい者でなかったとしても、それでも神さまはあなたを愛してくださっている。自分のことを信じるのではなく、神さまを信じて歩みなさい。神さまは罪深いあなたを許してくださり、イエス・キリストの十字架と復活によって、あなたに永遠の命を約束してくださった。その憐れみ深い神さまの愛を信じて歩んでいきなさい。

 イエス・キリストの招きにこたえて、神さまを信じて歩んでいきましょう。


2026年9月4日金曜日

2026年8月30日

 2026年8月30日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「あなたは、神の国から遠くない」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:28-34節

 アメリカの会衆派の宣教師によって建てられた神戸女学院の教育の基盤となる標語は「愛神愛隣」です。「みなさんには、良いこと悪いことを自分で判断し、その判断の結果を行動に移してゆくという自主性が求められています。なにが良いことで悪いことか、その判断の基礎は「愛神愛隣」の精神です」(松澤員子元院長・元学長)。

 律法学者はイエスさまに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問をしました。それに対してイエスさまは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』と答えました。そして、「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」と答えました。

 イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまはこの第一の掟と第二の掟は切り離すことができないのだということを言われたわけです。「愛神愛隣」ということはキリスト教において大きな道しるべの規範です。イエスさまがそのように生きられ、そして多くのクリスチャンがそのことを心にしっかりと受けとめて歩んでいます。

 イエスさまは一人の律法学者に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。微妙な言葉です。遠くないけど、着いたわけでもない。ちょうどわたしのカーナビの「目的地周辺に到着いたしました。右です」というような響きです。もうあなたは神さまのことをよく知っている。神さまの祝福はあなたに届いている。あとはあなたがそれを受け入れるかどうかだと、イエスさまは言っておられるのです。

 信仰というのは理解をし、そして生きるということです。クリスチャンになったらすべての迷いがなくなるというわけではありません。いろいろな迷いや信仰的な挫折があります。わたしは上手に生きることも、正しく生きることもできません。しかしわたしは神さまを信じて、確かに生きることができます。

 「神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエスさまの教えを知り、私たちはイエスさまと共に生きます。イエスさまが私たちに先立ってくださり、私たちの歩みを導いてくださいます。イエスさまは「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。イエスさまの招きに応えて、神さまを信じて歩みましょう。


2026年8月28日金曜日

2026年8月23日

 2026年8月23日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「暴力の支配は終わり」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 12:1-12節

 戦争というのは、簡単には終わらないもののようです。イランとアメリカの戦争終結の覚書も計画通りには進んでいません。ロシアとウクライナの戦争も続いています。私たちの世界はとても暴力的な世界になりました。このことについて、アメリカやロシア、中国といった大国の責任というのは大きいと思います。アメリカのトランプ大統領が行なった、ベネゼエラに対する軍事作戦は国際法上許されることのないものです。力でもって、暴力的に解決していくという大国の態度は、私たちを不安にさせます。アメリカがやるのであれば、ロシアもやる。アメリカがやるのであれば、中国もやる。というような感じになってくると困ります。そろそろ大国が悔い改めて、まともな国になってほしいと思います。

 イエスさまのたとえである「ぶどう園と農夫のたとえ」は、なんとも暴力的な話です。僕たちは殴られ、侮辱され、殺されます。愛する息子も殺されます。そして農夫たちもまた殺されます。救いようのない人間世界の様子が語られています。イエスさまは「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と話されました。しかし神さまはそのようにはなさいませんでした。救いようのない暴力的な世界に対して、暴力でもって解決をされるということを、神さまはなさいませんでした。神さまは暴力的な世界に対して、神さまの愛を示されました。神さまは神さまの愛によって、暴力の支配を終わりにされたのです。それがイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。

 私たちは神さまの愛のなかに生きています。私たちは神さまの許しのなかに生きています。私たちは邪な思いをもちますし、人を傷つけたり、人のことをねたんだりもします。神さまの前に恥ずかしい思いを、心の中のもつことも多いです。しかしそれでも神さまは私たちを愛してくださり、私たちに寄り添って下さいます。

