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2026年2月21日土曜日

2026年2月15日

 2026年2月15日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

「目線を変えて」 川上信牧師

  マタイによる福音書 4:18-22節

 本日の聖書箇所、マタイによる福音書4章18節から22節には、イエスがガリラヤ湖で漁をしていたペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人を弟子として招かれる場面が記されています。当時のガリラヤの漁師たちは、ローマ帝国の支配のもとで重い負担を負わされ、汗水流して働いても十分な報いを得ることができず、希望を持ちにくい現実の中にありました。そのため、自分たちの仕事に誇りや喜びを見いだすことが難しかったのです。

 イエスの「人間をとる漁師」というギリシャ語を忠実に直訳すれば、本来「人間のための海の人」といった意味になるそうです。それはいわば荒海にもまれ、あえぎ、溺れている人間を助ける人。今でいえばライフセーバーみたいな働きをしている人のことを指しているのかもしれません。人間が人間として生きることを手助けする人。そんな人として、神のみ言葉を共に伝えて共に歩みましょうというイエスの招きが、この招きの言葉に込められています。人が人として生きられるように支える者になることを意味しています。それは、溺れる人を助けるライフセーバーのように、人の命と尊厳を守る働きへの招きでした。その招きに彼らが従う決断をしたことは、単なる職業の変更ではなく、生き方そのものを変える選択でした。その歩みは、後の時代に生きる私たちにとっても信仰の道しるべとなっています。

 私たちも日常生活の中で、神からの招きを受けています。しかし、その声に気づくためには、物事を見る目線を変えることが必要です。いつもと同じ風景の中にも、信仰の目で見つめると、新たな意味や導きが見えてくることがあります。

 交換講壇という取り組みも、いつもと違う視点を与えてくれる大切な機会です。私たちのいつもと同じでなく、聖書の読み方も、説教者が変わることで目線が変えられることがあります。そのことで私たちの生涯を変えるような御言葉に出会えるかは分かりませんが、それが人生に1回のチャンスなのか、10回のチャンスなのか、100回のチャンスか,1000回のチャンスなのか。でも、その気づきを与えられるチャンスを増やせるのは、私たち自身だけなのです。「いつも目を覚ましていなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というイエスの御言葉通りに、困難や悲しみの中にあるときにこそ、目線を変えて神を見上げ、自分に与えられている道を祈り求めながら、神と共に生きる者として歩んでいきたいと願います。


2026年1月3日土曜日

2025年12月28日

 2025年12月28日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

「御子イエスが招いてくださる」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 2:1-12節

 クリスマスに、御子イエス・キリストをお迎えして、私たちは歩み始めました。新しい年もイエスさまの招きに応えて歩んでいきたいと思います。

 2025年、最後の日曜日です。2025年は男子普通選挙が実施されて100年、治安維持法が施行されて100年という年でした。この1925年(大正14年)という年に、細井和喜蔵の『女工哀史』が出版されています。細井和喜蔵は『女工哀史』の「序」でこう書きます。「虐げられ蔑まれ乍も日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育んでいる日本三百萬の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏っているものなれば何びともこれを一読する義務がある」。細井和喜蔵には『女工哀史』を書かずにはいられない女工に対しての尊敬と愛がありました。そしてこの書物は多くの人々に読まれました。『女工哀史』は、私たちの世界が小さき者たちの愛によって成り立っていることを、私たちに教えてくれる書物であるわけです。

 占星術の学者たちは夢のお告げで「ヘロデのところに帰るな」と言われます。そしてヘロデのところに帰ることなく、自分たちの国へと帰ってきます。ヘロデ王のところに帰っていくと、たぶん良いこともあったわけです。お礼をもらえたと思いますし、旅の安全の保障もしてくれたのではないかと思います。しかし占星術の学者たちは、ヘロデ王のところに帰ることなく、自分の国へと帰っていきます。力ある人との約束を無視するということですから、わかると大変なことになるかも知れなかったわけです。「ヘロデのところに帰るな」というのは、ひとつの生き方であるわけです。暴力的な力のある者に従って生きていくのか。それとも神さまが示してくださる愛に根ざした道を歩んでいくのかということです。

 暴力的な世の中にあって、イエスさまは小さな人たちの愛に守られて、その命を保ちます。クリスマスの話に出てくる人たちの多くは、力のない人たちです。ヨセフもマリアも、羊飼いもバプテスマのヨハネの母のエリザベトも、力のない人たちです。しかし彼らには神さまの愛がありました。彼らはみな神さまに望みをおきつつ、祈りつつ、その生涯を歩みました。

 イエスさまは神さまに祈りつつ歩んでいる私たちを招いておられます。私たちは弱くともしい者ですけれども、イエスさまの招きに応えて、神さまの愛のうちを、新しい年も歩んでいきたいと思います。


