2022年5月26日木曜日

2022年5月22日

 2022年5月22日 復活節第6主日礼拝説教要旨

 「ただ神さまを信じて、願い、祈る。」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 16:12-24節

 ロシアがウクライナに戦争を始めて、世界中の人々がこのことに心を痛めています。ウクライナに平和が来ますようにと、私たちは毎日お祈りをしています。ウクライナだけでなく、世界ではいろいろな迫害や争いがあります。多くの心配事のために、とても不安な気持ちがいたします。

 不安で不安でたまらず、イエスさまにいろいろと聞きたいと思っている弟子たちに対して、イエスさまは「大丈夫だ」と言われます。あなたたちは悲しみを経験するけれども、でもその悲しみは喜びに変わるから大丈夫だ。それは女性の出産のときのように、とても大変なことであるけれども、でも必ず苦しみ、悲しみは喜びに変わる。そしてその喜びを経験したあとは、苦しかったことも思い出すことがない。それくらい大きな喜びがあなたたちには約束されているから安心しなさいと、イエスさまは言われました。

 いまは理解でなくとも、ときが備えられて、理解することができるということがあります。ときが備えられて、良き方向へと導かれるということがあります。

 中国の作家のイーユン・リーの『千年の祈り』(新潮社)を読みました。イーユン・リーは小説を中国語ではなく、英語で書いています。イーユン・リーが育った時代は、中国もいろいろなことがあり、そうした体験と結びつく言語である中国語で表現するということがむつかしく感じるということがあるのでしょうか。しかし書いている内容は中国人の物語です。イーユン・リーはいろいろな経験をして、英語という言葉で、中国人の物語を書くことができたというのは、それはやはりときが備えられたということなのだろうなあと、わたしは思いました。

 イエスさまは「今、あなたがたには理解できない」と言われました。私たちには、いま、理解できないことがあります。しかしイエスさまは「しばらくすると」わかることがあると言われます。神さまの霊である聖霊の導きがある。いろいろな困難やわからないことが、私たちにはあるけれども、しかし私たちを導いてくださる神さまがいてくださり、私たちの悩みや悲しみを、喜びに変えてくださる神さまがおられると、イエスさまは言われました。

 イエスさまは「神さまを信じて、願い、祈りなさい」と言われました。私たちはただ神さまを信じて願い、祈りたいと思います。神さまが私たちに良きものを備えてくださることを信じて祈りたいと思います。


2022年5月19日木曜日

 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「たゆたえども沈まず」 川江友二牧師

   列王記上 22:1-16節

 子どもも大人も、間違っているかもしれないと感づいていながら、それを止めることもできず、突き進んでしまうことがある。その最たる例が、ウクライナを侵攻するプーチン大統領の姿ではないか。これは良心の問題とも言える。良心は英語で「コンシャンス」。共にという「コン」と科学の「サイエンス」で、「共に知る」との意味がある。プーチン氏の悲劇は、共に知るための、仲間の声、自分自身の奥深くからの問い、そして神からの声を無視している点にある。しかし、そこに私たちに共通する人間の破れ、罪の姿を見る。

 今日の聖書箇所には、そんな人間の弱さをさらけ出したイスラエルの王アハブが登場する。この時、アハブ王と南ユダ王国の王ヨシャファトは領地を取り戻すべく、共同戦線を張ろうと相談していた。2人の王は預言者に神の言葉を求めた。預言者は国王が神の御心に背を向けている時、これを指摘し、正すことが本来の使命である。しかし、国王お抱えの預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとせず、国王が喜びそうなことを選んで語った。その後、預言者ミカヤが登場するのだが、彼が語ったのは、他の預言者たちと同内容だった。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と。これに対するアハブ王の反応が興味深い。アハブ王は「真実を語っていない」と腹を立てたのだ。彼は自分の間違いと日頃のミカヤの正しさをどこかで理解していたのだろう。だから真実でないことを告げられた事が耐えられなかった。だが、真実を告げられることにも、耐えられなかった。そうしてアハブ王は、神の御心や自らの過ちに気づきながら、その声を振り払うように、戦争を始めてしまう。

 このアハブ王のとった姿勢に私たち自身の姿が浮かび上がってくる。そして、神の御心に背を向けてでも自分の思い通りに生きることを求め、亡びに向かって邁進する今の世界の姿を見る思いがする。

 かつて、この人間の弱さ、罪故に、イエスさまは十字架にかかられた。しかし同時に、終わりへと向かう私たちに対して、かつても今もイエスさまは復活し、共にいてくださる。復活とは、ギリシア語で「~に抗い立ち上がる」と言う意味がある。イエスさまは亡びや終わりへと向かわせる力からあなたを復活させる、立ち上がらせると声をかけてくださっているのだ。その罪の自覚と新しい命へと導かれる過程から、本当の意味での「良心」は生まれてくるのだと思う。