 暴力的な世の中に生きていると、暴力的なことがふつうになってしまいます。少々うそをついてもいいじゃないか。みんなやってることだよ。というような思いになってしまいます。しかし暴力的な世の中だからこそ、少しでも神さまの愛を示していける歩みでありたいと思います。私たちは神さまの愛によって生きています。神さまの愛をゆたかに感じて、神さまの民として歩んでいきましょう。


2026年8月21日金曜日

2026年8月16日

2026年8月16日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「平和平和と語り伝える」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:46-52節

 昨日は、8月15日、敗戦記念日でした。81回目の敗戦記念日です。戦時下になると、自由のない、相互監視の強い、窮屈な社会になってきます。戦争の時代ならないようにしなければならないと思います。関西セミナーハウス活動センターが、『「戦争の時代」にしないために 非暴力・平和主義を求めて』という本を発行しています。この本の中で、岡本厚がこんなことを書いています。国家は嘘で戦争を始めるというのです。「イラク戦争になる直前、イラクは大量破壊兵器を持っている証拠があると米国の国務長官が国連で発言しました。しかし実際には存在しませんでした。こうして嘘を言って米国は戦争を始めたのです。日本だってかつて柳条湖事件、盧溝橋事件で嘘をついて戦争を始め、拡大しました。戦争を始めたい側が嘘をつく、フェイクニュースを仕掛け、国内国外の人びとの感情を煽るというのが歴史の教訓だと思います」(P.37)。

 私たちの愛する国が、嘘をつき、人々をだまし、倫理観のない国家になってしまうというのは、とても残念なことです。ですから私たちはいつも愛する国に対して、そんなことにならないように、「戦争をしてはだめですよ」「世界の国々と平和に過ごしてください」と、声をかけ続けていきたいと思うのです。

 イエスさまは盲人バルティマイの目を見えるようにされました。バルティマイが何度も何度も「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたからです。私たちもまたあきらめることなく、「わたしは平和が良い」「戦争には反対いたします」と語っていきたいと思います。

 暴力的な私たちの世界にあって、私たちはいま、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」というバルティマイの叫びを思い起こしたいと思います。戦争を終わらせることのできない、みじめな世界に、私たちは住んでいます。イエスさまの憐れみによって、私たちの世界を変えていただきたいと思います。私たちは人間の力により頼んで生きているのではなく、神さまの愛に依り頼んで生きています。そして神さまが神さまの愛に満ちあふれる世界にしてくださることを、私たちは信じています。

 神さまの義と平和に満ちあふれた世界になりますように。暴力ではなく、神さまの愛によって、私たちの世界が整えられますように。互いに尊敬しあい、互いに助け合う私たちの世の中でありますように。そうした祈りを神さまに献げながら、平和を祈りつつ歩んでいきたいと思います。


2026年8月14日金曜日

2026年8月9日

 2026年8月9日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「こどものように」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 10:13-16節

 平和聖日に向けての早天祈祷会で『平安教会100年史』の戦争中の箇所を読みました。1941年6月6日には内山完造が「支那事情講演会」の講師として講演したと書かれてあります。内山完造は上海で内山書店を立ち上げ、中国の作家である魯迅と交流の会った人でした。

 魯迅の作品に、『狂人日記』という作品があります。ある男の人が自分が食べられるのではないかと思い始めます。そして自分もまた人を食べたのではないかと思うようになります。この『狂人日記』というお話で、魯迅が言いたかったことは、世の中の人が、人を人として見ないで、人を物として見ている。人を自分が利用するための道具としてみている。そういう人と人とのあり方が、人を食べているということです。

 『狂人日記』の最後は「人間を食ったことのない子どもなら、まだいるかも知れぬ?。子どもを救え・・・」という言葉で終わります。これはこのお話を書いた魯迅が、こんな人が人を傷つけ合って成り立っている社会、人を食っているような世界がなくなってほしい。そしてそうした世界に染っていない子どもたちに、人を食べるような世界ではない、人が互いに傷つけ合っているような社会ではない、人が助け合って、人が支え合って生きていく社会をつくりだしてほしいという願いが込められています。