2025年10月10日金曜日

2025年10月5日

 2025年10月5日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「天国に入りたい人、手をあげて」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 19:13-30節

 今日は世界聖餐日です。世界のクリスチャンと共に、聖餐に預かる日です。私たちの世界は神さまの前に、いろいろな問題を抱えています。戦争がありますし、テロ事件もあります。内戦が行われていたり、人権侵害が行われていたりします。私たちは共に聖餐に預かりながら、神さまの義と平和がきますようにと祈ります。

 今日の聖書の箇所では、3人の人がイエスさまのところにやってきます。はじめにこどもたち。そして二番目にお金持ちの青年。そして三番目にペトロです。こどもたちは自分たちがどうこうすることなく、イエスさまから祝福を受けます。そしてお金持ちの青年は、自分の力によって律法を守り、永遠の命を受けるべく努力をします。しかしお金持ちの青年は永遠の命の約束を得ることはできません。祝福は人間の努力によって得られるものではないからです。そしてペトロですが、すべてを捨ててイエスさまに従うということで、祝福を受けようとします。しかしこれもまた人間の力によるものですから、イエスさまから「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われてしまいます。

 「それでは、だれが救われるのだろうか」という問いかけに対して、イエスさまは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と答えられます。救いは人間によって得られることではなく、神さまからの賜物として与えられるのです。

 とはいうものの、「天の国に入りたい」という素朴な願いをもつことは、とても大切なことだと思います。イエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたというようなことは、聖書には書かれてはいません。でもたぶんイエスさまがこどもたちに「天の国に入りたい人は手を上げて」と言われたとしたら、こどもたちは「はい、はい、はーい」と素直に答えるだろうと思います。

 私たちもまた「天の国に入りたい」とこころから望むものでありたいと思います。自分が天の国に入るにふさわしいとか、天の国に入るのにふさわしくないということではないのです。ただ「天の国に入りたい」。ただ神さまの祝福を受けて生きていきたいと、こころから願う者でありたいと思います。

 神さまは私たちを祝福し、神さまの愛を私たちに注いでくださっています。すなおに神さまを求めつつ、歩んでいきましょう。


2025年10月3日金曜日

2025年9月28日

 2025年9月28日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「おまゆう。そういうとこやぞ。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 18:21-35節

 「おまゆう。そういうとこやぞ」というのは、ネットの世界でときどき見る言葉です。「おまゆう」というのは、「お前が言うか」という言葉です。ですから「おまえが言うな」という意味です。自分もいいかげんなことをしているのに、人を批判したりする人に対して、「おまえが言うな」「おまゆう」というふうに使われます。「そういうとこやぞ」というのは、「おまえのそういうところがだめなんだ」というような意味で使われます。細かいことを見つけ出して、なにからなにまで批判するというのも、まあどうかとも思いますが、あんまりいい加減なことをしていても、それもまた困るわけです。やっぱり良識をもって生きていくということを心がけたいと思います。

 イエスさまのところにペトロがやってきて、「わたしに対して悪いことをした人を何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねます。イエスさまは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。「七の七十倍は、490回ですね」というようなことではなくて、「回数を数えたりするのではなく、とことん赦してあげなさい」ということです。「477回赦してやったから、あと13回だな」というようなことではなく、「数など数えるのではなく、赦して赦して赦して赦して赦してあげるのだ」ということです。

 イエスさまはたとえを話されました。王さまから1万タラントンという国家規模の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に100デナリオン借金をしている仲間に出会います。しかし彼は仲間を捕まえて首を絞めて、「借金を返せ」と言います。彼はその仲間を引っ張っていき、牢屋にいれてしまいます。それをみて、その仲間たちはこころを痛めます。そして王さまに話しに行きます。王さまはそのように怒って、そして借金を返すまで、家来を牢屋に入れることにしました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」ということを、私たちは忘れてはならないのだと思います。

 赦しあい、支え合い、神さまの愛のうちを歩んでいく。人間ですから、「赦せない」という思いにかられたり、捕まえて首を絞め「借金返せ」というようなふさわしくないことをしてしまうこともあるかも知れません。それでも、神さまの愛のうちに自分が生きていることを思い起こして、悔い改めつつ歩んでいきたいと思います。


2025年9月27日土曜日

2025年9月21日

 2025年9月21日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「小さな者と共なる神さま」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 18:10-20節

 人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。

 「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「みんな一人一人神さまの前に大切にされているんだよ」ということが言われています。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。

 初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。

 「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。イエスさまを裏切った弟子たちのことも、イエスさまは愛してくださいました。そして弟子たちは、「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて歩み始めたのです。

 イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。


2025年9月20日土曜日

2025年9月14日

 2025年9月14日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「いいものみーつけた!」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 13:44-52節

