2022年2月25日金曜日

2022年2月20日

 2022年2月20日 降誕節第10主日礼拝説教要旨

 「心の中の悪しき思いに戸惑う」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 2:1-12節

 2月14日(月)はバレンタインデーでした。わたしもチョコレートをいただいたりしました。教会というところは、だれにでも分け隔てなく、ちょっとしたものをあげるというようなところがあったなあと思わされました。バレンタインデーのチョコレートということでもないですが、クリスマスの行事にこどもにちょっとしたお菓子を渡してあげるというような感じです。だんだんと世知辛く、さみしい世の中になってきているような感じがするので、こうした誰にでもあまり深く考えることなくやさしくするというようなことは、とても大切なことのように思えます。

 イエスさまは中風を患った人をいやされました。四人の男性たちが中風を患った人を連れてきたのです。彼らは屋根をはがして、床ごとイエスさまのところにつり下ろしました。イエスさまは「その人たちの信仰をみて」、いやしのわざを行われました。その交わりを祝福されたのです。

 「こいつが、イエスさまにいやしてもらえてよかったよね」「ほんと屋根まで上ってたいへんだったけどね」「でもまあよく考えたら、もっと早く来てたらよかったよね」「おまえがいつまでも朝ご飯を食べていたから遅くなったんだよ」「えへへ、そうでした」「てへぺろ(・ω<)」というような交わりがあったのだろうと思います。

 そのあとイエスさまに対して心の中でつぶやく律法学者たちは、彼らのようなやさしい気持ちを忘れ去っていました。律法学者たちは、病気でつらい目にあっていた人がいやされたことを、「よかったね」と思うことよりも、イエスさまが言った「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉のことが気になるのです。

 わたしはこの律法学者たちの態度をみるときに、「ああ、わたし自身もこんな感じのことよくあるよなあ」と、いやな気持ちがするのです。自分自身がそうであるからこそ、律法学者たちの態度が気になるのです。そしてその心の冷たさに、自分自身で戸惑うのです。どうしてこんなに冷たい気持ちが、わたしのなかにあるのだろうか。神さまの前に、どうしようもない自分を見いだし、この「死に至る病」から、だれがわたしをいやしてくださるのだろうと思うのです。

 しかしそうしたどうしようもないわたしだけれども、イエスさまはわたしをいやし、救ってくださるのです。イエスさまは私たちの救い主であり、私たちを慰め、私たちを励まし、導いてくださるのです。私たちの救い主イエス・キリストともに、すこやかな歩みをいたしましよう。




2022年2月17日木曜日

2022年2月13日

 2022年2月13日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

  「種を蒔く」 横田明典牧師

    マルコによる福音書 4:1-9節

 種を蒔く人の譬えの解説が13節以降にあります。種というのは神の言葉で、落ちた場所とは御言葉を聞く人を取り巻く状況を表していると解説されています。したがって「神様の御言葉に対してサタンや迫害や誘惑に負けずに、御言葉を受け入れるものになろう」というような倫理的な勧めとして、この譬えが説明されています。このためこの箇所を読む人は「自分は良い土地だろうか」、「誘惑に負けて実を結べずにいるのではないか」と自分自身のことを考えさせられることも多いでしょう。

 確かに蒔かれた側の人間の状態を戒めることも大切なことかと思いますが、その前に遡って、種を蒔く側のこと、その種そのものについて考えてみたいと思います。

 この種を蒔く人は、ずいぶん大胆な、いい加減な、効率の悪い種の蒔き方をしています。実りを期待して種を蒔くのですから、良い土地に蒔くべきなのにそうではありません。道端や石だらけの土地や茨の中など、お構いなしに種を蒔いています。何故こんないい加減な蒔き方をしているのでしょうか。

 種を蒔く人、これは神様でありイエス・キリストであり、また弟子たちであったと言えます。私たちがまず感謝したいのは、そういう大胆な種の蒔き方をしてくださる神様だった、ということです。イエス・キリストによって蒔かれる種は土地を選びません。どんな土地であろうと無差別にその種が蒔かれます。ユダヤ教の文献によると、パレスチナ地方の農業では、種を蒔いてからその土地を耕す方法もあったようです。ということは、無差別に蒔かれた種ですが、その土地が後から耕される可能性は十分にあったということです。つまりどんな土地であろうとお構いなしに種を蒔くのは「どんな土地であろうと、その全ての土地で種が芽を出し実を結ぶ可能性がある」ということです。神様は「耕された相応しい良い土地」だけに種を蒔くのではなく「全ての土地が耕され、実り多いものになるように」と、種を蒔いておられます。

 しかもその種は30倍、60倍、100倍にもなる力を持った種です。神様の御言葉はそれほど大きな力を持っているのです。その種の力を信じればどんな土地であろうと、種を蒔くことができるのです。

 もう一つ考えたいのが、この譬えは、種を蒔く側に向けて語られたのではないか、ということです。

 現実の問題として、なかなか伝道や宣教の具体的な成果というものが見えていない状況があったとも考えられます。種を蒔くのは確かに自分たちに与えられた役割ですが、しかし蒔かれた後のことは、神様任せにせざるを得ないのであって、自分たちに責任があるのではない、そのようなことを伝えたかったのではないでしょうか。私たちも神様と同じように、人を選んで種を蒔くのではなく、ただ種を蒔く。それが大切なのだと思います。種の力に信頼して、私たちも大胆に絶えず種蒔く人でありたいと願います。