 イエスさまは「子どもたちのように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。大人たちは人を役にたつとか役にたたないというようなことで人を見ることが多いけれど、子どもたちはみんな神さまから愛されている大切なひとりひとりとして見ることができると、イエスさまは言われます。また大人は「世の中こんなもんだ」というふうに人を食べるような世の中を認めてしまいますが、しかし子どもたちは神さまの愛にふさわしい世の中を求めようとします。イエスさまは子どもたちを祝福しながら、この人が人を食べるような世の中に負けることなく大きくなってほしい。そして人を傷つけ、苦しめる、人を食べるような世の中を、神の国へと変えてほしいと思いながら、子どもたちを祝福されました。

 イエスさまは子どもたちを祝福されたように、大人たちに対しても、やはり招いておられます。こどもたちのように、神さまの国を求めて生きなさい。イエスさまはそのように私たちを招いてくださっています。


2026年8月8日土曜日

2026年8月2日

 2026年8月2日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

「互いに平和に過ごしなさい。」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:42-50節

 今日は平和聖日礼拝です。アジア・太平洋戦争が終わり、81年となります。今年、12月10日に私たちの平安教会は教会創立150周年を向かえます。平安教会百史には、戦争中の教会の様子について書かれてあります。「教会には目立った抵抗運動もないまま、結果的には、皇道主義、軍国主義の国家体制の中で、従順にこれに従わざるを得なかったという歴史が深い傷跡のように残されている」と、この時代について、反省を踏まえながら、教会の歩みの苦悩を記しています。戦争が始まると教会は苦悩します。それは戦争が神さまのみ心に反した、人間の暴力的な営みであるからです。神さまのみ心にしたがって「戦争反対」を口にすると、周りから「非国民」の大合唱がわき起こります。そんな時代でした。

 イエスさまは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われました。小さな者をつまずかせる者を、神さまがお許しにならないと、イエスさまは言われます。そして、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と、イエスさまは言われます。あなたは地獄に行くことになっても良いのか。やっぱり地獄は避けたいと思います。そしてイエスさまは、「人は皆、火で塩見を付けられる」と言われます。塩見というのは、神さまのみ心をしっかりと受けとめているということです。小さな者をつまずかせることなく、人間として神さまに恥ずかしくない歩みをするということです。

 小さな者を軽んじないという姿勢が失われてしまうと、社会はやさしさを失い、効率ばかりが叫ばれ、「社会に迷惑をかけているものはだれだ」「なまけものはだれだ」と叫ぶ恐ろしい人たちが幅を利かせるようになっていきます。アジア・太平洋戦争中は、私たちの国はそうした社会であったのです。だからこそ、イエスさまはあなたたちの内に塩を持ち、小さな者の一人をつまずかせない者として生きていきなさいと言われるのです。

 そして「互いに平和に過ごしなさい」と、イエスさまは言われます。いたずらに対立をあおったりすることもなく、自分自身の内にはしっかりと塩を持ち、平和に過ごしていきなさいと、イエスさまは言われます。争いが続き、平和とは到底言うことのできない世界ですけれども、神さまの義と平和に満ちた世界になりますようにとの祈りをもちつつ歩んでいきたいと思います。


2026年8月1日土曜日

2026年7月26日

 2026年7月26日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「だめなわたしだけど」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:33-41節

 宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』(新潮社)は、西武大津店、膳所高校などが出てくるので、滋賀県民必読の青春小説です。主人公の成瀬あかりは、自分と他人を比べるということがありません。いつも自分がやりたいと思ったことをやります。「閉店する西武大津店に閉店まで毎日通う」「シャボン玉を極める」「M-1グランプリに出場する」「200歳まで生きる」。まっすぐに自分の道をいくところが読んでいて、読者にすがすがしい気持ちを与えてくれます。

 イエスさまは弟子たちを呼び集めて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われました。「あなたは偉い人ですね」とちやほやされる人が偉いのではなくて、すべての人に仕える者がほんとうの偉い人なのだ、あなたたちにはそのように生きてほしいのだと、イエスさまは言われました。

 イエスさまの弟子たち、また弟子のヨハネは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというようなことを議論したり、イエスさまの名前を語って悪霊を追い出すのをやめさせたりしています。イエスさまの弟子たちは、偉くなりたいとか、人に指図をしたいというような思いにとらわれていて、なかなか困ったことになっています。しかしだめな弟子たちがいるからこそ、私たちはイエスさまの、神さまの深い愛を知ることができるのです。こんなだめな弟子たちでも、イエスさまは愛してくださっているのだ。こんなだめな弟子たちでも、神さまの祝福にあずかっているのだ。そのように思えるからです。