 みなさんは最近、いいものを見つけられたでしょうか。お気に入りのものがあるでしょうか。わたしは3年ほど前に、銀座の伊東屋で買った伊東屋特製のボールペンが、お気に入りです。わたしは平安教会に赴任して、この9月で6年と二ヶ月になります。とても幸せなことだと思います。わたしがいま親しくしている人たちは、6年前にはほとんど知らない人であったわけですから、そうした人たちと親しく楽しく過ごしているというのは、とても幸せなことだと思います。良き友、良き教会、良き仕事との出会いであったと思います。たぶん「いいものみーつけた!」というのは、伊東屋特製のボールペンではなく、平安教会での交わりということなのでしょう。

 昔、昔のイスラエルの王様にソロモンという人がいました。ソロモンは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えたのでした。「長寿も富も敵の命も」というように、ほしいものはいろいろあるわけです。しかし「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というわけにはいきません。

 私たちはときに、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いの前に立たされます。元気に飛び回っているときは、考えることがあまりないかも知れません。「あれもこれも、それもどれも」と思いながら、多くのことを手に入れることができるかも知れません。しかし思わぬつまずきに出会ったり、あるいは年を感じ以前と同じように動き回ることができなくなってきたりするときに、私たちは心静かにして、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いに答えなければならないときがあります。

 本当に大切なものは、「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。本当に大切なものは、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」に値するものです。心の底から「これに出会うことによって、わたしは救われた」と思うことのできるものです。「あれもこれも、それもどれも」は、消え去ってゆきます。それは確かなものではありません。私たちの魂にかかわるもの、永遠なるものが、わたしたちにとっては確かなものであり、私たちにとって本当に必要なものなのです。

 神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださっています。確かな方により頼んで歩みましょう。


2025年9月13日土曜日

2025年9月7日

 2025年9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「大切なのは愛だよ。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 13:24-43節

 小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに記しています。「ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない」(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。誰かと手をつなぐということがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

 イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。

 イエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロは「いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだ」と言いました。コリントの信徒への手紙(1)13章13節です。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。

 批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

 この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。


2025年9月5日金曜日

2025年8月31日

 2025年8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「暗きの力には負けない」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 12:43-50節

 森まゆみの『暗い時代の人々』(朝日文庫)は、戦争中に「精神の自由」を掲げて戦った9名の人々について書かれてあります。その中の一人が大正ロマンを代表する画家竹久夢二です。関東大震災では自警団による朝鮮人や外国人に対する虐殺が行われました。竹久夢二は「自警団遊び」の子どもたちの姿を描きながら、自警団をつくって外国人を竹槍で突く人たち、またその風潮を批判しています。(『東京災難画信』)

 人はなかなか悔い改めることができないものです。イエスさまの教えを聞いて、一度は悔い改めるわけです。しかしそう長く続くこともなく、「まあいいか。神さまはやさしいから少々悪いことをしても許してくださるに違いない」というような思いになり、いいかげんになってしまいます。そして以前よりも悪い人間になってしまうということがあります。これを汚れた霊の側から見ると、イエスさまの譬えのようになるわけです。汚れた霊はイエスさまによって追い出されて、いろいろなところを一時期さまようけれども、また帰ってみると住みやすい人間になっていて、「これはいい」ということで、仲間の汚れた霊を連れてきて、その人の中に住み込むというわけです。

 それでも、少しでも神さまの御心に適った者でありたいと思うのも、私たちです。なるべく神さまの御心に適った生き方をしたい。神さまの御心に適うことができないにしても、神さまから残念に思われるような生き方はしないようにしたい。少しは神さまから「あなた、いいね」といわれる生き方をしたい。そのように思います。

 イエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちはそんなに勇敢な人間でもないですし、なにかあると逃げ出してしまいそうになる弱さをもっています。それでもこころの中に、「暗きの力に負けない」という気持ちをもっていたいと思います。神さまの御心を行う人でありたいという気持ちをもっていたいと思います。私たちのプロテスタント教会の始まりである、宗教改革者のマルティン・ルターもまた「暗きの力に負けない」という気持ちをもって歩んだ人でした。讃美歌21-377番「神はわが砦」は、マルティン・ルターがつくった讃美歌です。

 私たちは弱い者でからこそ、神さまにたよって歩んでいきたいと思います。神さまが私たちの砦であり、神さまが私たちの盾であることを、こころのなかにおいて歩んでいきたいと思います。


2025年8月29日金曜日

2025年8月24日

 2025年8月24日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

「蛇のように賢く、鳩のように素直に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 10:16-25節

 みなさん、蛇はお好きですか。だいたい嫌いな人が多いでしょう。その理由に「蛇はなんかぬるぬるとして気持ちが悪そう」ということがあります。しかし蛇に触ってみると、別に蛇はぬるぬるなんかしていないわけです。鳩は平和の象徴として用いられます。でも実際は攻撃的な鳥だと言われます。まあそんなことを考えていくと、案外、私たちの世の中は、いろいろな誤解や思い違いがあったりします。私たちも誤解を受けて、嫌な感じになってしまったりすることがあります。また逆に私たち自身も誤解をして人を傷つけたりします。

