2021年12月25日土曜日

2021年12月19日

 2021年12月19日 降誕節第1主日礼拝説教要旨

 「クリスマス。感謝の歌を歌いたい。」 小笠原純牧師

   ルカによる福音書 1:39ー56節

 クリスマスおめでとうございます。主イエス・キリストのご降誕をこころからお祝いいたします。

 わたしが今年見た一番印象的なドキュメンタリーは、NHK特集の「エリザベス この世界に愛を」です。ナイジェリア人のエリザベスという女性が、入管施設に収容されている人たちを励まし続けるというものでした。エリザベスの祈りを聞きながら、マリアの讃歌を思い出しました。「神の奇跡を起こしてください。強い力でお守りください。彼らを愛していただき、心から感謝します。・・・。あなたの愛でこの家を包んでください。あなたの光で闇を取り払ってください。神よ、あなたに感謝します。崇拝します。賛美します」。思いどおりにいかないことがたくさんあるけれども、エリザベスは神さまを賛美するのです。

 マリアは高らかに、マリアの讃歌を歌うわけですが、しかし現実というのはなかなかきびしいものです。マリアが歌うとおりにそうそうすぐになるというわけでもありません。現実がつらいものであると、私たちはつぶやくことや不平や不満がこころのなかから出てきます。どうしてわたしがこんな目にあわなければならないのだろう。

 しかしマリアは讃歌を歌います。困難な中にあっても、不安な気持ちに陥ってしまいそうになっても、マリアは神さまを讃美します。【「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです】。

 たとえわたしが小さな者であったとしても、神さまはわたしに目を留めてくださる。わたしのことを忘れることはない。いつも神さまはわたしのこと心に留めてくださり、わたしを祝福し、わたしを守ってくださる。わたしの魂は神さまをほめたたえずにはいられない。そのように、マリアは歌いました。クリスマス。イエス・キリストはその証しとして、私たちの世に来てくださいました。

 エリザベス、そしてマリア、そして私たちは神さまを賛美する者として、神さまによってつくられています。神さまは私たちを愛してくださり、ご自分の独り子であるイエスさまを、私たちの世に送ってくださいました。私たちは神さまの大きな祝福の中に生かされています。

 クリスマス。私たちは感謝の歌を歌いたいと思います。つぶやきや不安、心配事でこころが一杯になって、不平や不満が口から出てしまうことが多いですけれども、クリスマス、私たちは感謝の歌を歌いたいと思います。


2021年12月18日土曜日

2012年12月12日

 2021年12月12日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「でこぼこだけど、道を整える。」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:1ー8節

 英米文学者の阿部公彦さんは、料理本について分析をし、興味深いことを言っています。日本の料理本には命令形が使われることがなく、現在形が使われる。料理を作るという利他的な行為を反映したものとして、料理本の文章も「善意と愛の形」を反映したものになるのだそうです。(「kotoba」、2021.No.44)。

 今日の聖書の箇所は「命令形」が印象的な聖書の箇所です。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』。洗礼者ヨハネは命令形で話す印象があります。「悔い改めにふさわしい実を結べ」というような感じです。それに対してイエスさまはあまり命令形で話されません。「サタンよ退け」というような感じで話されるときも、もちろんあります。しかし洗礼者ヨハネが、わたしは水で悔い改めの洗礼を授けるが、わたしのあとからくる人は聖霊による洗礼を授けられると言われたように、イエスさまは聖霊による祝福を人々に届けたのでした。洗礼者ヨハネは悔い改めを迫り、イエスさまは神さまからの祝福をもたらすのです。イエスさまは、「罪人であるあなたも、神さまの民として、神さまの祝福のうちにあるのだ」と、私たちを祝福してくださいます。

 救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちが用意する主の道、私たちが整える主の道というのは、そんな大きくりっぱなものではないかも知れません。悔い改めて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言われても、イエスさまをお迎えするのにふさわしいりっぱな道を用意することはできないかも知れません。

 私たちの歩みは、でこぼこがあったり、石があったり、曲がっていたり、ゆがんでいたりします。人のことをうらんだり、人に冷たくあたったり、自分勝手な思いでこころのなかがいっぱいになったりします。やさしい気持ちになることができなかったり、人のことをうらやんでみたり、恥ずかしい思いがこころの中をぐるぐるとめぐったりします。そうしたでこぼこがあり、石ころがあり、曲がっていて、ゆがんでいる私たちですけれども、それでも救い主イエス・キリストをお迎えするにあたって、私たちの歩みを整えたいと思います。

 救い主イエス・キリストが私たちのところに来てくださいます。ふさわしくないものですけれども、神さまにこころから感謝をして、謙虚な思いになって、イエスさまをお迎えいたしましょう。