 だめなわたしでも、神さまはわたしのことを愛してくださっているのです。人と比べて高慢になったり、あるいは卑屈になったりする、恥ずかしいわたしであるわけですが、でも神さまはわたしのことを愛してくださっています。イエスさまの弟子のヨハネがそうであったように、トラの威を借るキツネのように、力におもねりながら、力に屈してしまうような弱さをもっているわたしのことを、でも神さまは愛してくださっています。

 だめなわたしであるわけです。だめなわたしであるけれども、神さまはわたしを愛してくださり、「あなたはわたしの愛する子、わたしのこころに適う者」という祝福を、わたしに与えてくださるのです。

 神さまの深い愛に感謝して、すべてをお委ねして歩んでいきましょう。に出会う歩みへと招かれたい。


2026年7月23日木曜日

2026年7月19日

 2026年7月19日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「力ある方に守られて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:14-29節

 朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』は、私たちクリスチャンにとっては、目がいく小説のタイトルです。どうして推し活のはなしに、『イン・ザ・メガチャーチ』という題がついているのかということですが、推し活という経済活動を作り出していく方法が、アメリカのメガチャーチの信徒を組織していくやり方と似ているということからきています。『イン・ザ・メガチャーチ』という小説を読んでいると、『メガチャーチ』と『スモールチャーチ』は、別物だなあと思います。私たちは個人が自由に信じているということを大切にしています。信じさせる手法ということがあるわけではありません。

 今日の聖書の箇所は「信仰」ということについて考えさせられる聖書の箇所です。弟子たちがいやすことができない汚れた霊にとりつかれたこどもを、イエスさまがいやされます。イエスさまはいやすことができない弟子たちに対して、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれます。またこどもの父親が「おできになるなら」と言ったことについて、イエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、お叱りになられます。

 まあ、イエスさまからみれば、「信仰のない時代」ですし、「信じる者がいない」時代であるわけです。でもまあ、そんなにイエスさまにほめられるようなりっぱな信仰をもっているのであれば、イエスさまを頼って生きていくこともないわけです。りっぱな信仰をもってないから、イエスさまに依り頼んで生きているのに、「りっぱになれ」と言われても困ってしまうわと思います。

 そういう意味では、汚れた霊に取りつかれたこどもの父親の態度は、なかなか当を得ているような気がします。イエスさまから叱られると、とにかく「信じます」と答えます。もうあなたを信じるしかないのですと、父親は答えるのです。ただその信じるということは、自分が信じるということなので、はなはだ頼りないのです。自分は頼りにならない。ですから「信じます」と答えつつ、「信仰のないわたしをお助けください」と、イエスさまにお委ねします。私たち人間は神さまに助けていただくという形でしか、信じるということはできないのです。

 私たちは力ある方がおられるということを知っています。そしてその方をただ私たちは信じているのです。私たちは弱く力のない、また信仰の弱いものです。しかし力ある方が私たちを救ってくださり、私たちを導き、祝福してくださるのです。


2026年7月17日金曜日

2026年7月12日

 2026年7月12日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「希望をしっかりともって」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:22-26節

 お手本があるというのは、未来に向かって歩んでいく時に、とても良い指針になるような気がします。ワールドカップの日本代表選手の中村敬斗選手は、少年のときに「ロナウジーニョのようになりたい」と思ったということです。

 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「あなたがたもわたしのようになってください」(ガラテヤ4章12節)と言っています。使徒パウロは希望をしっかりともって生きていました。パウロの生涯はなかなか大変な生涯でした。迫害されたり、投獄されたり、伝道の途中で乗っていた舟が難破したりと、いろいろな困難の目に合いました。いろいろな苦難を体験しました。しかしそうした中で、使徒パウロは「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章3−5節)と語りました。「希望をしっかりともって生きる」。これは私たちクリスチャンに与えられている大きな恵みです。

 イエスさまはベトサイダで盲人の目を見えるようにされました。盲人はイエスさまと出会うことによって、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになりました。「何でもはっきり見えるようになりました」という言葉は、目が見えるようになったということだけでなく、象徴的な言葉のように思えます。盲人はイエスさまと出会うことによって、自分がどのように生きていくのかということがはっきりしたということです。

