2022年4月28日木曜日

2022年4月24日

 2022 年 4 月 24 日 復活節第2主日礼拝説教要旨

 「あなたがたに平和があるように」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 20:19-31 節

 デジタル技術は進歩して、いまはとても簡単に嘘のビデオがつくれる時代になりました。報道されていることを、どうやって嘘かホントかを判断するのかというと、

 極端な言い方をすれば、「個人の倫理が真実を保証する」ということだと思います。言い換えれば、「この人は嘘をつかない」ということです。

 イエスさまは弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われ、互いに信じ合うことのできない弟子たちに、神さまの聖霊を受けて、互いに赦し合いなさいと言われました。人も信じられない。自分も信じられない。互いに傷つけあう世界にあって、赦し合って生きていきなさいと、イエスさまは言われました。そしてイエスさまは「疑うことに支配されるな」と言われました。

 あいつが悪い。こいつが悪い。あいつは嘘をつくに違いない。たしかに人間のすることですから、あいつが悪いとか、こいつが悪いということはあるわけです。そしてあいつが悪いのと同じように、自分も悪かったりします。そして互いに傷つけ合って、世の中は悪意でいっぱいになります。しかしイエスさまは「そうした悪意に支配されるな」と、私たちに言われます。私たちは赦し合って生きていくのだと、イエスさまは言われます。

 イエスさまは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と言われます。あなたが、あなたがたが赦せば、その罪は赦されるのだ。まさにこの世から悪意を消すことができるのは、「あなた」「あなたがた」なのだと、イエスさまは言われます。だれかが良い世界にしてくれるのではなく、「あなた」「あなたがた」が赦すことによって、私たちの世界は赦しあいの、神さまの愛で満ちあふれた世界になるのだと、イエスさまは言われました。

 イエスさまは「あなたがたに平和があるように」と言われました。人を愛し、人を信じて生きていきなさい。あなたもそうだが、人は弱く、嘘をついたり、人を傷つけてしまったりすることがある。傷つけられて、とても悲しい気持ちになることもあうだろう。だけど、私たちは赦し合い、そして人を愛し、人を信じて、神さまの平和のなかに生きていこう。そのようにイエスさまは言われました。

 私たちは神さまの平安のうちに行かされています。神さまを信じて、イエスさまに従って歩んでいきましょう。


2022年4月22日金曜日

2022年4月17日

 2022 年 4 月 17 日 復活節第1主日礼拝説教要旨

 「安心だね。よかったね」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 16:1-8 節

 イースター、おめでとうございます。主イエスのご復活を、こころからお祝いいたします。

 小説家の芥川龍之介は「蜜柑」という短編を書いています。この「蜜柑」は、芥川が経験したちょっと恥ずかしい出来事です。自分が尊大になっていたことが明らかにされる出来事でした。しかし芥川はその出来事を書き記しています。

 【婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである】(マルコ16章8節)。この文章は私たちを不安にさせる迫力のある文章です。なんでこんなことを書いているのだろうかと思わせる文章です。そしてそのあとに続く出来事も、イエスさまの復活を信じることができなかったという出来事です。マルコによる福音書は、信じることのできない弱い弟子たちを描いています。それは人間とはそういうものだからです。信じることのできない弱い存在が人間であるのです。

 そのことをマルコによる福音書は隠そうとしませんでした。マグダラのマリアや弟子たちからすれば、恥ずかしい話であり、「ちょっと書かんといてほしい」と思える出来事です。マルコによる福音書は、私たちを不安にさせ、なおかつマグダラのマリアたちや弟子たちにとって恥ずかしい話があえて書き記しています。そしてイエスさまの復活の出来事が、私たちの恐れや不信仰、私たちの愚かさを越えて、私たちに働く神さまの出来事であることを告げています。

