2024年6月29日土曜日

2024年6月23日

 2024年6月23日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「神さまがもたらしてくださる豊かな実り」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:27-42節

 「役者(俳優のことです)は数々の他人の人生を生きる。それに倣っていえば、訳者(翻訳家のことです)は他者のことばを生きる。そんなことを今さらながらしみじみと思う」(鴻巣友季子『全身翻訳家』、ちくま文庫)。翻訳する人はその言語を読むことができるわけですから、その人自身にとっては、その本は翻訳される必要はない本です。にもかかわらず翻訳をするというのは、それは自分以外の人のためにしてくれているわけです。翻訳家という人の存在を思うとき、「他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」というイエスさまの言葉は、わたしにとってはほんとにそうだなあと思います。

 サマリアの女性は町に行って、自分がすばらしい人に出会ったことを、町の人々に告げ知らせます。多くのサマリア人はサマリアの女性の言葉によって、イエスさまのことを信じました。サマリアの女性がイエスさまのことをサマリアの町の人々に伝えたのです。そして弟子たちはその実りに預かることになりました。

 私たちの社会はいろいろな人たちの労苦でなりたっています。それはおもてに見えない場合が多いですし、だれがしてくださっているのかもよくわからないというようなこともあります。ですから私たちは自分たちがだれかの支えによって助けられているということに感謝をもって生きていきます。そして自分もまたときに労苦し、たとえその労苦の実りが、自分に対してもたらされることがなかったとしても、そのことを受け入れます。支えたり、支えられたりして、私たちの社会はなりたっています。

 私たちは自分だけで生きているのではありません。いろいろな人々のお世話になって、私たちは生きています。神さまは私たちに命を与えて生かしてくださり、また他の人々にも私たちと同じ命を与えて生かしてくださっています。私たちは自分だけで生きているのではなく、神さまによって共に生かされています。そして神さまがもたらしてくださる豊かな実りによって、私たちは生かされています。私たちは、神さまの前には小さな者です。私たちは神さまによって造られた者にすぎません。しかし神さまから愛され、神さまがもたらしてくださる豊かな実りに預かって生かされています。その意味では私たちは一人一人尊い存在です。

 私たちは神さまから愛されている尊い一人一人です。ですから、種を蒔く人も刈る人も、共に喜び、豊かな歩みをしていきたいと思います。


2024年6月22日土曜日

2024年6月16日

 2024年6月16日 聖霊降臨節第5主日礼拝説教要旨

「決して渇かない世界がある」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 4:5-26節

 詩人の中原中也は「生い立ちの歌 Ⅰ」において、自分が若い時のことを区切りをつけて、雪にたとえて歌っています。幼年期は、私の上に降る雪は、真綿のようで心地よかったわけですが、そのうち、少年期、17−19歳と年を重ねていくうちに、みぞれやあられ、雹や吹雪となってきます。しかし24歳では、「私の上に降る雪は、いとしめやかになりました」というように、穏やかになります。若い頃は中原中也もいろいろなことがあり、激しい生活を送ることになりますが、しかし良き出会いがあり、すこしおだやかな気持ちになることができたのでした。

 サマリアの女性がイエスさまと出会ったのは、正午ごろのことでした。彼女はあまり人と会いたくないので、人がいないときに水をくみにきていたのです。彼女は、五人の元夫とおつれあいとのことで、周りの人々からいろいろと言われたり、冷たくあしらわれるというようなことがあったのだと思います。

 サマリアの女性は渇いていました。彼女がイエスさまに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と応えた言葉には切実なものがあります。彼女はもういやになっていたのです。中原中也の「生い立ちの歌」のように、みぞれが・あられが・ひょうが・ひどいふぶきが、  彼女のうえに吹いているような気持ちを抱えていたであろうと思います。

 そして、そんなときに、サマリアの女性は、イエスさまと出会います。彼女は自分の渇きをいやしてくれる人と出会ったのでした。そして決して渇かない世界があることを、彼女は知ったのです。

 私たちもときに何もかもいやになって、自分だけの世界に閉じこもりたいような気になることがあります。サマリアの女性のように、だれからも離れて、ひとりになりたいと思うときがあります。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と言いたい時があります。

 イエスさまは私たちにも、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言ってくださっています。

 私たちに命の水を与えてくださる方がおられます。私たちはイエス・キリストにつながって、よりよい歩みをしていきたいと思います。


2024年6月15日土曜日

2024年6月9日

 2024年6月9日 聖霊降臨節第4主日礼拝説教要旨

「いのちに仕える」 仲程愛美牧師

  マタイによる福音書 6:25-34節

 昨年、スペイン語に由来する「ケセラセラ」がタイトルになった曲が流行しました。歌詞を見ると単純な応援ソングとは言い切れず、息詰まりそうな人生でも「なるようになる」からと、もがきながら歩んでいく姿が感じられます。

 人間にはそれぞれ、悩みや心配事は尽きません。どうにもこうにもならないことは、運や天に任せて手放すしかない。先人たちは、思い煩いを抱える人間の有り様をこのように考えるに至ったのです。

 イエスさまの時代も同じようなことが起こっていたようです。何を食べようか。何を飲もうか。何を着ようか…そのような人々に向けてイエスさまはこう語りかけます。

 「空の鳥、野の花々に目を向けてごらん。鳥も花もあくせくせず、ただその日その日を生きている。しかしそうした鳥も花々もちゃんと神に養ってもらっているではないか。あなたたちは鳥や花以上に、神が思いを込めて創造された人ではないのかい?なぜ鳥や花も悩んでいないようなことで心配し、自分が生きるために何をしようかと悩むんだ?生きるために必要なことはすべて神が知っておられる。だから人が思い悩むことはない。悩みや心配事を神に任せなさい。」