 使徒パウロは、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。・・・・・。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13章12ー13節)と言いました。世の終わりのとき、私たちは神さまを顔と顔を合わせて見るようになるけれども、そのとき初めてはっきりと見ることができるのだと、使徒パウロは言いました。パウロは神さまと出会う時に、人ははじめてはっきりと見ることができるのだと言いました。

 神さまは私たちをその愛でもって包み込んでくださっています。私たちはしっかりと希望を持って歩みたいと思います。私たちは弱さを抱えている者ですけれども、神さまは私たちをしっかりととらえていてくださいます。私たちの弱さも含めて、神さまにお委ねして、そして希望を持って歩んでいきましょう。


2026年7月10日金曜日

2026年7月5日

 2026年7月5日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「恵みを見つける」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:14-21節

 私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ない、ない、ない」「いいことない」。まあそんなふうに思えるときもあるわけです。しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。

 イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。

 イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。

 私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。

 いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。


2026年7月3日金曜日

2026年6月28日

 2026年6月28日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「わたしのなかに住んでいる罪」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 6:14-29節

 加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)には、福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてあります。1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。でもいまの多くの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思いました。

 洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、痛烈な批判をしていました。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって批判されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。

 自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしていると言っています。

 人というのはなかなかやっかいなもので、一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。

 私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。




2026年6月26日金曜日

2026年6月21日

 2026年6月21日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「きこうとしないわたし」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 6:1-13節

 宇多田ヒカルの「荒野の狼」という曲は、仲間内に閉じこもって、自分たちだけが正しく、人を非難することで自分たちが安心するといった人間の姿が歌われています。「惚れた腫れた 騒いで楽しそうなやつら そうだそうだ お互いを肯定する輩 まずは仲間になんでも相談する男 カッコいいと思ってタバコ吸う女の子 偽物の安心に悪者探し 私たちには関係ない」。

 仲間がいるということはとても楽しいことだし、わくわくすることでもあります。わいわいとやっていくことができれば、とても力になります。でも仲間内で固まることなく、開かれた形で、いろいろな人たちと交流するというのは、なかなかむつかしいことだなあと思わされます。

 イエスさまも故郷で、イエスさまのことを受け入れようとしない人たちに出会いました。弟子たちもまた弟子たちのことを受け入れてくれない人たちに出会うことがあるかも知れません。自分が大切にしていることを一生懸命に伝えるのに、だれもそのことに関心を持ってくれないのは、なかなかさみしいことであります。ですから腹が立ってきたりするようなことも起こります。怒鳴ってみたり、人のことを悪し様に言ってみたい気持ちになってくることもあります。でもイエスさまは弟子たちに、そうしたことをするのではなく、ただ「足の裏の埃を払い落として、その町を出て行きなさい」と言われました。過剰に反応して、腹を立てたりするのではなく、たんたんとそのこと受け入れて、次のところに進んでいけば良い。そうするとまたあなたたちのことを受け入れてくれる人たちがいる。

 仲間内で固まって、他の人の意見を聞こうとしないというのは、それはまた私たちの姿でもあるわけです。私たちもまたイエスさまの故郷の人たちや、イエスさまの弟子たちを受け入れなかった町の人たちのように、自分たちの世界に閉じこもって、外からの声に素直に耳を傾けることができなかったりすることがあるわけです。

 神さまの愛に守られて、私たちもまた愛に満ちた歩みでありたいと思います。人のことを悪く言ったり、自分の考えだけが正しいというような思い込みにとらわれるのではなく、どうすれば神さまの愛に応えることができるのかを考えながら、謙虚に歩んでいきたいと思います。


2026年6月20日土曜日

2026年6月14日

 2026年6月14日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「自分の家に帰りなさい」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 5:1-20節

 「いつもは、ちゃんとさっさと歩いて帰る子どもが、「おんぶして」というような日は、たいていは、ちょっと悲しいこととか、つらいことがあった日のことが多いのです。・・・。気持ちをいやしたいだけなのです。これは大人にもある感情でして、会社で仕事がうまくいかないことがあった、上司に怒られた、とてもいやなことがあった、取り引きで失敗したなどということがあったときに、家に帰って奥さんにいやされるご主人は、さっさと帰っていきます。」(佐々木正美さんの『子どもへのまなざし』)。帰る家があるということは、とても幸いなことなのです。