 私たちはいろいろなことで恐れたり、不安になったりします。神さまのことが信じられなくなることがあります。悲しい出来事やつらい出来事を前にして、どうしようもなく不安に思えるときもあります。しかしそうした弱さを抱える私たちのところに、イエス・キリストは来てくださり、私たちに「大丈夫だよ。わたしがあなたと共にいるから」「わたしは復活して、あなたのところに帰ってきたから」。そのように、イエスさまは私たちに告げてくださるのです。

 私たちの恐れや不安、私たちの弱さを越えて、イースターの出来事は私たちを平安と希望へと導いてくれます。イエスさまが死に打ち勝って、よみがえってくださった。私たちのところに帰ってきてくださり、私たちに平安と希望を与えてくださった。だから私たちは「安心」なのです。「ああ、よかった」。そのように思えるのです。

 イースター、「安心だね。よかったね」との思いをもちつつ、よみがえられたイエスさまと共に歩んで行きましょう。

2022年4月14日木曜日

2022年4月10日

 2022 年 4 月 10 日 受難節第6主日礼拝説教要旨

 「人に言えない悲しい出来事を越えて」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:32-42 節

 今日は棕櫚の主日です。受難週、イエスさまの御苦しみを覚えて過ごしましょう。

 受難週にふさわしい言葉として語られる言葉に、17世紀の哲学者であるブレーズ・パスカルの言葉があります。「イエスは世の終わりまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない」(『パンセ』)。

 イエスさまは十字架につけられる前に、ゲッセマネで祈られました。イエスさまから「目を覚まして祈っていなさい」と言われるわけですが、しかし弟子たちは何度も眠ってしまいます。

 ゲッセマネでの出来事は、イエスさまの弟子たちにとっては、とてもつらい出来事であったと思います。後悔の残る出来事でした。「あのとき、どうして目を覚まして祈ることができなかったのだろう。

 そうした後悔の残る出来事であったと同時に、やはり弟子たちにとっては恥ずかしい出来事であったと思います。もちろん、やろうと思ってもできなかったわけですから、仕方のないことです。しかしのちの人たちは、「どうしてイエスさまが苦しんでおられるのに、弟子たちは眠りこけてしまったんだ。信仰がないからではないか」「ほんとにだらしのない、ろくでもない弟子たちだ」と責め立てるのです。

 「わたしがその場にいたら、イエスさまのために、必死でお祈りしたのに。ほんと、イエスさまがかわいそう」と言うのです。

 そうしたことをわかっていたと思うのですが、弟子たちは自分たちにとって都合の悪い、恥ずかしい出来事を、人々に伝えました。なさけない、欠けの多い私たちだけれども、イエスさまは私たちのことをいつも愛してくださった。愚かなことをしてしまう私たちだったけれども、イエスさまは私たちのことを導いてくださった。イエスさまは深い愛で、いつも私たちを包み込んでくださった。イエスさまの弟子たちは、人に言えない悲しい出来事を越えて、自分の愚かさを受けとめ、悔い改めつつ歩み始めました。

 人は失敗をしたり、恥ずかしいことをしてしまったり、神さまの前に立つことのできないような歩みを繰り返したりすることがあります。「わたしだめな人間だ」「わたしは必要とされていない人間だ」。そのような思いになってしまうようなときも、私たちにはあります。しかし神さまは私たちを愛してくださり、私たちに新しく生きなおす道を備えてくださいます。


2022年4月8日金曜日

2022年4月3日

 2022年4月3日 受難節第5主日礼拝説教要旨

 「あなたの信仰があなたを救った」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 10:32-52節

 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3章6節)。この言葉は、初代のクリスチャンたちの基本的なあり方です。わたしには金や銀はない。でもわたしには持っているものがある。わたしはイエス・キリストを信じる信仰をもっている。そしてこの方により頼んで生きている。ただナザレの人イエス・キリストの名によって、わたしは生きている。そのように使徒ペトロは言いました。

 今日の聖書の箇所は「イエス、三度自分の死と復活を予告する」「ヤコブとヨハネの願い」「盲人バルティマイをいやす」という表題のついた聖書の箇所です。今日は受難節第5週で、来週は棕櫚の主日になります。イエスさまはいよいよ十字架につけられるために、エルサレムにやってこられます。