 イエスさまは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。このことは迫害の時代だけでなく、私たちがいまの時代を生きるうえでも大切なことだと思います。誤解を受けたり、思い違いがあったりと、ごたごたがあったりする私たちの日常生活です。「あーすればよかった、こーすればよかった」と、くよくよと考えたり、「あー、もう嫌になった」と叫び声をあげたりしてしまいます。でもまあ、そのあと、やっぱり神さまがよき道を示してくださる。神さまがいいことをご用意してくださると、信じる者でありたいと思います。仲たがいをしてしまったときも、和解の主イエス・キリストがとりなしてくださることを信じて、歩んでいきたいと思います。

 私たちが裁きあって、互いに仲たがいをするのであれば、それは本当の敵の思うつぼだと、イエスさまは言われます。一番大切なことは、神さまに対して素直であるということです。神さまを信じて、神さまにお委ねするということです。日常の生活の中で、人間のことばかり考えて、「あー、だめだ」「やっぱりうまくいかなかった」「あの人とはどうもうまくつき合うことができない」「もう、なにもかもいやになった」、そんなふうに考えるのではなくて、まず神さまに対して素直になろうというのです。うまくいかないことがあるけど、神さまにお委ねしよう。神さまがよき道を備えてくださることを信じよう。神さま、ごめんなさい。またわたしはだめなことをしてしまいました。神さま、今日も一日、ありがとうございました。そんなふうに、神さまに対して素直でありたいと思います。

 私たちはみんな神さまから愛され、生かされています。神さまにお委ねして歩みましょう。私たちを救うために、イエス・キリストを送ってくださった神さまは、みなさんに良き明日を用意してくださっています。


2025年8月23日土曜日

2025年8月17日

 2025年8月17日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

「平和があるようにと何度も唱える。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:35-10:15節

 哲学者の千葉雅也は【結局、絶対的な根拠づけはできないということを受け入れる。世界には複数の人間がいて、全員が納得する解はありえない。それが体感としてわかるには、年月がかかるものです】(『センスの哲学』)と言っています。世の中は人間の集まりであるわけですから、みんなそれぞれにいろいろな考え方をしています。そうしたことを受け入れつつ、それでも良いことを目指して歩んでいくわけです。

 弟子たちがつかわされる世の中は、なかなか大変な世の中です。貧しさがあり、さみしさがあります。みんな弱り果てて、打ちひしがれている。人々を見てイエスさまが深く憐れまれるというような状態です。また「サマリア人の町に入ってはならない」というような地域差別があるような社会です。病気で苦しんでいる人たちがたくさんいます。

 人間の現実とはそういうもので、みんな悩みを抱えながら生きています。そのため、人にやさしくしようと思っても、やさしくすることができなかったり。もう暴力を振るうのはぜったいに止めにしようと思っても、やっぱりそのように振る舞うことができなかったり。ののしったり、辱めたりすようなばかげたことはしないでおこうと思いながら、人をののしっていたり、人を辱めていたり。

 しかしだからこそ、イエスさまは「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われるのです。受け入れられるかどうかはわからない。それでも信じて、「平和があるように」と挨拶をするのです。あなたとわたしの間に、神さまが立ってくださって、私たちに平和をもたらしてくださいますようにと挨拶するのです。どうなるかはわからないけれども、ただただ信じて、「平和があるように」と挨拶するのです。

 私たちの世界も、争いの多い世界です。私たちは「神さまの平和が来ますように」と祈ります。しかしなかなか平和が訪れるような兆しは見えてきません。そうした世界であるわけですが、私たちは「平和があるように」と挨拶をします。何度でも、あきらめることなく、拒否されることがあったとしても、「平和があるように」と挨拶をします。

 それはわたしが神さまは私たちの祈りを聞いてくださり、私たちの世界を平和な世界に導いてくださることを知っているからです。そしてそのことのために、小さな私たちを用いてくださることを知っているからです。

 アジア・太平洋戦争後、80年の時を経て、私たちは希望を失うことなく、「平和があるように」と祈りたいと思います。

 

2025年8月15日金曜日

2025年8月10日

 2025年8月10日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「罪人として招かれている」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:9-13節

 8月15日は80回目の敗戦記念日です。遠藤春子さんの「いのり」(『原爆詩集』、合同出版)という詩を読むと、いのちの力強さをいうことを思わされます。私たちの世界からなかなか戦争がなくなりません。しかしだからこそ、戦争のない平和な世界になりますようにという祈りを大切にしたいと思います。