2022年2月10日木曜日

2022年2月6日

 2022年2月6日 降誕節第8主日礼拝説教要旨

 「主イエスの秘密」 山下毅牧師

   マルコによる福音書 1:40-45節

 ユダヤでは、救い主、メシアこそ、「重い皮膚病」を癒すことが出来る、という言い伝えがありました。そのことが、この話の基本に流れています。

 重い皮膚病を患っている人が、イエスの所へ来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」 この言葉を聞いたとき、イエスは眉をひそめたことでしょう。何故ならこの人の悲惨な身の上を思わざるを得ないのです。重い皮膚病の規定は、レビ記13章、14章です。判定を下すのは、祭司の仕事です。儀式的に汚れているか否かの判定です。宣告を受けた人は、レビ記13章45節にのべられているように、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です」叫んで歩き、宿営の外での暮らしとなります。イエスの顔は苦痛に歪んでいたと思います。41節の御言葉、「深く憐み」、他者への同情のために心が痛められた言葉です。古い写本では、「激しく憤られて」とあります。43節「厳しく注意して」は、馬が荒々しく鼻息をたてるありさまを示す言葉で、イエスの心は激しいものであったことを示します。――ここでのイエスの姿は、人知を超えた愛の姿であり、神の満ちあふれる豊かさのすべてがあります。

 この重い皮膚病患者は、律法の規定にそむいて、イエスに接近して来ました。見つかれば殺害されるかも知れません。イエスはその汚れに触れてはならぬという掟を無視して、ためらうことなく手で触られ、癒されたのです。その男に触れることによってレビ記中の律法に定められた汚れを受けられたのです。

 「行って祭司に体を見せ、モーセが定められたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」とイエスは述べられました。この男を励まし、社会復帰を促されました。

 「彼はそこを立ち去ると、大いなるこの出来事を人々に告げ、言い始めた」。この男は、出て行って「出来事を告げる」のです。「告げる」という言葉は、39節の「宣教し」と訳されている言葉と同じ言葉です。「言い広めた」という言葉も、主イエスが、神の国は来た、神の支配が始まっていると伝道したのです。

 私たちの教会は、この主イエスの暖かい愛、憤りの厳しい力、そして深い痛みを伴う憐みの心を讃えつつ、私どもが聞いた神の御言葉、神の支配を宣べ伝えてやまない、教会でありたいと思います。


2022年2月3日木曜日

2022年1月30日

 2022年1月30日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「あなたが大事」 一木千鶴子牧師

   ルカによる福音書 19:1−10節

 小学4年生か5年生の頃、「クォヴァディス」という小説を読みました。クリスチャンを激しく迫害したネロ皇帝時代のローマが舞台の小説です。そのような時代にローマの青年貴族が、クリスチャンの女性に恋をする、その恋愛を中心に物語は進みます。今はもう主人公の名前もうろ覚えですが、それでも鮮やかに心に残っている場面があります。それはペトロが激しい迫害の都ローマから逃れてきた旅の途中で、復活のキリストに出会う場面です。ペトロは「クォヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこへ)と尋ねます。すると主イエスは「あなたが逃げ出してきたローマへ、もう一度十字架にかけられるために。」と答えられました。それを聞いたペトロは来た道をローマへと帰って行く、そんな場面です。その場面は、中学生になって教会に行くようになってからも、洗礼を受けてからも、ずっと私の心にありました。特に牧師になってからは「クォヴァディス・ドミネ」(主よ、いずこへ)という問いは、私の切実な問いとなりました。

 関西労働者伝道委員会の専従者は、長く日雇い労働者の町釜ヶ崎での支援活動を続けてきました。釜ヶ崎での支援活動は、労働者の「俺たちも人間や」という叫びに呼応して行われています。イエスが、無視され、差別され、疎外されている一人ひとりに出会い「あなたは大事な人」と、神の愛を伝え、その人の人間性を回復してくださったように、この時代の中で「あなたも大事な人」と伝えることは、教会の伝道そのものだと考えています。

 ザアカイは、そんなイエスとの出会いを経験した一人でした。徴税人の頭であったザアカイは、憎いローマの手先であり、裏切り者と思われていました。また不正な取り立てをしていたようです。そんなザアカイが住むエリコの町にイエス一行がやって来られました。一目見ようと多くの人たちが沿道に集まっていました。群衆に遮られて見ることができないザアカイは、いちじく桑の木に登りました。木の上からイエスを見下ろすザアカイ、そんなザアカイにイエスは下から声をかけられました。「ザアカイよ、降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と。喜んでイエスをもてなすザアカイは自ら言いました。「財産の半分を貧しい人たちに寄付します。もし誰かからだましとっていたらそれを4倍にして返します」と。イエスが、一人の人間として向き合ってくださったこと、友だちとして接してくださったこと、それがザアカイにとってどんなに大きな喜びだったか、そのことが、ザアカイの本来の優しさや人間性を引き出したのでしょう。今日、出会う一人ひとりに「あなたが大事」と伝えることができますように。