 今日の聖書の箇所の「イエス、三度自分の死と復活を予告する」の前の聖書の箇所は「金持ちの男」という表題のついた聖書の箇所です。お金では人は救われないのです。そして「ヤコブとヨハネの願い」という表題のついた聖書の箇所は、地位や名誉の話です。ヤコブやヨハネ、イエスさまの弟子たちは地位や名誉を求めました。しかし地位や名誉では人は救われないのです。そしてそのあと「盲人バルティマイをいやす」という話になります。ここでイエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。私たちにとって大切なことは信仰であるということです。

 多くのものは過ぎ去っていきます。もちろんお金が大きな働きをしてくれるときもあります。あるいは地位や名誉がとても大切に思えるときもあります。しかしあれほどあのとき大切に思えたものが、いまはそうではないと思えるときがあります。人間が作り出したものは過ぎ去っていきます。そうしたものはいつまでも私たちにとって確かな道しるべとなるわけではありません。

 多くのものは過ぎ去ります。しかし信仰が残るのです。私たちはいずれ神さまのところに帰ってきます。それはだれしもそうです。私たちはみな神さまのところに帰っていくのです。

 私たちの人生を導き、私たちの人生を豊かに祝福してくださるのは、神さまです。神さま私たちの罪を赦し、私たちのために御子イエス・キリストを私たちの世に送ってくださいました。私たちは御子イエス・キリストのゆえに、罪赦されて、平安に生きています。信仰をもって生きていきましょう。神さまの祝福のなか、心平安に歩んでいきましょう。


2022年4月1日金曜日

2022年3月27日

2022年3月27日 受難節第4主日礼拝説教要旨

 「イエスさまだけが一緒におられた」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:2-10節

 人は「大きな物語」に心ひかれて行くということがあります。そして「大きな物語」に心を奪われてしまうと、人は真実な出来事を見失ってしまうということがあります。使徒ペトロも「大きな物語」に目を奪われ、真実な出来事を見失いそうになりました。

 イエスさまの山上の変容にまつわる話は、イエスさまの受難と復活とに密接に関係しています。それは復活のあと、はじめてすべてのことが理解できるということです。それまでは隠されているのです。イエスさまが「山上の変容の出来事を復活するまでだれにも話してはいけない」と弟子たちに対して言うのは、イエスさまの復活の出来事がなければ、今日の出来事がだれにも理解することができないということです。イエスさまの受難、死、復活を通して、イエスさまの変容の出来事の意味が明らかにされるということです。しかしそうしたことがわからず、使徒ペトロはこの出来事をみて、まいあがってしまっています。使徒ペトロはイエスさまがエリヤとモーセと話をしておられるのを見て、このときがいつまでも続くようにと願い、仮小屋をたてようというふうに言ったのでした。

 イエスさまの復活の出来事まで、使徒ペトロは輝かしいものにだけ目がいってしまっていました。しかし、イエスさまの復活の出来事を知ることによって、その受難の歩みがじつは自分にとって重要なことであり、そしてそのみじめなイエスさまの受難の歩みこそ、じつはイエスさまが輝いていた歩みであったということに気づかされたのでした。「人の子は苦しみを重ね」。この重ねてくださった苦しみこそ、ひとつひとつが輝きの出来事です。

 なにげない言葉でありますが、マルコによる福音書9章8節の言葉は、なかなか示唆的な言葉であると思います。「もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。エリヤもモーセも結局は消えてしまいます。華やかな宴のあと、弟子たちと一緒にいたのは、イエスさまだけでした。

 華やかなときだけでなく、つらいとき、かなしいとき、そして絶望の中にさえ、イエスさまは弟子たちと一緒におられるのです。イエスさまは消えることがないのです。いつも一緒にいてくださる。イエスさまの十字架への歩みは、私たちがどんなに苦しいときであっても、いつもイエスが一緒にいてくださるということを、私たちに告げています。