 イエスさまは徴税人であるマタイを御自分の弟子とされました。そしてマタイの家でマタイの友人である徴税人や罪人と一緒に食事をされました。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエスさまを非難しました。イエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と答えられました。

 イエスさまは神さまが望んでおられるのはいけにえではなくて憐れみであると言われました。神さまは罪人を憐れんでおられる。正しくあろうと思いながらも、正しく生きることができず、罪を犯しながら、神さまに憐れみを求めて生きている人々を、神さまはそのままにしておかれない。罪を犯し、自分に絶望し、涙を流しながら、心の中で神さまを求めて生きている人々を、神さまは憐れんでくださっている。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 私たちは罪人として神さまの前に招かれています。私たちは悔い改める罪人として、神さまの前に招かれています。私たちは罪人として裁かれるために、神さまの前に招かれているのではありません。私たちは赦されるために、神さまの前に招かれています。私たちは神さまの憐れみを、神さまの愛を受けるために、神さまの前に招かれています。

 だからこそ、私たちは自分たちの罪ということについて、謙虚でありたいと思います。人がどうであるとか、他の国がどうであるというようなことではなく、私たちキリスト者は神さまの前に自分がどうであるのかということを、心に留める者でありたいと思います。こころを静かにして、自分の歩みを振り返りながら、私たちは神さまの御前に立つ者であることを、心に留めたいと思います。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神さまは私たちを悔い改めに導いてくださり、私たちを祝福してくださいます。神さまの深い愛に、私たちの歩みをお委ねいたしましょう。


2025年8月8日金曜日

2025年8月3日

 2025年8月3日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「許された者として生きている。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:43-48節

 41年ぶりに、この5月にフィリピンの首都のマニラにいきました。戦後80年になりますから、フィリピンを侵略した日本人というような目で見られていると感じるようなことはありませんでした。それでもフィリピンの国立博物館に行きますと、フィリピンの歴史のなかで、日本がフィリピンに対して行なったひどいことなどの展示はなされています。そのような絵画を見ながら、私たちの国がアジアの国々に対して行なった戦争のことを忘れてはいけないと思いました。

 イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。あなたたちは自分たちは神さまから選ばれた民で、特別な人間であると思っている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、戸惑っているけれども、でも自分を愛してくれる人を愛するというようなことは、あなたたちが罪人だと思っている徴税人だってやっていることだろう。自分の仲間内にだけ挨拶するのだったら、異邦人だって同じことをしているだろう。あなたたちは自分は神さまの民で、自分たちは特別だと思っているのだったら、徴税人や罪人、異邦人たちよりもはるかに高い倫理観がなければ、おかしいだろう。神さまが完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい。

 私たちは、「悪い人がいて、その悪い人が自分に対してひどいことをしてくるのに、その悪い人を赦すことができるのかなあ」という思いになります。悪いのは相手で、自分ではないというふうに思って、「敵を愛することなんてできるのかなあ」というふうに思います。

 でも私たちは「敵であるのに、赦された」という経験をもっています。私たちの国はアジアの国々に対して侵略を行ない、ひどいことをしました。それでも戦争がおわったあと、アジアの国々は敵である日本を赦し、日本を徹底的に憎み続けるということはしませんでした。日本と戦争をしていたアメリカも、戦後の日本の復興のために、いろいろなことをしてくれました。私たちは「敵であるのに、愛された」という経験をしています。

 私たちの世界が平和な世界になりますようにとお祈りをしたいと思います。あきらめることなく、互いに尊敬しあい、互いに思いやることのできる私たちの世界になりますようにと祈っていきたいと思います。


2025年8月2日土曜日

2025年7月27日

 2025年7月27日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「落ち着いて考え、前に進む」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:15-29節

 女優の長澤まさみは、「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」(CALSSY,2025.4.28)と言っています。倫理観をもって、互いに尊敬しあって生きていくということは、とても大切なことなのだと思わされました。

 何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が、警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」(テトス1章12節)と言っているクレタ人のような話です。

 「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちはイエスさまの教えを大切にして、落ち着いて考え、前に進んでいきます。

 人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

 イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

 イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。


2025年7月25日金曜日

2025年7月20日

 2025年7月20日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「人の温かさに感じ入る」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:1-14節

 森まゆみの『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』(婦人之友社)は、自由学園をつくった羽仁もと子について書かれてあります。「じょっぱり」とは羽仁もと子の故郷の青森の言葉で、「信じたことをやり通す強さ」を意味する言葉です。羽仁もと子は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という人生をおくりました。いつも自分で考え、そして生活に根ざしたことを行ない、神さまに祈りつつ歩みました。そして困っている人がいると、なんとかして手を差し伸べるという姿勢で歩みました。『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』を読んでいますと、「人の温かさに感じ入る」という気持ちになりました。「ああこんなに温かい人いて、人のためになんとなしようと思う人がいるんだ」と思うと、とてもうれしい気持ちになります。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。神さまが導いてくださっているのだから、神さまを信じて、神さまから託されたわざを一生懸命に行なっていくのです。人を裁くのではなく、共に助け合いながら、良きことのために協力して働いていくのです。人を信じて、自分の協力者として一緒に歩んでもらうのです。狭き門に見えるけれども、神さまが示してくださる道を、まっすぐに歩んでいくのです。困っている人、助けを求めている人がいたら、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいくのです。