 イエスさまはゲラサの地で、汚れた霊に取りつかれた人に出会われます。この人は墓場を住まいとしていました。家族や身内、町の人たちから捨てられたのです。だれもこの人に関わりたくないと思っていました。そしてこの人自身ももはや家族や身内の人々のところに帰ろうとは思っていませんでした。しかしこの人は大きな悲しみを抱いていました。そして叫ばずにはいられませんでした。また自分で自分を傷つけずにはいられませんでした。

 イエスさまによっていやされたあと、この人はイエスさまに、イエスさまと一緒に行きたいと言いました。しかしイエスさまは「自分の家に帰りなさい」と言われます。そして「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と言われました。この人にはこの人を迎えてくれる人たちがいたのだと思います。「いままで辛い思いをさせてすまなかったねえ」と言って、この人を迎えてくれる家族がいたのだと思います。それでもこの人にとっては、それはとても大変なことだったと思います。しかしイエスさまによって救われたこの人は、イエスさまが自分にしてくださったことを、一生懸命に宣べ伝えました。

 私たちは幸せなことに、イエスさまによって救われたことを知ることができました。私たちはここに帰れば安心だ。ここに帰ればホッとするという家をもっています。つらいとき、かなしいとき、私たちは帰るべきところをもっています。私たちを慰め、いやしてくださる方を、私たちは知っています。

 イエスさまは私たちの慰め主として、いつも私たちを招いてくださっています。このことをしっかりとこころにとめて、よき小さなわざに励んでいきましょう。


2026年6月14日日曜日

2026年6月7日

 2026年6月7日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「この人をみよ」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:29-39節

 「自分を会員にするようなクラブの会員にはなりたくない」(映画『アニー・ホール』)。なんとも屈折した感情です。自分は自分のことが嫌いであるわけです。ですからこんな自分を会員として認めるようなクラブはろくでもないクラブだから、そんなろくでもないクラブには入りたくない。

 この言葉は教会と似ているところと似ていないところがあります。自分のことを良い人だと思っていないところは似ています。でもちがうところは、私たちはやっぱりそれでも「このクラブの会員になりたい」という思いをもっている点です。神さまは「あなたのような人でも、わたしはあなたを愛している」と、私たちを受け入れてくださっています。私たちは自分を会員にするようなクラブであったとしても、やはりどうしてもこのクラブの会員になりたいと思うのです。

 イエスさまのことを慕う人々がどんどんどんどんイエスさまのところに集まってきます。イエスさまは、はじめはたまたま出会った汚れた霊に取りつかれた男をいやされます。そして次にイエスさまはペトロのおつれあいのお母さんをいやされる。身内の人をいやされたわけです。そしてこんどはカファルナウムの人々をいやされます。

 讃美歌21−280の「馬槽のなかに」は日本の讃美歌です。この曲の作詞をした、由木康は讃美歌学者です。イエスさまのご生涯をとてもうまく表している讃美歌となっています。この「馬槽のなかに」という讃美歌で繰り返し出てくる言葉は、「この人を見よ」という言葉です。この「この人を見よ」という言葉は、キリスト教において特別な言葉で、絵画などでもよく題名になっています。「この人を見よ」という言葉は、総督ピラトが言った言葉です。

 私たちは総督ピラトから、イエスさまのことを「この人を見よ」と言われているわけですから、なんとも不思議なことだと思います。洗礼者ヨハネから「この人を見よ」と言われたら、「そうですね。ほんと、そうです。すみません」というような思いになります。しかし私たちは総督ピラトから「この人を見よ」と言われています。「ピラト、あなたに言われたくはないよ」と思えるわけです。

 しかし大切なのは「この人を見る」ことなのです。私たちの救い主イエス・キリストをしっかりとみて、希望を持って歩んでいきましょう。


2026年6月5日金曜日

2026年5月31日

 2026年5月31日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「天からの祝福を受けて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 1:9-11節

 『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』という映画の中で、アシュレイ・ジャッドという女優は、ハリウッドで大きな影響力をもっていた映画プロデューサーであるハーヴェイ・ワインスタインを実名で告発するときに、「女として、キリスト教徒として」、告発しないわけにはいかないと言います。