 人が悩むのは生きている証拠とも言えます。知識や経験があるからこそ、分析し物事を予測して不安になるのです。人間だからこそ悩む。その私たちに「思い悩むな」というのですから、イエスさまの発言は楽観的すぎる?あるいは無責任?と感じるかもしれません。けれどもこうした悩み尽きぬ私たちに、イエスさまは神という存在がいることを語り、人生を委ねてみてはどうかと言うのです。そして「委ねる」の先にある私たちにできることを提示しています。

 「まず神の国と義を求めよ」と。これらを言い換えるならば、それらは命を思うこと、命に仕えることだと思います。神の国が実現する時、神の義が守られる時は、その存在が何よりも大切だとされる時間、空間だからです。

 命を取り巻く事柄を心配するなと語ったイエスが示す先にあったのは、いのちに仕えること。いのちに向き合うことでした。結局、同じことを言っているようにも思えますが、明日のことを思い悩む姿は、つまり自分のことで余裕がなくなり身動きが取れなくなっている状態を表しています。そうした状態から解放され、神に委ねる歩みへとイエスさまは招いています。自分だけでなくすべての「いのち・存在」に仕える、豊かな生き方へと導かれていきましょう。


2024年6月7日金曜日

2024年6月2日

 2024年6月2日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨

「新しく生き直そうよ。」 小笠原純牧師

  ヨハネによる福音書 3:1-15節

 5月は中学生、高校生、大学生の前で礼拝説教をするということがよくありました。彼女ら彼らからみると、わたしもおじいさんにみえるのだろうと思います。レベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』を読みながら、わたしも若者に説教をして迷惑をかけないようにしないといけないと思いました。そう思いながらも説教していたりして、新しく生まれ変わるということは、なかなかむつかしいものだと思いました。

 ファリサイ派の議員のニコデモは、イエスさまのところを訪ねてきます。そしてイエスさまから「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われます。

 ニコデモは「新しく生まれる」「生き方を変える」「人生やり直す」というような一般的な意味で、イエスさまの言葉を受け取り、「そんな、年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と答えました。しかしイエスさまは、一般的な意味ではなく、永遠のいのちの問題として、新しく生まれるということを語っておられます。

 そしてイエスさまは、水と霊とによって新しくうまれた者は、自由だと言われます。風のように自由なのです。何かに縛られているのではなく、自由に、自分の感じるままに歩んでいくことができるのです。「こうしたらだめだろうか」「ああしたら、みんなから非難を受けるだろうか」。そうしたことにとらわれることなく、自由に歩んでいくことができるのです。

 新たに生まれた者として生きるということは、神さまを中心にして生きていくということです。神さまを中心にして生きていくときに、私たちは自由に生きることができます。人間のことばかりを考え、自分のことばかりを考えて生きていくと、自由に生きていくことができません。

 私たちクリスチャンは、洗礼を受け、新しく生まれた者として生きています。ですからやはり、神さまを求めつつ歩んでいきたいと思います。神さまから罪赦され、神さまから祝福を受けている者として、永遠のいのちに連なる者として、勇気をもって歩んでいきたいと思います。聖霊に導かれて、軽やかに生きていきたいと思います。


2024年6月4日火曜日

2024年5月26日

 2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「名を呼ぶ神」 山﨑道子牧師

  ルカによる福音書 20:27-40節

 キリスト教の教えの中で、一番大事で一番分かりにくいのが復活です。なんせ死んだ人間が生き返るなんて非現実的なことをそう簡単に信じられるはずもありません。イエスの時代にも、復活を否定していたサドカイ派というグループがありました。そのサドカイ派の人々が、聖書のある掟を逆手に取り、復活についてイエスに意地悪な質問をしてきました。 「7人兄弟の長男が妻を迎えたが跡継ぎを残さないで死んだので、次男が掟に従ってその女性を妻にしたが、その次男も亡くなった。そうやって7人兄弟が次々この女性を妻としたが、皆跡継ぎがないまま死に、最後はこの女性も死んでしまった。この場合、全員が復活したときにこの女性は誰の妻になるのか。」

 私にはこの箇所を読む度に思い出すおじさんがいます。彼はある日突然教会に来て、「若い頃から血の気が多く、アルコール中毒となった挙句に親兄弟から縁を切られ、一時はホームレスだった。今はお酒をきっぱりやめたが、最近病気が見つかった。礼拝に出るのは恐れ多いが、自分のような人間は死んだらどうなるのか気になってここに来た」と言い、当時牧師になりたてだった私を大変困惑させました。

 その後、2か月に一度程のペースで彼と平日に話をしました。話題の半分くらいはタイガースでしたが、この不思議な面談が1年半程続いた後、彼は禁酒サポートで世話になっていた聖公会の教会で受洗することになったのです。その年のクリスマスの朝、駅前の喫茶店で一緒にモーニングを食べていた際、自分など救われるはずがないと頑なだったそのおじさんが、「洗礼を受けると決めた瞬間から、心がとても楽になり安心できるようになった」と何とも晴れ晴れしい笑顔で言ったのです。

 復活の命とは、死んだ後に頂くものではありません。私たちは神に名を呼ばれ、神と出会うことによって、すでにもう復活の命を生き始めているのです。神は今も生きて私たちと共におられ、たとえ私が死んでも神は私の名を記憶し続け、永遠に存在し続けてくださるのです。その意味で、わたしたちは限りあるいのちを持つ生き物であるにも関わらず、神と共に永遠に生きる命を与えられているのです。それは、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、あなたの父母の神であり、あなた自身の神であると自己紹介してくださっているようなものです。恐れ多いことではありますが、そう呼ばれるに少しでも値する人間でありたいと思います。