 羽仁もと子もそうでしたが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というような、温かみのある人たちが、私たちの世界を支えています。先月、梅花女子大学の礼拝に行きました。梅花学園の創設者である、沢山保羅の愛唱聖句も、マタイによる福音書7章12節の言葉です。「何事でも人からしてほしいと望むことは人々にもそのとおりにせよ」(マタイによる福音書7章12節)と、礼拝堂の聖書に挟まれた「しおり」に書かれてありました。

 よき社会のために、あきらめることなく、祈りつつ、歩んでいった信仰の先達が、私たちにおられます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御言葉のとおり、良き業に励んでいった、温かい信仰にふれることができ、とてもうれしい気がいたします。私たちもまたキリスト教のよき伝統を受けついて、小さな良き業に励む、こころの温かい人でありたいと思います。


2025年7月18日金曜日

2025年7月13日

 2025年7月13日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「あなたの中にある光」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 6:22-24節

 夏目漱石はロンドンに留学中の日記にこう記しています。「未来は如何にあるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。汝の現今に播く種はやがて汝の収べき未来となつて現はるべし(1901年3月21日付)」。なんとなく世界が大きく変化していると感じるいま、私たちはいままでのあり方をもう一度しっかりと考え直してみるときなのだろうと思います。

 イエスさまは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。このイエスさまの言葉は、やっぱり私たちにとっての根源的な問いかけであると思うのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」と、イエスさまは言われます。

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。この聖書の御言葉は、「あなたの目が澄んでいる」とも、「あなたの目が濁っている」とも言っていません。ただ「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言っているだけです。そして聖書は言います。「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。「あなたの中にある光が消えれば」ということですから、消える前には私たちの中には光があるということです。聖書は「あなたの中には光がある」と、私たちに言っています。

 私たちの中には確かに光があるのです。イエス・キリストという光があるのです。ヨハネによる福音書1章は、「言が肉となった」という聖書の箇所です。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」。世の光であるイエス・キリストが、私たちの間に宿られたのです。光を理解することのない暗闇である私たちのところに、イエス・キリストは光となって宿ってくださったのです。

 不安の多い私たちの世の中です。しかしだからこそ、私たちキリスト者は、目先のことではなくて、根源的なことに目を向けたいと思います。私たちはイエス・キリストによって生きているのです。イエス・キリストが私たちの光となってくださり、私たちの中に宿ってくださっている。このことを覚えて、歩みましょう。イエス・キリストの光を、消すことのないように、祈りながら、歩んでいきましょう。


2025年7月11日金曜日

2025年7月6日

 2025年7月6日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「ごめんね。わたしが悪かったね」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 5:21-37節

 わたしの友人の牧師が後輩の牧師さんから、「Tさんはいろんな問題発言をするけど、ちゃんと謝れるからえらいですよねえ」と誉められていました。なかなかの褒め言葉だと思いました。みなさんは「ごめんね。わたしが悪かったね」と、素直に謝ることができますか?。どうですか。わたしはちょっと自信がないです。

 「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」と、イエスさまは言われました。イエスさまはこうした「してはならない」ことを取り上げながら、「人間のしていることというのはいいかげんなことなのだ」と言われます。「殺すな」と言われているから、「わたしは殺さない」と胸をはるけれども、しかし人に対して腹を立てたり、人を馬鹿にしたり、人を見下したりして、人を傷つけている。「姦淫するな」と言われているから、「わたしは姦淫しない」と胸をはるけれど、しかし心の中では何を考えているかわからない。「離縁状を出せば、自由に離縁することができる」と律法を誤って解釈して、女性に対して辛く当たっているということを考えもしない。できもしないことを誓い、人々に迷惑をかけ通しだ。

 そんな私たちであり、絶望的なのだから、火の地獄に投げ込まれてしまえばいいと、イエスさまは言っておられるわけではありません。人はいいかげんであり、情けないところや自分勝手なところがあるけれども、互いに許し合い、和解し合って歩んでいこう。「あっ、わたし、あの人に悪いことをしてしまった」と思ったら、神殿に献げ物を献げにいく途中であろうと、やはり仲直りしにいこう。