 クレア・キーガンの「ほんのささやかなこと」という小説の主人公のビル・ファーロングも、アイルランドのカトリック教会と国家の犯罪を向き合おうとするとき、こう言います。「そこにある現実に勇気を奮って立ち向かうこともせず、長いこと、何十年も、下手したら一生すごしたうえで、それでもキリスト教徒を名乗り、鏡の中の自分とむきあうことなんておれにできる?」。

 日常生活のなかで、自分がクリスチャンであることが問われる出来事というのは、そんなにないわけですが、でもクリスチャンである私たちはときにそうしたことを考えざるを得ないときがあるわけです。そして「わたしは何者なのか」という問いの前に立つことがあるのです。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というのは、イエスさまの十字架への道を表わしています。イエスさまは神さまの御心に適う者として、神さまの独り子であるわけですが、私たちの世に来てくださる。そして私たちの罪のために、十字架についてくださいます。

 私たちはイエスさまのように、人の罪を贖うために十字架につくことはありません。ただ私たちには私たちにとっての神さまから託された歩みというのがあるわけです。そういう意味では、イエスさまに語られた、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、私たちへ語られた言葉でもあるわけです。

 私たちはクリスチャンとして、自分を見たり、人を見たりするのではなく、神さまを見て歩みたいと思います。神さまがわたしを見ていてくださり、神さまがわたしを守ってくださっている。神さまがわたしを愛してくださり、わたしにふさわしい歩みを用意してくださっている。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という励ましの言葉を胸に、神さまの霊である聖霊の力を信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2026年5月29日金曜日

2026年5月24日

 2026年5月24日 聖霊降臨節第1主日礼拝説教要旨

「聖霊に導かれ」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 4:26-34節

 ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステの出来事の「ほかの国々の言葉で話し出した」というのは、たんに外国語を話したということではなく、相手の立場に立って、互いに尊敬しあう歩みを行なうということです。

 イエスさまは神の国は、成長する種のようなものであると言われました。作物の種を植えるとだんだんと大きになっていきます。茎が成長し、穂が実り、豊かな実となっていく。本質的には種を成長していくのは、神さまがなさることだと、イエスさまは言われます。イエスさまはからし種の話をされました。からし種はちいさな種だけれども、それが成長すると、鳥が葉の陰に巣をつくるほど大きな枝をはることができる。そのように、小さな良き働きが神さまに祝福されて、神さまの義と愛に満ちた神さまの国になっていく。

 私たちの世の中は、人間の世の中ですから、そんなに平和な世の中でもありません。いろいろな競争があったり、人を傷つけることがあったり、人から傷つけられるようなことがあったりもします。一生懸命に努力をしても、うまくいかないこともあります。とくに現代は、競争社会となり、個人主義的な価値観が広がり、神さまの霊である聖霊が、私たちの世の中に働いているとも思えないというような気持ちになるときもあります。

 みなさんは、最近、私たちの世の中には聖霊が働いているというふうに感じたことはありましたでしょうか。卑近な例で申し訳ないのですが、わたしは最近、「プラダを着た悪魔2」という映画を見ながら、私たちの社会には聖霊が働いているというふうに思いました。もちろん現代アメリカの社会が描かれているお仕事映画であるわけですから、仕事の上での駆け引きがあったり、キャリアアップを目指していく歩みがあるわけです。それでもそうしたなかにあっても、人を思いやる気持ちや、信頼しあうこころ、競いながらも和解をして友だちとして受け入れあっていく歩みがあります。やっぱり、人の世界の根幹にあるものは、「愛」であるということを感じることができ、なんかとてもさわやかに気持ちがいたしました。

 私たちの世界は、神さまの愛が働いている、聖霊の働きに導かれた社会です。そしてイエスさまの弟子たちに降った聖霊は、私たちにも同じように降ります。私たちは神さまの霊である聖霊による祝福を得て生きています。神さまの愛を信じて、今日、私たちにくださった聖霊の導きによって、健やかな歩みをしていきたいと思います。に出会う歩みへと招かれたい。