2021年12月10日金曜日

2021年12月5日

 2021年12月5日 待降節第3主日礼拝説教要旨

   「神様の分」 入 治彦牧師

     マタイによる福音書 1:18〜25節

 本日は平安教会創立145周年おめでとうございます。主の特別の祝福をお祈りいたします。 

 さて、昔の教会や修道院には、迷路の庭園をつくっていたところもありました。迷い悩むことに深い意味を見出していたのでしょう。聖書を読んでいてああでもない、こうでもないと思い巡らすことは誰でも経験していることだと思います。

 クリスマス物語の中にも、イエスの誕生に際していろいろと思い悩んだ人たちがいました。しかし、最も思い巡らしたのはヨセフとマリアでしょう。「母マリアはヨセフと婚約していたが二人が一緒になる前に、聖霊によってみごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことが表沙汰になるのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」当時ユダヤでは婚約期間は1年間とされていましたが、そんな時に最愛のマリアが、男性との関係もないのに身ごもってしまったのです。

 これは当時のユダヤでは一大事でした。よその男と交渉をもった場合は姦淫罪に問われ、石打ちの刑に服さなくてはならない。しかし、それはいくら律法的にいくら正しいヨセフといえども、彼の愛情がゆるさない。かと言ってお腹の子を認知してよその男の子を育てることは、彼の正義がゆるさない。その板挟みで彼は悩みました。そして、律法を裏切らず、しかも彼女をさらしものにしないで済む、離縁という唯一の考えに至ったのです。ところが、マリアの顔には一点の曇りも見えず、彼は自分の考えは根本的に誤っていたのではないかと自分を責めました。

 それに対する解答は夢の中で与えられたのです。天使が「彼女の懐妊は、聖霊による。その子は民を救う者となるのだから、心配しないで彼女をあなたのそばに受け入れなさい」と勧めました。そのマリアを受け入れた時、二人の間に生まれたのがインマヌエルでした。神、我らと共にいます。それは神がナザレのイエスとなって、私たちの体験するであろう労苦や挫折、その苦しみも喜びもすべて、なめつくしていてくださっているということに他なりません。誰にも言えないことも神はお見通しであり、わかっていてくださる。そこにインマヌエルの主が共におられるのです。

 セルビアをはじめとして東欧には、クリスマスのしきたりに「神様の分」というのがあります。クリスマスのケーキを切り分ける時に、そこにいる人数分、プラス一人分を切り分けます。「それはだれの分か?」と聞かれれば「それは神様の分だ」と答えるのです。また、予期しないお客さんがやってきた時にも、神様の分を分けることができます。インマヌエルの主は、このように見えない客となって私たちと共にいてくださいます。

 今年もコロナ感染に脅かされた1年でありましたが、私たちのこの間にいつも神様の分があることに想いを馳せつつ、主のご降誕をお迎えしたいと願っています。


2021年12月2日木曜日

2021年11月28日

2021年11月28日 待降節第2主日礼拝説教要旨

   「心静かに信じて待て」 小笠原純牧師

     マルコによる福音書 13:21ー37節

 アドヴェントに入り、ローソクに1本の灯りがともりました。イエス・キリストがお生まれになられたことをお祝いするクリスマスまで、大切にすごしたいと思います。

 世の終わり・終末というのは、裁きの時ですから、なんとなく私たちは不安になります。私たちは自分たちが神さまの前にふさわしくない者であることを知っているからです。私たちは罪深い者です。神さまから裁かれたら、どうしたらいいのだろうと思ってしまいます。天地のように、私たちも裁かれ、滅びてしまうのだろうかと思います。しかしイエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われます。

 「わたしの言葉」、イエス・キリストの言葉とは、何なのでしょうか。ヨハネによる福音書1章1節以下にこうあります。【初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった。】。イエスさまは世の罪を取り除く神の小羊として、私たちの世に来てくださいました。イエスさまは私たちを裁くために来られたのではなく、私たちを救うためにこられました。

 使徒パウロはテサロニケの信徒への手紙(一)4章13節以下で、終末について語っています。【神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです】とあります。「終末に際して、裁きのことに気をとられて脅えるのではなく、神さまに救われた喜びに満たされなさい」と、使徒パウロは私たちに言っています。

 十字架につけられたイエスさまが最後に話されたのは、共に十字架につけられていた犯罪人でした。イエスさまは、高慢なヘロデ王とは口を利かれませんでした。しかし罪を悔いて、イエスさまに救いを求める罪人には、「今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいました。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、私たちを救うために、十字架についてくださったのです。

 アドヴェントに入りました。クリスマス、私たちの救い主イエスさまが、私たちのところにきてくださいます。心静かにして、私たちを憐れんでくださる神さまの愛を信じましょう。アドヴェントのとき、一日、一日を大切にして、救い主イエス・キリストをお迎えする準備をいたしましょう。