 私たちの目に映る現実には、ウクライナでの惨状をはじめ、良心の欠如、亡びや終わりを感じさせるものが多くある。しかし、その現実に抗い、立ち上がり、私たちのもとを何度でも訪ねてくださる方がいる。この神の赦しに支えられ、私たちは共に神の御心に聴き続けたいと思う。そして、目には見えない主に希望を与えられて、「たゆたえども沈まず」、今の現実に抗して主と共に立ち上がり、キリスト者として今できることを良心をもって、誠実になして生きたいと願う。


2022年5月13日金曜日

2022年5月8日

 2022年5月8日 復活節第4主日礼拝説教要旨

 「エビデンスではなく、愛をもって生きる。」 

               小笠原純牧師

 ヨハネによる福音書 13:31-35節

 わたしはどちらかというと合理的な考えが好きなので、ビジネスライクに物事を考えてしまうところがあります。しかしそれで失敗することも多いです。あまり合理的な考え方をしていると、ときに自分の中に愛がないと思うときがあります。エビデンスとは、「証拠」とか「根拠」ということです。しかしやたらと「ファクトは?」とか「エビデンスは?」と言われると、なんかもっと大切なことがあるのではないかというような気がします。

 内村鑑三は不敬事件」のため、天皇を冒涜したとして追求されます。内村鑑三は、国粋主義者からは拝礼しなかったと言って責められ、キリスト教の人たちからは拝礼したと言って責められるのです。そしてそんななか愛する妻の加寿子が病気のために帰天します。そうしたことで、内村鑑三は信仰的にも、ほとほと疲れ切ってしまっていました。

 そんなとき、加寿子の墓で、内村鑑三は、細き声を聞きます。「一日余は彼の墓に至り、塵を払い花を手向け、最高きものに祈らんとするや、細き声ありー天よりの声か彼の声か余は知らずー余に語って曰く」(内村鑑三『基督信徒の慰』)。「路頭に迷っている老婆は私です。その人に尽くしてあげてください。貧しさのために売春宿に身を置いている少女は私です。その人を救ってあげてください。私のように早く両親を失い、頼る人のいない娘は私です。その人を慰めてあげてください。どうぞ愛と善の業を行ってください」(中島健二『出家』)。

 内村鑑三はほとんど死んだような感じになっていたわけですが、この加寿子の墓の前の出来事によって、生き返ります。加寿子の愛によって、内村鑑三は生き返るのです。「わたしがあなたに尽くしたように、あなたも困っている人のために尽くしてください」。わたしがあなたを愛したように、あなたも困っている人々を愛して、愛と善の業を行なってください。愛をもって生きてください。そのような細き声を、内村鑑三は聞き、そして生き返るのです。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、イエスさまは言われました。私たちはイエスさまの愛の交わりの中に生きています。私たちはときに正義を振りかざし、自分の正しさを証明しようとしたりします。論理的なことや合理的なことは、それはそれでとても大切なことだと思います。しかし同時に、私たちはイエスさまの愛のうちに生きていることを、しっかりと受けとめて歩みたいと思います。


2022年5月5日木曜日

2022年5月1日

 2022 年 5 月 1 日 復活節第3主日礼拝説教要旨

 「イエスさまは私たちを守ってくださる」 

              小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 10:7-18 節

ウクライナの19世紀の詩人に、タラス・シェフチェンコという人がいます。シェフチェンコは良き社会が来ますようにとの祈りをもち、農奴制に反対をして捕らえられました。シェフチェンコは、新約聖書の福音書を読むのが好きだったと言われています。シェフチェンコは、だれに従って生きていくべきなのかということを知っていました。

ヨハネによる福音書において、イエスさまは「わたしは○○である」ということをよく言われます。ヨハネによる福音書 11 章 25 節では【わたしは復活であり、命である】とあります。またヨハネによる福音書 14 章6節では【わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない】とあります。

イエスさまは「わたしは良き羊飼いである」と言われました。イエスさまは羊飼いであり、そして私たちはイエスさまの羊です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言うように、イエスさまは私たちのことを知っていてくださり、そして私たちもイエスさまのことを知っています。イエスさまが私たちのために、命を捨ててくださった方であることを、私たちは知っています。イエスさまは私たちの罪のために、十字架についてくださいました。私たちはイエスさまの十字架の贖いによって、神さまから罪赦されて生かされています。イエスさまが私たちの罪を担ってくださり、イエスさまが私たちの代わりに、十字架についてくださったのです。

イエスさまは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われました。イエスさまは私たちのことを知っていてくださいます。このことが私たちにとってとても大切なことです。私たちにとって大切なことというのは、「私たちが知られている」ということなのです。もちろん私たちがイエスさまのことを、神さまのことを知っているということも大切なことなのです。しかしあえてどちらが大切なのかと言われると、「私たちが知られている」ということが大切なのです。

良き羊飼いがおられます。私たちのことをすべて知っていてくださり、私たちの弱さも、私たちのなさけなさも、私たちのこころの中のとげも、私たちの罪も知っていてくださり、そしてその上でイエスさまは私たちのことを愛してくださっています。良き羊飼いであるイエスさまに導かれて歩みましょう。