2026年4月10日金曜日

2026年4月5日

 2026年4月5日 復活節第1主日礼拝説教要旨

「不安が取り除かれる朝」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 16:1-8節

 イースターおめでとうございます。

 マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメは、イエスさまの葬りの備えをするために、イエスさまが納められた墓に向かいます。イエスさまが天に召されたのだから、丁寧に葬りの備えをしなければならない。その役割を担ったのは、女性たちでありました。イエスさまの弟子たちは、いろいろと大きなことを言っていたわけですが、イエスさまが捕まった時に、逃げ出し、そして隠れています。

 マルコによる福音書が記しているイエスさまの復活の物語は、とても奇妙な物語です。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。イエスさまのご復活という喜ばしい出来事を伝えるにはほどとおい、とても不思議な語りになっています。不思議というよりは、怖いという語りになっています。

 マルコによる福音書のイエスさまの復活物語は、「信仰というのはこういうものなのだ」ということを、私たちに教えてくれます。人が信じるというのは、「はい、そうですか。わかりました」というようなものではないということです。「信じますか」「はい、信じます」というようなことではないということです。

 『信仰』(2022年、文藝春秋)という小説を書いている小説家の村田沙耶香は、「速度の速い正しさは怖い」と言っています。キリスト教の信仰はそうした早さのある信仰ではありません。「信じますか」「はい、信じます」「はい、そうですか。わかりました」というようなものではありません。イエスさまの復活に出会った女性たちは、驚いたり、震え上がったり、正気を失ったり、怖がったりしながらも、でも神さまに導かれて、信じる者へと招かれていきます。そしてイエスさまに従っていきます。

 私たちは人間ですから、いろいろなことにつまずきます。自分の力を越えた出来事を前にして、「どうしよう」「ちっぽけなわたしに何ができるだろう。なんにもできないのではないか」。そんな思いになります。でも小さな小さなわたしに神さまが働いてくださり、私たちを豊かに用いてくださいます。

 力強い御手でもって、私たちを守り導いてくださる神さまがおられます。小さなわたしを励まし、用いてくださる神さまがおられます。神さまの招きに応えて、神さまにお委ねして歩んでいきましょう。


2026年4月3日金曜日

2026年3月29日

 2026年3月29日 受難節第6主日礼拝説教要旨

「神に委ねたいのち」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 15:33-41節

 良寛の辞世の歌・句については、いろいろな説があります。「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」「うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ」「散る桜 残る桜も 散る桜」「良寛の辞世を何と人問はば死にたくないといふたとしてくれ」「師即開口阿一声耳。端然座化」。

 イエスさまの死について、それぞれの福音書がそれぞれに、イエスさまの死について書いています。マルコによる福音書のイエスさまは、大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 イエスさまは十字架のうえで嘆くのは、イエスさまが私たちと同じように、苦しみの極限を経験されたということです。そして私たちと同じように、神さまに対して嘆きの声をあげて、天に召されていった。そのことによって、私たちは同じように神さまに対して嘆きながら生きている私たちをも、神さまは受け入れてくださり、愛してくださっていることを知ることができるのです。十字架のうえで嘆くイエスさまは、すべてを神さまにゆだねているしるしです。神さまの前では、格好のよさなど必要ない。神さまの前では、自らのすべてをさらけ出し、どろどろとした心のなかをすべて神さまにお見せしてもかまわないということです。どろどろとした罪のなかにあっても、神さまは私たちを愛し、祝福してくださっている。

 私たちの神さまは、苦しみのなか叫び、泣き言をいう弱さをも受け入れてくださる神さまです。私たちひとりひとりをそのままで愛してくださり、私たちを憐れんでくださるかたなのです。詩編31編23節は、つぎのように神さまを讃美しています。「恐怖に襲われて、わたしは言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かうわたしの叫びを、嘆き祈るわたしの声をあなたは聞いてくださいました」。

 イエス・キリストは十字架への苦難の道を歩まれました。絶望にみえるその道こそが、私たちにとって希望であります。私たちの主イエス・キリストは、すべてを神さまにゆだねて歩まれました。なにもかも神さまにゆだね、神さまから与えられたいのちを、神さまに返されました。私たちも主イエス・キリストと共に、すべてを神さまにゆだねて歩んでいきましょう。私たちの弱さを受け入れ、私たちの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださる神さま。私たちを赦し、祝してくださる神さまに感謝して、すべてを神さまにゆだねていきましょう。