 そして自分の罪をしっかりと見つめよう。「律法に書いてあることを守っていればいいや」「決まっていることだけ守ればいいや」ということではなくて、自分でしっかりと神さまに向き合って、「神さま、わたしはこれでいいのでしょうか。わたしのしていることはあなたの御前で恥ずかしいことではないでしょうか」という思いを持ちなさいと、イエスさまは言われます。

 いろいろなことで腹の立つこともあります。わたしだけが悪いのではないと思えることもあります。しかし私たちは罪赦された者として生きているわけですから、自分が悪かったと思えるとき、「ごめんね。わたしが悪かったね」と素直に言える者でありたいと思います。そして神さまが罪赦されていることの喜びを、こころから受けとめることのできる者でありたいと思います。


2025年7月4日金曜日

2025年6月29日

 2025年6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「神さまの輝きを放つわたし」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:13-16節

 柚木麻子の『らんたん』という小説は、恵泉女学園中学校・高等学校の設立者の河井道と一色ゆりのシスターフッドの物語です。津田梅子や新渡戸稲造、有島武郎、平塚らいてう、山川菊栄などなど、いろいろな人たちが登場する楽しい小説です。明治時代の女性たちが生き生きと描かれています。それぞれの生き方の違いもあるわけですが、それでもお互いのことを考えあい、協力しあい、「ああ、シスターフッドっていいよね」と思えます。

 小説の中で、新渡戸稲造が留学をする河井道を励ます話が出てきます。「提灯のように個人が光を独占するのではなく、大きな街灯をともして社会全体を照らすこと。僕は道さんにそんな指導者になってもらいたいと思って、どうしても欧米の夜景を見て欲しかったのです」。

 河井道は新渡戸稲造の願いのとおりに、光を独占するのではなく、社会全体を照らす生き方をしていきます。そしてそのことのために、河井道は恵泉女学園を創立するわけです。まあ本当にりっぱな人だと思います。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。このマタイによる福音書5章16節の言葉のように生きた人だと思います。

 初期のキリスト教が広まっていった大きな理由は、クリスチャンが小さなよき業に励んだからだと言われています。ローマ皇帝のユリアノスは、キリスト教のことが大嫌いでした。それでクリスチャンが増えないようにするために、クリスチャンがしている小さなよき業をあなたたちもしなさいという手紙を書いています。

 やっぱり地の塩、世の光として生きていくということは大切なことであるわけです。クリスチャンとしての志を失ってしまっては、なんのためのクリスチャンだということもあります。そのように生きているかとか、そのように生きることができるのかということだけでなく、そのように生きていきたいという志を、私たちは失わないようにしたいと思います。

 イエスさまは言われました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。イエスさまから託されている歩みを、しっかりと受けとめて、自分にできる小さな良き業に励んでいきたいと思います。


2025年6月26日木曜日

2025年6月22日

 2025年6月22日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「良き人として生きたい人の群れが流れとなって」小笠原純牧師

  マタイによる福音書 3:1-6節

 文化人類学者の松村圭一郎の『うしろめたさの人類学』という本を読んでいると、自分があたりまえのように考えていたことが、世界のどこででもあたりまえではないということを、いまさらながら気づかされました。エチオピアでは戸籍や住民票がないので、親はすぐに子どもに名前を付ける必要もない。家族が生まれた子どものことを、それぞれ好き勝手な名前で呼ぶこともあるそうです。

 私たちは自分の周りのことだけをみて、自分の常識で判断をして、「もうだめだ」「世の中、どんどん悪くなっている」と悲観的にみてしまうことがあります。しかし私たちの常識を超えたところで、そうでもないということがあるかも知れないわけです。

 洗礼者ヨハネはイエスさまが来られる前に、人々に悔い改めを迫った預言者です。洗礼者ヨハネはユダヤの荒れ野で人々に宣べ伝えていました。洗礼者ヨハネの呼びかけに応えて、多くの人々が洗礼者ヨハネのところに集まってきます。「こんな怖い人のところにいくのはいやだ」というふうに思うのではなく、神さまに向き合い、「わたしは悔い改めなければならない」と思い、怖い洗礼者ヨハネのところにやってくるのです。

 神さまを求めていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように素直に思う人々がいたのです。悔い改めの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのところにやってくるわけですから、はじめからそのように思っていたというわけではないのです。神さまの御心に反して、自分の好きなように生きていたのです。「少々悪いことをしてもいいじゃないか。みんなやっていることだし、おれだけが悪いわけじゃない」。そうした思いをもって生きていたのです。しかし思い直して、やはり神さまを求めて生きていきたい。神さまに従って歩みたい。そのように思い直して、洗礼者ヨハネのところにやってきて、洗礼を受けて、自分の生き方を変えていった人々がいたのです。

 私たちの世界には、私たちと同じように、争いではなく、愛にみちたわかちあいの世界に生きていきたいと思っている人たちがたくさんいます。「平和な世界になりますように」と、毎日祈っている人たちがたくさんいます。私たちもそうした人たちと同じように祈り続けていきたいと思います。そしてイエスさまが教えてくださった小さな愛の業に励みたいと思います。良き人として生きたい人の群れが流れとなって、私たちの世界が神さまの愛に満ちた世界となるようにとお祈りしたいと思います。


2025年6月20日金曜日

2025年6月15日

 2025年6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「幼子のような者に」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 11:25-30節

 梅雨によみたい絵本に、西巻茅子『ちいさなきいろいかさ』(金の星社)という絵本があります。西巻茅子さんの絵は、こどもが描いたような絵です。わたしはこの絵をみながら、「なんでこんなへたくそな、こどもの描いたような絵がいいんだろうか」と思っていました。この素朴な疑問を、わたしの妻にしたところ、妻は「これはわざとこどもの描いたような絵を描いているんだ。そしてこの人の絵本は、こどもが描いたような絵のように見えるけれども、構図なんかはとってもよく計算されて描かれてあるんだ」というふうに教えてくれました

 西巻茅子さんはこどもの気持ちを大切にして、そしてこどもが自分の絵と似ていると思ってくれるような、こどもが描いたような絵を描いておられます。こどものときの素直でひたむきな気持ちを、年をとっても持ち続けることは、なかなかむつかしいことですが、西巻さんはこどもが描いたような絵を描き続けることによって、こどもの気持ちをずっと持ち続けているのでしょう。だからこどもから愛される絵本を描くことができるのです。いつまでも幼子のような気持ちを大切にしておられるのでしょうね。

 私たちの救い主であるイエスさまは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と言われました。「神さまのことは、子どものほうがよくわかるよ」とイエスさまは言われたのです。大人がむつかしく神さまの話をするよりも、子どものほうは神さまのことをよく知っている。この『かみさまへのてがみ』(谷川俊太郎訳、サンリオ)などを読んでいると、ほんとうにそうだなあというふうに思います。

 幼子のような者とは、もちろん子どもたちはそうですけれど、疲れた者、重荷を負う者が、幼子のような者だと、聖書は私たちに教えてくれます。イエスさまは、「みんなで神さまのところにきて、子どものように休みましょう」と言われました。神さまを信頼して、神さまに委ねて、子どものように休もう。

 わたしは教会というところは、安心して休むことができるところであればと思います。これ、教会で休むというので、教会を休むというのでないところがミソなのです。「で」と「を」では大違いなので、ひとつ誤解のないように。教会がなにもかも忘れて、神さまの愛の中でゆったり、ゆっくり休めるところであればと思います。


2025年5月31日土曜日

2025年5月25日

 2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨

「祈りによってわたしが整えられる」 小笠原純

  マタイによる福音書 6:1-15節

 平川克美は『会社は株主のものではない』(洋泉社)のなかで、「会社は誰のものでもない。幻想共同体としての会社という視点」ということを言っています。「お金という指標を至上目的とした競争のなかで会社を考えると、どうしても3年ぐらいのスパンでしか考えられませんが、会社というものをもっと長いスパンで考えてみませんかと。10年や20年、あるいは100年というようなスパンで考えると、どういうあり方があるのかを考えてみませんか、ということです」(P.129)。こんなふうに考えると、会社と教会というのはある意味、似ているところがあります。教会というところは、神さまを相手にしていますから、長いスパンで物事をみています。

 人は何か良いことをしたら、すぐにほめてもらいたいと思います。なかなかほめてもらえなかったら、どうして自分はこんなに評価が低いだと怒りたくなったりします。しかしイエスさまはそんな人間の小さな評価よりも、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということの方が大切だと言われます。そんな投機的な株主のようにすぐに報いを回収しようとするのではなく、長期的な展望に立って「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」ということを心に留めて生きていきなさいと、イエスさまは言われました。

 「小さな良き業に励み、そして神さまに祈りをする」。小さな良き業に励むと言われても、わたしは悪人だから自信がないという方もおられるかも知れません。でも神さまは私たちを祈りによって変えてくださいます。神さまに毎日毎日お祈りをしていると、必ず神さまは私たちをつくり変えてくださいます。

 私たちは祈りによって整えられていきます。ですから祈るということはとても大切なことなのです。私たちの神さまは願う前から、私たちに必要なものをご存じです。それじゃあ、祈る必要はないじゃないかと思えますが、それは違うわけです。私たちが祈ることによって、私たち自身が整えられていくのです。自分勝手な願いをする私たちから、神さまの御旨を求めていく私たちへと整えられていくのです。

 「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。私たちに報いてくださる神さまを信じて、そして小さな良き業に励む。祈りながら、神さまが私たちを整えてくださることを信じて歩んでいく。お一人お一人の歩みを、神さまは豊かに祝福してくださいます。